神は何でもお出来になる

聖書:ヨブ記42章2-6節, マタイ福音書19章23-26節

 私たちの教会は、先週十貫坂教会との講壇交換礼拝を守りました。十貫坂教会から若いというか、働き盛りの男の牧師が来てくださいました。私の方は十貫坂教会に出かけるのは初めてではなかったので、向こうでは知り合いの先生だ、という感じで迎えられましたが、成宗ではどうだったでしょうか。長老以外の方々は改めて東日本連合長老会の十教会の交わりに入るということは、こういうことなのか、と実感されたのではないでしょうか。

私も、東日本で共に学び、共に教会を建てて行くことが出来ることを、十貫坂教会の礼拝の場で主に感謝しました。どこの教会も日本の少子高齢化を映し出さないところはほとんどないと思います。特に小さな教会、そして地方の教会はそうでしょう。たくさんの人が長生きが出来、高齢に達するということは、社会の平和と繁栄の結果ですから、大変感謝するべきことです。けれども、それは同時に多くの高齢者を社会全体で支えて行くということです。「ゆりかごから墓場まで」という標語は社会保障で言われることですが、それを教会についていうなら、それは地上に生を受けてから、地上の生涯を終えるまで、主イエス・キリスト教会の中に守られ、神の家族の一員として守られることだと思われます。

また、「終わり良ければ総て良し」という言葉がありますが、それは、「神の子イエス・キリストに結ばれて、天の父に守られて生涯を全うする」ということではないでしょうか。ですから、私たちは一日一日年を取りますが、最後までキリストの教会の一員として生きる、つまり主に従う者として心を引き締めて生きるのです。有り難いことに、成宗教会には主に結ばれ、教会に結ばれて地上の生活を送っている方々が過去にも、また現在も多くおられます。本当にありがたいことで、喜ばしく、また誇りに思います。その兄弟姉妹がキリストの恵みの証し人として、私たちを今も励ましておられるからです。これは一重に、教会に送られた慰めの霊、励ましの霊、聖霊のお働きによるのであって、そのこと無しには決して起こらないことです。

では、私たちはその励まし、高齢の方々の励ましを受けて何をするのでしょうか。地上の生涯の終わりに向かう私たちがなすべきことは、地上に命を与えられている人々に福音を宣べ伝えることではないでしょうか。私たちは体をもって生きています。目に見える姿で生きて生活するので、衣食住は欠かせません。ですから「何でもできる」という言葉を聞くと、すぐ目に見える「できる」ということを考えます。飲み食いする。住むところがある。着るものがある。これらは皆、お金がなくてはできません。だからこそ、お金にこだわっています。そして神様は私たちにそのすべてが必要であることをご存じです。

しかし、地上に命を与えられている人々に福音を宣べ伝えるということは、そういうとは無関係ではないのですが、目に見える姿だけに関わることではないのです。目に見える姿形と同時に、私たちには目に見えない心があります。心と体を合わせて魂と呼ぶこともあります。私たちは目に見える衣食住のことだけで生きているのではない。むしろ地上の生涯を全うしたとき、私たちに備えられている神の命に生きる者となるために、地上に教会を建てるのです。体だけの救いのためではなく、私たちの心も体も魂も救われるために、今できることをして生きたいのです。

イエス・キリストのお建てになった教会は代々同じ信仰を受け継いで、告白してきました。私たちはその信仰を使徒信条によって告白し、同時に学んでおります。本日は「我は全地の造り主、全能の神を信ず」というところの、「全能の神」についてみ言葉に聞きたいと思います。「神は全能である」ということは、「神は何でもお出来になる」ということです。今はオリンピックのシーズンですから、ひたすら誰が一番か、金メダルか、ということに世界中が注目する。多くの人々にとって、「できる」ということはそういうことなのです。また私たちは、中学生棋士の出現で、「おお!」と驚き、ボナンザという名の将棋ロボットに人間が勝ったの、負けたのと、大騒ぎします。そこで、私たちにとっては「神は何でもお出来になる」という言葉も、何かそのような能力のことのように聞こえてしまうのではないでしょうか。

今日のマタイ福音書の聖書箇所は、一人のお金持ちの青年が主イエスの御許に来た、あの有名な話に続く部分です。お金がある人がどんなにもてはやされ、羨ましがられるかということは、今も昔も変わりないことです。実は、人々がお金持ちに恭しく頭を下げるのは、その人に対してではなく、その人の持っている富に対してなのですが、本人はその区別が分からないかもしれません。そこで、自分は何か偉い尊敬される価値があると思い込んでしまい、何でも思い通りになって当然のように考えるに至ります。しかし、お金で買えないものがあることも金持ちは知っていました。そこで悩んで主イエスに教えを乞うのです。「永遠の命を得るためにはどんな善いことをすればよいのでしょうか」と。

つまり彼は、永遠の命、すなわち、救いに入れられるためには、何か善い業をする必要がある、と考えているのです。人間は善い業によって救われると信じているのです。主イエスは、それならば、と答えられました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。

この人は善い業をすることによって救われると信じる。ところが、主の命令は彼のできることではありませんでした。つまり、自分の財産を貧しい人々に施して、自分も貧しくなることはできなかったのです。金持ちは永遠の命を得るよりも、自分が金持ちであることの方が大事でした。私たちが考えると、「いくらお金をもっていても、この世を去る時には何一つ持って行くことはできないのに」と思いますが、富を持つ人は、なかなかそうは考えられないのでした。

主イエスは、この気の毒な青年のことについて、弟子たちに警告して下さいました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」らくだが針の穴を通るとは、何とも大げさなたとえですが、要するに、全く不可能であることが強調されているのでしょう。今、コツコツ働いて報酬を得るのではなく、マネーゲームのような取引でお金を儲けようとする人々が世界の市場を動かしています。お金をもうけて何かを買う、とか、目的があるのではなく、ただただ富をかき集める欲望は、非常な禍の元でありますが、富に頼る傾向。つまり、天国に入れなくてもお金さえあれば・・・という考えも救いから遠ざかる結果を招くことになるでしょう。

もちろん、富そのものは本来悪いものでもないし、神に従う道を必ず妨害するものでもありません。第一、神に従うことから、私たちを遠ざけるために、悪魔が用意している手段は、富以外に、他にもいくらでもあるのではないでしょうか。とは言え、豊かに持っている人々はついついその豊かさにおぼれて、神に心を向けなくなっていることもしばしば起こることなのです。地上の生涯を終える時は、誰にでも必ず定められているのに、金持ちはこの世の楽しみをいつまでも満喫できると錯覚を起こしてしまうかもしれないからです。皆が頭を下げて迎えてくれるような地上の生活に慣れている金持ちであっても、神がわたしたちに受け入れてくださる救いの道は、狭くて小さな入り口から入ることになりますから、へりくだって身をかがめて入れていただかなければならないでしょう。

さて、弟子たちはこれを聞いて仰天しました。彼らは「それでは、だれが救われるのだろうか」と途方に暮れたのでした。しかし、この話は何も金持ちの青年が救いから閉ざされたことを結論づけるために記録されたのではありません。なるほど、金持ちの青年は失望して去って行きましたが、彼ら弟子たちはびっくりしたものの、がっかりして主から離れ去ったのではありませんでした。むしろ、彼らは「それでは一体、誰が救われるのでしょうか。それが知りたいのです」と言いたかったのです。だから、びっくりはしたけれど、がっかりもしたけれど、それでも主のもとから離れなかった。そこがあの青年と全く違うところです。

弟子たちの問い、そしてそれは私たちの問でもありますが、「それでは、だれが救われるのだろうか」という問い対して、主イエスは彼らを見つめて言われたのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と。そしてその御言葉によって、キリストは彼らの心をすべての憂いから完全に解放してくださったのでした。私たちは自分の力で天に上ることがいかに困難であるかを知らなければなりません。人間の力では、金持ちであろうが、貧乏であろうが、どんな人も救われることは不可能だということです。なぜなら、すべての人間の救いは完全に神にかかっているからです。天に上るということはエベレスト登山とは全く違います。神がお招きくださらないのに、天の神のお住まいに上って「わたし、自力で上って来ました」と、誰がいうことが出来るのでしょうか。

人間には不可能なことだ。しかし神にはすべてが可能であると主は言われます。私たちはこの言葉を、福音としていただかなければなりません。たとえ、自分に自信のある人々が「あれをしなさい」「これをしなさい」「そうすれば救われる」と言われる方が好きだとしても、それは自分の能力に、自分の持ち物に頼るから、そうなのです。やがて、自分ができると思っていたことが、実は出来ていなかったということに気がつくでしょう。自分が善いことをしていたと思っていたことが、実は全くそうではなかったということにも気がつくでしょう。特に信じていた自分の善意さえも、正直さえも、実はそうではなかったのではないか、と気がつきます。

しかし、それは辛いことではありますが、不幸なことではありません。いや、むしろそれどころか、幸いなことであると分かります。なぜなら、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」という主イエスのお言葉は、私たちを慰めるために、励ますために語られたからです。あの人はもう駄目だ。もう救われないと人が人を見はなすことになっても、神にはできないことはないからです。イエス・キリストが指し示してくださった天の父は、救いがたい罪人を救ってくださることがお出来になる。絶望の中に希望を生まれさせることが出来る方です。神の全能とは、救われるに値しない罪人、滅びるより他にない人間をなお、愛することがお出来になるその御力、その愛ではないでしょうか。

ヨブとその友人たちは、ヨブの想像を絶する不幸の原因について、また神の義しさについて議論しました。しかし、神の義しさを理解し、自分の正しさを論じることの結論は何だったのでしょうか。ヨブは自分に理解できないこと、自分の知識をはるかに超えたことをあれこれと論じようとしていたことを悔いております。それでも、ヨブははるかに天を仰いで信じ、告白することが出来た。それは、天には自分のために執り成してくださる方がおられるということでした。苦しみから救い出してくださる方がおられる。それはどなたか、いつ、どういうふうにして自分を救ってくださるのかも知らないままに。しかし、神はヨブのこの呻きに、この告白に、答えを備えておられたのです。

時が満ちて、天の父は、その計り知れない御心によって御子を世にお遣わしになりました。神は私たちの思いをはるかに超えたその愛によって、罪人を救いに招くために、愛する御子をお遣わしになって、その御心を地上に明らかにされました。キリストを拒絶したことで、神の愛を拒絶する者の罪は、いよいよ明らかになりましたが、その一方、十字架の苦難が自分のためにも忍ばれたと信じる者は、悔い改め、御子を信じて神に従う者となったのです。これが信仰の告白であり、洗礼であります。私たちは何をすればよいのでしょうか。自分の持ち物に少しも頼ることなく、この神の恵みによって救われることをひたすら信じ、神に心を傾けて祈ることであります。私たちにできること、それは自分の力により頼まず、天からの力を求めて祈ることです。

私たちの教会も東日本連合長老会の教会と共に、また同じ信仰を告白する教会と共に、自分たちの力ではなく、主の恵みの力によって立つことを信じ、ひたすら祈りましょう!

 

御在天の父なる神様

尊き御名を賛美します。私たちは今2018年の受難節の最初の礼拝を捧げました。ありがとうございます。不可能を可能にしてくださるあなたは、私たちの不幸を深く憐れみ、御子をお遣わしになって恵みの福音をお伝えくださいました。

私たちはあなたから遠く離れていましたが、あなたの計り知れない慈しみを示され、罪を悔いて御前に集うことが許され、すべてにわたって御子の正しさによって救われました。どうぞ、この喜びを多くの人々が知る者でありますように。今多くの人々が年を取り、多くの人々が自分の富に自分の能力に頼ることが出来ないことを実感しております。また若い世代の人々にも昔に無かったような時代の悩み、苦しみが押し寄せていることです。

どうかすべての必要な者を備えてくださる主に依り頼み、ただ多くの人々がこの恵みの救いに入れられますように、祈る者とならせてください。多くの方々が教会に来られなくなっていますが、あなたが生きるために無くてならない神の言葉で養い、導いてください。

今日も教会学校から、守られ祝福を受けていることを感謝します。ナオミ会の例会、教会学校教師会が開かれますが、それぞれの会をあなたの恵みの業としてお導きください。また、礼拝に集うすべての方々の上に、そのご家庭に、職場に、あなたの恵みが伴われますように。何よりもお病気の方々、生活の様々な困難に直面している方々に聖霊の助けがございますように。私たち、いつもあなたを仰ぎ、あなたに寄り頼み、絶えず祈る者とならせてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。