聖書:箴言23章22–25節, マタイによる福音書15章4–9節
今日の説教題をごらんください。「あなたの父と母とを敬え」です。これが 十戒 の戒めのうちの、第5番目の戒めであります。とてもシンプルで、だれもが納得する戒めです。しかし、この戒めはただ単に血縁関係にある父母を敬いなさい、とか、両親の言う通りにしなさいという道徳的な勧めではありません。古代イスラエルでは、両親は神への畏れや信仰を子どもたちに伝達する役割を果たしていましたから、いわば、神さまの代理のような存在であったのです。子どもたちは、神さまを礼拝する生活と信仰を父母から継承し、それをまた次の世代に伝えました。イエスさまも、神さまを天の父と呼ばれ、また弟子たちにも祈る時には「天にまします我らの父よ」と呼びかけなさいと教えられました。
神はすべてのものをお造りになり、また人間を御自分に似た者としてお造りになりました。そして私たちが生きるために沢山のものを与え、管理させ、神さまがそのすべてを支えておられるのです。真に神さま御自身が、わたしたちに天の父と呼ばれることを許してくださっています。それは真の神の子、救い主イエスさまが私たちに教えてくださったことです。このようにして、私たちは地上に父を持っている一方、神さまを天の父と呼ぶのです。
またわたしたちは地上に母を持っていますが、その他に、私たちには母と呼んでいるものがあります。それは何でしょうか。それは教会です。教会は母なる教会と呼ばれます。なぜでしょうか。それは、教会がイエスさまを信じて洗礼を受け、新しい命に生きる人を生み出すからです。クリスチャンは教会から生まれます。だから、私たちは天には父がおられ、教会を母として生まれた神の子なのです。
さて、そう考えると「あなたの父と母とを敬え」という戒めは、ただ単に親孝行しなさい、というようなこと。また両親の言うことを聞きなさいというようなことではないことが分かります。私たちが具体的に、この親の子供であるということは、不思議なことです。神さまからこういう親をいただいた、ということですから。わたしたちは誰も、親が子を選んだのでもありません。また、子が親を選んだのでもないのです。それはただ一重に、神さまがくださった親子の関係です。神さまが選んで私たちに父母を与えてくださり、その父母の力によって育てられたのですが、本当は神さまのご支配がここに働いてくださったからこそ、親子の関係ができるのです。
父母を敬うことは、神さまの導きを信じるからこそ、できることです。だからこそ、親から受けたものを子に伝えていくことができます。つまり、父母を敬うことは神さまを信頼し、神さまを敬うからこそ、できることなのではないでしょうか。神さまに信頼し、自分の道は神さまが備えてくださると信じる人は、神さまから離れないでしょうし、父母からも離れ去ることはないでしょう。しかし、わたしたちの多くは人生の主に若い時に、あるいは中年の時に、父母に反抗したり、父母を煙たく思ったりするところを経験しております。ルカ15章の有名な放蕩息子の話(139頁)のように。ただもう「父親から離れたところで、思う存分好きなように暮らしたい」という思いは、同時に神さまからも離れて生きる生活に陥らざるを得ないのです。だからこそ、放蕩息子は悔い改めて父に謝罪するとき、こう言わずにはいられませんでした。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と。
放蕩息子の例え話は、豊かな財産を持つ父親と若くて力のない息子の関係として描かれていますが、今日読んでいただいたマタイ福音書15章でイエスさまが指摘している親子の関係はそうではありません。4節からイエスさまのお言葉を読みます。「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。」これらの言葉は、一つは出エジプト記20章12節の言葉であり、もう一つの『父または母をののしる者は』という戒めは、レビ記20章9節の言葉です。どちらも単純で率直な戒めです。親をののしる、または呪う者は死刑に処せられる。恐ろしく厳しい言葉ですが、その意味は誰でも理解できる、心に響くのではないでしょうか。
神さまが人々に律法を与えになった目的は、人々が真心から神さまを礼拝するというところにあります。そこにすべての幸いの源があるからです。十戒で見るとおり、神さまを礼拝する人生といいますか、生き方はそんなに複雑なものではありません。むしろ単純素朴であるといえるでしょう。第一戒から振り返ってみるならば、それは「あなたは、わたしのほかに、何ものも神としてはならない」です。とても明快ではないでしょうか。第二戒は偶像礼拝の禁止です。また第三戒は神さまのお名前を心から大切にすることを命じられています。ところが、第四戒の安息日の戒めについても、神さまがお命じになったことを形式的に守ろうとするうちに、次第に神さまを礼拝する真心を考えなくなってしまう。
そして安息日にしてはいけないことを増やす。ここまではしても良いが、ここからはしてはいけないことを増やすのです。事細かなルールを作り出してそれも十戒と同様に守ることを要求する人々がいました。それが律法学者とファリサイ派の人々でした。先週読んだマタイ福音書の例では弟子たちが安息日に麦畑を通った時、お腹が空いていたので、麦畑に入って麦を摘んで食べたことを、彼らは見とがめて、これは安息日にしてはいけない労働であると非難したのでした。それと同じように、今度は弟子たちの食事の前に手を洗わないといって咎めました。しかし、よく考えてみれば、だれにでも分かることがありました。食事の前に手を洗うことは衛生的に良いことですが、それは神さまを心から礼拝することとどれだけ関係があるのでしょうか
そこでイエスさまが持ち出したのが「父と母を敬え」の戒めであり、また『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』というみ言葉です。こんなに単純明快な戒めはないのではないでしょうか。イエスさまは続けて、ファリサイ派の人々、律法学者たちが決めたルール思い出させます。15章5-6節。「それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」
この言葉は十戒に代表されるような聖書に記された戒めではなく、長い間に出来上がった言い伝えであります。この言い伝えによれば、ある人が自分の持ち物の一部を神さまに供え物として捧げたとします。その人は、一部を捧げ、その残りを自分のものとして所有し続けることができます。その一方で、その持ち物は神に捧げられたのだから、その両親を扶養するために、持ち物から少しも差し出さないで、もっともらしく父母の扶養を断ることができるという話なのです。なぜ、このような言い伝えが出来たのでしょうか。それは、神殿に仕える人々(レビ人)の利益となったからです。こうすれば、人は自分の持ち物の一部を神さまに捧げたとして、実際はそれは神殿に仕える人々のものとなり、そして残りは丸々、その人の手元に残る訳ですから。
主イエスはこれを非難なさいました。また当時のラビ、教師と言われたたちの多くも、主イエスのようにこのような不正を非難したが、それでも、このような言い逃れは行われていたことが分かります。このような不正。神さまを口実に使った偽善は、神の言葉を無にすることそのものを表しています。「父と母とを敬え」と言われている父母とは、どのような父母でしょうか。今日読んでいただいた箴言の23章22節。「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」「父と母とを敬え」と命じられている本人は既に大人になった人でしょう。そうすると、神さまが命じられている対象は、若い両親ではありません。年老いて、力も衰え、自分で働くことのできない父母が思い描かれるのではないでしょうか。そして今の時代のように、社会保障制度がない時代であったのですが、そんな時代にも高齢の父母を見捨てるために、どうやって第五の戒めを回避できるかに心血を傾けているという浅ましい人間の罪が見えて来るのではないでしょうか。
マタイ15章8-9節『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」こうして神さまの戒めは、無にされ、無視されている、この偽善の罪をイエスさまは鋭く指摘されているのです。神さまの戒めの目的に、立ち帰りましょう。それは神さまを礼拝することを目指しています。礼拝のために安息日が与えられました。毎日が繰り返される同じ一日のようであっても、時間が絶え間なく流れていくようであっても、神さまは人に御自身の安息を与えて下さり、人の心を神さまに向けるシンボルの日を、時間の中に定めてくださいました。
それが第四の戒めであったのですが、神さまは第五の戒めにおいて人と人との交わりの中に神さまとの関係を造り出してくださいました。父母がいる。父母は神さまが自分に与えられた存在であると思う。その思いは神さまを信頼する信仰から生まれるのです。自分中心に思えば、なかなかそうは思えない。自分に都合の良い時は、父母に頼ったけれども、父母はいつも自分に都合よくしてはくれない、と思う自己中心が、いつも人にはあるのではないでしょうか。そのようなわたしたちに、第五の戒めが与えられています。出エ20章12節にはこう書いてあります。「あなたの父と母とを敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」
父と母とを敬うことと主が与えられる土地に長く生きることができる、ということがどうつながりがあるのでしょうか。それはつながるのです。なぜなら、ずばり、ここに神さまの祝福があるからです。神さまがわたしにあの父と母とを与えてくださったと思う心。その心そのものが神さまの賜物です。そして、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」という約束の言葉は第五の戒めだけでなく、その前のすべての言葉に繋がっているのです。第一戒「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」と続きます。第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」
そんなふうに第三戒にも第四戒にも続いています。このように自分中心に生きることから、神さまの戒めを受け入れて、神中心に生きることで、どんなに大きな祝福が約束されているかを、わたしたちは思うべきであります。先週、わたしたちは敬愛する姉妹を天に送り、感謝に溢れて葬儀式を行いました。とても寂しい思いはありますが、地上の労苦から自由になられたことを思うと、遺されたご家族も慰められたことでしょう。
私たちは血縁のものではないのですが、同じ信仰を与えられ、主イエス・キリストの執り成しに結ばれている人を、皆兄弟姉妹と呼びます。わたしたちは信仰によって神さまの家族とされていることを喜び、誇りに思います。わたしたちは佐田姉を母のように敬い、いつまでも敬い続けるでしょう。それは、佐田姉が天の父の御許に召されたという、何よりの信仰の証しを立ててくださったからです。真に感謝です。
最後に今日の学びは十戒の第五戒でした。カテキズム問45 第五戒は何ですか。その答は、「あなたの父と母とをうやまえです。神さまがわたしたちの父母を与えてくださり、神さまのご支配の中で育ててくださったので、父母を尊び、うやまい、助けるようにすることです。」祈ります。
恵み深き天の父なる神さま。
尊き御名を褒め称えます。わたしたちはこの荒天の中、主の御招きによって教会に集められ、礼拝を捧げることができました。今日は第五の戒めを学びました。どうかわたしたちにこの戒めを喜んで受け入れる心をお与えください。私たちは敬愛する佐田節子姉を先週、地上から失いましたが、しっかりとあなたに信頼し、地上の教会の行く末のために、祈りをもって働いてくださったことを感謝します。どうかご家族の上にこれまでにも優る祝福を注いでください。わたしたちは佐田姉妹を母のように敬い、これからも感謝を以て、思い起こします。どうかわたしたちを、これからも変ることなく主と共に歩む教会とならせてください。
今週行われる会議の上に、成宗教会の今後の歩みの上にあなたの御心をすべて行ってください。また、イエス・キリストの執り成しによって私たちの罪を赦し、御心に従って今週も歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。