《賛美歌》
讃美歌6番
讃美歌352番
讃美歌515番
《聖書箇所》
旧約聖書:詩篇 41篇10-11節 (旧約聖書875ページ)
41:10 わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。
41:11 主よ、どうかわたしを憐れみ
再びわたしを起き上がらせてください。
そうしてくだされば
彼らを見返すことができます。
新約聖書:マタイによる福音書 26章26-30節 (新約聖書53ページ)
26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
26:29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
26:30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
《説教》『聖餐の喜び』
今日は、「聖餐」について教会学校の生徒さんとご一緒に考えてみたいと思います。
教会学校の礼拝では「聖餐」が行われていません。教会学校の生徒さんの中には「聖餐」を見たことがない人が居るかも知れません。大人の礼拝でパンと葡萄ジュースが配られてそれを大人たちが飲んで食べているのを見たことがあると思いますが、それが「聖餐」です。
教会学校で「聖餐」が行われていないのは、生徒さんが「洗礼」を受けていないか、洗礼を受けていても幼児洗礼だからです。
パンを食べて、葡萄ジュースを飲む「聖餐」とは、私たちにとって何のために、なぜ行っているのでしょうか。
それには、教会の歴史、古い時代に遡ってみなければなりませんが、今日は時間が少ないので500年前の宗教改革の時代から振り返って見ましょう。
私たちの教会は、宗教改革で生まれ直したプロテスタント教会です。プロテスタント教会では、「洗礼」と「聖餐」だけを聖礼典、神様が行いなさいと定められた正式な儀式とします。聖書の中でイエス様が直接命令なさった儀式はこの二つだけだからです。ただ命令なさっただけでなく、イエス様ご自身がその儀式に直接関わっておられます。
イエス様ご自身がマタイ福音書最後の28章18節から「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と命じられているのです。これを主イエス・キリストの「大宣教命令」と呼んでいます。
今日の聖書箇所マタイ福音書26章には「パンを取って食べなさい。杯から飲みなさい」とあります。マタイ福音書28章の「大宣教命令」では「洗礼」を授けなさいとあります。イエス様ご自身が26章で「聖餐」を、28章で「洗礼」をしなさいと命じられているのです。。
「聖餐」は、今日の聖書箇所で記されるようにイエス様ご自身がパンを裂き、杯をとり、弟子たちと分かち合われました。イエス様が弟子たちと最後の晩餐をする場面です。イエス様はこの弟子たちとの最後の晩餐の直ぐ後で捕まえられて十字架に架けられてしまうのです。このイエス様との最後の食事は弟子たちにとっても決して忘れられないものになりました。それは、イエス様がこんなことをなさったからです。まずパンをとってお祈りをしてそれをいくつかに裂いて弟子たちに分けられました。そして弟子たちに裂いたパンをお与えになりながらおっしやいました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 弟子たちは「これからイエス様の体がこのように裂かれてしまうのか。悲しい。でもイエス様にずっとついていくのだ」と固い覚悟をしていました。続いて、イエス様は葡萄酒が入った杯をとって弟子たちに差し出し、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。「わたしの血によって、あなたたちは罪が赦される。このわたしの約束を信じて生きていきなさい」と言われ、弟子たちは、「イエス様はこれから血を流されるのだ。恐ろしい。でもイエス様のことを守り抜こう」と思ったことでしょう。しかし、イエス様はこの後ゲッセマネと呼ばれる場所でお祈りをしますが、そこで捕まってしまい、そのまま十字架に架けられ死んでしまいます。すると、あれだけイエス様を守ると言っていた弟子たちはてんでんばらばらに逃げ散ってしまいました。イエス様にどこまでもついていきます、イエス様を守り抜きます、と言った筈の弟子たちは、自分の身に危険が迫ると怖くなってしまいました。イエス様は十字架で死んでしまわれました。その十字架の死は私たち人間の罪を赦すためであったのです。そして神様のご栄光をあらわすために死から蘇られ「復活」されました。その十字架の主イエスの裂かれた体と流された血によって私たちの罪が贖われ赦されたのです。復活された主イエスにお会いした弟子たちは、力づけられて新しい生き方をするようになりました。教会をたて、主イエスのことを人々に伝えたのです。
その時から、イエス様がお命じになったように、教会に集まってパンを裂いて一緒に食べ、杯からぶどう酒をみんなで飲み始めたのです。パンを裂き、杯から飲む時、そこに主イエスが居てくださる、と信じるようになったからです。弟子たち、そして教会はこのことをずっと続け、私たちの教会もこれを主イエスの食卓、聖なる晩餐「聖餐」と呼ぶようになりました。今も、私たちは聖餐式でパンを裂き、葡萄ジュースを飲む時、主イエスがそこに居てくださり、主イエスと一つになっているのです。「聖餐」にあずかるとき、十字架にかかってくださった主イエスのことを思い出し、復活なさった主イエスがここにいらして、パンを差し出してくださるのです。杯から飲む時、十字架で流されたあの血を思い出し、復活された主イエスが終わりの日にまた会おうといってくださった約束を思うのです。
「聖餐」は神様から私たちに対しての一方的な恵みです。主イエス・キリストの体と血をいただくということはキリストと一つになることを意味します。私たち罪人は聖餐に与るために清められなくてはなりません。その清めは「洗礼」によって与えられるのであり、主日礼拝の説教において清めが宣言されているのです。罪の赦しなしに「聖餐」はありえません、その赦しはただ神様の一方的な愛として、恵みとしてのみ起こるのです。従って「聖餐」も、神様を信じる信仰において受け取るべきものです。
神様からの一方的な恵みである「聖餐」は単に救われたことの証拠や「洗礼」を受けた証拠ではありません。
「聖餐」とは私たちの信仰と魂に対する食べ物であり栄養なのです。「聖餐」とは私たちに生きる力を与える糧なのです。この「聖餐」がないとクリスチャンは霊的な栄養失調になって、ひどくなると霊的に死んでしまうのです。「聖餐とは、主の体と血にあずかることによって、私たちの魂が永遠の命の希望のうちに養われることを保証するために、私たちの主がこれを制定されたのです」(ジュネーブ信仰問答 問340)。
「聖餐」を通して、聖霊の働きによって私たちは、キリストと一体となり、キリストの命「永遠の命」を頂き、天の父なる神様、子なる主イエス・キリスト、聖霊なる神様との交わりに中に加えられるのです。そしてそのことによって、私たちはキリストの体である教会の肢となるのです。
「聖餐」は信仰において受けるべきものですが、それは決して頭で考えるだけのものではありません。パンを食べ、葡萄酒を飲むことはキリストの肉と血を食すことです。私たちの信仰とは頭の中や心の中だけなのではなく、血と肉を伴うものなのです。ですから「聖餐」によって信じる者の体もつくられ、その人の信仰は人生、生活そのものになるのです。信仰の自覚が深まり、自分自身を生きた聖なる供え物として神様に献げることができるようになります。「聖餐」とは神様からの恵みであり、同時に献身につながる応答でもあるのです。
お祈りを致します。
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