あなたの神、主の名を畏れる

聖書:出エジプト記207節, マタイ721-23

 わたしたちは教会に受け継がれて来た信仰を学び、広く世界に伝えたいと願います。わたしたちはそれをカテキズム、信仰問答によって学んでいます。神さまが御自分に従う人々に与えてくださった 十の戒め があります。本日はその第三戒を学びます。その戒めとは、今日読んでいただいた出エジプト記20章の7節の言葉です。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と書かれています。

わたしたちはだれでも、自分の名前が大切ということは感じていますから、もし名前を変なふうに呼ばれたりすると、とても不愉快になります。名前はその人の人格そのものを表しているからです。「あなたの神、主の名」とは神さまのお名前です。それは神さま御自身を表すものです。名前を知られるということは相手に傷つけられるという恐れもありますから、古代の神々と呼ばれるものの中には、名前を隠しているものもあったそうです。しかし、聖書に御自身を表された神さまは御自分の名を明らかにされる方です。なぜでしょうか。神さまがわたしたちに名をお知らせになるのは、わたしたちを神さまとの交わりに招いておられるからなのです。

最初に神さまのお名前を知る。それは神さまとの交わりのために無くてはならないことであります。交わりを持ちたいと思ってくださる神さま。そのために神さまは、わたしたちの知識をはるかに超えた方、この目で見ることも、この耳で聞くことも到底望むことができない方ですが、わたしたちに御自分の名を明かしてくださいました。それはわたしたち人間に対する深い慈しみから出ているというより、他に理由があるでしょうか。それは、人間を救いに入れようという神さまの決断以外の何ものでもありません。

ところが神さまは「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とお命じになっておられます。一方では親しく交わりに招いてくださる神さまは、他方では「主の名をみだりに唱えてはならない」と言われるのです。みだりにとはどういう意味なのでしょうか。「みだり」とは、「筋道が立たない様、秩序のない様」を表します。またそこから「無作法な様子」や「浅はかな様子」を意味するのです。そうなると問題になっているのは、神さまのお名前を唱える回数が多いとか少ないとかではなく、神さまのお名前を唱えるわたしたちの礼儀正しさなのだということになります。

そうしますと、どうでしょうか。普段は神さまのことを忘れてしまっている人々。あるいは無視している人々。さらには、そもそも神さまの存在を否定している人々。この場合は堂々と無神論者と名乗る訳ですが、そういう程度の差はあるけれども、こういう人々は物事が自分にとってうまくいっている時には神さまの名を唱えることはないでしょう。ところが思いがけない窮地に立たされる時、正に困ったときの神頼みのようなことが起こるとしたらどうでしょうか。普段は感謝することも賛美することもしない神さまに、困ったときだけそのお名前を唱えて助けを求める。このことはみだりに唱えることにはならないでしょうか。真に神さまから御覧になれば、失礼千万なことではないでしょうか。

この世界にあるもの、すべてに人間は名を付けました。形ある物にも、人にも、そして出来事にも名を付けました。だから好きなだけその名を呼ぶことができるでしょう。しかし、神さまのお名前は人間の付けたものではありません。神さまのお名前は神さまだけのものですから、わたしたちが自由にできるものではありません。それは神さま御自身が明らかにしてくださり、わたしたちに教えてくださった名前だからです。

イザヤ42章8節にこう書かれています。1128頁下「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない」と。ですから、わたしたちは自分の誓いを人々に信用せるために、「神さまに誓って」などと、みだりに主の名を唱えることはできないのです。それは、自分の願望、欲望のために神さまを利用するいう恐ろしい行為であり、結局は偶像礼拝に繋がってしまうからです。

さて、ここでわたしたちは十戒の言葉が与えられた人々について、改めて考えたいと思います。それは、イスラエルの人々。神さまの約束によって旅をし、多くの苦難を味わいながらも、信仰を全うしたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫でありました。この人々は自分たちを自分で救い出すことのできない窮地に陥っていたのですが、そこから救い出してくださった神さまを、真の神さまと知りました。そこで神さまは、彼らにご自分の名を明らかにしてくださったのでした。

先週の礼拝では、第二戒を学びました。そこで、わたしたちは神さまの名を教えられました。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と。真に恐ろしいことではありますが、父祖の罪が子にも受け継がれるのを、わたしたちは認めざるを得ません。悔い改めのない親の罪のために、苦しむ子がどんなに多いかをわたしたちは知っているからです。しかし、父祖の罪を負う子孫にも、真の神からの呼びかけを聴く機会が必ず与えられますように、と教会は祈るのです。そして救いがどこから来るかを誰もが悟るように、と祈るのです。真の神さまに出会い、この方を愛し、この方にだけ従い、その戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみが与えられる。このことを神さまは約束しておられます。だから、この約束だけに頼って全身全霊を挙げて主に従って来なさい、と主は命じておられます。

神さまに救われた人々は貧弱な小さな群れで、窮地に陥った民でありました。しかし神さまは不思議に彼らを選び、彼らを御自分の民と呼んでくださいました。十戒は神の民となった人々に与えられた戒めです。ですから、神さまを知らない人々ではありません。十戒は、神さまを知って礼拝する人々に与えられた戒めです。礼拝の民、神の教会の人々に神さまは第三戒を命じておられるのです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と。

ですから、神さまを知っている人々。神さまに知られていることを知っている人々は、神さまを畏れずにはいられません。畏れ敬わずにはいられないはずです。そしてこれこそが、何がなくても礼拝に無くてはならないことなのです。讃美歌を歌う時にはうまいとか下手だとかいうことよりもはるかに大切なことがあります。それは真心から歌うということです。わたしたちはメロディの美しさに心惹かれますが、讃美歌は献げ物であります。主をほめたたえることは、唇の実と言われます。それに更に楽器を用いて捧げた歌は詩編に代表されるように、主をほめたたえる歌なのです。嘆きの歌でもそれは感謝の歌に変えていただける。本当にわたしたちに求められていることは真心から主の御名前を呼ぶことに他なりません。

美しい歌も楽器もそれを用いて真心を捧げて主の名を呼ぶならば、神さまは喜んで献げ物を受け入れて下さいます。ところが、歌でも楽器でもそれを用いて神さまを賛美しているように表向きは見えても、自分の名声のために、欲望を満足させるために、そうするならば、それは主の名をみだりに唱えることになるのではないでしょうか。礼拝で捧げられる音楽を一つの例として挙げましたが、これは何も音楽に限られることでは決してありません。

新約聖書はマタイ福音書の7章21節以下を取り上げました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」主イエスさまの厳しいお言葉は一体何を意味するのでしょうか。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」22節で「かの日」とイエスさまが仰ったのは、終わりの日であります。キリストが再び世に来られる終わりの日に行われる審判によって、すべてのことが明らかになります。いかにも立派にふるまい、大勢の人から尊敬を集め、自分でも「救いの栄誉は自分に与えられて当然」と思っていた人々が、呆然としている場面を想像してください。彼らは必死になってイエスさまに訴えているのです。

彼らは、人の目には確かに立派に見えたかもしれません。恭しくキリストを宣べ伝え、美しい言葉によって人々の心を魅了し、「キリストに従いたい」という人々よりは、「この先生、この牧師について行こう」という人々を教会に集めたかもしれません。しかし、立派な教師、立派な長老と思われる人々が時にはとんでもない偽善、欺瞞によって人々を困惑させ、躓かせ、教会から離れさせる元になるとしたら、主はそれを裁かないはずがあるでしょうか。23節。「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

自己実現のために、何でも利用する人は、神さまをも、主イエスさまをも利用します。ローマの信徒への手紙1章16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」パウロがこう言った初代教会の時代は、十字架刑に死んだ人を神の子、キリストと宣べ伝えることは、全くあり得ないような至難の業でした。しかしどんな困難も福音を留めることはなかったのです。ところが、福音の教えが世界各地で実を結び始めるや否や、偽って、また偽善的に福音の教えに従う人々が現れたのです。多くの一般の人々ばかりでなく、牧師の地位にある人々の間でさえ、裏切りが起こりました。彼らは口で教え、また告白していることを、行いと生活によって否定しているのです。

これは決して人に対する裏切りではありません。これは、「主の名をみだりに唱えてはならない」という主なる神さまの戒めに対する裏切りなのです。「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」もし神さまがこの戒めを破る者を即刻裁かれたら、偽善的行為と気づかなかった私たちには、とても分かりやすいと思います。しかし、一方で深刻なことがあります。それは、一体だれがこの戒めを完全に守って裁かれない者になれるのでしょうか。瞬々刻々、一生涯にわたって、一度も真心を込めて神さまの名を呼ばなかったことはない、と言える人はいるのでしょうか。

真に、正しい人はいない、誰もいないということを一番よく知っておられるのは神さま御自身です。主は御自分を否む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うと言われますが、ご自分を愛する者には幾千代にも及ぶ慈しみを与えると宣言されています。一体神さまは罪ある人間に対して、この裁きをどのように行われ、救いを実現してくださるのでしょうか。それは私たちの想像をはるかに超えることで、予想も予知もできないことです。

ただ、わたしたちに与えられた信仰があります。それは、イエスさまが世に来てくださったのも、神さまの救いのご計画によるものであったということです。神さまのこのような慈しみのご決意にも拘わらず、人は皆、罪を犯してこの恵みを受けることができなくなっていたからです。神さまはキリスト・イエスさまをお立てになり、その十字架の犠牲の血によって、信じる者のために罪を償う供え物となさいました。この福音を信じて教会が建てられてから二千年。全世界で主の教会を信じる者が起こされ、キリストに結ばれ、従う者となるために、教会に入れられています。イエスさまの執り成しによって神の国に入れられたい人は誰でも、地上の生活において真摯に誠実に新しい人生の鍛錬に励まなければなりません。

本日は十戒の第三戒を学びました。カテキズム問43 第三戒は何ですか。その答は、 「あなたの神、主の名を、みだりにとなえてはならない」です。それは、わたしたちが神さまを愛し、大切にし、畏れをもって呼び求めるべきということです。」祈ります。

 

恵み深き教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を賛美いたします。九月の第三の主の日の礼拝、わたしたちを御前に集め、共に助け合って、讃美と感謝と祈りを捧げさせてくださいました。わたしたちは多くの物事を望み、自分に不足しているものが多いことを嘆き、あなたが必要を豊かに満たしておられることを忘れてしまうような罪深い者であることを思います。真にあなたが求めておられるものは、あなたに対する真心からの賛美であり、感謝であり、祈りであることを学びました。これはあなたを真心から信頼し、愛し、従って行く者に与えられるものであります。どうかわたしたちが不信仰を悔い改め、あなたによってすべてが満たされることを信じ、告白し、感謝し、喜んで生きる者となりますように、わたしたちの罪を赦してください。わたしたちを新たに造り変えてこれから始まる一週間を主に従う者としてください。

成宗教会に与えられたこれまでの恵みを感謝いたします。この教会がただ恵みによる救いを宣べ伝える教会として、どうかこの地にこれからも建つために、どうぞあなたの聖霊の溢れる知恵と力をお与えください。長老会を励まし、信徒の方々を励ましてください。御心に適って新しい主任担任教師を迎えることができますように、道を開いてください。

今年の秋も「子どもと楽しむ音楽会」を開くことができ感謝です。また10月には教会バザーを計画しております。人手不足を心配する私たちの弱さをどうか憐れみ、慈しんでください。あなたがすべての必要を満たして、御心を行ってくださることを信じます。教会学校の働きを祝していただき感謝します。どうか知恵と力をお与えください。

今ご入院中の姉妹の苦しみ痛みを取り去り、あなたの恵みで取り囲んでください。またご家族をお支えください。他にもお病気の方がおられます。ご高齢のお一人暮らしの方、お仕事やいろいろな事情で礼拝から離れている方々の心と体と魂をお守りください。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

人は神を忘れるけれども

永眠者記念礼拝説教

聖書: 創世記4章1-16節, マタイ27章15-26節

 成宗教会は本日の礼拝を、永眠者記念礼拝として守ります。写真の大きさで区別しているのではありませんが、1940年にこの教会が創立されて以来、この教会に仕えて地上の生涯を終えた教職の方々の姿を、私たちは大きな写真によって思い出しております。太平洋戦争の起こる前から始まった集会です。欧米の宗教であると敵視された時代も、戦後のキリスト教ブームの時代も経験しました。そしてまた人々が物質的に豊かになり、心の豊かさを求めなくなり、魂が飢え渇いて行く時代をも経験してきました。

ここに写真によって見ることができる方々は、そういう時代を経験したのでした。そういう激動の時代を生きて、福音に出会った方々。そして福音から遠ざからなかった方々です。教会にとどまり、教会の主であるイエス・キリストを仰いで、生涯を終えた方々です。

福音とは、イエス・キリストがわたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださったことです。私たちの身代わりであるということは、わたしたちはもう罪は問われない。罪赦されたということに他なりません。罪人にとってこれより良い知らせがあるでしょうか。イエス・キリストは御復活され、わたしたちのために成し遂げた救いの御業を、全世界の人々に告げ知らせるために、信じる者を世に遣わし、福音を宣べ伝えさせてくださいました。キリストは天に昇り、今もわたしたちの祈りを聞き上げて、主なる父なる神様に私たちを執り成して下さいます。私たちの日々の過ち、小さな罪から大きな罪まで、わたしたちの救いの妨げになるものを、取り除いてくださるのです。

この福音を信じて教会にいるということは、どんなに計り知れない恵みであるであることでしょうか。私たちは、今、先に召された方々と兄弟姉妹とされています。それは主イエスを信じて神の子とされ、主の兄弟姉妹とされているからです。しかし、わたしたちの内には、先に召された方々と血縁の関係、または姻戚関係の子孫もいることでしょう。そのような方々は、特別な恵みを受けている喜ばしい方々です。わたしたちは家族を看取り、見送り、神さまの御許に召されるために、できるだけのことをすることができますが、しかし、わたしたち自身についてはどうなるのか、自分で決めた通りにできるという保証はありません。私たちがそれぞれ、召される日まで歩み、生涯を安らかに全うすることができるのは、一重に家族、隣人、社会の人々の誠実さによって支えられてのことなのです。そのために、わたしたち自身が主の御前に誠実に立ち、人々を執り成して祈り続けることがどんなに必要であることでしょうか。

今日読まれました創世記4章はカインとアベルの物語。彼らはアダムとエバの最初の子らです。最初の人アダムは神に禁止された実を食べた結果、神との隔てない交わりを避けるようになりました。すなわち、罪とは人が神に背を向ける。呼びかけに答えない、ということです。出来れば神を忘れて好きなように暮らしたい、ということであります。

そのような罪に陥った二人は楽園から追放され、苦しんで働き、苦しんで子を産むことになりました。それでも彼らは神から子孫を与えられたと言って感謝しました。神は背いた人を滅ぼさなかったのです。そして彼らは息子たちに教えたのでしょう。カインとアベルは成人してそれぞれ働きの成果、収穫を手にしたとき、神に献げ物をしたのでありました。すなわち収穫感謝の礼拝です。感謝を捧げることは、「わたしたちが受けているものは皆あなたからいただいたものです」と告白するその言葉を形に表すことです。

ところが聖書は、「主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と語ります。人は見た目でいろいろと評価しますが、神は人の心を見る方です。献げ物を捧げるアベルとカインの心を見ておられたのです。主イエスは礼拝についてヨハネ福音書でこのように語られました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24…170上)「霊と真理をもって」とは、「心から」、「真心を込めて」、「誠実の限りを尽くして」、という意味です。また、ヘブライ人への手紙の記者はアベルについて次のように述べました。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブライ11:4…414下)

そうすると、神に目を留められなかったカインの方は、献げ物に問題があったというより(そういうところにも表れたのかもしれませんが)、彼の、神に献げる態度に問題があったと考えなければならないでしょう。形式的にはいかにも整って立派な礼拝を捧げているようであっても、その心を神は問うておられます。すなわち、礼拝者が神を畏れ、喜んで神に従う心をもっているのかどうかです。世に偽りの礼拝というものは後を絶ちません。それは、表向き神を敬っているように見えながら、心の中では神を侮り、何とか宥めすかして、自分の思いどおりに神を動かそうとするのです。

カインの献げ物は正にそのようなものであったのでしょう。ところが、彼は自分の心の罪に気がつかない。従って自分を反省するどころではありません。神に対して激しい怒りを発するのでした。神は不公平だ、自分は不当な扱いを受けている!と。常日頃、真の神を尋ね求めることをせず、まして聞き従おうなどとは夢にも思わず、全く神を無視して生きているのに、何か悪いことが起こると、神などあるものか、神はひどい!と罵詈雑言の数々を並べたてる人々がいます。彼らは自分を顧みず、間違いに気がつかず、悔い改めからは程遠いのであります。

恐ろしいのはその次です。そういう人々は神に対する怒りを、隣人にぶつける。罪もない隣人に猛烈に当たり散らすのです。その結果であるアベルの死は人間が神から離れることの恐ろしい結末を表します。もし、わたしたちにこの世界のことしか希望がないならば、アベルのように悪の犠牲となる人々に慰めは全くないことになるでしょう。

それでも神はカインがしたように、カインを不意に襲って滅ぼすなどということはされませんでした。カインは神を忘れ、神を無視して行動しました。しかし、神はそうではありません。カインを思い、カインの心に語り掛けます。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」カインは答えます。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」恐ろしい居直りであります。まるで「わたしは弟を守るように頼まれたことはない。だから殺そうが何をしようが構わないでしょう」と言わぬばかりです。そう口答えしながらも、彼は気がついて行きます。これは人と人との問題ではない。自分と神との問題なのだと。神が言われたひと言、「お前の弟の血が土の中から叫ぶ」この一言によって、神は彼のしたことを赤裸々に示し、その犯罪の恐ろしさを強調し給うたのです。

神と争って神から離れて生きようとする者の至る不幸な結末がここに示されました。彼は地上を放浪する者となりました。神を信頼せず、神を離れ、神を忘れて勝手に生きたいのですから、自分の都合で生きるより他はありません。聖書は、それでも神はカインが殺されないように守ってくださったと語ります。ひどい犯罪、理不尽な殺人事件などが社会に後を絶ちません。裁判員裁判で裁かれると一般に量刑が重くなる傾向が報告されています。無理もないことで、素人の目にはこんなひどい人が平然と生きているとは許せない、という思いがあるでしょう。

しかし、神の思いは計り知れません。神はカインが犯罪者として打ち殺されないように、しるしをつけられたのでした。神から離れてさまよう人生。従って神の御許に安らう希望を持たない人生。彼のそのものが、神の厳しい裁きであったのでしょう。しかし、重ねて申しますが、神の思いは計りしれません。このような人の子孫にも救いの道が開かれたのです。私たちは今日、マタイ福音書27章を読みました。主イエスを十字架につけようとする人々は一体誰でしょう。私たちは皆、自分はカインのようではない、と思いたいのです。まして、世の人々は、自分は違うと言うことでしょう。

カインは形の上では、立派に献げ物を捧げて礼拝したように見えます。そして自分でもそうした、と信じています。主イエスを十字架につけようとした人々、そのために画策をした人々も同じではなかったでしょうか。彼らは表向き、神を礼拝していました。立派に献げ物を捧げ、人々から尊敬されていました。ところが心は神から遠く離れていました。救い主、メシアを待っている人々の指導者であったのに、実はメシアを待っていなかった。神の恵みが現れる時、自分たちの権威を捨て、神にひれ伏さなければならないことを知っていたからです。神が遠く離れていてくださる方が良い。神が遠くにおられるなら、自分たちが神に成り代わって権威ある支配者として人々の上に君臨出来たからです。

そのためには、今自分たちを属国として支配しているローマ帝国に対しても、お世辞を言い、うまく取り入り、宥めすかして、自分たちの要求を実現するために利用することもやってのける。本当に神を畏れ、神を礼拝することとは程遠い偽善がそこにありました。

ローマ帝国の役人であるポンテオ・ピラトは、この彼らの醜い企てを見抜いていました。彼らはメシア・イエスを十字架に付けるためには、犯罪者、殺人者であるバラバ・イエスを解放することを要求したのです。ここで起こった本末転倒は、人間の罪の深さを証しします。異邦人であるピラトが理不尽だと、できれば阻止したいと思ったこと。異邦人であるピラトの妻が夢によって(当時夢は神の啓示として重んじられた)義しい人と証言したことが、偽善の罪の深さを示しています。

しかし、だれも主イエスの十字架を止めることはできませんでした。弟子たちもできませんでした。だれもが主イエスに罪はないと知りながら妨げることはできなかったのです。それは、だれもが神の差し出された真心を受け止めることができなかった罪を表しています。そして同時に、だれもが阻止できなかった十字架の死こそ、わたしたちの罪を贖う尊い犠牲でありました。私たちはこの主の福音を受け入れて、教会を建てた方々と共に、主の罪の赦し、復活の体に結ばれています。今、わたしたちが永眠者として思い起こしている方々の多くは、戦争の時代、復興の時代、いろいろな時代を生きて、教会にとどまっていました。それは主の霊がわたしたちと共にいらしてくださったからです。

人間は、神の被造物として造られ、神に似たもの、神のかたちとして造られました。善いものとして、祝福されたものなのです。神さまが呼びかけ、人が応える関係、本当に親しく喜ばしい関係に生きるために、人は造られました。しかし、人は神さまから離れてしまいました。神さまのことを忘れてしまいました。神さまに背を向けて生きている結果は、人と比べ、人を妬み、人を憎み、孤独になりました。すべての人と人との善い関係は、本当は神との関係を回復すること無しには築けないのです。なぜなら、人が与えられている持ち物も、能力も、健康もすべては神から与えられているように、人との善い交わりも神から与えられるものだからです。

人は神を忘れ、神を無視して生きていようとも、神は人をお忘れにならず、イエス・キリストを救い主と信じて執り成される者の罪を赦してくださいます。罪人をお忘れにならず、罪から救ってくださる神をほめたたえましょう。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。本日は地上での働きを終えて御許に召された成宗教会に連なる永眠者の方々を御前に覚えて、感謝の礼拝を捧げました。私たちは目の前の悩みに日々を過ごして折る、貧しい者でありますが、あなたはここに主に仕えて生涯を全うされた教職の方々、信仰の先輩の兄姉を憶えて、わたしたちを励まし、慰めてくださいました。時代が移り変わり、わたしたちの力も知恵も移り変わりますが、わたしたちはただ代わることのないあなたの慈しみとその御力に信頼して参ります。

真に自分の背きの罪に気づくこと遅く、日日の小さな事にとらわれて思い煩ううちに年月が飛ぶように去っていきます。主よ、どうか私たちに自分に残された時を数える知恵をお与えください。真にご高齢の方々が示してくださった善い歩みを見上げ、信仰の道を歩み、あなたから与えられた務めを家族の中で、職場で、病院や施設においても果たすために、わたしたちをお用いください。それぞれの年代の人々に対して、慰めとなり、励ましとなる生き方を私たちにお与え下さい。

なによりも、主イエス・キリストの良い知らせ、福音によって教会が立てられますように、どうか成宗教会を東日本連合長老会の諸教会と共に伝道する群れとしてください。あなたの御旨は広く深く、全世界に広がっています。どうか主の平和を教会に打ち立て、全国全世界の教会と共に、主イエス・キリストの御支配の下に、世界の平和を実現して下さい。今、東アジアの政情が緊迫していると伝えられます。貧しい人々を顧み、主よ、憐れんでください。戦争の悲惨から人々を救ってください。国々の為政者が主の御支配の下により良い道を選ぶことができますように助けてください。

本日のすべてを感謝し、主の聖餐に与ります。どうか、主の聖霊によって私たちの隣人である家族、友人が福音を聞き、キリストを救い主と告白する日が来ますように。特に召天者の方々のご家族のために、豊かな祝福と顧みをお願い致します。

最後に、2週間後に迫りました、今村宣教師ご夫妻の上に、主の豊かな助けが聖霊によって与えられますように。ご健康とご準備が祝されることを祈ります。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。