山の下にて

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌12番
讃美歌294番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書:マラキ書 3章23-24節 (旧約聖書1,501ページ)

3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

新約聖書:マルコによる福音書 9章9-13節 (新約聖書78ページ)

9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

《説教》『山の下にて』

本日の9節には、「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。」とあります。

これまで隠されていた神様の御計画を知らされた時、人は何を感じるでしょうか。「創造の出来ないようなことを教えられた」「思いもよらないことが明らかになった」。今まで誰も会ったことのない神様の御顔を拝して、神様の秘密を知った優越感を他の人々に対して持つことが出来るかもしれません。

しかし、神様の栄光が輝く時、そこで明らかにされるのは、神様に背を向け、罪の中にあるこの世の闇です。そしてその闇が、この「私」がこれまで暮らし、慣れ親しんで来た「世界そのもの」であるならば、そこに生きて来た自分を否定しなければならないのです。初めて見た神様の栄光の前で、「何故、私たちはこのような闇の中に安住しているのか」という疑問が湧いてくるのは当然のことと思われます。

主イエスは、「医者を必要とするのは病人だけである」と言われました。確かに、健康な時には医者や薬の必要性を感じません。しかし、身体に異常を感じるならば、医者や薬を求めます。

弟子たちが、山の上で明らかにされた神様の栄光の下で考えなければならないことは、この世界・神なき世界が示す異常性であり、「何故、私たちの世界がこのような状態に留まっているのか」という疑問です。

何故、人は神様を求めないのか。何故、人は今のままで「よし」としているのか。これこそ、神様の真実の姿をかいま見た人間の疑問であり、聖書を読む私たちが抱く基本的な問題意識です。そして、その問いを発することから、「栄光をかいま見た山から下りた生活」は始まるべきなのです。

そして、10節から11節に、「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。」とあります。

このエリヤとは、紀元前九世紀の預言者です。アハブ、イゼベルという偶像礼拝者たちと闘い、カルメル山上でバアルの預言者やアシェラの預言者たちを打ち破り、さまざまな出来事の後、弟子のエリシャが見送る中、火の車に乗って天に昇った人物です。彼はイスラエル最大の預言者です。そして、死ぬことなく天に昇ったエリヤは、この世の終わり、終末に先立って、再びこの世にやって来るとイスラエルでは信じられていました。それは、旧約聖書1501ページ、マラキ書3章23節以下に、こうあるからです。もう一度お読みいたします。

見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。

律法学者をはじめとするイスラエルの宗教指導者たちは、民にこのことを教えて来たのであり、ペトロたちも、それを聞かされて育って来ました。

しかし、彼らがかいま見た信仰の現実は、エリヤは山の上に居り、「山の下にはいない」ということです。主イエスだけがそこに居られ、主イエスは御自身の迫害を予告し、十字架の死が必要なことを語られました。弟子たちにとって、謎は深まるばかりでした。約束のエリヤさえ来れば全ては明らかになり、主イエスが迫害され死ぬこともないのでないか。

ペトロたちの疑問も当然でした。山の上にエリヤが現れたことを今こそ大いに広めるべきではないのか。ナザレのイエスこそが約束の救い主であることを、エリヤの出現によって証明出来るのではないのか。ペトロは単純にそう思ったに違いありません。しかし、意外にも、主イエスはそれを禁じ、「だれにも話してはいけない」と命じられたのです。

何故、禁じられたのでしょうか。それは、聖書の御言葉を自分の思い通りに都合よく理解しようとする人間の愚かさを主イエスが御存知だったからです。

異民族の支配による長い苦しみの中で、「エリヤさえ現れれば」とイスラエルの民が待ち続けた気持ちは分かります。しかし、「来るべきエリヤ」とはいったい何者でしょうか。もし、エリヤが来たとしても、何をもって「約束のエリヤ」と断定するのでしょうか。エリヤが天に昇った時から既に九百年近く経っているのに、どうしてそれが「約束のエリヤ」だと分かるのでしょうか。

それは「姿によって」ではなく、「働きによって」と言う他はありません。「終末のエリヤ」は、約束され、預言されて来た務めを果たす時、初めて「その姿を認め得る」ということです。人の役柄は「その人が何をしたのか?」ということでしか分からないものなのです。

律法学者やイスラエルの民衆はエリヤを待ち望んでいました。しかし、「そのエリヤは何をするのか」ということを「聖書に基づいて」考えてはいなかったのです。自分の期待や希望を第一にし、エリヤは天の軍勢と共に現れて憎いローマ軍を追い払い、イスラエルの栄光を回復して下さると勝手に考えていました。それ故に、ローマの占領下、政治的独立を回復していない以上、「エリヤは未だ来ていない」と決め付けていたのです。

12節以下で主イエスは言われました。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」とあります。

主イエスは先ず、旧約聖書に記されている預言の正しいことを指摘し、父なる神の約束に少しの狂いもないことを明らかにしています。神の御言葉には変わりがなく、ただ、約束を待ち望む人々の信仰が問題なのだと言われたのです。

エリヤがこの世に来る目的は何でしようか。主イエスが言っておられるように「すべてを元どおりにする」ということです。それでは、「元どおり」とは何のことでしょうか。大切なことはここです。

当時の人々は、ダビデ時代の独立王国の夢を追っていました。かつての、栄光に包まれたユダヤ人・イスラエル民族の独立王国の再建が人々の希望でした。エリヤの到来は、この夢の実現と同一視されていたのです。

しかしながら、「本来の人間の姿は、『そこにあるのではない』」と主イエスは教えて来られた筈です。何故なら、人々が千年前のダビデ時代に憧れ、ダビデを永遠の王のモデルと見做しても、そのダビデ自身も数々の過ちを犯し、ダビデの王国時代にも人間は惨めな姿を示していました。

たとえ、政治的独立があり、周辺諸民族に対する優越感に満足したとしても、人間の苦しみや悲しみは何ら解決されず、神様を忘れて生きる人々で満ちている現状は変わりません。決して理想的で幸福な時代・ユートピアの到来ではなく、依然として、アダム以来の罪と罰の世界であり続けるのです。

ですから、もし立ち戻るならば、ダビデ時代ではなく、もっと以前の「人間本来の姿への復帰」がなされなければなりません。「元どおり」とは、神様が見て「よしとされた人間本来の姿」への回帰のことであり、アダムによって歪められた罪の姿から、真っ直ぐに神様へ向かう人間本来の姿勢を回復することなのです。

先程お読みしたマラキ書には「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」と記されていました。神様に背を向けて来た者が神様へ顔を向けて方向転換すること、それを新約聖書では「悔い改め」(メタノイア)というのであり、エリヤの使命は、最後の時が来る前に、全ての人々を悔い改めに導くことにあったのです。

このマラキ書3章の1節には、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」とあります。

この悔い改め「メタノイア(方向転換)」を叫び、「わたしの後に来る人を見よ」と語る人物が、既に現れて居たということは、この時代の人々は誰でも知っていました。

「エリヤは既に来た」と主イエスがはっきりと語っておられるように、バプテスマのヨハネこそ、「救い主の到来を告げる先触れ」、「約束のエリヤ」であったと言われているのです。

しかし、「人々は好きなようにヨハネをあしらった」と主イエスは指摘しておられます。何故、人々はバプテスマのヨハネによる神様の告知を聴かなかったのでしょうか。

人々は、空虚な栄光のメシアの幻影を追って、真実の平安を見ようともしなかったのです。繰り返し聞かされながら、互いに繰り返し語りながら、なおそのことに気付かなかったところに、罪の中に埋没している人間世界の闇の深さが感じられます。

自分の要求を第一に考える人。自分たちの期待する通りに神様が働いてくれると考える人々。神の御業をこの世での誇りを尺度に考える人々。自分の思いに反する神様を、心の中から追い出す人々。このような人々が、神の御業を正しく見ることが出来ないのは当然です。主なる神が自分の前に立たれたその時でも、自分の思いに固執して心の耳を塞ぎ、心の目を閉じて、「これは違う」と言ってのけるからです。

「神の御子が自らこの世に来られた」という驚くべき出来事に接しながらも「これは私たちの考えていることと違う」「私たちの期待はこんなものではない」と言って、拒否してしまうのです。神の御計画の実現を祈るのではなく、自分たちの期待の成就だけを願っていたのが、「山の下の世界」でした。

これが、私たちの「本来あるべき姿」ではありません。人間の要求は各自異なります。百人百通りです。私たちの世界の悲惨は、人間が自分自身の要求を頑迷に貫くところにこそ原因があるのです。

それ故に、この世界を「元どおりにする」ということが大変な難事業であるということは、明らかです。この世の闇の中にあって、罪の世界にどっぷりと漬かり、自分が異常であることを自覚していない私たち人間を、正常に戻さなければならないからです。

自分が「本来あるべき姿」ではないことをどのようにして知ることが出来るでしょうか。それは、「神の御子が十字架につけられ、殺され、その死に於いてなお、私たちを愛されたという出来事」を認識することによってしかありません。十字架の惨めさを自分の姿に重ねあわせることによってのみ、それが分ってくるのです。自分のために支払われた代償の大きさによって、初めて、自分が犯した罪の大きさを知るからです。

もう一度、9節を読んでみましょう。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない。」と主イエスご自身が教えられています。

ここで主イエスは、十字架と復活を経なければ「全ては意味をなさない」ということを告げられています。十字架と復活、人の罪への処罰と救済の実現。これが運命の大逆転を決定するのです。

山の下の世界に神様の栄光が輝き渡るためには、キリストの死と復活が絶対的に必要なのです。十字架の苦しみがなければ人間の罪は贖われず、その出来事への驚きがなければ、神への反逆は終わることはありません。そして、御子キリストにしか出来ないその御業は、ここで、実現に近づいているのです。

十字架へ向かう主イエスの御姿を仰ぎつつ、「私たちの世界はこのままでよいのか」という問いを、もう一度今、自分に問いかけることが必要ではないでしょうか。

山の上の栄光と、山の下の悲惨。この格差を埋めるために遣わされたのが聖霊なる神であり、聖霊なる神が御業を行われる場が教会です。

お一人でも多くの方が、共に救われ、山の下の世界に一筋の神様の栄光が輝きますよう、お祈りを致しましょう。

荒野の叫び

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌218番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書:マラキ書 3章1節 (旧約聖書1,499ページ)

3:1 見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

新約聖書:マルコによる福音書 1章1節~8節 (新約聖書61ページ)

1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

《説教》『荒野の叫び』

プロテスタント教会は説教を大切にし、聖書だけを語り、語る者の個人的な話やその時代の時事報道的な、所謂「混ぜ物をしない説教」を語ります。その説教も聖書の取り扱い方法で分類すると、注解書的説教、テキスト説教、講解説教、トピック説教などに分けられます。もっと分かり易く説教方法を分けると、何か一つの主題を論じる「主題説教」と、聖書の説き明かしに主眼を置く「講解説教」の2種類に分けるのが一般的です。この講解説教とは、字に書くと「講演会」の「講」に、解き明かすの「解く」と読む「解答」の「解」をあわせて「講解説教」と呼び、聖書の解き明かしを指します。この講解説教を聖書の始めから連続で進めるのが「連続講解説教」です。今日からは、この「連続講解説教」をしていきます。勿論、イースターやクリスマスなどは、関係する聖書箇所から説教させて頂きますが、基本的には「マルコによる福音書1章1節」から連続して講解説教をさせて頂きます。福音書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書があり、その約3分の1にも及ぶ頁が主イエスの生涯の最後の1週間、受難と復活の出来事に割かれていることから、福音書の中心点がどこにおかれているかは歴然としています。主イエスにおいて神様がこの世に下り、罪深い世の救いのために十字架上で死んで、よみがえり、神の聖と義と愛とをあかしされました。この喜びを告げ知らせ、それを信じて救われる者が起されることを願って、これら四福音書は書かれました。その四つの福音書で最も古く、他の福音書記述の元ともなったと言われる「マルコによる福音書」から連続講解説教を始めたいと思います。

私たちは主イエス・キリストに出会うために聖書を読みます。聖書の読み方にもいろいろありますが、少なくとも、キリスト者は聖書を通して、この世に来られた神の御子イエス・キリストと出会うことに、最も大切な意味を認めます。

主イエス・キリストについて最も詳しく、また具体的に語るのは言うまでもなく福音書です。私たちは福音書を通してキリストのお姿を知るのですが、しかしその際、必ず、バプテスマのヨハネという人物に出会わなければなりません。それぞれ異なる立場と特色を持って書かれた四つの福音書が共通してイエス・キリストに先立って示すのが、バプテスマのヨハネです。

バプテスマのヨハネに関して、それぞれの福音書を比較してみますと、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書は、バプテスマのヨハネ出現以前のところではそれぞれ違った物語を記しています。主イエスの誕生のクリスマス物語を見てもそれぞれ福音書ごとに違います。しかしながら、バプテスマのヨハネに関しては、殆ど一致しています。丁度、この礼拝堂に入るために、そこの入口を通らなければならないように、バプテスマのヨハネを通らなければ主イエス・キリストとの出会いが不可能であるかのように、描かれているのです。

聖書は、「バプテスマのヨハネを通らなければ主イエス・キリストに出会うことは出来ない」と語っているのです。私たちも聖書が示すこの道筋を通らなければなりません。マルコによる福音書1章2節から4節には、「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。

ここに引用されている旧約の御言葉から、バプテスマのヨハネが、主イエス・キリストの露払い、先触れとして現れたことは明らかです。来るべき神の御子の活動に先立って、バプテスマのヨハネは父なる神の御旨を受けて先触れをしたのですが、それではいったい、ヨハネは何を告げようとしたのでしょうか。聖書がヨハネにおいて注意を促しているのは何でしょうか。

その、バプテスマのヨハネが告げようとした第一は「時」への目覚めです。2節に預言者イザヤの書に書かれているとありますが、これはマラキ書3章1節に書かれていることであり、3節だけがイザヤ書40章3節の言葉です。おそらく、メシアに関する聖句としてこの二つは結び付けられたのではないかとも言われています。

マラキ書3章1節は「神の支配と裁きを軽んじる者に対する警告」です。ですから、「遣わされた使者」とは罪を裁くための使者であり、終末の日の到来に先立ち、神の使者が裁きを告げるために送られて来るとマラキ書では語られています。その使者は預言者エリヤであり、エリヤの警告に従わなければ恐るべき日となり、「終末の日に生き残る者はない」と述べられているのです。バプテスマのヨハネがこのエリヤの姿を映し、重なっていることは明らかでしょう。神の裁きが近づく恐るべき終末の日・決定的なその日のために、救いに向けて選ばれた人々を目覚めさせる言葉なのです。

私たちは「生きる」ということを真剣に考えます。「人間、如何に生きるか」ということは、何時の時代、またどんな人でも変わりなく抱く問題でしょう。その誰もが考える「生きる」という問題を、何処に焦点を定めて考えているか、それが改めて問われなければなりません゜

その日の自分の生活だけを考える人もあるでしょう。自分の子供たちの将来のために努力を傾ける人もいるでしょう。自分自身の力の限界を確かめようとする生き方もあるでしょう。様々な生き方があります。しかしながら、その「生きる時」を「自分の時」だけに限定してよいのでしょうか。誕生から死にいたる一生涯。その生命のある間だけの生活。誕生と死の間に挟まれた人生は、果たして「自分だけの時間」と言えるでしょうか。

誰でも「死」が思いがけない時にやって来ることを知っています。そしてその死が訪れる時までを「自分の時」であると思っています。紀元前三世紀のギリシアの哲学者エピクロスは「私が生きている時に死はない。私が死んだ時は私はいない。だから、私にとって、死はない」と言いました。この哲学者にとって、自分の存在が全てであり、誕生と死の間に挟まれた生涯・生命の日々を「自分の時」として考えているのです。そして「自分の時」即ち人生を、自分だけが自由にすることの出来る「自分の独占物」であると思っています。これは現代でも最も一般的な考え方ではないでしょうか。

このような考え方に対して聖書は、私たちの時は「神の時」に組み込まれているということを告げています。私たちの肉体が生きているか死んでいるかに拘わらず、「神が定め給うた時の中に置かれている」ということ。そしてその「神の時」とは、「神の義が貫かれる時」なのだということなのです。

神は正しい義なる方です。悪を断じて赦すことのない徹底的に義なる方であり、人間の罪と悪は、絶対の主権を持たれる神の御前で裁かれずにはいられません。ですから、今、神の主権の下に置かれているということは、神の正義と直面して生きるということであり、神の裁きが、「今」という「神の時」の中で迫っているということを知らなければなりません。この緊迫した「神の時への目覚め」、それが主に出会う者に必要なのです。

ヨハネが告げようとした第二は、荒れ野に生きることの自覚です。ヨハネは荒れ野に現れたと記されています。荒れ野(エレーモス)とは、元来、「水のないところ」という意味です。私たちの日本にも荒れ野は沢山あります。狭い国土から見ればもったいないことですが、農地にしようと思っても出来ない荒地があります。しかしそれは、土壌が火山灰などを含んでいるため植物の成育がよくないということであり、降水量は十分あり木や草も生えています。作物は豊かに育たないかもしれませんが、生命のある世界に変わりはありません。

これに対してユダヤの地はまったく違います。水がないのです。水がなければ生命もありません。地中海側は比較的水に恵まれていますが、中央山地から東、ヨルダン渓谷に至る間はまさに荒涼とした荒れ野です。雨季に降る雨はそのまま流れ去ってしまい、水を地面に留める植物が育ちません。雨季の後、小さな草が生え出ても、ひとたび砂漠からのハムシーンと呼ばれる東風が吹けば、その熱風のために全ては瞬時に枯れ果ててしまいます。生命の存在を拒む世界、それが聖書で語られる荒れ野であり、ヨハネはその荒れ野で叫んでいたのです。

ヨハネは暖かい部屋や美しい森の中で神の御言葉を語ったのではなく、厳しい自然、荒涼たる荒れ野の中で、御子を迎える備えを語りました。そしてこの荒れ野こそ「私たちが生きている世界である」と聖書は教えているのです。砂漠でも花は咲きます。荒れ野に咲く小さな花を見るように、私たちもまた、この世で幾つかの小さな花を見つけることは出来るでしょう。しかし、せっかく見い出した幸福、心の安らぎは果たして何時まで続くのでしょうか。砂漠からの熱風によって枯れる荒れ野の草のように、うつろいやすく、儚いものでしかないと認めざるを得ないでしょう。

さらにまた、荒れ野とは身を隠す場所のないところです。ただ一人の自分が、自分だけの力で立たなければならないところです。それどころか、自分ひとりでは生きて行けないことを思い知らされる場でもあります。私たちは、日常的に見出すことの出来る様々な生き甲斐や、仕事、育児、娯楽に囲まれています。それらは確かに自分の弱さや惨めさを一時忘れさせてくれることに役立ちます。「あらゆることは気晴らしである」とパスカルが言うとおり、私たちはこの世の生活の中で、自分の本当の姿を覆い隠すためのものを次から次に作り出していきます。

しかし、神の御前に立ち、キリストと出会う者は、ただ一人、裸で立たなければなりません。神の御前において神の裁きに直面する時、自分を守ったり飾ったりするようなものは何一つないことを知らなければなりません。隠れるところは何処にもないのです。ただ一人で、絶対の正義を貫かれる神の御前に立つ厳しさ、これが荒れ野に生きることの自覚であり、キリストに出会う人間の避けることの出来ない宿命なのです。

ヨハネが告げようとした第三は、悔い改めの勧告を聞くことです。4節には「罪の赦しを得させるためのバプテスマ」と記されていますが、正確には「罪の赦しへ向わせる」と言うべきでしょう。罪の赦しは主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられるものであり、神の独り子だけに可能な御業です。それゆえに、ヨハネが行ったのは「主イエス・キリストを迎えるための備えのバプテスマ」と呼ぶべきでしょう。そしてそれは悔い改めのバプテスマでした。ヨハネのバプテスマは、悔い改めを言葉だけではなく全身で表し、自分の罪を神の御前に承認することでありました。

悔い改めをギリシア語では「メタノイア」と言います。それは、「心の向きを変える」という意味です。私たちの社会で一般に言われる悔い改めとは「ああ悪かった」ということであり、口ではそう言いながら、心の向きは少しも変わっていないことが多いのではないでしょうか。「悪かった」とは「一つの行為の失敗」の表明でしかありません。刑務所に何回も出入りしている人々は、この「悪かった」を際限なく繰り返しているのです。何故、その失敗が起こったのかということを考えなければ、根本的な解決には決して結びつきません。真剣に問わなければならないのは、「悪かった」ひとつひとつの行為の反省ではなく、間違った方向に向って歩き続けた結果です。その間違った方向を転換しなければならないのです。しかも、それは私たちの「一度限りの人生」では人生の終点に着いてからでは間に合いません。「心の向きを変える」その方向が、主なる神が祝福してくださる方向へ向っていなければ何にもならないのです。人生の終点では、やり直しは効きません。過去へ戻ることは出来ないのです。

ヨハネは、人々を荒れ野に集め、荒れ野の厳しさの中で叫ぶことによって、安易な生活に溺れた人々の目を覚まさせ、滅びへ向う人生の歩みを止めさせました。5節には、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」とあります。

ヨハネは、それぞれの家、自分たちの町で慣れ親しんだ生活を過ごしている人々のところへ出かけたのではありません。むしろ、人々がこれまでの自分の生活を断ち切り、それらに背を向けることを要求しました。ですから、彼らは住み慣れた快適な村や町の日常生活の流れを止め、わざわざ苛酷な熱気と乾燥の世界へ出掛けて来たのです。ヨルダン渓谷に至るユダの荒れ野に好んで出かける人はいないでしょう。耐えられない暑さと極度に達した乾燥の世界です。

これこそヨハネが果たした最も重要な意味あることでした。御子イエス・キリストを迎える者は、この世の快適さに背を向け、荒野に出て行き、「神の時」の中で生きることの厳しさを知らなければなりません。荒野に生きることを自覚した者だけが、かつて主なる神が預言者を通して語った約束を聞き、その実現に目を向けるのです。ヨハネのその呼びかけを旧約聖書1,124ページ イザヤ書6節から8節に見ることが出来ます。お読み致します。

呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。      (イザヤ書 40章6節~8節)

今、ここに、人間の力ではなく、人間の努力によってでもなく、一切の人間的可能性を超えた神の大いなる御業が始まるのです。コンコンと湧き出る泉の素晴らしさは、荒れ野に生きる者だけが知っています。この世の惑わしから解き放たれ、神のみを見つめて「心の向きを変えた者」の信仰の耳に、サマリアの町シカルにあったヤコブの井戸端でサマリアの女に語られた主イエスの御言葉が聞こえてくるでしょう。新約聖書169ページ ヨハネによる福音書4章14節、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」との主イエスの御言葉です。

この主イエス・キリストの御言葉を真実の喜びの言葉として聞くために、ヨハネは今、私たちに「荒れ野へ出よ」と告げているのです。神の御子は、この世におけるあらゆる可能性を投げ捨てた者の心にこそ、正しく迎えられるでしょう。御子を迎えるに相応しい姿を整えること、それが私たちの課題であります。

お祈りを致します。

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