キリストの御心に包まれた者

《賛美歌》

讃美歌Ⅱ-188番
讃美歌162番
讃美歌217番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 13章45-46節 (旧約聖書181ページ)

13:45 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。
13:46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。

新約聖書:マルコによる福音書 1章40-45節 (新約聖書63ページ)

1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

《説教》『キリストの御心に包まれた者』

本日は重い皮膚病を患っている人が主イエスの御許にやって来ました。この物語も主イエスによる病気の癒しです。奇跡物語、特に病気の癒しを読むときに注意することは、前回にもお話ししましたが、聖書が語ることの真意を信仰的に正しく読み取らなければなりません。

この物語を読むときも、先ず誰でも感じることは、主イエスがこの男の病気を癒したということへの驚きではないでしょうか。そして、多くの人々は、「このようなことはありえない、信じられない」と言って、この聖書を信じるのに値しない書物、と考えてしまいます。

実は、この出来事を受け容れられないということは、神の御業を信じていた当時のユダヤ人も同じでした。不思議な力を持つ人によって病気が治るということ自体は驚くべきことではなく、神秘的な神の力が「特別な者」に与えられていると思うことは、この時代珍しいことではありませんでした。医師と祈祷師の厳密な区別がない時代です。それにも拘らず、ユダヤ人たちは、この物語を「有り得ないこと」として、はっきりと否定したのでした。

それは、聖書がここに語ることが、治療困難な病気を「主イエスがまたも不思議な力によって治した」という単純な奇跡物語ではないということなのです。この出来事そのものが、神を信じ、神の戒めに従って生きる人々にとって、「有り得ないこと」であったのであり、当時のユダヤ人にとってこの物語は最初から信じられないことでした。

最初に「重い皮膚病を患っている人が来た」と記されていますが、当時のユダヤ人なら、先ずそれを疑うでしょう。事実、当時の生活を知る者にとって、これは異常な出来事であり、ユダヤ人社会を知らない者の作り話としか思えなかったのです。

聖書で「重い皮膚病」と表現されている病気は、当時最も恐れられている病気でした。これは、必ずしも現代のハンセン氏病と同じとは言えませんが、極めて悪性の皮膚病全体を指す言葉でした。この病気に関しては、聖書が詳しく語っていますので、当時の生活に如何に密着した問題であったかが分かります。詳しいことは省略しますが、レビ記13章と14章の全てがこの病気に関する規定であることには驚かされます。

乾燥した砂漠地帯のため、水が乏しく、狭い居住空間に大家族が住む非衛生的な社会では、悪性皮膚病の伝染力は極めて強く、一度かかったら殆ど治ることなく、隔離も厳しく守られていました。病気に罹った者は誰が見ても明らかに異常な姿をしなければなりませんでした。自分から「わたしは汚れた者です」と叫ばなければなりません。町に入ることも許されませんでした。また、道で誰かに会っても挨拶を交わすことも出来ず、人に2メートル以上近づいてもなりませんでした。ですから、重い皮膚病の病人が前を通った店では「食物を買う人もいなくなった」とさえ言われているのもうなずけるでしょう。

さらに悲惨なことは、重い皮膚病は「普通の病気とは違う」と考えられたことです。普通の病気は神の怒りによって負わされた肉体の苦しみとみなされたり、或いは悪霊によるものとされていました。しかし、社会から追放されることはありませんでした。聖書にも、集会を行っている主イエスのもとへ友人たちが天井を破って吊り降ろされた「中風の男」、偉大な治癒力を受けたいと背後から主の衣に触った「長血の女」が記されていますが、彼らはいずれも社会から弾き出されてはいませんでした。

それに対して「重い皮膚病」は、神の御前に出ることが許されない「汚れ」としてとらえられており、レビ記第14章は、この汚れから清められたことが確認される時の儀式を語っています。主イエスが44節で、この人に「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と言っておられるのは、この儀式を行いなさいということです。この人が清められたことを確認するのは祭司です。汚れているか清いかを判断するのは祭司の役目だからです。ですから逆にある人を汚れていると宣言するのも祭司の務めで、レビ記の13章は、祭司はどういう場合にその人を汚れていると宣言しなければならないかが定められています。そして、汚れていると判断された人はどうしなければならないかが、レビ記13章45節と46節に語られているのです。そこを読んでみます。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」とあります。汚れていると判定されたら、その人は自分の汚れが人にうつらないように、人に会うごとに「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらなければならないのです。そしてさらに、「その人は独りで宿営の外に住まなければならない」とあるように、一般の人々の共同体の中にいることができません。「病」ではなく、「汚れ」であるがゆえに共同体から出て、別に暮らさなければならないのです。これが病であれば、家族や仲間たちが看護し、治療がなされていきます。しかし汚れている者は、その汚れを人に移さないために、家族や仲間たちから切り離され、隔離されてしまうのです。そこに、汚れていると判定された人々の、病気とはまた別の、深い苦しみ悲しみがあったのです。

その惨めさは、かつては一族の長でありながら、発病と同時に町の外のゴミ捨て場の灰の中に放置されたヨブの姿を思い浮かべれば十分でしょう。このような状態になった者は、極言すればもはや人間とは見做されないのです。

日本においてハンセン氏病の患者たちは、まさにこれと同じように家族や社会から切り離され、療養所に隔離されて深い苦しみ悲しみを体験してきました。しかもこの病気の原因が分かり、特効薬が開発されて治る病となってからも長く国の隔離政策が続き、不当な苦しみを受けてきたことを私たちは忘れてはなりません。主イエスに清めていただくことを求めてやって来たこの人が抱えていたのと同じ苦しみ悲しみを、ハンセン氏病の患者の人々は味わってきたのです。しかしこの苦しみをハンセン氏病の人々のみの苦しみとしてしまうのは間違いです。病ではなく汚れであるがゆえに生じる苦しみ悲しみは、様々なかたちで私たちの身近な所にあるのです。

現代の私たちから見れば「ひとつの病気」に過ぎないものを、何故、これ程までに「神の御前における汚れ」として規定するのか理解に苦しむところもありますが、重要なことは、当時の人々が「そう見做した」ということです。それほど恐ろしかったということでしょう。このようなことを確認した上で、40節を改めて見てみると、この出来事が如何に驚くべきことであったかが分かります。

この男は来てはならないところへやって来たのです。近づいてはならない人々のところへ近づきました。守らなければならない「私は汚れている」という言葉を叫びませんでした。彼は全ての律法を破っているのです。公然と律法を破る者は石打ちの刑に処すると定められていました。死刑です。

ですから、この日の出来事は、まさに当時では「有り得ないこと」であり、「考えられないこと」でした。その「有り得ないこと」「考えられないこと」が現実に起こったということが、ここに告げられているのです。

41節に、「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われ」たとあります。

ここの「深く憐れむ」という言葉は、本来、「はらわたが揺り動かされる」という意味の言葉です。そこから発展して、身体全体を揺り動かされるほどの感動を表す言葉となりました。主イエスは、彼の苦しみ悲しみをはらわたがよじれるような深い憐れみをもって感じ取って下さり、そして彼を清くしようと思し召しになったのです。

「手を差し伸べてその人に触れた。」これこそ革命的なことでした。この主イエスの意志、断固たる御業、聖書はそれを語りたいのです。接触を禁じ、隔離を命じた古い律法を、主御自身、明確に否定されました。

律法は何故、隔離を命じたのでしょうか。触れれば「汚れる」からです。しかし、主が触れた時、重い皮膚病は清められました。それは、この時「汚れが去った」と考えるより、「主イエスの清さが移った」と考えるべきです。主イエス、キリストとの触れ合いは、主が持っているものを戴くことであり、主から頂いた「清さ」がおのずから罪の汚れを取り除いてしまうのです。

主イエスのご意志は44節にも示されています。主イエスは彼にこうおっしゃいました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」。主イエスのご意志は、彼が祭司に体を見せ、清められたことを確認してもらい、レビ記14章に定められている儀式を経て人々に自分が清められたことを証明することでした。レビ記14章8節に、「清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる」とあります。それまでは宿営の外で暮らさなければならなかったのが、宿営に戻り、家族や仲間たちと再び共に生きることができるようになるのです。もはや「わたしは汚れた者です」と呼ばわり、人々を避けて生きなくてもよくなり、通常の社会生活に復帰できるのです。主イエスは彼がそのように社会復帰することを望んでおられるのです。

彼の「清めの儀式」を通して社会復帰を主イエスが望まれたのは単なる日常生活への復帰ではありません。汚れた者は神の御前に出て礼拝をすることができなかっただけではなく、汚れた者が民の中にいると、その汚れが民全体に移って、神の民イスラエル全体が汚れて神を礼拝することができなくなると考えられていました。その汚れが清められたというのは、神の民の一員として神の御前に出て礼拝をすることができるようになった、ということです。ですから彼の社会復帰とは、礼拝への復帰です。神と共に生きる信仰生活への復帰です。主イエスはそのことをこそ望まれ実現して下さったのです。

更に、44節で主イエスが彼におっしゃったことがもう一つあります。それは「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」ということです。主イエスが彼を清くしたことを誰にも言うな、ただ祭司にだけ体を見せ、清くなったことを確認してもらいなさい、と主イエスはおっしゃったのです。しかも43節には「厳しく注意して」とあります。ですからこれは、「このことはあまり人に言ってはいけないよ」という程度の穏やかな話ではありません。また43節の前半には「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし」ともあります。あなたと一緒にいる所を人に見られたくないからすぐに立ち去れ、とおっしゃったのです。何だかずいぶん冷たい態度です。清めていただいたこの人は、主イエスについて行きたい、自分も弟子になりたい、と思ったかもしれません。しかし主イエスはそれをお許しにならなかったのです。それは何故でしょうか。45節以下に、彼は主イエスのもとを立ち去ると、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」のです。主イエスが厳しく誰にも言うなとおっしゃったのに、「イエス様が私を清めて下さった」ということを彼は語らずにはいられなかったのです。その結果何が起ったか。「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」とあります。大勢の人々が主イエスのもとに押し寄せて来たのです。あまりに多くの人が群がって来るので、もう町に入ることができず、町の外の人のいない所に留まらざるを得なくなったのです。これらの人々が主イエスのもとに来たのは、病気の癒しや、悪霊からの解放や、汚れからの清めを求めてです。その人々の思いは、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というのとは全く違うものです。病の癒しや清めの業が独り歩きして伝わっていくとこうなることを主イエスは見通しておられたのです。人々が癒しや清めのみを求めて殺到してくることは、主イエスの願っていたところではありませんでした。主イエスはあくまでも、神の国の福音を宣べ伝え、人々が悔い改めて福音を信じるために宣教を行い、その一環として病の癒しや清めの業をしようとしておられたのです。それゆえにあんなに厳しく、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」とおっしゃったのです。

このことは、主イエスの十字架の死において、私たち全ての者にも与えられている恵みです。主イエス・キリストは、私たちと神様との間を隔て、私たちが神様の民として生きることを妨げている罪と汚れを全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。私たちの罪も、汚れも、それによる苦しみや悲しみも、十字架にかかって下さった主イエスが全て引き受けて下さったのです。この主イエスの恵みによって私たちは、神様の民とされ、こうして毎週神の御前に出て礼拝をささげ、神様と共に生きることができるのです。私たちの地上の歩みはなお罪と汚れの中にあります。自らの罪や汚れによって様々な苦しみや悲しみを味わうことがあります。また私たち自身が汚れた者を作り出したり、人をいじめ苦しめてしまうようなことも起ります。しかしそのような中で私たちは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスを信じて、主のみ前にひざまずき、「主よ、御心ならば、あなたは私を、私の罪と汚れから、そして苦しみや悲しみから、救って下さいます」と告白することができます。主イエス・キリストは私たちを深く憐れみ、み手を差し伸べて私たちに触れ、「清くなれ」と宣言して下さり、罪と汚れの苦しみ悲しみを取り除いて下さり、罪から解放して下さるのです。お祈りをいたします。

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