聖書:出エジプト記20章8–11節, マタイによる福音書12章1–8節
私たちは代々の教会、全世界の教会が受け継いで来た教会の信仰を学んでいます。それは、使徒信条と 十戒 と主の祈りの中に表されています。今、私たちは十戒の三つの戒めを学びました。第一と第二と第三の戒めに共通していることがあります。それはどれも心の問題、すなわち形に表すことのできない神さまと私たちの間の問題であるということです。第二戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない」については、もし人が像を実際に造ったり、拝んだりすれば、確かに形に表れるでしょう。しかし、人があからさまに偶像を拝んでいるという形を取っていない場合でも、人の心に密かに神以外のものにひれ伏しているということはいくらでもあります。そしてそれは外側からは全く見えないのです。
それに対して、本日学ぼうとしている第四戒は、明らかに外側に表れる形を伴っている。第四戒は「安息日をおぼえて、聖としなさい」というものです。安息日は、神さまに捧げる日であります。それは形に表れます。安息日には労働をやめることが求められるからです。自分のためであろうと、家族のためであろうと、または雇われているご主人のためであろうと、一切人に関わる自分の働きをやめることが求められたのです。
それでは、なぜ神さまは安息日を制定されたのでしょうか。それには、三つのことが考えられます。その一つは、神さまが天地創造の業を六日で完成させ第七の日に業を終えて休まれたという聖書の言葉に根拠をもっています。そこで神さまは、第七日目の休みという象徴の下に、イスラエルの人々に霊的な安息を持つことを望み給うたのです。それは、神さまを信じる人々が、神さまが自分たちの中に働いてくださることを信じてお委ねし、自分たちの業をやめることです。自分の仕事、やるべきことは延々と続くと思って休まらない心も魂も、神さまに信頼して、「休みなさい」という命令に従う。イエスさまは教えられました(マルコ4章26-7節、68頁)。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と。神の国に向かって信仰者を成長させてくださる神さまにお任せして、安息日を守ることが命じられているのです。
安息日の制定について、神さまが求められる第二のことは、その日に人々が集まって律法を学び、儀式を執行することです。少なくとも神さまからいただいた恵みの御業について考えるために、特に捧げる日が定められることです。そして神さまは、人々がこの日を覚えて信仰生活を訓練することを望んでおられるからです。そして安息日の第三の意義は非常に具体的なことです。すなわち、自分の家のために労働する人ばかりでなく、あらゆる人々の支配下にある労働者に休みの日を与えること。たとえば、主人が働き続ければ、その家の者たちも休むことはできません。家畜に至るまで、安息日を守らせることによってすべての者に労働の免除を得させようとし給うたのです。そしてこの律法は、イスラエルの共同体の中に生きる外国人にも全く同じに適用されるように命じられました。
「安息日を守り、聖としなさい」について、以上の三つの意義をお話ししました。これが第四の戒めでありますが、ここで注目すべきは、神さまはこの戒めを他の戒め以上に重要なものとされたことです。それは、聖書の多くの個所で安息日の戒めについて特別に語られていることがあるからです。出エジプト記31章13-14節。「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、私があなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。」146下。
非常に厳しい掟であることが分かりますが、それは安息日が単に仕事を休み、体を休める。何もしないための日ではないからです。安息日は霊的な休みの日です。それは自分の心身を使っての働きを止めるだけではなく、神さまの御業、そのお働きを瞑想する一日として定められた日なのです。ですからイザヤ書58章13-14節にこう書かれています。「安息日に歩き回ることをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。」1157下。
イスラエルの指導者たちはこれを厳しく守り、人々に守らせました。けれども、「安息日は霊的な休みの日」と教えられても、人間には外側に見えることだけしか見えないし、分からないものです。その結果、戒めを与えられた神さまのお心を思うことに、心を傾けることは次第になおざりにされ、その一方で形式だけが厳しく問われるようになっていったようです。
今日の新約聖書は、マタイ12章1節以下を読んでいただきましたが、ここに登場するファリサイ派の人々は、イエスさまの弟子たちの行為を見とがめました。彼らは、人の外側に見えるものによって、その人の信仰を図ろうとする代表的な人々でした。一方、人の内側にあるものは見えないので、ひたすら外面的な正しさだけを追及するのです。彼らは律法学者と共に第四戒から考えて、安息日にしてはいけないことの規定を具体的に増やして行きました。それは何百年もの間になされて行った律法の体系でした。それを厳格に当てはめて人を裁くのです。12章の記事でも、彼らは、イエスさまの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べるという行為を労働と位置付けました。
マタイ12章2節。「ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている』と言った。」このとがめは、実はイエスさまに対する妬みから出たもので、彼らは弟子たちに言いがかりをつけ、何とかしてイエスさまを陥れたかったのです。それに対してイエスさまは、名高いダビデ王の例を挙げることで弟子たちを弁護されました。3節以下。「そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者も食べてはならない供えのパンを食べたではないか。』」
それはダビデ王がまだ若く、サウル王の家来であった時のことです。勇敢な武将であった彼は大変な手柄を立て、国民の人気はサウル王を遥かにしのぐ者となりました。しかしそのためにサウル王に妬まれ、命をねらわれる者となったのです。イエスさまが語られた話はダビデ王が逃げる途中の出来事です。神殿には普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えました。それは一般人が食べてはいけないことになっていたのですが、神さまはダビデの必要を認め、罪を問われなかったのです。もしダビデが空腹でパンを必要としていたことで、罪が赦されるならば、同じ理由が他の人々にも適用されなければならない訳です。この違反は、律法には違反していても、神さまに対する敬意について違反しているのでは全くないのです。
更にイエスさまは言われました。5節以下です。「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」ファリサイ派の人々は、ひたすら人の外側に見えるものでその人の信仰深さを図ろうとしました。彼らは第4の戒めを守ることに集中しているようですが、しかし、安息日を与えられた神の御心を思わないのです。このような人々の偽善の罪は真に重いと言わなければなりません。
これに対して、聖書と教会は証ししています。イエス・キリストこそ神の御心であると。イエスさまこそ安息そのものであると証しするのです。ユダヤ人は金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として守っていました。しかしキリスト教では、主イエス・キリストの復活の日、つまり日曜日を安息日としています。なぜなら、日曜日は神の独り子イエスさまが、十字架にかかり死んで甦ってくださった日だからです。それで教会は日曜日の朝に礼拝を守っています。それは、イエスさまの復活を記念し、日曜日にすべての仕事と業を一度中断して、復活の主イエスさまに心を向けるためです。
イエスさまは言われました。「人の子は安息日の主なのである」と。このことは、イエス・キリストは彼に従う人たちを助けて、安息日を守る必要から免れさせる力をもっておられるということを意味しています。言い換えれば、真の神の子であり、人の子であられるイエスさまは、御自身の権威によって、安息日を解き放つことができると述べておられることになります。
実際考えてみれば分かることですが、もしキリストが来てくださらなければ、ただただ律法に従うことは大変な苦痛と悲惨を伴わずには済まされないでしょう。ただ主イエス・キリストのみが、神の自由の霊をもっておられます。そして、神さまは独り子であられるイエスさまを通して私たちに御自分の「子たる身分」を授ける霊を与えてくださいます。ローマの信徒への手紙8章15節にこのように書かれています。「あなたがたは、人を奴隷にして再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」284下。こうして私たちはイエスさまの執り成しによって自由の霊を与えられ、目に見える形だけの律法から自由になり、神の御心を仰ぎ見る信仰によって第四の戒めを学んでいるのです。
確かに忙しい現代では、たくさんの仕事を中断して礼拝に集まることは容易ではないのです。しかし、神さまが創造の業を完成させ、その働きを中断して安息を取られたことを思い、わたしたちもこの日を礼拝の時としてすべてを捧げるように命じられていることを銘記しましょう。
もし、律法を厳守しなければ救いはないと考えるならば、わたしたちが救われることは大変に厳しいものがあります。しかしそれに対して、神の独り子イエスさまこそ、天地創造の業を終えて安息された神に等しい方ゆえに、そのイエスさまのおられるところに、既に真の安息があると信じる。これが教会の信仰です。安息日。その日は復活の主がわたしたちと共にいてくださる喜びと安らぎがあります。その日には集い、主の言葉を聖書から聴き、感謝と讃美の礼拝を捧げます。キリストが主となられたことの恵みを味わう時。この日が教会の安息日です。天地創造の時、神さまはすべてを造られ、すべてを良しとされました。その時に造られた最初の人間の姿が、聖霊の働きによって回復される日。それが安息日なのです。
私は明日の東日本連合長老会の教会全体修養会で講師の務めをいただいております。この17年間の成宗教会での牧会についてお話するつもりです。多くの方々に是非聞いていただきたいと思うのは、自分の失敗の話やあるいは成功の話をするからではありません。むしろ、この教会の貧しさ、過去の教師の苦難にも拘わらず、教会の過去の方々が皆、一人の御方を指し示すことになったことを語ろうと思います。聖餐を如何に主が授けてご栄光を現わしてくださったか。最も弱くなった人々に主の恵みがいかに現れたかを語ろうと思います。神の恵みは常に下を支えます。本当は上をも支えているのですが、ほとんど目立ちません。それは多くの人々が自分を誇り、自分を高める一方、自分を感謝と讃美する一人の礼拝者として集まることができないからです。
しかし今、ホスピスにおられる姉妹はちがっていました。若い時に多くの働き、多くの活躍をされ、年取ってから教会の中に入られ、それからも教会の外で沢山活躍されました。しかし次第に、礼拝を一生懸命守ることに専心されるようになりました。それは命がけであったと思います。このことを忘れないで主に感謝します。神さまの前に出ること、讃美と感謝に加わること、御言葉をいただくことを生きる務めとし喜びとされた方々を私は忘れません。彼らは神さまのものとされているからこそ、できるからです。主の霊は励ます霊。私たちはこうして励まされて、主の御前に立ち、そしてついには主と共に後の世代を励ます者となりましょう。
最後に、第四戒をもう一度心に刻みましょう。カテキズム問44 第四戒は何ですか。その答は「安息日をおぼえて、これを聖とせよ」です。わたしたちは神さまのものなので、礼拝するための特別な日を大切にしなければならないということです。祈ります。
愛と憐れみに富み給う主イエス・キリストの父よ、
尊き御名を讃美します。あなたの戒めを守り得ず、御心に従うことのできない私たちを憐れみ、その罪をイエス・キリストの贖いによって清めてくださいました。こんなにも私たちを愛し、罪人が罪の中にとどまり、闇の中にさまよい滅びに至ることを捨て置くに忍びなかったあなたの御心を思います。どうか背きの罪を赦し、この心を新たに造り変えて主の霊に従う者とならせてください。
成宗教会は高齢化が進んでいる一方、皆力を合わせて、福音の光が輝くように祈り働いております。あなたのお支えを感謝いたします。どうか、10月のバザーの行事を御心に適って御進めください。またあなたは教会学校の働きを祝してくださっていることを感謝します。成宗教会は新しい世代に、福音の恵みが受け継がれるよう祈りながら、次年度新しい主任担任教師が与えられることを待ち望んでいます。どうか連合長老会の中で成宗教会にふさわしい道が開かれますようにお導きください。そして、その備えのために長老会を励まし、また信徒一人一人が祈りをもって備えることができますように。
今、困難の中にある方々、特にお病気の方々を助け導いて、その悩みを聞き上げてください。教会のご家族の中に新しい命が誕生したという、この何よりもうれしい恵みを感謝します。どうかご家族を主イエス・キリストの祝福で満たしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。