私について来なさい

《賛美歌》

讃美歌152番
讃美歌224番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミヤ書 16章16節 (旧約聖書1,207ページ)

16:16 主は言われる、見よ、わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ、また、そののち多くの猟師を呼んできて、もろもろの山、もろもろの丘、および岩の裂け目から彼らをかり出させる。

新約聖書:マルコによる福音書 1章16~20節 (新約聖書61ページ)

1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

《説教》『私について来なさい』

先週は聖書記者のマルコが先を急ぐように「すぐに…」という言葉を大変多く用いて、私たちが「神の時」に生きることについて語られました。

私たちは時の流れの中で生きています。昨日から今日へ、今日から明日へと向う時の流れの中です。そして今日を生きるということによって、常に新しい時に出会っていると言えるでしょう。現在とは、未来という時を過去に変えるものであり、毎日一つずつ卵を産む鶏のように、私たちは毎日過去を生み出しているのです。

過去とは古い時であり、既に背後に追いやられた時です。一方、未来とは「新しい時」であり、未だ誰も知らないことが起こる時です。その「新しい時」を如何に生きるか。それが私たちの課題と言わなければなりません。

もちろん、この「新しい時」とは自覚なしに迎える自然の時の流れだけを問題にするのではありません。自然のサイクルから言えば、朝、眼が覚めた時、「新しい一日が始まった」ということは事実です。

しかし、自分の生きざまを深く省みて問うならば、朝の目覚めにおいて出会う一日が、果たして「新しい一日」「新しい時」と無条件に言い得るでしょうか。

判で押したような日常生活の中で、何を「新しい時」と言うのでしょう。

2000年前のガリラヤ湖の湖畔で起こった、この出来事は、その「新しい時」への招待でした。

16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。」とあります。そして19節には「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れしているのを御覧になった。」とあります。

ここは、別のルカ福音書によれば、時は朝でした。シモンとアンデレは未だ朝の漁をしており、ヤコブとヨハネは一晩の漁で痛んだ網を繕っている、ガリラヤ湖の漁師たちにとって昨日と変わらない朝でした。

早朝まで魚をとり、陽が昇ったら漁を終え、岸に上がって明日のために網を繕う。そして昼間は休み、また日暮れと共に湖へ出て行く。これまで何年もの間続けて来た昨日と少しも変わらない同じ朝であり、一日の始まりでした。ガリラヤ湖の漁師として、父親もそのまた父親も、同じようにして過ごしたであろう生活がここに繰り返されているのです。

シモンにもアンデレにも、ヤコブにもヨハネにも、それぞれ夢や希望があったことでしょう。しかし、生活のためには大きな冒険は諦めざるを得ません。昨日と同じような今日を過ごし、明日もまた同じ仕事を続けて行かなければなりませんでした。そしてその日常生活の中で、ささやかな夢や希望をそれなりに実現して行く。これは私たち誰もが過ごしている人生です。

私は何時までこの仕事をしなければならないのか。何故、この仕事をしなければならないのか。私たちは、よくこのようなことを考えるのではないでしょうか。

そして、もしかすると、他にもっと生き甲斐のある良い仕事があるのではないか、とも思います。しかしながら、そう思いながらも、やはり、昨日と同じように、同じことを繰り返している自分を見出さざるを得ません。

朝、仕事に出かける時に、あるいは夫を送り出した後洗濯掃除に追われる急がしい時に、このような自分の姿を見出すことはないでしょうか。そこには「新しい朝」を迎える「新しい気持ち」は感じられないでしょう。

シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、そのような朝を迎えました。誰もが迎える「昨日と同じ朝」それがこの場面です。しかしながら、その「少しも変わることのない昨日と同じであった筈の朝」が、突然、「全く新しい朝」になったのです。

そしてこの出来事において、「新しい時」というものが自分の思いとはまったく別に向こうからやって来ることを教えられるのです。

四人にとって、主イエスとの出会い、それが「古い生活」から「新しい生活」への転換を引き起こしました。16節にも19節にも「イエスが御覧になった」と記されています。「御覧になった」とはどういうことでしょうか。主イエスが漁師の仕事を物珍しく興味をもって見たということなのでしょうか。主イエスの眼差しは、彼らの仕事へではなく、その仕事をしている人間そのものに向けられているのです。「その人が何をしているか」ではなく、「その人がどのように生きているか」ということに向けられているのです。私たちが今、何をしているのか、何をしようとしているのかということに関りなく、常に、主イエスの眼差しは私たちの内面、心に向けて注がれているのです。

そしてキリストの眼差しを自覚した時、「新しい朝」が訪れるのです。シモンたちは誰一人として、その日、自分の生活を変えようとは思っていませんでした。与えられた環境の中で、ただひたすらに生きて行くことだけを考えていました。

しかし今や、彼ら自身全く考えていなかったことが始まろうとしているのです。

17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と言われた。」とあります。「私について来なさい」。主イエスが新しい朝に語りかけるのは、この言葉です。「ついて行く」とは、ただわけも分からず「後ろからついて行く」ということではありません。原文を忠実に訳すならば、「来なさい、わたしの後ろに」、砕いた言い方では「おいで、私のあとに」となります。主イエスはここで、「来なさい」「おいで」と招いておられるのです。

それは、あのマタイ福音書11章28節の主イエスのお言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と同じです。「わたしのもとに来なさい」と主イエスは招いておられるのです。その招きに応えて主イエスのもとに行き、主イエスの後ろについて歩んでいくのです。

よく「あの人の生き方にはついていけない」とか「あの人の考え方にはついていけない」という表現がなされます。また以前は、結婚式のときなど「夫を信じて何処までもついて行きます」などという覚悟が語られたものでした。このような表現は、ただ単に、表面的に追従することではなく、生きる営みを共にするということであることは言うまでもありません。

「私について来なさい」と主イエスが言われる時、それはイエスと共に生きる生涯への招きであり、キリストと共に人生の営みを全うすることへの呼びかけなのです。

主イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。この言葉は直訳すると「人の漁師にしよう」であり、誤解されやすい面があります。「あなたがたは今、魚をとる漁師をしているが、魚よりも人間をとる方が尊い仕事だから、あなたがたを今よりもっと大事な働きをする人へと格上げしてあげる」という意味に理解してしまったら全くの間違いです。人間をとる漁師にするというのは、彼らが主イエスの後について行く者となることによって与えられる新しい歩み、それまでとは違う新しい人生が与えられるということです。「人間をとる」とは、主イエスが神様の独り子、救い主としてこれから成し遂げようとしている救いのみ業、それによって実現する神の国に人々を招き、人々が主イエスの救いにあずかって新しく生きることができるように導くこと、つまり伝道の働きを担う者となるということです。18節に「二人はすぐに網を捨てて従った。」、そして20節には「この二人は父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」と実に驚くべきことが書かれています。仕事を捨て、家を捨てた人間がここに描かれているのです。

この物語を読む時、「誰が、本当に、このようなことを行えるのか」と、思ってしまうでしょう。しかも聖書には、「すぐにそうした」と記されています。

「すぐに」という言葉は先週も申し上げた通りマルコ福音書を特徴付ける言葉です。ただ、時間的速さだけで理解するのは間違いです。もちろん、主の呼びかけに対して応答を先に延ばす決断の弱さは責められなければなりません。

ここまで、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスのお言葉の意味を見てきました。主イエスは四人の漁師を静かに見つめ、このように語りかけて彼らをお招きになったのです。シモンとアンデレは「すぐに網を捨てて従った」と18節にあります。またヤコブとヨハネは「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」と20節にあります。

ここには二つのポイントがあります。

一つは、彼ら四人が皆、主イエスの招きを受けてすぐに従って行ったことです。もう一つは、「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」とあるように、自分の大事なものを捨てて、また家族を離れて従ったということです。

私たちはこれを読むと不思議に思います。どうしてそんなにすぐに従って行くことができたのだろうか、また大事なものを捨てたり家族と別れたりできたのだろうか、と思うのです。マルコ福音書特有の「すぐに」ということは、あれこれ条件を確認したりせずに、ということなのです。主イエスについて行くとどうなるのか、こんな場合にはどうか、あんな時にはどうすればよいのか、などと一切質問をしていないということなのです。また、ついて行くことによってどういう酬いがあるのか、主イエスは自分に何を約束してくれるのか、という確認もしていないのです。また、ついて行くことができるように自分の状況を整えたいので、それまでもう少し待って、ということも言っていません。それらの条件を一切顧みることなく、つまりそれらのことを全て捨てて従ったのです。ですから先程二つのポイントと言いましたが実際は一つと言えます。それは「献身」という一言で言い表すことができます。

主イエスの弟子となるとは、主イエスに、そして神様に自分自身をお献げし、委ねることなのです。彼ら四人は献身したのです。そこに、彼らの人生の転換、それまでとは全く違う新しい歩みが始まったのです。

さらにこの主イエスの呼びかけは、個別性あることに注意しなければなりません。この主イエスの招きは、「そこにいる皆」とか「あなたがたの誰でも」というようなものではなく、はっきりと名指しされているのです。

20節で「彼らをお呼びになった」とは「名を呼ぶ」ということです。大勢の人々に向って語られた言葉に感動して「その中から誰かが従った」ということではなく、「この私に向けて呼びかけられた」ので、キリストの招きに従ったのです。

主イエスは私たちを、常に、一人の人格として扱って下さるのです。決して十羽ひとからげに扱うようなことはなさいません。

シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの決断を見るときに、名指しで召される主イエスの招きを、各自が個別の問題として考えなければなりません。ですから「よくも仕事を捨てられたものだ」「親を捨てることなど誰が出来るか」などと考える人たちは、既に聖書を読み違えていると言わなければなりません。仕事を捨て親を捨てたというのは、伝道者として召されたシモンたちの「この時」の応答の仕方なのです。

彼らは主イエスの召しにそのように応えたのですが、私たちの召しはシモンたちとは違います。私たちにはそれぞれ違う召しがあり、それぞれ独自な応答があるのです。それが個別性というものです。

「仕事を捨て、親を捨てた」という外面的なことに拘るのではなく、そのようなシモンたちの個別の問題の底に流れる普遍的なもの、私たちとの共通な特徴に眼を向けることが大切です。

昨日行ったことを今日もまた同じように繰り返して行くことを断ち切ることです。仕事を辞めたり、肉親の絆を切ることが必要なのではなく、それらの生活を続ける中で、無自覚に惰性的で生きることを止め、主の呼びかけに応え、キリストと共に生きる生活の中に飛び込んで行くことが大切なのです。

自分の喜びのため、自分の欲望のために生きることから、神様の喜びのために仕える人間に変わり、神様の喜びは自分のどのような生き方の中に求められているかを正しく聞き取るのです。

私たちもまた、今日の生活の中でキリストの招きを聞かなかったならば、決して新しい「神の時」である「新しい一日」を迎えることができないことを知るべきです。

主イエス・キリストはガリラヤの漁師を使徒としてお立てになりました。そして彼らは、主イエスの御言葉の前に服従したのです。その直前まで予想もしなかったこと、考えることさえなかった新しい生き方の中に飛び込んで行きました。

ここに神の召しの特徴があると言えるでしょう。自分の能力、性格、興味の対象など、人間的価値や判断はそこでは一切意味を持ちません。

「召しの相応しさ」とは、自分の姿を省みて足を止めることではなく、キリストへの信頼によって、自分の内にある日常性を乗り越えることなのです。

シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、各人が持つ数々の欠点にも拘らず、使徒としての名を聖書に残しました。召された者は、その召しに応える生涯をもって、神様の選びの正しさを証すると言えるでしょう。私たちにとっての「新しい一日」とは、その神様の御業の証人としての目覚めでなければならないのです。この素晴らしい救いの恵みを未だ知らない人々に伝えていく者となっていくのです。そのみ業の前進のために必要な全ての条件は、神様ご自身が整え、与えて下さるのです。

お祈りを致しましょう。

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私について来なさい

賛美歌

讃美歌7番

讃美歌238番

讃美歌502番

聖書箇所

旧約聖書 エレミア書 16章16節

16:16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多く の狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。

新約聖書 マルコによる福音書 1章16~20節

◆四人の漁師を弟子にする

1:16  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っ ているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17  イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18  二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19  また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20  すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

説教原稿

私たちは時の流れの中で生きています。昨日から今日へ、今日から明日へと向う時の流れの中です。そし て今日を生きるということによって、常に新しい時に出会っていると言えるでしょう。現在とは、未来という時を 過去に変えるものであり、毎日一つずつ卵を産む鶏のように、私たちは毎日過去を生み出しているのです。

過去とは古い時であり、既に背後に追いやられた時です。一方、未来とは「新しい時」であり、未だ誰も知らな いことが起こる時です。その「新しい時」を如何に生きるか。それが私たちの課題と言わなければなりません。

もちろん、この「新しい時」とは無自覚に迎える自然の時の流れではありません。自然のサイクルから言え ば、朝、眼が覚めた時、「新しい一日が始まった」ということです。しかし、自分の生きざまを深く省みて問うな らば、朝の目覚めにおいて出会う一日が、果たして「新しい一日」「新しい時」と無条件に言い得るでしょうか。

確かに、そこには未だ出会っていない未経験なものがあるでしょう。しかし「新しさ」とはいったい何でしょう か。もしその一日が古い一日の焼き直しに過ぎないとするならば、「新しい一日を生きた」とは言えないのかも 知れません。判で押したような日常生活の中で、何を「新しい時」と言うのでしょう。ガリラヤの湖畔で起こった 出来事は、その「新しい時」への招待でした。

16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打 っているのを御覧になった。」とあります。そして19節には「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟 ヨハネが、舟の中で網の手入れしているのを御覧になった。」とあります。

ここは、ルカ福音書によれば、時は朝でした。つまり、シモンとアンデレは未だ朝の漁をしており、ヤコブとヨ ハネは一晩の漁で痛んだ網を繕っている、ガリラヤの漁師たちにとって昨日と変わらない朝でした。早朝まで 魚をとり、陽が昇ったら漁を終え、岸に上がって明日のために網を繕う。そして昼間は休み、また日暮れと共 に湖へ出て行く。これまで何年もの間続けて来たのです。昨日と少しも変わらない同じような朝であり、一日 の始まりでした。ガリラヤ湖の漁師として、父親もそのまた父親も、同じようにして過ごしたであろう生活がここ に繰り返されているのです。シモンにもアンデレにも、ヤコブにもヨハネにも、それぞれ夢や希望があったこと でしょう。しかし、生活のためには大きな冒険は諦めざるを得ず、昨日と同じような今日を過ごし、明日もまた 同じ仕事を続けて行かなければなりませんでした。そしてその日常生活の中で、ささやかな夢や希望をそれ なりに実現して行く。これは誰もが過ごしている人生です。

私は何時までこの仕事をしなければならないのか。何故、この仕事をしなければならないのか。私たちは、 よくこのようなことを考えるのではないでしょうか。そして、もしかすると、ほかにもっと生き甲斐のある良い仕 事があるのではないか、とも思います。しかしながら、そう思いながらも、やはり、昨日と同じように、同じことを 繰り返している自分を見出さざるを得ません。

朝、仕事に出かける時に、あるいは夫を送り出した後、洗濯掃除に追われる時に、このような自分の姿を見 出すことはないでしょうか。そこには「新しい朝」を迎える新しい気持ちは感じられません。

シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、そのような朝を迎えました。誰もが迎える「昨日と同じ朝」それがこの場 面です。ところが、その「少しも変わることのない昨日と同じであった筈の朝」が、突然、「全く新しい朝」になった のです。そしてこの出来事において、「新しい時」というものが自分の思いの外にあることを教えられるのです。

四人にとって、主イエスとの出会い、それが「古い生活」から「新しい生活」への転換を引き起こしました。16節 にも19節にも「イエスが御覧になった」と記されています。「御覧になった」とはどういうことでしょう。主イエスが 漁師の仕事を珍しくてつくづくご覧になったということなのでしょうか。

 

主イエスの眼差しは、彼らの仕事へではなく、その仕事をしている人間そのものに向けられているのです。 「その人が何をしているか」ではなく、「その人がどのように生きているか」ということに向けられているのです。 私たちが今、何をしているのか、何をしようとしているのかということに関りなく、常に、主イエスの眼差しは

私たちの心に向けて注がれているのです。そして、そのキリストの眼差しが自分に向けられていることを意識 した時、「新しい朝」が訪れるのです。

シモンたちは誰一人として、その日、自分の生活を変えようとは思っていませんでした。与えられた環境の 中で、ただひたすらに生きて行くことだけを考えていました。しかし今や、彼ら自身、全く考えていなかったこと が始まろうとしているのです。

17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と言われた。」とあります。

「私について来なさい」。主イエスが新しい朝に語りかけるのは、この言葉です。「ついて行く」とは、ただわけ も分からず「後ろからついて行く」ということではありません。

ここで主イエスがお語りになった「わたしについて来なさい」は、「わたしに」と「ついて来なさい」の組み合わ せではありません。原文の構造に従って訳すならば、「来なさい(あるいは「おいで」)、わたしの後ろに(あるい は「あとに」)」となります。主イエスはここで、「来なさい」「おいで」と招いておられるのです。あのマタイ福音書 11章28節の主イエスのお言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ げよう」と同じ言葉なのです。「わたしのところに来なさい」と主イエスは招いておられるのです。その招きに応 えて主イエスのところに行った者は、主イエスの後ろを、その後(あと)について歩んでいくのです。

よく「あの人の生き方にはついていけない」とか「あの人の考え方にはついていけない」という表現がなされま す。また以前は、結婚のときなど「夫を信じて何処までもついて行きます」などという覚悟が語られたものでした。

このような表現は、ただ単に、表面的に追従することではなく、生きる営みを共にするということであることは 言うまでもありません。「私について来なさい」と主イエスが言われる時、それは主イエスと共に生きる生涯へ の招きであり、キリストと共に人生の営みを全うすることへの呼びかけなのです。

主イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。この言葉は誤解されやすい面があります。 「あなたがたは今、魚をとる漁師をしているが、魚よりも人間をとる方が尊い仕事だから、あなたがたを今より もっと大事な働きをする人へと格上げしてあげる」という意味に理解してしまったら全くの間違いです。人間を とる漁師にするということによって語られているのは、主イエスの後について行く者となることによって与えら れる新しい歩み、それまでとは違う新しい人生が与えられるということです。人間をとるとは、主イエスが神様 の独り子、救い主としてこれから成し遂げようとしている救いのみ業、それによって実現する神の国に人々を 招き、人々が主イエスの救いにあずかって新しく生きることができるように導くこと、伝道の働きを担う者となる ということです。

18節に「二人はすぐに網を捨てて従った。」、そして20節には「この二人は父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った。」と驚くべきことが起こりました。仕事を捨て家を捨てた人間がここに 描かれているのです。

この物語を読む時、「いったい誰がこのようなことを行えるのか」と思わずにはいられないでしょう。しかも聖 書によれば、「すぐに従った」と記されています。「すぐに」という言葉を、時間的速さだけで理解するのは間違 いです。もちろん、主の呼びかけに対して応答を先に延ばす決断の弱さは責められなければなりません。

ここまで、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉の意味を見てきました。 主イエスは四人の人々をじっと見つめ、このように語りかけて彼らをお招きになったのです。シモンとアンデレ は「すぐに網を捨てて従った」とあります。またヤコブとヨハネは「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った」とあります。ここには二つのポイントがあります。一つは、彼ら四人 が皆、主イエスの招きを受けてすぐに従って行ったことです。もう一つは、「網を捨て、父と雇い人を舟に残し て」とあるように、自分の大事なものを捨てて、また家族から離れて従ったということです。

私たちはこれを読むと不思議に思うんではないでしょうか。どうしてそんなにすぐに従って行くことができたの だろうか、何故大事なものを捨てたり家族と別れたりできたのだろうか、と思うのです。

「すぐに」ということは、あれこれ条件を確認したりせずに、ということです。主イエスについて行くとどうなる のか、こんな場合にはどうか、あんな時にはどうすればよいのか、などと一切質問をしていないのです。また、 ついて行くことによってどういう酬いがあるのか、主イエスは自分に何を約束してくれるのか、という確認もして いません。また、ついて行くことができるように自分の側の状況を整えたいのでそれまでもう少し待って、とい うことも言っていません。それらの条件を一切顧みることなく、つまりそれらのことを全て捨てて従ったのです。 「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」という言葉がそれを現しています。ですから先程二つのポイントと言い ましたが実は一つと言えます。それは「献身」という一言で言い表すことができます。主イエスの弟子となると は、主イエスに、そして神様に自分自身をお献げし、委ねることなのです。彼ら四人は献身したのです。そこ に、彼らの人生の転換、それまでとは全く違う新しい歩みが始まったのです。

この主イエスの呼びかけは、私たち、一人ひとりの個人に対する神の個別の御業なのです。この主イエスの 呼びかけは、「そこにいる皆」とか「あなたがたの誰でも」というようなものではありません。はっきりと一人ひと りの個人を名指しされた個別の呼びかけなのです。

20節で「彼らをお呼びになった」とは「名を呼ぶ」ということです。大勢の人々に向って語られた言葉に感動し て「その中から誰かが従った」ということではなく、大勢の人々の中にいた「この私に向けて呼びかけられた」 ので、キリストの招きに従ったのです。主イエスは私たちを、常に、一人の人格として扱って下さるのです。決 して十羽ひとからげに扱うようなことはなさいません。

シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの決断を見ると共に、名指しで召されるイエスの御心と私たち自身の決断 を、各自の個別の問題として考えることが大切です。ですから「よくも仕事を捨てられたものだ」「親を捨てるこ となど誰が出来るか」などと考える人たちは、既に聖書を読み違えていると言わなければなりません。仕事を 捨て親を捨てたというのは、伝道者として召されたシモンたちの「この時」の応答の仕方なのです。

彼らは彼ら自身の召しにそのように応えたのですが、私たちの召しはシモンたちとは違う筈です。私たちに はそれぞれ違う召しがあり、それぞれ独自な応答がなされなければなりません。それが個別性というもので す。「仕事を捨て、親を捨てた」という外面的なことに拘るのではなく、そのようなシモンたちの個別の問題の 底に流れる普遍的なもの、私たちとの共通な特徴に眼を向けることが大切です。

それを一言で言えば、「日常の断ち切り」とか「惰性を絶つこと」と表現出来るでしょう。昨日行ったことを今日 もまた同じように繰り返して行なうことを断ち切ることです。仕事を辞めたり、肉親の絆を切ることが必要なの ではなく、それらの生活を続ける中で、無自覚的・惰性的に生きることを止め、主の呼びかけに応え、キリスト と共に生きる生活の中に飛び込んで行くことが「惰性の断ち切り」「切り換え」です。新しい生活への切り換え が大切なのです。

自分の喜びのため、自分の欲望のために生きることから、神の喜びのために生きる人間へとなるのです。 キリストに仕える人間に変わり、神の喜びが私のどのような生き方の中に求められているかを正しく聞き取る のです。

キリストの招きを聞き取り、受け入れなければ、決して「新しい一日」に踏み出せないことを知るべきなのです。

主イエスはガリラヤの漁師を使徒としてお立てになりました。そして彼らは、主イエスの御言葉の前に服従し たのです。その直前まで予想もしなかったこと、考えることさえなかった新しい生き方の中に飛び込んで行き ました。

ここに神の召しの特徴があると言えるでしょう。自分の能力、資格、性格、興味など、自分自身に対する人 間的価値や判断はそこでは一切意味を持ちません。「召しへの相応しさ」とは、自分自身の姿を省みて自分 が信仰者に相応しいのだとして信仰に入るのではなく、キリストへの信頼によって、自分自身の人間的価値を 捨て去ることなのです。シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、各自の個性の数々の欠点にも拘らず、使徒と しての名を聖書に残しました。

召された者は、その召しに応える生涯をもって、神の選びの正しさを証すると言えるでしょう。私たちにとって の「新しい一日」とは、その神の御業の証人としての目覚めでなければならないのです。

私たちはどうしても、いろいろな人間的条件を考えようとします。条件が整っているかどうかを見極めたいと 思います。そういうことによって、先の見通しをはっきりさせた上で進みたいと思います。それはそれで大事な ことでしょう。けれども、人生において、私たちの側で整えることのできる条件というのは、実はそんなに多くは ありません。

明日何が起るか、私たちは知ることができません。今日どんなに条件を整えても、それによって明日の歩み が保証されることはないのです。本当に確かな歩みは、私たちが条件を整えたり確認することによってではな くて、この世界を造り、私たちに命を与え、全てを導いておられる主なる神様のご支配を信じて、自分の身を 献げることによってこそ与えられます。神様はご支配される神の国を、独り子主イエス・キリストによって、その 十字架の死と復活によって実現して下さり、その裁きと救いとを私たちに告げ知らせて下さいます。悔い改め て神様の方に向き直ることによってこそ与えられる救いへと私たちを招いて下さり、その救いのみ業の前進の ために私たちを用いようとしておられるのです。そのみ業の前進のために必要な全ての条件は、神様ご自身 が整え、与えて下さるのです。ですから、今私たち一人一人をこの礼拝へと招き、私たちのことをしっかり見つ めつつ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけて下さっている主イエスに自分の身 を、人生を、委ね、お献げしましょう。それによって私たちも、大きな転換を与えられ、それまでとは全く違う新 しい、神様の恵みのみ手の中で生きる人生を歩み出すことができるのです。

お祈りを致します。 <<<祈 祷>>>