御心の中を生きよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌120番
讃美歌205番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 5篇12節 (旧約聖書838ページ)

5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い
とこしえに喜び歌います。
御名を愛する者はあなたに守られ
あなたによって喜び誇ります。

新約聖書:マルコによる福音書 10章13-16節 (新約聖書81ページ)

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

《説教》『御心の中を生きよ』

今日の、マルコによる福音書が語るところは、主イエスの十字架の待つエルサレムへの旅の途上です。

ガリラヤにおける活動も終わり、神が定められた十字架の時が近づいたことを悟られた主イエスは、弟子たちを連れ、エルサレムへ向けて足を速められていました。マルコは、その旅の途中で起きたこのエピソードを語るのです。

主イエスに敵対する人々の憎しみを含んだ行動は一層強まり、十字架の苦難が必然となったこの段階で、主イエスのもとに子供を連れて来るということは、周囲の人々の眼を意識するならば、この親たちにとって大胆な行為であったと言えるでしょう。ところが、そんな思いでやって来た人々を、弟子たちは「叱った」というのです。

これは、いったい何を意味しているのでしょうか。子供を連れて来た親たちに向かって「うるさい」と言って叱りつけたのでしょうか。聖書から具体的なことはよく分かりません。

これまで、主イエスが御言葉を語るときには、大人に混じって常に子供たちも集っていたと思われます。例えば、使徒言行録9章36節以下では、主イエスは傍にいた子供を抱き上げて説教の材料にしていますし、マタイ福音書14章21節で「五つのパンの奇跡」を行った時、そこに「子供がいた」ことが記されています。そして、初代の教会では、「家族全員、即ち子供連れで礼拝に出席する」ことが原則になっていました。「子供はうるさいから」と言って排除する考え方は、初めから聖書にはありません。むしろ「子供が共に居る方が正常な姿である」と言うべきでしょう。

それでは、何故、弟子たちは人々を叱ったのでしょうか。彼らは、「主イエスのために」集まって来た人々を押し止めたとも考えられています。

ある人は、この頃の「イエスの疲れ」を指摘します。また、次から次に主イエスに「あまりにも多くのことが求められている」とも言われ、追い迫る律法学者たちの憎しみの中で「大きな緊張を余儀なくされていた」ことも示唆されています。

これまでの長い旅と、その途中で繰り返されて来た反対者たちとの論争。そして今、十字架のエルサレムへ向かう主イエスの決然とした姿勢。このような状況の中で、弟子たちが主イエスを「しばらく、そっとしておいてあげたい」と考えたとしても少しも不思議はないでしょう。お傍に仕える弟子としての責任からこのように判断したとしても、それは当然の心遣いであったと見ることも出来ます。弟子たちは、恐らく、そう考えて子供連れて来た親たちを叱ったと思われます。

しかしながら、ここで主イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

イエスの憤りは大変珍しいことです。聖書の中で「イエスの憤り」が記されているところはほんの僅かであり、エルサレム神殿における「宮潔め」以外、直ちに思い起こすのも困難なほどです。しかも、「憤る」と訳されている言葉「avganakte,w (アガナクテオー)」が主イエスに用いられているのはここだけです。

さらにまた、弟子たちに語られた「来させなさい」「妨げてはならない」とは、いずれも、はっきりとした命令文であり、彼らのとった態度を「たしなめる」という程度のものもではなく、彼らの判断をはっきりと否定されています。子供たちを追い出そうとする弟子たちに対し、「追い出さなくても良い」とおっしゃっておられるのではなく、むしろ、追い出そうとしている弟子たちに対して、イエスは「激しく怒っておられる」のです。何故、主は、これ程までに怒られるのでしょうか。弟子たちの姿の何処に、これほどの主イエスの憤りを買うものがあったのでしょうか。

それは、「主イエスのもとに近づこうとする人を妨げた」からなのです。主の御前に出る人を妨害することは、主の最も嫌われることでした。たとえそれが、如何に主イエスのためであったとしても、なお、主の御許に近づく人々を止めてはならないのです。十字架へ向かう主イエスからすれば、神の御前に出る機会を奪うサタンの業以外の何ものでもありませんでした。主イエスの憤りの背後には、弟子たちに追い出された人々への強い愛があることを見なければなりません。

さらに、ここに連れて来られた子供と親の姿の中に、「人間本来のあるべき姿」も見なければなりません。家庭は、主の御心を表すべく造られて行くのです。

家庭が御心によるものであるならば、その家庭に生み出されてきたものは、「全て神の意志の下にある」と考えるのが当然です。よく、子供は夫婦の愛の結晶であると言われますが、それに間違いはありません。しかし、結婚に対する神の導きを信じる者は、その結婚の実りのひとつである子供の誕生も、当然、神よりの賜物と受けとめるべきなのです。

子供についての親のエゴイズムは、常にこの信仰から離れた所から生じるのです。旧約以来、結婚への招きは「子供を与える」という約束と結び付けられており、信仰者の家庭に産まれた子供たちは、産まれた瞬間から「神の国に所属している」と考えるべきです。それ故に、子供を主の御前に連れて行くことは親の義務であり、責任であると言えるでしょう。御心に応える正しい家庭生活はそこから始まります。神の国とは、このような生活を送る者の国であり、主イエスの祝福を受けなくては「家庭の祝福はありえない」ということこそ、信仰に生きる者の家庭なのです。

主イエスは、私たち小さな者の幸福のために、何時・如何なる時も御心を傾けて下さり、妨げる者を叱りつけてまで顧みて下さるのです。

主イエスは15節で、「子供のように神の国を受け入れる人」と言われました。「子供のように」とはどういうことでしょうか。子供のように純真な、汚れを知らない、ということでしょうか。そうではありません。子供は純真であり、汚れを知らないという考え方は聖書にはありません。今日、子供たちの間で起っている陰湿ないじめの問題一つを取っても、子供には罪や汚れがないというのは大人の勝手な願望に過ぎないことが分かります。子供は子供なりに罪を持っているのです。

主イエスが「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったのも、決して子供を理想化して言っておられるのではありません。ここには「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。「子供のように神の国を受け入れる」というのは、積極的な行為として語られているのではなくて、与えられたものをただ受ける、という受動的なことなのです。ここに出て来る子供たちは、親たちに連れて来られた者です。子供たちは、自分の意志で主イエスのもとに来たのではありません。子供たち自身が自分で主イエスの祝福を求めているのではないし、主イエスが宣べ伝えておられる神の国を自ら受け入れ、それを信じて来ているのではないのです。子供たちは、親に連れて来られるままに主イエスのもとに来たのです。そして主イエスが受け入れ、祝福して下さるなら彼らは祝福を受けるし、そうでないなら祝福を受けずに帰ることになるのです。子供たちは主イエスの祝福を全く受動的に、ただ受けるのみです。自分は良い行いをしています、これだけの正しさ、立派さを持っています、これだけのものを神様にお捧げし、奉仕しています、だから祝福して下さいなどと要求してもいません。主イエスはそのような子供たちを喜んで迎え入れて下さり、彼らを抱き上げ、手を置いて祝福して下さるのです。親たちは、主イエスに触れてもらって祝福をいただこうとして子供たちを連れて来たのです。それは神社で七五三のお祝いをするのと変わらない思いだったでしょう。主イエスは、子供たち一人一人をご自分の腕に抱き上げて下さった、それぞれの全身を、それぞれの人生の全体を、み手の内に置いて、祝福して下さったのです。

ここで子供とは、与えられたものを素直に受け入れる見本とも言える存在なのです。主イエスは、子供が親にすがりつくように、人は神に「すがりついて」生きるべきだとおっしゃっているのです。一切の自己主張、自己満足を排し、ただ神の庇護の下に生きる道を求める者、それこそが神の国に生きる人間の姿なのです。そして、そのような生き方を実現したのが御子イエスの生涯でした。

家族そろって主イエスの祝福を求めて来た人々を、何故、叱り退けるのか。神の喜びは何処にあると考えているのか。全ての人々を招く御心を妨げることが、いったい誰に許されるのか。誰に出来るのか。主イエスの憤りは、ここにあったのです。それは、御前に出る私たちを、他の何者にも代えがたく思って下さるキリストの愛そのものでした。その愛が、今も私たちに注がれているのです。私たちも、ただひたすらに主の御心の中を生きて行きましょう。

主イエス・キリストの眼差しが、私たちを神の国の民とされようと今も見詰め続けて下さっていることを感謝すべきでしょう。ここにこそ、神の子としての平安があるのです。

お祈りを致します。

祝福の下に

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌115番
讃美歌280番
讃美歌444番

《聖書箇所》

旧約聖書:箴言 30章18-19節 (旧約聖書1,031ページ)

30:18 わたしにとって、驚くべきことが三つ/知りえぬことが四つ。
30:19 天にある鷲の道/岩の上の蛇の道/大海の中の船の道/男がおとめに向かう道。

新約聖書:マルコによる福音書 10章1-12節 (新約聖書80ページ)

10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

《説教》『祝福の下に』

主イエスは、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」とあります。「ユダヤ地方」とは、エルサレムを中心とする地域です。また「ヨルダン川の向こう側」というのはペレアと呼ばれている地域のことです。

ペレアのことが、ここに出てくるのは何故でしょうか。当時ペレアは、ガリラヤ地方と同じく、ヘロデ・アンティパスが支配していました。エルサレムを中心とするユダヤは、ローマ帝国が直接治めており、その総督がポンティオ・ピラトだったわけですが、ガリラヤとペレアは、ローマの監督の下で、ヘロデが治めていたのです。このペレアで、ヘロデの支配下で、この問答が行われたことに大きな意味があるのです。というのは、本日の主題は、2節に「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」という問いが記されているように、離婚、離縁のことなのですが、この問題は、ヘロデの支配の下では触れてはならないタブーとされていたからです。その事情はこのマルコ福音書第6章14節以下に語られていました。ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻であったヘロディアを、フィリポと別れさせて結婚したのです。そのことを厳しく批判したのが、洗礼者ヨハネでした。彼は「兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言ったのです。そのために彼はヘロデに捕えられ、ついには首を切られてしまいました。ヘロデの支配下で公にこの問題に触れることは、このように死を招きかねないことだったのです。そのペレアで、ファリサイ派の人々が主イエスのもとに来て、「イエスを試そうとして」、この質問をしました。それは、単に主イエスの律法についての知識を試そうとしたということではなくて、ヘロデの支配下で敢えてこのことを問うことによって、主イエスを危機に陥れようとしているのです。主イエスがもしも、妻を離縁することはいけない、と答えるなら、洗礼者ヨハネと同じ運命をたどることになります。逆に、場合によっては離縁してもよいのだ、と答えるなら、主イエスは洗礼者ヨハネとは違って身を守るために律法を守らず、ヘロデを批判することを避けた、ということになります。主イエスを陥れ、返答次第では殺してしまうことができると思ったのです。

主イエスは5節で、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言っておられます。旧約聖書には確かに離縁についての教えがあります。申命記24章1節には、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」とあります。これがファリサイ派の人々が考えていた答えでした。確かに、ここには離婚の許可が記されています。そして、これを根拠にして、ユダヤ人社会では離婚が認められていました。

離婚が絶対的に禁じられているのではありませんでしたが、それは、人間の心が頑固だから、神様に背き逆らう罪に捕えられているからだと言われているのです。向かい合って共に生きていく努力を誠実にしていっても、それぞれが持っている頑固さ、罪や弱さのゆえに、どうしても共に生きることができなくなることもあります。互いに反目し合いながら形だけ夫婦であるという状態によって、お互いの罪がますます大きくなり、傷つけ合うことがエスカレートしてしまうということも起るでしょう。そのような場合に、より大きな罪や不幸を避けるために、離婚という選択肢もある、離婚した方がよいという場合もある、それが私たちプロテスタント教会の聖書の読み方です。ですからそれは、離婚が許されているか否かというような単純な、表面的な問題ではないのです。

ここで、ファリサイ派の人々が敢えてこの問題を主イエスへの「試み」として用いたという背景には、当時、この御言葉の解釈を巡って二つの立場があったからです。申命記の離婚理由には「恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったとき」と記されています。そこで、「恥ずべきこととは何か」ということを明らかにする必要が生じました。

当時のユダヤ教の律法学者には二つの学派がありました。シャンマイ派とヒルレル派です。「恥ずべきこと」の定義に関し、シャンマイ派は、「夫婦間の恥ずべきこととは姦淫の問題である」として、「恥ずべきこと」を「不品行」に限定しました。「性的関係の乱れが生じた場合、離婚は許される」としたのです。ただし、「恥ずべきこと」が、申命記では「妻に」と限定されているため、離婚の条件である「不品行」も「妻にのみ適用される」という不公平がありました。

一方、ヒルレル派は、「恥ずべきこと」の内容を、「妻として恥ずべきことの全て」と極めて広範に考えました。その結果、料理、容貌、態度などの全てが、「恥ずべきこと」として定義されたのです。やがて、「恥ずべきこと」よりも、それに続く「気に入らなくなったとき」という言葉のほうに重点が移り、有名なラビ・アキバという学者は「自分の妻よりも美しい女がいた場合にも適用される」とまで言ったと伝えられています。実に勝手なことだと笑われるかもしれませんが、人間とは、本来、勝手な者なのです。男と女は対等ではないと人格的に差別されていた社会で、この二つの立場のうち、どちらの解釈を人々が喜んだかは言うまでもないでしょう。そして人々は、自分たちに都合のよい解釈をしてくれるものに従いました。

今、主イエスに質問をしたファリサイ派の人々は、拡大的解釈を採ったヒルレル派であると思われます。大衆の人気を背景にして主イエスに挑戦して来たのです。しかしながら、このような大衆の人気、支持を得たという背後に、大きな危機があることに気づかないのが、何時の時代にもいる社会に迎合する(ポピュリズム)世俗的宗教者の惨めさです。そこでは、律法を神の御言葉として成り立たせている信仰の本質が見失われているのです。信仰とは神への服従です。御言葉への忠誠です。御言葉への服従と忠誠とは、御言葉が表す御心への臣従に他なりません。

律法を、神の御心の本質から、人間の都合に合わせて解釈し利用する人間の醜さがここにあります。その姿は、かつてのユダヤ人だけではないところに、この問題の根深さがあります。人間の要求、社会の要望に対し、「開かれた教会」などという美名を用いて、聖書の御言葉を自分たちの利益のために利用しようとする思惑は、どの時代にも決してなくならないのです。何よりも心すべきことは、御言葉に接する時、常に「神の御前に立つ畏れを持ち、御心を窺わなければならない」ということです。

5節で主イエスは、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」と言われました。ファリサイ派の人々は、主イエスが律法を否定することを期待していたのですが、主イエスは、御自身こそ律法の真の意味を明らかにする者であることを、ここに示されたのです。律法とは、罪の下にある人間の生き方を導くものであり、律法は、決して永遠・絶対的なものではなく、使徒パウロの表現によれば律法は、「人を福音に導く養育係」に過ぎません。

律法は、主イエス・キリストによって救いの御業が完成される時まで、罪の中にある人間を守り導くものです。言わば、不完全な人間に「それ以上の過ちを犯させないための保護措置」と言えるでしょう。それ故に、主イエスは、申命記の離婚規定について、「あなたたちの心が頑固なので、モーセはこのような掟を書いたのだ」と言われたのです。ここで「頑固」と訳されているギリシャ語の「sklhrokardi,an:スケーロカルディアン」とは、決して「頑固」という人間の性格を表す言葉ではありません。これは「干からびた心」という意味であり、「愛が消えうせて、干からびてしまった状態の心」のことです。文語訳は「汝らの心、無情により」と訳しています。名訳です。

愛が消え失せて干からびてしまった心。それは、もはや神が喜ばれる心でないのは当然でしょう。それ故に、モーセの規定は、むしろ、瑞々しい愛を失った人間に対する「告発と裁き」であったと考えるべきでしょう。いたわりを忘れ、互いに傷つけ合う「あなたがたの心の何処に愛があるのか」ということです。

ですから、申命記24章の規定は、「離縁状があれば離婚してもよい」ということに目的があったのではなく、当時の社会においてモーセの本心は「勝手に離婚することは許されない」と、女性を守ることに目的があったことも明らかです。

聖書が教える創造の信仰によれば、結婚とは、神によって造られ、選び出された「差し向かいとなる人」との巡り合いであり、差し向かいになり、互いに心と心とが響きあう相手との結合なのです。

私たちは、今日のファリサイ派の人々やその時代の人々のように、離婚を自分勝手なものと考えていないとしても、現在の自分の結婚生活が、この「神の摂理」に基づいているか否かを問われているのです。それ故に、本日の問題は、「離婚、是か非か」ということではなく、「あなたは今の生活は神の御心に適うものか」という、主イエスからの問いとして受け止めなければなりません。

「死後もなお夫婦であり続けるか否か」といった神学問題は別にしても、死を越え、死の先でも「夫婦一体でありたい」と願う時、単なる人間的感情を越えた「キリスト者としての家庭」こそが信仰の原点であることを忘れてはなりません。

この離婚についての主イエスの教え、いやむしろ結婚、夫婦とは何かという教えが、主イエスのエルサレムへの歩み、十字架の苦しみと死とに向けての歩みが始められる場面にあることに注意しなければなりません。

夫婦が互いに向かい合い、共に生きていく間には、人間の頑固さ、罪や弱さのゆえに様々な問題が生じ、傷つけ合うことが起きます。夫婦が共に生きることも、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みによって支えられているのです。主イエスによる罪の赦しがなければ、夫婦の関係も、助け合うよりもむしろ傷つけ合うことが多いものとなってしまうでしょう。

主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みの中でこそ私たちは、お互いに向かい合い、赦し合いながら共に生きていくための努力をしていくことができるのです。そしてそれは夫婦の関係においてのみでなく、私たちの人間関係の全てに通じることです。頑固さに捕えられており、罪と弱さを負って生きている私たちは、主イエス・キリストの十字架による赦しの中にあって、隣人としっかりと向かい合い、良い関係を築いていけるのです。

今から始まる新しい日々を、この信仰の自覚から始めようではありませんか。

お祈りを致しましょう。