いつでも救ってくださる神様

聖書:コヘレト3:1-13, マタイ20:1-16

東京神学大学修士課程2年 齋藤 正

 

今日与えられましたマタイによる福音書全体を見る時、そこに見えてくるのは、物語としての記事と5大説教と呼ばれる説教が交互して書かれていることです。この今日の聖書箇所は、少し前の19章16節から22節にかけて書かれている記事、つまり金持ちの青年がイエス様に対して「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタ19:16)と尋ねたのに対して、この青年が財産を持っているが故にイエス様から遠ざかった物語に続いています。

この23節から24節で、イエス様は弟子たちに「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタ19:23-24)と「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」との有名は譬えの言葉を言われます。

つまり、ここは「どうしたら天の国に入れるか」とのテーマに対するイエス様ご自身が話されたたとえ話の一つです。イエス様は続いて弟子たちに19章28節から30節にあるように「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と、お話しになりました。この最後の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と弟子たちにも理解できない難しい譬えをお話しになりました。

今日の説教のテーマは、先程お読み頂いた20章1節のイエス様ご自身の「天の国は次のようにたとえられる。」と仰ったことからも分かりますが、「天の国」とはどんなところで、どうしたら行けるのかをイエス様がたとえをもって話されたことです。この『天の国』という言葉は、マタイによる福音書に特有の言葉で、マタイ福音書だけで32回も登場します。また、イエス様ご自身が「天の国」という言葉をしばしば使われておられます。またこの「天の国」という言葉は、マタイによる福音書以外の他の福音書の中では“神の国”と記されています。

ここで、「天の国」と言っても、単純にいわゆる“天国”のことを言っているのではありません。勿論、死後の世界、私たちが地上の生涯を終えて召されるところの死後の世界のことを言っているのでもありません。むしろ、私たちが生きている間の世界です。「天の国」と言うとき、それは地上の世界とは次元を異にする世界、価値観を異にする世界を表していると言えます。神様の御言葉を聴き、神様に従うことで、私たちは、目には見えない「天の国」を、この地上で生きることが出来るのです。つまり、「天の国」とは、信仰による価値観、人生観を持って生きるということなのです。イエス様は、この「天の国」を、様々な譬えで語りました。今日の聖書箇所では、イエス様ご自身の御言葉によって「ぶどう園」(1節)に譬えられているのです。

このイエス様ご自身による「ぶどう園」の譬え話の背後には、イエス様のおられた当時のパレスティナの厳しい労働事情があると言えましょう。仕事を探し求めても容易には得られない環境がありました。多くの労働者は毎朝、その日の働き場所を求めて決められた広場に集まって来ますが、働き場所を見つけることはなかなか困難でした。現代の日本でも、そしてこの世界の労働事情も決して良好であると言えませんが、この譬えのイエス様時代の背景もまた厳しいものでした。働きたくても働く場所がなくて、毎朝職を求めて広場に立たなければならない人も少なくなったのです。

こうした状況の中で本日の譬え話しに出てくる「ある家の主人」は自分から働き人を求めて、広場を訪ねます。詩編第104編22節以下にもありますが「太陽が輝き昇ると…。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。」とあり、当時の1日の労働時間は、朝の6時頃から夕方の6時頃までほぼ12時間にも及んでいました。そのために、この「ある家の主人」は、朝早く殆ど夜明けの5時か6時前には家を出て、日雇いの労働者が仕事を求めて集まって来る広場に出掛けます。そして、そこに集まっている人々に呼びかけ、2節にありますように、この主人は「一日につき一デナリオン」の約束で、労働者をぶどう園に送りました。1日につき1デナリオンという賃金は当時の平均的な賃金でした。「ある家の主人」はそれだけの賃金の約束をして、労働者を雇いました。広場でその日の仕事を求めていた人々は喜んでぶどう園に働きに行きました。

8節にはこうあります。「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。」そして、順序が逆とも思われますが、「最後に来た者」から「最初に来た者」までに順番に賃金を支払いました。ここで、人々が驚いたことは、その賃金の額でした。支払われる賃金は、最初に来て12時間にも及ぶ労働をした者にも、最後に来て1時間ばかりしか働かなかった者にも、等しく1デナリオンの賃金が支払われました。

12節にありますが、長時間働いた労働者にとっては不満でした。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』」と、この不満は当然のようにも思えます。この不満は二つの根拠を持っています。一つは労働時間の違いが無視されているということです。1時間の労働時間と10時間の労働を同じに扱うのは不当ではないか。また、この不満のもう1つの根拠は、労働の厳しさの差が考慮されていないということにありました。自分たちは日が照りつける厳しい暑さの日中に辛抱しながら一生懸命働いたのに、あの連中は夕方涼しくなってからやって来て、暑さ知らずに働いたのではないか。

すると、13節、14節にあるように「ある家の主人」は言います。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」、その理由は先ず第一に、この主人は少しも契約違反をしていないということです。他人のことをとやかく言わないで、自分の分を受け取ってさっさと帰りなさい、ということです。それは確かに契約違反ではありません。支払いの仕方は主人の「自由」であるのです。

しかし、だからと言って不平等な扱いをしても良い理由にはならないでしょう。そのように、最初から働いた人は考えました。恐らく、普通であれば私たちもそのように考えるのではないでしょうか。人の目は自分自身と他の人を比べて眺めます。そして、そこに不平等を見つけ出し、他人が厚遇され、自分が不当に扱われていると思って、不満を抱きます。あるいは、他人が不遇であっても、自分に良い扱いがなされているのを見たら、不満は抱かないかもしれません。このようにして、私たちは心の底に潜んでいる自分の利益、自己追求の「」が示されていくのです。ここで「人間の罪」を良く知っているこの「ある家の主人」は、神様に譬えられているのです。

その神様は人間の心の底にあるものを見抜いておられます。不平不満を言っている人々に対して15節にあるように「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と問い返しているのです。人を雇う場合に、この様な報酬は私たちの常識では考えられません。なぜ、この主人は敢えてそのようなことをしたのでしょうか。この譬えを最後まで考えていきますと、そこにはこの主人の憐れみの深い思いから出ている行動なのだということが見えてきます。労賃は労働時間に比例して支払われるのが私たちの常識です。ここでは常識的に労働が評価されるのではなく、神の憐れみの心が基準となる世界といえるのではないでしょうか。その我々の常識で計れない、それが「天の国」なのです。これは信仰による基準であり、そこからこの世の常識や価値観とは違った、新しい考え方が始まると言えましょう。

15節には「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」とあります。もちろん、この主人の自由は個々人との契約に反していない限り、自由で、神様の憐れみの自由(いさお)が示されているのです。それは恵みの自由でもあります。神様は憐れみにおいて自由な方です。神様は私たちを自由に憐れんで下さり、自由に恵みを与えて下さるのです。

この主人は自分のとった処置がご自身の「自由」であり「正当」であると主張します。その理由は14節にあるように「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」という言葉に示されています。1デナリオンは当時の日雇いの労働者の1日分の平均の賃金です。主なる神様は「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と宣言なさるのです。1時間の労働には1単位の賃金、十時間の労働にはその十倍という形式的な平等を求めるのでありません。人は目に見える平等、形式的な平等というものを求めます。人の思いは互いを見比べて自分の利益、幸福を追求し、他者を妬みます。しかし、神様の目、神様の御心は違いました。

私たち一人ひとりもまた、神様のぶどう園に雇われている者といえましょう。広場に立っている私たちに神様は声を掛けて、神様のぶどう園へと招きに来てくださるのです。この物語はぶどう園に雇い入れられ、働いて、その賃金をもらう、という設定になっています。神様のぶどう園に雇われて働くとは、信仰を持って生きるということです。雇われて働くのは、賃金という報酬を得るためです。一日につき一デナリオンという雇用契約を結んで働く、それは、一デナリオンという報酬を求めてのことです。それが約束されているから、希望をもって働くのです。

イエス様に従い、神様を信じて生きるとはそういうことだとこのたとえ話は語っているのです。信仰には、報いが与えられるのです。その報いは勿論お金ではありません。一デナリオンは神様の救いです。この物語は、イエス様ご自身による「天の国」へ入るための譬えです。16節の「後にいる者を先に、先にいる者を後に」という言葉は、神様の恵みを表しています。神様は、「自分のものを自分のしたいようにする」その自由なみ心によって、そういう順序を越えて救いのみ業をなさるのです。時に私たちの理解を超えることがあります。それによって、私たちは不平不満を覚える時ことがあります。人間の思いと神様の思い、この両者の間には大きな隔たりがあります。

人の価値は、神様のためにどれだけ働いたかで、神様から評価されるものではありません。もう少し砕(くだ)いて言えば、私たちの人生は、どれだけのことを熱心に行い、結果を出したかで価値の決まるものではなく、また肯定されたり否定されたりするものではない、とうことなのです。この世は、行いと働き、その結果で、人を評価するけれど、人の本来の値打ちは、そんなことで決まらない。人生は、その働きに関わらず、等しく1デナリオンをいただくことのできる世界なのです。それが神様に認められる人の価値です。

私たちの中には幼児洗礼を受けて中学生で信仰告白した若い日からのクリスチャンもいますし、それと大きく異なって定年を迎えて洗礼を受けた晩生のクリスチャンも居ます。いや、もっと遅い方々もおられます。「ある家の主人」である神様は言います。「私は5時から働いた者たちにも『同じように』してやりたい」と。分け隔てなく、同じ恵みを与えたい。時間に比例して、働けば働いただけ増えていく歩合制ではなく、天の国とは、例え働きは少なくても、同じ救いの恵みが与えられる場所であり、それを今その通り与えたい。それがこの言葉に示された、神様の思いなのです。

ここで私たちは、考えたいのです。どうしてこの話が腑に落ちないのか。どうしてこの話が不公平に感じてしまうのか。それは私たちが朝6時から雇われている労働者である、働きの多い労働者とは私のことである、と思い込んでいるからではないでしょうか。実に、私たちは夕方5時に雇われた働きの少ない労働者であり、主人のために大きな貢献など出来ないどころか、この主人の愛する一人子を十字架に架けた罪人でしかないのです。それは自分が朝から働いた長時間労働をしたと思う高慢から出て来る罪なのです。

16節にあるように、「このように、(神の国では)後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」とイエス様は仰っているのです。この譬えは、神様が人をその働きに応じて扱うのでなく、分不相応に良くして下さること、神様の恵みの世界を明らかにしているのです。後から来て過分の報酬を受けた労働者ばかりでなく、朝早くから働いた者たちも主人の好意によって雇われ、賃金が約束されたのです。そういった意味で豊かな神様の恵みが与えられているのです。しかし、より多く働いた者と思う私たちはこの恵みを忘れ、自分の判断に基づいて報酬を要求してしまいます、そのような者は先の者でありながら後になるという経験をすることになるのではないでしょうか。

神様の思い、愛の思いは御子キリストの十字架において示されています。この十字架の出来事こそ、私たちへの自由な憐れみです。神様は自由なご意志によって独り子イエス様をこの世に遣わされました。その十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さったのです。自分のことを、夕方5時に雇われた者なのではないかと感じた時、つまり、自分には誇るべき“働き”がないとへりくだる時にこの経験をするのです。信仰は年功序列ではありません。人の価値は、人生における働きと結果で決まるのではありません。人生とは自分の力ではなく、神の恵みの中に生かされてくるのです。

これが、老年になって信じる人のたとえならば、それは、老年になるまで福音に接する機会がなかった人たちを神様が憐れんでのことです。福音に接しなかったのですから、それまでには希望もなく、さまよいながらの人生を送っていたのです。神なしの人生はとても辛いものです。神様は、誰にも雇われなくて、ひもじい思いをしていたその人々をかわいそうに思っていたのです。このように、5時に雇われた人は、だれも雇う人がいない、とてもかわいそうな人たちであると、この主人は考えたのでした。

逆にいって、この世の物差しは、あまりにも不公平です。しかし、この主人は、この賃金を働いたことに対する報酬として払っていません。むしろ、労働者へのプレゼントのように払っています。この主人は、もともと利益を得るような動き方をしていないからです。

実は、この賃金は、永遠のいのちのプレゼント、つまり賜物です。新約聖書282ページローマの信徒への手紙6章23節をお読みします。6:23「 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

神様は、幼い時から神様を信じた人にも、老年になってから神様を信じた人にも、等しく永遠のいのちを与えられます。主人である神様は、「私が他の人に与える気前のよさをねたむな」と言っています。これは、天における報いが、他のクリスチャンと自分を比べるようなものではないことです。私たちが天国に入ったら、だれがー番いい地位についていて、だれが低い地位についているか比べ合いをすることはありません。今日の聖書箇所は人間の側から見れば、実に不公平な取り扱いかも知れませんが、神様の側から見れば実に理にかなったことなのです。このように、神は、惜しみなく恵みとしての報いを与えて下さる方なのです。そして、この神様の救いにはお一人お一人に適ったときがあるのです。その神様の救いの時も神様が自由に決められているのです。

最後に、本日お読み頂いた旧約聖書1036ページ、コヘレトの言葉3章1節から13節のうち、11節前半だけをお読み致します。3:11「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」

お祈りを致します。