主日礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌66番
讃美歌224番
讃美歌497番
《聖書箇所》
旧約聖書:イザヤ書 5章1-3節 (旧約聖書1,067ページ)
5:1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。
5:2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
5:3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
新約聖書:マルコによる福音書 12章1-12節 (新約聖書85ページ)
12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話
《説教》『さばき』
今日から、4月17日のイースターに向かって「受難節」に入ります。本日の聖書箇所は主イエスが語られた「譬え」です。「譬え」とは、普通、分かり難いことを分かり易くするための表現方法です。「例えば…」と言って、分かり易い身近な出来事に置き換えて、単純化したりします。このような「譬え」を明るい喩えと書いて「明喩」と言います。それに対し、問題が多岐にわたり、よく考えなければならないものを隠れた喩えと書いて「隠喩」と言います。聖書で主イエスは、「譬え」を大変よく用いられます。マルコによる福音書4章11節以下には主イエスが、「すべてが“たとえ”で示される。」とまで記されています。主イエスが語られた多くの「譬え」は「隠喩」と言われる難しいものもありますが、ここに理解しやすくとあるように、本日の「譬え」は、珍しく分かりやすい話です。何故なら、極めて具体的であり、また身近なものであったからです。
ここで語られるぶどう園の「譬え」は写実的です。「巡らされた垣」「掘られた絞り場」「見張りのやぐら」。それを農夫たちに貸して収穫を受け取る。また、そこで起こる地主と農夫たちとのさまざまな軋轢。その時代の至る所にあった農村風景です。ですから、この時代に生きて、この「譬え」を聞く人々にとって、まさに身近な問題であり、直ちに理解できる事柄でした。
1節の「ある人」とはぶどう園の持ち主で、この時代によくあった「不在地主」と考えられます。主人は「旅に出た」と記されていますが、これは旅行に出たのではありません。何故なら、物語を読んで行けば分かるように、「収穫を受け取るために遣わされた幾人もの僕たち」も「愛する息子」も、ぶどう園には住んでおらず、遠くにいる主人から送られて来るからです。ぶどう園の主人は、農園を農夫たちに任せ、自分の家に帰ったのです。パレスティナには不在地主が沢山いたと言われています。地主たちが、土地を農民に貸し、自分たちは気候の良いところに住むということは決して珍しいことではなく、また、このような農園をめぐってのゴタゴタはこの時代始終起こっていたようです。
主イエスがこの「譬え」を話された時、旧約聖書に親しんでいた人々は、ここで語られているぶどう園がイスラエルを意味していることを直ちに理解した筈です。先程お読み頂いたイザヤ書5章1~3節には、イスラエルが「主のぶどう畑」と表現されています。ぶどう園がイスラエルを指すとすれば、ここで語られている「ぶどう園の主人である『ある人』」とは、当然、主なる神と考えられます。
「農夫」とは、イスラエルの民衆を導き、神の民としての豊かな実りを得させる役目を与えられた指導者たち、特に神殿を中心とする宗教指導者たちのことです。「主人が旅に出た」というのは、主なる神が「その収穫の業を人間に委ねた」ということであり、「全てを委ねた」という主なる神の信頼が物語の前提です。
「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。」とある、「次々と送られて行った僕たち」とはイスラエルの歴史に登場する預言者たちのことです。旧約の預言者たちは、「主の僕」と呼ばれており、まさにイスラエルの宗教指導者たちは、主なる神から遣わされた「僕たち」だったのです。
預言者のアモスやホセアは誰にも相手にされず、語る言葉は聞き流され、警告は無視されました。エレミヤは人々に嘲られ、牢獄に入れられ、最後には石で打ち殺されました。イザヤは、エジプトに追われ、木の鋸でひき殺されたと伝えられています。主なる神がお遣わしになったいずれの預言者も軽んじられ、人間の反逆は明白でした。
当時のイスラエルでは、神殿信仰が、本来の信仰の姿を失い、宗教指導者たちが、主の御心を聴こうとせず、自分の思い、自分の要求を優先させ、神の主権を犯し続けて来たのです。
それに対して、ぶどう園の主人は、次々送り出す僕たちが袋叩きにあっても、侮辱されても、殺されても、驚くべき忍耐強さをもって僕たちを送り続けました。人間の罪、人間の悪、それが「決して本来の姿ではない」と、悔い改めることを願う主なる神の愛が、この主人の忍耐強さに表されているのです。
「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」とは、反逆に燃え上がる農夫たちに対する主人の常識を越えた判断でした。
この「たとえ話」は、何百年にもわたる信仰の裏切りを見ながら、それでも「御心を向けられるのが主なる神である」ということです。主なる神の御心は、裁きではなく、赦しであることが明らかです。悔い改めを期待する愛と信頼の極みが神の御心でありました。そして、神の御子キリストの到来が、長い裏切りの歴史の結論としての神の忍耐と信頼の最後の切り札であることが、イエス御自身によってここに語られたのです。
それにも拘らず、農夫たちは主人の愛する独り子さえも殺してしまいました。その目的は、「ぶどう園を自分たちのものにする」ということであることが、明らかにされています。人間の罪、神への反逆は、根本的に「自分が神の座に着く」という人間自身の罪の意志に基づいているのです。世界の主(あるじ)になることが人間の究極的な望みであり、それが「罪そのもの」です。そしてその罪は、主なる神の否定、御子キリストの抹殺へと至るのです。従って、罪の最終的な姿は、御子キリストの到来において明確になります。心のうちに秘められていたすべての悪が、御子キリストの御前で初めてその姿を現すのです。主なる神の主権を否定し、御子キリストと最終的に訣別することとなり、自分たちが勝利すると思い込むのです。あの農夫たちのように、御子キリストを殺すことによって、「これで勝った」と叫ぶのです。9節以下には、ぶどう園の主人が「戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」と、語られました。まさに、破滅は人間自身が招いたものです。神の裁きは単なる怒りではなく、あくまでも罪の中に閉じこもり、愛と信頼を裏切り、反抗の姿勢を変えようとしない人間自身が招いた結論です。しかしながら、この裁きは、反逆した農夫たちの「永遠の滅び」ということで終わってはいないのです。
この物語を語る主イエスの御心は、「農夫たちへの裁き」だけではなく、「もうひとつのこと」に向けられているのです。それは「ぶどう園をほかの人たちに与える」という御言葉が示唆するところなのです。
農園の主人、主なる神が行う裁きは究極的な判決です。罪に対する審判は「永遠の死」を意味していると言えるでしょう。しかしそれだけではなく、ここには、もう一つの裁きが告げられているのです。「もう一つの裁き」とは、人が人生で、本来は自分が収穫すべきであった豊かな実り・その喜びが、「他の人に与えられてしまう」ということです。「神の怒り」「永遠の滅び」といった言葉では、抽象的だと言って実感の伴わない人でも、このことならば理解出来るでしょう。
10節以下で主イエスは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」と語られました。ここにある「隅の親石」とは、建物の入口のアーチを造る時、最後にアーチの頂点にはめて形を整える「要石」(キーストーン)のことです。他の何物にも代え難い大切な務めを担う栄誉、人間は本来、そのために用意されていたのです。
これはまさに不思議なことで、この世の理屈に合わない「不合理なこと」とも言えましょう。ただ計り知ることの出来ない主なる神の愛にひれ伏すのみです。「譬え」として語られた主イエスの御心は、この神の愛を伝え、父なる神の救いの御計画が何であるのかを教えられたのです。
それを聞いたユダヤ人の指導者たちは、この主イエスの語られた「譬え」の意味をすぐ理解できました。しかし彼らは、逆に「怒った」のです。福音を聴くとは「分かればよい」というものではありません。それが「私のために為された最終的な恵みの業である」ことを受け入れ、その恵みに自分のすべてを委ねるのが信仰なのです。
私たちはさらに、この主イエスの譬えが語りかけていることを聞き取らなければなりません。私たちは祭司長でも律法学者でもユダヤ人の長老でもありませんし、民の指導者でもありませんが譬えが、この私たちとは関係がない、と言えるでしょうか。
この農夫たちが預かっていたぶどう園、それは私たちの人生であると言うこともできるのです。ぶどう園は全て主人が計画し作り整えたものであったように、私たちの命や人生は、神様が計画し、一人ひとりに授けて下さったものです。自分が生まれたくて自分の意思で生まれた人はいません。どんな身体なのか、男なのか女なのか、加えてどんな能力、賜物を持っているか、何時の時代に、どの地に、誰から生まれるか…といったことを自分で決めて生まれてきた人は一人もいません。全て神様が備え、与えて下さったものです。私たちは、神様から授かった、いや、預けられた命を、神様から与えられて生きている、それが私たちの人生であり、神様から預けられたぶどう園である自分の人生において、少しでも良い実を実らせようと努力しているのです。
神様は、主イエスを「隅の親石」として、新しい神の民である教会を築いて下さったのです。主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは、主イエスが隅の親石である教会の一員とされて、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命に与って生きることができるのです。そのようにして私たちは、私たちに命を与え、人生というぶどう園を整え、与えて下さっている神様との、良い関係に生きる者とされるのです。
私たちがこの譬えから聞き取るべきことは、私たちに命を与え、いろいろな実りを結ぶことができるように人生を整え導いて下さる神様が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という驚くべき信頼と、独り子の命をも与えて下さる限りない愛と忍耐とをもって私たちに語りかけ、良い交わりを結ぼうとして下さっている、ということです。この神様の語りかけに耳を開き、応えていくことが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは、神様が備え与えて下さったこの人生というぶどう園で、神様の栄光を表す良い実を結んでいくことができるのです。
お祈りを致します。