神の時を望みつつ

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌194番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:ホセア書 14章2-3節 (旧約聖書1,420ページ)

14:2 イスラエルよ、立ち帰れ/あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。
14:3 誓いの言葉を携え/主に立ち帰って言え。「すべての悪を取り去り/恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。

新約聖書:マルコによる福音書 11章12-14節 並びに 20-25節 (新約聖書84ページ)

◆いちじくの木を呪う
11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
◆枯れたいちじくの木の教訓
11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
11:26 (†底本に節が欠落 異本訳)もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。

《説教》『神の時を望みつつ』

本日の物語には、15節~19節の部分に別の物語が挟まれていますので、それは次週にまわし、今朝は、12節~14節と20節~25節の御言葉をご一緒に読むことにします。このような文章構成をサンドイッチ構造と言い、マルコ特有とも言えます。

時は主イエスの地上で生きられた最後の一週間です。その週初めの日曜日に、主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入られると、多くの群衆にナツメヤシの葉を敷いて熱狂的に迎えられました。主イエスがいちじくの木に近寄り、言葉をかけられたのは14節に「翌日」とあるので「エルサレム入城」の翌日 月曜日のことです。いちじくの木が枯れていたのは20節に「翌朝早く」となっていますので火曜日のことです。従って、このいちじく事件は、月曜日から火曜日にかけてということになります。十字架の金曜日が刻々と近づいており、「時」は切迫しています。この「時がない」ということを念頭に置かなければなりません。

本日の聖書箇所もまた、よく誤解される所です。少々ひねくれて読めば、次のように言えるかもしれません。「イエスは空腹になり、いちじくの実を求めたが未だ実はなっていなかった。そこで怒って、呪った。翌朝、いちじくの木は枯れた。そして『何でもこの通りになる』と言われた」ということです。

この時期は、過越の祭の直前、ユダヤの暦で“ニサン”と呼ばれる月の前半にあたり、私たちが通常使っている太陽暦で言えば三月から四月の初めにかけての季節です。いちじくの実が生るのは早いもので六月であり、13節で指摘されているように、この頃にいちじくの実がないことは当然です。そのため、主イエスの言われていることの方が無理であり、「怒りは勝手過ぎる」ということになってしまいます。そして、挙句の果て、「イエス様がこのような無理を言う筈はない」と言って、この物語を無視するようになってしまうのです。

既に、読んで来ましたように、マルコ福音書の大きな特徴は、主イエスの最後の一週間に重点を置いています。福音書の約40%が受難週の出来事で占められています。主イエス誕生のクリスマス物語を完全に省き、荒野の誘惑もバプテスマのヨハネからの洗礼をも簡単にしか記していないマルコ福音書。そして、全体のバランスから見れば異常とも思えるほどに最後の一週間に集中しているマルコが、「無視してもよいこと」を、この大切な受難週物語の途中に書く筈がありません。

しかも、この「いちじくの木を枯らした」という出来事は、マルコ福音書における主イエスの最後の奇跡であり、かつ主イエスの建設的でない破壊的な只一つの奇跡なのです。十字架の金曜日を目前にした主イエスの異常ともいえる行為で、マルコは何を言おうとしているのでしょうか。

始めの2節に、「イエスは空腹を覚えられた」と記されていますが、ここでの問題は、「イエスの空腹」とは思われません。何故なら、主イエスは、荒野における四〇日四〇夜の断食にも耐え、サタンの誘惑にも屈しなかった方です。また、この前の日はベタニヤ村のマルタとマリアの家に泊まっておられたと思われるので、その家を出たばかりのこの時、耐え難いほどの空腹であったとは思えません。

問題は弟子たちです。かつて、2章23節以下で、麦畑の中を通っておられたとき、弟子たちが「空腹であったので麦の穂を摘んで食べた」ということがありました。これは、当時の旅人には許されていたことでありましたが、弟子たちが「空腹という肉体的誘惑には弱かった」ということを示していると言えるでしょう。それ故に、主イエスが空腹を感じられたとき、空腹に弱い弟子たちのことを考えられたのでしょう。かつての麦畑と同じような状況で、弟子たちが何を考えているのか、主イエスには十分理解できたに相違ありません。

弟子たちの心は、主イエスが近寄られたいちじくの木に向けられていた筈です。そして、「実を実らせる奇蹟」を期待していながら、「今はやはり実のない季節なのだ」という失望、期待と失望が相まったことでしょう。主イエスは、弟子たちの期待と失望に対応して迫り来る「神の時」をお教えになったのです。

この主イエスの御言葉と御業が、単なる空腹のための怒りではなく、深く考えない弟子たちの心の弱さを利用してなされた御業であり、今や目前に迫る「神の時」の到来を告げる預言的・象徴的行為であるということに気づくならば、一切の疑問は解けて来る筈です。

旧新約聖書では、いちじくの木を「たとえ」として数多く用いています。ヨエル書1章7節では「神の民としてのイスラエル」として語られていますし、エレミヤ書8章13節では、「神の期待を裏切ったものとしてのイスラエル」が「実がならないいちじく」として表現されています。さらに新約でも、ルカ福音書13章6節以下では、主人の期待に応えず滅ぼされるものとして「実のならないいちじくの木」がたとえ話で教えられています。

主イエスは、最後の週の月曜日の朝、たまたまそこにあった「いちじくの木」を題材にして、神の御前におけるイスラエルの運命を、「眼に見えるたとえ話」として示されたのです。

空腹の弟子たちは、どれほど、たわわに実るいちじくの実の季節を望んだことでしょう。いちじくの木は、遠くから見てもすぐ分かるほどに青々としていたと記されています。それは、形ばかりが整っていても神の御心を満たすものを何も持たない人間の姿を表しているいると言えましょう。表面だけを飾るのは容易なことです。他人の眼に「どのように見えるか」ということだけを考え、献げるべきものを何も持たない人間の虚しさが、ここに表されているのです。ただ、いちじくの木にとって、それは未だ実りの季節ではなかったのです。自然の時に支配される植物としては当たり前のことと言えましょう。しかし、私たちは自分の生きる姿の中に、どのように「時」を見詰めているでしょうか。私たちもまた、「未だ、時がある」と考えているのではないでしょうか。「主なる神から人生の結実を求められるのは、未だ先のことだ」と考えてはいないでしょうか。しかし、神は、「時」を私たちに委ねては居られないのです。「時」を決定するのは主なる神です。神の長い忍耐を考える時、「未だ、その時ではありません」と言うことはできません。「時」に関して、私たちに何の弁明の余地もないということを、改めて知らなければなりません。14節で主イエスはいちじくの木に、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたとあります。この「今」という時を無視して、神の御心を満たす機会は二度と巡っては来ません。20節でいちじくは枯れ、主イエスは、枯れたいちじくの木によって、神の時の中で用いられない滅びをここに示されたのです。

これに驚いた弟子たちに主イエスは22節以下で大胆な言葉をかけられます。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる」。

万能の神に出来ないこと、不可能はありません。その神の万能を信じて人は神に祈ります。すると、万能の神は信じたその人が願ったどんな不可能なことも叶えてくださる。山に「動け」と願ったら、山は本当に動くのでしょうか。本当にそんなことがあるでしょうか。これこそが信仰であると言われ、逆に、それで躓いてしまう人がいます。確かに、信仰は神の絶対的な力を信じることであり、「神に不可能なことはない」ということを信じることです。しかしながら、信仰は、そこで止まってはなりません。「山が動く」という程度のことでびっくりしたり、躓いたりしてはなりません。大切なことは、その神の偉大な力、絶対的な意志が、「今、何に向けられているか」ということを考えることです。

世界の創造主が、今、何を目指しておられるのか、ということを考えなければ、「山が動く」ということは、単なる無知な思い込みと変わらなくなるでしょう。主イエスがここで言っておられることは、「山でも動くぞ」などということではありません。

先週の「主を迎える」と題してマルコ福音書11章1~11節で、主イエスが、何故「ろばの子」にお乗りになって、何をお示しになったかを思い出して下さい。

主イエスは、敢えて、乗るには適さない「小さなろばの子」を指定され、エルサレムの群衆の前に姿を表されました。

それはまさに、主イエスご自身がゼカリヤ書の「神の勝利を告げるメシア」であることを示す「眼に見えるしるし」でした。さらに、23節で主イエスが言われている「この山」とは、「オリーブの山」です。そして、主イエスがろばの子に乗ることによって、「思い出せ」と言われたゼカリヤ書14章4節(旧約聖書1,494ページ)には、このようなことが記されています。

その日、主は御足をもって
エルサレムの東にある
オリーブの山の上に立たれる。
オリーブ山は東と西に半分に裂け
非常に大きな谷ができる。
山の半分は北に退き、半分は南に退く。

ゼカリヤ書は、「オリーブの山が動く時こそ、終末である」と語って、その時が、世界の終わりであると告げているのです。罪の下に生きて来たすべての人が、自分の生きざまを主なる神の御前で総決算する「時」なのです。

もはや、「山が動くか動かないか」という程度の問題にとどまらず、「山」は神の御業を指し示す「しるし」であり、「山が動く」という表現によって、この世界に対する絶対の力と意志を持たれる主イエスが、「今こそ終末に臨む時なのだ」と言われているのです。

終末とは、神による決定的な「時の到来」です。その決定的な「時」を前にして、「未だその時期ではありません」などという呑気な言葉が許されないことを、主イエスは、この朝、いちじくの木の姿を通してお教えになったのです。

終末を見つめて生きる人間とは、何時でもその時を迎えられるように生きる人間のことです。主イエス・キリストに求められるその時こそ、「私たちが迎える最も重大な時である」のです。神に喜んで頂けるか、自ら滅び迎えるか、そのいずれかの道を選び取らなければならない時なのです。そして主イエスは、24節で「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と言われ、続いて25節で「赦しの祈り」を教えられました。

常に終末を見据え、終末に備えて「終末的に生きる」とは、人として最も厳しい生き方です。たとえ、どんなに力を尽くしてもなお及ばないところの多いのが私たちの実情であり、限界です。「神の時」に相応しく生きられない弱さを認めざるを得ません。

それ故に、主イエスは「祈り」を教えて下さったのです。弱い者こそ祈らざるを得ないのです。「祈り」こそ、「時の中」を生きる者が、御心に相応しく示し得る唯一の姿なのです。

そのことを覚えるならば、主の祈りの素晴しさは明らかです。「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と祈り求めるならば、主イエス御自身が既に週末に必要な備えをしてくださっていることを、知ることが出来るのです。私たちの教会が「祈りの家」であるだけでなく、私たち一人ひとりが愛する者のために自分自身を「祈りの家」とするのです。お祈りを致しましょう。

天には父がおられる

聖書:ホセア書2章1-3節, ローマの信徒への手紙8章14-17節

 わたしたちの誰もがよく知っている祈りに、主の祈りがあります。これは、弟子たちが主イエスにお願いして、祈りのいわばお手本を教えていただいたのでした。主は初めに「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6:9)と呼びかけることを教えられました。

それで、今日の日本では、伝道が振るわないと言われる教会だけでなく、キリスト教主義の学校でも、「主の祈り」は広く知られていると思います。しかし、わたしたちが主の祈りに従って、神を「天の父」とよぶことができることの意味を、わたしたちは考えたことがあるでしょうか。この祈りは、天にはわたしたち父と呼ばれる方がおられる、という信仰の告白を表しているのです。父と言えば、わたしたちは地上に父と呼ばれる人を持っていました。豊かな時代には、親は親、子は子で、干渉し合わない生活が理想であったでしょう。しかし、貧しい時代には父の借金をどうするのか。廃墟のようになってしまった親の家、土地をどうするのか。最近の新聞には、親の扶養、介護の問題ばかりではなく、兄弟の作った借金をどうすればよいのか、引きこもりの兄弟をどうすればよいのか等、子供の世代にとって悩みは後を絶たないようであります。

だからこそわたしたちは、神を父と信じることの幸い。その絶大な価値を教えられています。わたしたちは豊かになる時もあれば、貧しくなる時もあります。しかし、それに対して天の父は変ることなく、豊かであります。そしていつも信じて従う人々を豊かに恵んでくださる方なのです。今日読んでいただいてホセア書2章1節です。「イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは、『あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)』と言われるかわりに、『生ける神の子ら』と言われるようになる。」

イスラエルの人々が生ける神の子らと呼ばれています。しかし、それでは、彼らが「生ける神の子ら」と呼ばれない時があったということでしょうか。その通りです。彼らイスラエルの民は豊かになった時に、生ける神を忘れ、自分たちの好みの偶像に仕えるようになったのです。豊かな地の実りも、豊かな才能も、すべて神から与えられた賜物に過ぎないのに、それを心に留める人は非常に少ない。そこで、神は繰り返し神の子なる民を責め続けます。「あなたがたは「ロ・アンミ」だと。もうあなたたちはわたしの民ではない。わたしはあなたたちの神ではないからだ。」(ホセア1:8)

それほど神は人々の不信仰を怒り、激しく責め続けても、いつまでも怒り続け、いつまでも責め続けることはない。これは真に不思議なことです。人間ならあり得ないことです。だからこそ、真の神を天の父と呼び奉る有難さがあるのです。神は御自分の民を決してお忘れにならないからです。ところが神の子らとされた人々はどうでしょうか。神から遠く離れ、恵みを受けるよりも、自分の努力で、実力で、何かを勝ち取ったと言いたい。自分が、できることにいつもこだわっている。「天の父よ、どうか助けてください」と祈ることが出来ないのです。

旧約聖書の時代には、神はイエスエルとユダの12部族を選んで、神の民としてくだいました。主は彼らを、「ご自分の宝の民である」と言われました。しかし、イエス・キリストをお遣わしになった時、すべての人々、つまりギリシア人もユダヤ人もなく、すべての人々を御自分の許へと呼び集められたのです。旧約の民への約束は「律法を守るならば、救われる」というものでした。逆に言えば、律法を守らないならば、その人は呪われるということなのです。「わたしはこれをしている。あれをしている」と言って自分の立派さを証明しようとする人々は多いのです。

しかし、守らなければならない律法は数限りなくあります。先ほどの親子関係の例で考えてみても、「親が子を甘やかさない方が良い」というかと思うと、「親の扶養のために子供の生活が成り立たなくなってしまっている」という現実があります。これをすれば絶対だ。あれをすれば絶対に正しいということが実際あるのでしょうか。わたしたちはあれこれ自分の考えを述べ、人を時には批判するものですが、実際には他人に当てはまることが、自分に当てはまらないということがたくさんあり、またその逆もありますから、一律に律法を守ることでは救われないということになります。

イエス・キリストは、このようなわたしたちのために、自ら律法によって裁きを受けてくださいました。それは律法を守って救われることのできないわたしたちが、ただ神の恵みによって救われるためです。キリストはご自分の捧げる犠牲によって、わたしたちがただ恵みによって神の子となるための道を開いてくださいました。わたしたちはユダヤ人ではありません。わたしたちは当時の異邦人、ギリシア人やローマ人と同じ立場にいます。キリストによって、ギリシア人にもローマ人にも、すべての人に救いを得させる神の恵みが現れたのです。だからこそ15節では、世界の共通語であるギリシア語と、アッバ(アラム語で父)というアラム語を並列させて、神への呼びかけを強調しているのです。今や、キリストによって、すべての人が「天の父よ」と親しく呼びかけることが出来るのです。

わたしたちがもし、本当にこのことを信じるならば、そのこと自体、神の聖霊がわたしたちに送られてきている証拠となります。わたしたちは主イエスの御名によってお祈りを捧げていながら、主の祈りを唱えていながら、他方で何と思い煩いの多いことでしょうか。何と不平と愚痴に陥りやすいことでしょうか。真剣に反省しなければなりません。なぜなら、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と書かれているからです。パウロは更に、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と主張しています。「あなたがたは『人を奴隷として再び恐れに陥れる霊』を受けたのではない」とは、どういうことでしょうか。わたしたちを神の子としてくださる聖霊は、神の自由なお働きによってわたしたちを導き、成長させてくださるということではないでしょうか。

しかしながら、パウロが福音を宣べ伝えた教会の中には、まだまだ律法を守ることによって教会を整えようとする力が働いていたと思われます。わたしたちの中にはイエス・キリスト以外、決して誇るものがあってはならないのです。ところが熱心な奉仕者をほめたたえるあまり、その人の教養学歴をほめたたえ、その人の社会的地位をほめたたえ、その人の力をほめたたえる傾向はどうしても否めません。褒められる側が問題なのではなく、ちやほやする人々に非常な問題があるのです。なぜ、ちやほやするのでしょうか。それはすぐれた賜物を持っている人に取り入って、自分が利益を得ようとするからではないでしょうか。特に気前よく献金する人々に対する、他の人々の態度に、非常に問題を感じることがあります。あの人はお金持ちだ、という噂を流す人々の意図は明白です。人と比べて「自分は貧しいから」と言い、捧げない口実にするのです。何とか理由をつけて自分を正当化しようとします。こういうのを偽善と言います。こういう態度を続けているうちに再び律法に縛られ、神の霊が与える自由を失ってしまうでしょう。

教会を建てるための戦いは、自分の言い訳を作り、自分の気に入った教会を建てることではありません。しかし、天には父がおられることを心から信じ、祈るならば、わたしたちは父から聖霊を受けることが出来ます。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と聖書は述べております。

神の聖霊がわたしたちにしてくださる証しは、「わたしたちの霊がキリストの御霊を指導者、また教師として持ち、神によって子としていただく」ということを確実にするほどのものです。しかし、わたしたちの性質は、自分では、このような信仰を心に抱くこともできません。ただ聖霊の証しによるのでなければ、ここに到達できないのであります。ですから、もし聖霊がわたしたちの心に、神の父としての愛を証ししてくださるのでなければ、わたしたちは祈りをすることができません。ですからわたしたちは、神に「父よ」と口で呼びかけ、また心の中でもそのように固く信じるのでなければ、神に正しく祈ることはできないのです。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」わたしたちがもし神の子であることを信じるならば、神の相続人であることも信じることになりましょう。

神の相続は、永遠の命を相続するのです。このことはこの世の相続のことよりも、実ははるかに大切なことでありますが、わたしたちは聖霊の助けがなければ、この大切さも全く理解できないでしょう。教会にこの世のことを持ち込んで来る誘惑にわたしたちは弱い者ですが、自分の行く先々のこともないがしろにして持ち物を誇っているのは、実に浅ましいことです。

私は最近、ひどい風邪を引きまして、久しぶりに近所のお医者さんにかかりました。すると病院の様子は二、三年前とは、また様変わりしていました。以前は待合室に患者があふれていましたが、今は驚くほど空いています。その分、お医者さんは各家を駆けずり回り、終末期医療に向かう人々を安全に病院やホスピスにお世話しているようでした。このお医者さんは10年以上前に、私が牧師であると知って、こう質問をしていました。「人は年取って死んでいく。それでどうしていけないんでしょうねぇ。」

お医者さんが今も同じ考えを持っているのかどうか分かりません。しかし、わたしたちが、神の子として神の相続人であると信じることと、信じないことには、大きな違いがあるでしょう。キリストによって罪赦され、神の子とされたわたしたちは、キリストと共同の相続人であると信じる。すると世界が変わるのではないでしょうか。世界の何が変わるのでしょうか。キリストはわたしたちの代わりに苦難を忍んでくださいました。ご自分の罪の報いとしての苦しみではありません。人の苦難をご自分の身をもって受けてくださった。この愛に神の栄光が表れているのです。私たちはこの愛を知りました。この愛を知るときこそ、世界が変わるのです。

このキリストに従って生きましょう!キリストの苦しみはわたしたちの救いのためです。わたしたちは、今はキリストと共に苦しみことが出来る。キリストと共に苦しんで、キリストと共に永遠の命を受けることが出来るからです。年を取るということには、多くの困難があります。しかし、希望に生きる高齢者になりましょう。それ自体わたしたちにとって善いことに違いありませんが、そればかりでは決してないと思います。わたしたちの使命は、地上に教会を建てることだからです。わたしたちの後に希望が残るということが何よりも大切です。その希望によって後の世代が慰めと励ましを受け、ここに真の救いがあることを確信して生きるようになるように、私たちは祈るのです。

キリストに従うことは自分の力や業によってできることではありません。ただ天に昇られたキリストが送られる聖霊がわたしたちを導いておられるのです。その自由なお働きによってわたしたちは、楽なことばかりでなく、むしろ困難なことも辛いことも、すべてのことを時宜にかなって与えられた恵みと感謝することができるのです。祈ります。

 

恵みと憐みに富み給う主イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。あなたはわたしたちを励まし、天の父と呼びまつる幸いをお知らせくださいました。私たちは、自分の働きによって教会を建て、各人の家庭を支えようと一生懸命になりますが、困難は増すばかりです。しかし、あなたの聖霊によって、私たちはあなたを父と呼ぶことが許されました。私たちの力と知恵の及ばない深いご配慮によっていつも導かれていることを信じる者とならせて下さい。そしてここにただ恵みによって生きる教会を建てて下さい。そして私たちに、なくてならない命の御言葉を満たしてください。

東日本連合長老会とともに歩んでおりますことを感謝申し上げます。どうかこの小さな群れをも豊かに用いて、教会の中でも外にあっても、主のご栄光を表す者とならせて下さい。受難節を歩んでいる私たち、どうか自分の行いに頼り、あなたの助けを呼び求めない罪から私たちを救い出してください。

洗礼準備が御心のままに導かれますように。また来週は、教会の3月定例長老会議が持たれます。どうぞ、来年度の計画、諸行事を決めるにあたり、御心が行われ、御名があがめられる計画となりますように。また、特に記念誌編集のために多くの方々のご協力が得られますように、私たちの過去の歩みが未来に向かって用いられる記録となりますように。

ご病気の方々を覚えます。どうかこれまでの恵みに満ちたご配慮を感謝しますとともに、それぞれの方々が良き治療を受けることができますように道を開いて下さい。どんなときにも私たち信者のすべてが、主の証人として立たされていることを心に確信し、無力なときにこそ、ただ主の恵みによって歩むことができますように。

教会の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。