聖書:出エジプト記20章7節, マタイ7章21-23節
わたしたちは教会に受け継がれて来た信仰を学び、広く世界に伝えたいと願います。わたしたちはそれをカテキズム、信仰問答によって学んでいます。神さまが御自分に従う人々に与えてくださった 十の戒め があります。本日はその第三戒を学びます。その戒めとは、今日読んでいただいた出エジプト記20章の7節の言葉です。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と書かれています。
わたしたちはだれでも、自分の名前が大切ということは感じていますから、もし名前を変なふうに呼ばれたりすると、とても不愉快になります。名前はその人の人格そのものを表しているからです。「あなたの神、主の名」とは神さまのお名前です。それは神さま御自身を表すものです。名前を知られるということは相手に傷つけられるという恐れもありますから、古代の神々と呼ばれるものの中には、名前を隠しているものもあったそうです。しかし、聖書に御自身を表された神さまは御自分の名を明らかにされる方です。なぜでしょうか。神さまがわたしたちに名をお知らせになるのは、わたしたちを神さまとの交わりに招いておられるからなのです。
最初に神さまのお名前を知る。それは神さまとの交わりのために無くてはならないことであります。交わりを持ちたいと思ってくださる神さま。そのために神さまは、わたしたちの知識をはるかに超えた方、この目で見ることも、この耳で聞くことも到底望むことができない方ですが、わたしたちに御自分の名を明かしてくださいました。それはわたしたち人間に対する深い慈しみから出ているというより、他に理由があるでしょうか。それは、人間を救いに入れようという神さまの決断以外の何ものでもありません。
ところが神さまは「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とお命じになっておられます。一方では親しく交わりに招いてくださる神さまは、他方では「主の名をみだりに唱えてはならない」と言われるのです。みだりにとはどういう意味なのでしょうか。「みだり」とは、「筋道が立たない様、秩序のない様」を表します。またそこから「無作法な様子」や「浅はかな様子」を意味するのです。そうなると問題になっているのは、神さまのお名前を唱える回数が多いとか少ないとかではなく、神さまのお名前を唱えるわたしたちの礼儀正しさなのだということになります。
そうしますと、どうでしょうか。普段は神さまのことを忘れてしまっている人々。あるいは無視している人々。さらには、そもそも神さまの存在を否定している人々。この場合は堂々と無神論者と名乗る訳ですが、そういう程度の差はあるけれども、こういう人々は物事が自分にとってうまくいっている時には神さまの名を唱えることはないでしょう。ところが思いがけない窮地に立たされる時、正に困ったときの神頼みのようなことが起こるとしたらどうでしょうか。普段は感謝することも賛美することもしない神さまに、困ったときだけそのお名前を唱えて助けを求める。このことはみだりに唱えることにはならないでしょうか。真に神さまから御覧になれば、失礼千万なことではないでしょうか。
この世界にあるもの、すべてに人間は名を付けました。形ある物にも、人にも、そして出来事にも名を付けました。だから好きなだけその名を呼ぶことができるでしょう。しかし、神さまのお名前は人間の付けたものではありません。神さまのお名前は神さまだけのものですから、わたしたちが自由にできるものではありません。それは神さま御自身が明らかにしてくださり、わたしたちに教えてくださった名前だからです。
イザヤ42章8節にこう書かれています。1128頁下「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない」と。ですから、わたしたちは自分の誓いを人々に信用せるために、「神さまに誓って」などと、みだりに主の名を唱えることはできないのです。それは、自分の願望、欲望のために神さまを利用するいう恐ろしい行為であり、結局は偶像礼拝に繋がってしまうからです。
さて、ここでわたしたちは十戒の言葉が与えられた人々について、改めて考えたいと思います。それは、イスラエルの人々。神さまの約束によって旅をし、多くの苦難を味わいながらも、信仰を全うしたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫でありました。この人々は自分たちを自分で救い出すことのできない窮地に陥っていたのですが、そこから救い出してくださった神さまを、真の神さまと知りました。そこで神さまは、彼らにご自分の名を明らかにしてくださったのでした。
先週の礼拝では、第二戒を学びました。そこで、わたしたちは神さまの名を教えられました。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と。真に恐ろしいことではありますが、父祖の罪が子にも受け継がれるのを、わたしたちは認めざるを得ません。悔い改めのない親の罪のために、苦しむ子がどんなに多いかをわたしたちは知っているからです。しかし、父祖の罪を負う子孫にも、真の神からの呼びかけを聴く機会が必ず与えられますように、と教会は祈るのです。そして救いがどこから来るかを誰もが悟るように、と祈るのです。真の神さまに出会い、この方を愛し、この方にだけ従い、その戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみが与えられる。このことを神さまは約束しておられます。だから、この約束だけに頼って全身全霊を挙げて主に従って来なさい、と主は命じておられます。
神さまに救われた人々は貧弱な小さな群れで、窮地に陥った民でありました。しかし神さまは不思議に彼らを選び、彼らを御自分の民と呼んでくださいました。十戒は神の民となった人々に与えられた戒めです。ですから、神さまを知らない人々ではありません。十戒は、神さまを知って礼拝する人々に与えられた戒めです。礼拝の民、神の教会の人々に神さまは第三戒を命じておられるのです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と。
ですから、神さまを知っている人々。神さまに知られていることを知っている人々は、神さまを畏れずにはいられません。畏れ敬わずにはいられないはずです。そしてこれこそが、何がなくても礼拝に無くてはならないことなのです。讃美歌を歌う時にはうまいとか下手だとかいうことよりもはるかに大切なことがあります。それは真心から歌うということです。わたしたちはメロディの美しさに心惹かれますが、讃美歌は献げ物であります。主をほめたたえることは、唇の実と言われます。それに更に楽器を用いて捧げた歌は詩編に代表されるように、主をほめたたえる歌なのです。嘆きの歌でもそれは感謝の歌に変えていただける。本当にわたしたちに求められていることは真心から主の御名前を呼ぶことに他なりません。
美しい歌も楽器もそれを用いて真心を捧げて主の名を呼ぶならば、神さまは喜んで献げ物を受け入れて下さいます。ところが、歌でも楽器でもそれを用いて神さまを賛美しているように表向きは見えても、自分の名声のために、欲望を満足させるために、そうするならば、それは主の名をみだりに唱えることになるのではないでしょうか。礼拝で捧げられる音楽を一つの例として挙げましたが、これは何も音楽に限られることでは決してありません。
新約聖書はマタイ福音書の7章21節以下を取り上げました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」主イエスさまの厳しいお言葉は一体何を意味するのでしょうか。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」22節で「かの日」とイエスさまが仰ったのは、終わりの日であります。キリストが再び世に来られる終わりの日に行われる審判によって、すべてのことが明らかになります。いかにも立派にふるまい、大勢の人から尊敬を集め、自分でも「救いの栄誉は自分に与えられて当然」と思っていた人々が、呆然としている場面を想像してください。彼らは必死になってイエスさまに訴えているのです。
彼らは、人の目には確かに立派に見えたかもしれません。恭しくキリストを宣べ伝え、美しい言葉によって人々の心を魅了し、「キリストに従いたい」という人々よりは、「この先生、この牧師について行こう」という人々を教会に集めたかもしれません。しかし、立派な教師、立派な長老と思われる人々が時にはとんでもない偽善、欺瞞によって人々を困惑させ、躓かせ、教会から離れさせる元になるとしたら、主はそれを裁かないはずがあるでしょうか。23節。「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
自己実現のために、何でも利用する人は、神さまをも、主イエスさまをも利用します。ローマの信徒への手紙1章16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」パウロがこう言った初代教会の時代は、十字架刑に死んだ人を神の子、キリストと宣べ伝えることは、全くあり得ないような至難の業でした。しかしどんな困難も福音を留めることはなかったのです。ところが、福音の教えが世界各地で実を結び始めるや否や、偽って、また偽善的に福音の教えに従う人々が現れたのです。多くの一般の人々ばかりでなく、牧師の地位にある人々の間でさえ、裏切りが起こりました。彼らは口で教え、また告白していることを、行いと生活によって否定しているのです。
これは決して人に対する裏切りではありません。これは、「主の名をみだりに唱えてはならない」という主なる神さまの戒めに対する裏切りなのです。「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」もし神さまがこの戒めを破る者を即刻裁かれたら、偽善的行為と気づかなかった私たちには、とても分かりやすいと思います。しかし、一方で深刻なことがあります。それは、一体だれがこの戒めを完全に守って裁かれない者になれるのでしょうか。瞬々刻々、一生涯にわたって、一度も真心を込めて神さまの名を呼ばなかったことはない、と言える人はいるのでしょうか。
真に、正しい人はいない、誰もいないということを一番よく知っておられるのは神さま御自身です。主は御自分を否む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うと言われますが、ご自分を愛する者には幾千代にも及ぶ慈しみを与えると宣言されています。一体神さまは罪ある人間に対して、この裁きをどのように行われ、救いを実現してくださるのでしょうか。それは私たちの想像をはるかに超えることで、予想も予知もできないことです。
ただ、わたしたちに与えられた信仰があります。それは、イエスさまが世に来てくださったのも、神さまの救いのご計画によるものであったということです。神さまのこのような慈しみのご決意にも拘わらず、人は皆、罪を犯してこの恵みを受けることができなくなっていたからです。神さまはキリスト・イエスさまをお立てになり、その十字架の犠牲の血によって、信じる者のために罪を償う供え物となさいました。この福音を信じて教会が建てられてから二千年。全世界で主の教会を信じる者が起こされ、キリストに結ばれ、従う者となるために、教会に入れられています。イエスさまの執り成しによって神の国に入れられたい人は誰でも、地上の生活において真摯に誠実に新しい人生の鍛錬に励まなければなりません。
本日は十戒の第三戒を学びました。カテキズム問43 第三戒は何ですか。その答は、 「あなたの神、主の名を、みだりにとなえてはならない」です。それは、わたしたちが神さまを愛し、大切にし、畏れをもって呼び求めるべきということです。」祈ります。
恵み深き教会の主、イエス・キリストの父なる神さま
尊き御名を賛美いたします。九月の第三の主の日の礼拝、わたしたちを御前に集め、共に助け合って、讃美と感謝と祈りを捧げさせてくださいました。わたしたちは多くの物事を望み、自分に不足しているものが多いことを嘆き、あなたが必要を豊かに満たしておられることを忘れてしまうような罪深い者であることを思います。真にあなたが求めておられるものは、あなたに対する真心からの賛美であり、感謝であり、祈りであることを学びました。これはあなたを真心から信頼し、愛し、従って行く者に与えられるものであります。どうかわたしたちが不信仰を悔い改め、あなたによってすべてが満たされることを信じ、告白し、感謝し、喜んで生きる者となりますように、わたしたちの罪を赦してください。わたしたちを新たに造り変えてこれから始まる一週間を主に従う者としてください。
成宗教会に与えられたこれまでの恵みを感謝いたします。この教会がただ恵みによる救いを宣べ伝える教会として、どうかこの地にこれからも建つために、どうぞあなたの聖霊の溢れる知恵と力をお与えください。長老会を励まし、信徒の方々を励ましてください。御心に適って新しい主任担任教師を迎えることができますように、道を開いてください。
今年の秋も「子どもと楽しむ音楽会」を開くことができ感謝です。また10月には教会バザーを計画しております。人手不足を心配する私たちの弱さをどうか憐れみ、慈しんでください。あなたがすべての必要を満たして、御心を行ってくださることを信じます。教会学校の働きを祝していただき感謝します。どうか知恵と力をお与えください。
今ご入院中の姉妹の苦しみ痛みを取り去り、あなたの恵みで取り囲んでください。またご家族をお支えください。他にもお病気の方がおられます。ご高齢のお一人暮らしの方、お仕事やいろいろな事情で礼拝から離れている方々の心と体と魂をお守りください。
この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。