主の山に登る

聖書:出エジプト24章3-11節, マタイ17章1-13節

先週は、教会を建てるためには何が必要であるか、ということを学びました。そもそも、教会とは何か、ということも、わたしたちは学ぶ必要があります。長く教会にいる人も、最近初めて教会に来た人も、学ぶ必要があります。聖書をずっと読んで来た人も、キリスト教の歴史を学んで来た人も、分かっている。分かった。だから学ばなくて良い、という所にはだれも達していないからであります。先週の聖書、16章18節で主イエスは宣言されました。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と。それは主イエスの教会であります。それは主イエスを信じる者の信仰共同体であります。

それでは、主イエスをどのように信じるのでしょうか。この方は偉大な人であると信じるのでしょうか。この方は神の愛を表してくださったと信じるのでしょうか。この方は神の子であると信じるのでしょうか。そのように信じることは、どれも間違ってはいないでしょう。しかし、主イエスがこの岩の上に、と言われたのは、そのような信仰ではありません。主イエスを信じるということは、主イエスがメシアであると信じ、告白することです。メシア、すなわちキリストである。救い主であるということです。「主イエスは私たちを救ってくださる方だ」と告白する共同体が教会であります。

それでは、救ってくださるとは、何をしてくださるのでしょうか。おぼれている人を救う、というイメージなら分かりやすいでしょう。キリスト教は、日本では耶蘇教といわれ、昔はからかいの対象にもされたようです。私の母の田舎では、「ホリネス信じるどんじょうは、みんなザルこでスクワレル」と歌っていた、と聞いたことがあります。このように、「救い主は救ってくださる」だけでは、わたしたちにはよく分からないのです。

救い主は何をしてくださる方なのか。救い主とは、わたしたちの罪を贖ってくださる方です。わたしたちの罪が借金に例えられるなら、借金を肩代わりしてくださる方。よく奴隷の身代金を払って解放してくださるという例えが用いられます。わたしたちの罪が重荷ならば、救い主は代わりに重荷を負ってくださる方です。わたしたちの罪が死であるならば、その死を代わりに死んでくださる方。それが救い主、すなわち贖い主なのです。ですから、主イエスはペトロが代表して告白した言葉「あなたはメシア、生ける神の子」という言葉を、主はとても喜ばれて、「わたしは、この告白の上に信仰共同体を建てる」と宣言なさったのです。

それから、主は御自分が必ず受けることになる苦難について、十字架の死について、復活について、弟子たちに予告されるようになりました。それは人の罪を贖うために来られた神の御子の職務であったのです。さて、今日の聖書はそれに続いて起こった出来事であります。主は高い山に登られた時、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて行かれました。どうして三人の弟子だけだったのか、なぜ彼らなのか、は主がご存じです。少なくとも私たちに分かるのは、主はその山で起こったことを彼らに見せるため、彼らをその出来事の証人となさろうとしておられたことです。そしてその出来事とは、山上の変貌と言われる出来事でした。

これは聖書に記されている多くの奇跡物語の一つです。この頃は唯物論的な見方で聖書を読んでそれを批評することは少ないようで、科学的に解明、説明できる以上の事象が起こり、存在するというような見方の方が受け入れられているようです。しかし、科学で物事が説明でき、解明できるというのも、この世界の秩序が神の一元的な御支配の下にあることの証しになるのであります。その一方で奇跡のようなことが起こるとすれば、それも神の御心によって起こるのであって、神の御心によらずに、人間の力で奇跡を起こすことはできるものではないと思います。

ですから、このとき突然、主イエスのお姿が見る見る変わったのは、神の御心によってなされたことです。すなわち三人の弟子たちに主の栄光のお姿を見せてくださるために、主は弟子たちを連れて山に登られたのでした。2節。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」わたしたちは神のご性質(=神性)、その御姿を想像することができるでしょうか。神の輝きは、人間の能力で量り知ることはできません。しかしそれでも神は、人の目が見、人がその限りある能力で理解できる程度に、主の栄光の輝きを象徴的に現してくださったのです。

彼らが見ると、そこに二人の預言者、モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合ってい ました。旧約聖書には、大勢の預言者が現れて神の言葉を語り伝えました。それらの数多くの預言者の中から、特にこの二人が呼び出されたのは、キリストの栄光を表すためでありました。モーセは御存じのとおり、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷になっていた時、彼らを脱出させ、共同体の中に神と民を愛し共に生きるための十戒という戒めを神から授けられた預言者でありました。また預言者エリヤは、イスラエルが異民族の偶像に心惹かれ、自分たちを助けてくださる真の神に背いたために、大変苦しめられましたが、異教の神々と激しく、また華々しく戦った預言者でした。

モーセとエリヤはなぜ現れたのでしょうか。彼ら自身に何か目的があったので現れたのでしょうか。決してそうではありません。彼らは自分のために現れたのではなく、御子のためにこの時、この山上に呼び出されたのです。すなわち、彼らは神に呼び出されたのですから、そこには、神によって目的が与えられています。彼らはとうの昔に死んで、その役割も終わったはずです。しかし、彼らが現れたことで、弟子たちはモーセとエリヤの働きを思い起こしました。ここに記され、聖書に残されることで、聖書を読むわたしたちもまた、モーセの働き、エリヤの働きが、キリストに結び付いていることを教えられます。すなわち、キリスト、救い主が来られる前も、こうして主イエスと共に山に登った弟子たちも同じ救いに入れられる希望で結ばれているということです。

このように、主の栄光に輝くお姿を見た証人は、この時ただペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけでした。しかし彼ら三人は私たちの代表として、主の御姿を証ししています。主こそは救い主、わたしたちの罪を負ってくださる方。この方を証しするために、神がお望みになるのでしたら、遠い昔に死んだ者たちさえも、地上に呼び出される。生きている弱い肉体を持つ人間のために、幻となって現れて、主を証しするために用いられるのです。

ペトロたちはこの光景にどんなに驚いたことでしょう。驚いたなどという状態ではなかったと思います。自分たちが愛し、尊敬し、この方こそメシアと告白した方ではありますが、モーセとエリヤが目の前に現れて、親しく主イエスと語っているのを見て、今更のように、自分たちの告白したことの重大さを実感したでしょう。「あなたは救い主です」と告白された方は、実に遠い昔から今に至るまで預言されて来た方、待ち望まれて来たメシアのことなのだ!彼らの心は驚きと喜びでいっぱいになったことでしょう。思わずペトロは、口をはさんでイエスに言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

この素晴らしい光景をいつまでも、目の当たりにしていたいと思ったのでしょうか。しかし、ペトロは愚かにもキリストと神の僕である人間たちを同列に扱ってしまい、モーセとエリヤのためにも地上に礼拝の場を設けることを願いました。モーセとエリヤは人間にすぎません。それに対し、ただ主イエスこそは、神の力、神のご性質をもって人となられた方であります。そして、神の御心は、ただ御子こそ神に等しい方であることを、弟子たちの前に明らかに見えるようにすることにあったのです。

ペトロが仮小屋のことを話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆いました。それには、理由があります。すなわち、わずかの間輝いた栄光のお姿は、人間がその輝きを見て大胆になりすぎないために、雲によって制限され、隠されて行ったのです。それは信仰者が、神の栄光を仰ぎ見る時も舞い上がったりせず、自分たちの低い立場にとどまるようにと教えるためであります。そして声が雲の中から聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と。キリストに聞き従いなさい、と天の父は教会に言われるのです。教会がキリストに聞き従うならば、その時、神はキリストを教会の最高の権威、またこの上ない慰めと癒しを与える方としてお立てになるのであります。

山上の変貌の出来事に秘められた神の御心、その目的は何でしょうか。主イエス・キリストを他のすべての者から区別して、教会に対し、すなわち信仰共同体に対し、キリストに聞き従うようにと呼びかけるためです。キリストは世に遣わされたこの上ない教師でありますから、教会は喜んで主の言葉に従いたいと思います。

さて、三人の弟子たちは、天からの声を聞いてひれ伏し、非常に恐れました。人間の本性(ほんせい)は何と弱いことでしょうか。神の声を聞くことを非常に恐れるのです。聖書には神を見た者は死ななければならない、という言葉さえあります。先日テレビで、釣りバカ日誌という人気の映画の最終回というのをたまたま見ました。三国廉太郎が夢の中で三途の川の渡し場に行くという場面で、地獄の閻魔大王に会う備えをしながらも、この世との別れやあの世への期待を面白可笑しく歌ったり踊ったりのドタバタ劇でした。そして地獄の沙汰も金次第という決まり文句まで出ましたが、閻魔大王の話までは出ても、その先には話が及ばないようでした。

閻魔大王に会う備えまでは出来ても、神に会う備えをするまでは行かないのが、人間の弱さなのでしょうか。神の声は地上の生活では聞こえないと思いたい。神は神の国を支配しておられるだろうが、地上の御支配をしておられないだろうと、たかをくくっているのでしょうか。しかし、神の国は私たちのところに来てくださっています。わたしたちは既にイエス・キリストの福音を伝え聞きました。福音によって、神がどのようなお方であるかを教えられました。神は「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う」方(出エ34:6-7)と教えられました。

神は閻魔大王のような存在と分業をなさっているのではありません。徹底的に裁く方であり、同時に徹底的に憐れみをかけてくださる方なのです。主イエスは神の声に恐れ、倒れ伏している三人に近づき、手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない。」

真に、神にお会いするということはこのようなことです。わたしたちのだれが神の御前に出て、謙らず、倒れ伏さずにいられるでしょうか。しかし、その時にこそ、わたしたちは主イエス・キリストの有難さが身に染みることでしょう。なぜなら、キリストの職務は、倒れた者を立ち上がらせることでありますから。主イエスはなぜ、世に降って来られたのでしょうか。それは、主を信じる者が主の執り成しを受けて、畏れつつも大胆に神の御前に身を現すことができるようにしてくださるためなのです。そうでなければ神の御前に出ないうちに肉ある者は裁かれ滅ぼされ、もはや神を恐れることさえできないでしょうから。

キリストは恐れ震える彼らを言葉によって慰めたばかりでなく、彼らに手を触れてくださいました。その慈しみを思いましょう。わたしたち自身も、もし自分の中に、わたしは自分の栄光のために存在しているという無意識の考えがあることに気づくことができれば幸いです。悔い改めて、主の御前にひれ伏し、自分が御子のご栄光のために呼び出され、存在していることを悟り、告白するならば、非常に幸いです。昔の預言者でなくとも、わたしたちも主のご栄光のために用いられ、ご栄光を顕す者として用いられるでしょう。山上の説教で、「心の清い人々は、幸いである。その人は神を見るであろう。」(マタイ5:8)と主が言われたように。謙って主に信頼するならば、死後、地獄を見るのではなく、生きている今も、主の山で神を仰ぎ見るでしょう。祈ります。

恵み深き天の父なる神様、

今日の礼拝、御言葉を感謝いたします。わたしたちのささやかな礼拝を主のものとして下さり、罪多い者を憐れんで、救いの御業を行ってくださったことを感謝します。わたしたちは天の父が御子を世に遣わして、わたしたちの罪の執り成しをしてくださるために道を開いてくださいました。この務めに忠実な主が今も私たちのために祈り、執り成してくださることを知り、真に私たちは喜びと感謝であふれます。

2016年度の最後の主の日となりました。多くの助けをいただいたこと、主にある兄弟姉妹と助け合って、教会を建てるために努力することができたことを主の恵みと感謝します。わたしたちはますます年を重ね、誇るべき力はますます小さくなって行くように思われますが、主の慈しみ、主の憐れみはますます大きく私たちを捕えてくださると信じます。どうか、来るべき年度も主が恐れるな、と仰って、手を添えて慰めてくださる教会でありますように。励ましを受け、時にはお叱りを受けながら、主の栄光を顕す教会となりますようにお導きください。

連合長老会と共に歩み、教会間の善き交わり、学びの時を与えられました。この交わりを通して、主の体の教会の姿を思い、その頭である主イエス・キリストを思う教会でありますように。主が聖霊の御力によって、希望のない時にもお支えくださいますよう切に祈ります。主と共に山に登るときにこそ、主の執り成しによって多くの罪を覆っていただけますよう、切に祈ります。

来週は教会予算を立て、行事のために、その実現の上に、主の御心を尋ねます。どうか、今、病気のため、けがのため、心身共に弱り果てている方々を癒してください。平安が与えられますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。