耐え忍ぶ者は救われる

《賛美歌》

讃美歌546番
讃美歌68番
讃美歌243番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 77編5-16節 (旧約聖書912ページ)

77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
77:6 いにしえの日々をわたしは思います/とこしえに続く年月を。
77:7 夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。
77:8 「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。
77:9 主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
77:10 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ
77:11 わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」
77:12 わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け
77:13 あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。
77:14 神よ、あなたの聖なる道を思えば/あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
77:15 あなたは奇跡を行われる神/諸国の民の中に御力を示されました。
77:16 御腕をもって御自分の民を/ヤコブとヨセフの子らを贖われました。

新約聖書  マルコによる福音書 13章1-13節 (新約聖書88ページ)

◆神殿の崩壊を予告する

13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

◆終末の徴

13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

《説教》『耐え忍ぶ者は救われる』

本日はマルコによる福音書第13章の御言葉が与えられました。私達の信仰生活は「最後まで耐え忍ぶ」歩みであると言うことが出来るでしょう。「最後」というのは、主なる神の救いの御支配が完成する時です。終わりの時、終末とも言われます。

聖書は、はっきりとこの世の最初、創造と、この世の終わり、終末を語ります。聖書の世界観は、すべてのことが繰り返されて行く輪廻転生的なものではなく、創造から終末に向かって一筋に進んで行く直線的なものなのです。

今日のマルコ福音書の13章は、この福音書において主イエスの教えをまとめて語っている最後の部分です。次の14章からは受難の物語に入っていきます。その直前のこの13章は「小黙示録」とも呼ばれます。「小さな黙示録」です。ということは「大きな黙示録」があるわけで、それが新約聖書の最後、「ヨハネの黙示録」です。そのヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難に、主イエス・キリストが勝利し、そのご支配が完成し、主に従って生きた信仰者の救い、永遠の命が実現することが語られています。そのヨハネの黙示録と同じように、このマルコ13章にも、この世の終わりのことが語られているのです。しかもここでは主イエスご自身がそれを語っておられます。十字架につけられる直前に、主イエスは最後の教えとして、世の終わりのことをお語りになったのです。

今日は、この終末についてマルコ福音書から読み取っていきたいと思います。

13章始めには、この小黙示録がどのような経緯で語られたのかが示されています。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」とあります。主イエスは弟子たちと共にエルサレムに来られ、神殿に入り、その境内で人々に教えを語り、また律法学者たちと論争しておられました。そのことが11章以来語られてきたのです。そのような一日が終わり、夕方になって神殿の境内を出て行こうとした時に、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったのです。この弟子の言葉は正直な感想でした。当時のエルサレム神殿は、あのヘロデ大王が何十年もの歳月をかけて改築したまことに壮麗なものでした。現在、ユダヤ人が祈っている姿が時々報道されるいわゆる「嘆きの壁」というのは、このエルサレム神殿の僅かに残っている壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていたのです。ガリラヤの田舎から出て来て初めてこの神殿を見た弟子たちが、その壮麗さに息を呑み、圧倒されたとしても不思議ではありません。けれども主イエスはこれに対して「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来るのだ、と主イエスはおっしゃったのです。実はこの神殿破壊は、主イエスが十字架に架かられて暫らく後の紀元70年に現実となりました。ローマ帝国によって、このエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終ってしまうのです。そして神殿の中心部分があったと思われる場所には、今は「黄金の岩のドーム」と呼ばれるイスラム教のモスクが建っているのです。

主イエスは、数十年後に起るこの神殿の崩壊を予告なさったわけですが、私たちはこれを、主イエスには予知能力があったとか、時代の流れを見抜く敏感な感覚があった、というようなこととして捉えてしまってはなりません。そこにはもっと深い意味があります。その第一は、主イエスは、神殿の持っている問題性を見つめておられた、ということです。神殿とは、神様がそこでご自分の民と出会って下さり、そこへ行けば神様を礼拝することができる場所です。それはもともとは、イスラエルの民のただ中に主なる神様がいて下さる、神様が民と共に歩んで下さる、という恵みを覚えるための場所でした。ところがその意味が次第に逆転してしまって、神殿があるから、神は我々と共におられるのだ、神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えられるようになっていったのです。主イエスは先ず「これら大きな建物を見ているのか」と仰っているように、建物に目を向ける弟子の態度を問題にしているのです。目を見張るような神殿が建てられている事実をもって、ここに神がおられると考えていたことは、人間の宗教心が生み出す偶像礼拝であると言っても良いでしょう。そこには、神の居場所を人間が決めて、人間が好き勝手に神を所有するということが起こります。旧約聖書のエレミヤ書7章11節には「神殿を強盗の巣窟にしてる」といった厳しい表現で、神殿があるから大丈夫、というイスラエルの民の安易な思いへの警告が語られています。「我々には主の神殿がある、という虚しい言葉に依り頼んではならない。主に真実に従うことなしに、ただ神殿に依り頼んでもそれは虚しい。そのような神殿を主は滅ぼすだろう」と言われているのです。どのような立派な建物であっても、いや立派な建物であればある程、人間の思いが神に向かうのではなくてその建物に向かっていってしまう、神に信頼し、依り頼むのでなく、立派な建物を見つめてそれによって安心を得ようとする。主イエスはそういう思いを厳しく戒め、壮麗な神殿に頼ることの虚しさを教えておられるのです。これが、主イエスが語られた第一の意味です。

しかしさらにもっと深いことがこのみ言葉には込められています。主イエスは、神殿における礼拝そのものの終わりを見つめておられるのです。神殿は礼拝の場ですが、その礼拝は、動物の犠牲を献げることを中心としていました。動物の命を身代わりとして献げる礼拝によって、神に罪を赦していただき、神の民として歩み続けることができる、それが、イスラエルの民が神殿において行なってきた礼拝でした。しかし、神の独り子であられる主イエスが来られ、まもなくご自分の体を、私たちの罪の赦し、贖いのための完全な犠牲(いけにえ)として、十字架の上で献げて下さろうとしているのです。この主イエスの十字架の死によって、私たちの罪の赦し、贖いは完成し、動物の犠牲による贖いはその意味を失うのです。主イエスが来られたことによって、礼拝は、動物を献げることによってではなく、主イエスによる救いを宣べ伝えるみ言葉を聞き、主イエスとの交わりを与えられることによってこそ成り立つようになったのです。神殿崩壊の予告は、神殿における礼拝の終わり、神殿はもはや礼拝のためには不要となった、ということを語っておられるのです。私たち人間の偶像、神殿は、永遠のものではない、それ故、必ず崩れるものなのです。

3節以下で、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに主イエスに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。神殿の崩壊についての話題の後に、弟子たちは世の終わりのことについて尋ねました。弟子たちが語る「そのこと」と言うのは、「神殿の崩壊」のことであると共に、世の終わり、終末のことです。弟子たちは、神殿の崩壊と世の終わりを結びつけたのです。これだけ大きく荘厳な神殿、神が住みたもう家が崩壊するというのであれば、それこそ、その時は世の終わりであるにちがいないという思いをもったのです。大災害や世界大戦のようなものが起こることによって破滅が訪れて、世界は終わるというイメージをもつということは私たちにもあることです。弟子たちは、今、目の前にそびえ立つ、立派な神殿が崩壊するということを聞き、そのような世の終わりがいつ来るのかを知ろうとしたのです。

終末のしるし、終末の時を聞き出そうとした弟子たちに主イエスは話し始められます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。多くの偽預言者が登場するというのです。さらに続けて、主イエスは、私たちが世の終わりであると思いがちな事態をお語りになっています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」。更に、12節では次のように言われています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して 殺すだろう」。ここで語られていることは、誰しも目を覆いたくなるような事態です。しかし、一方で、ここで語られていることは、私たちが今、現在、直面していることであると言ってよいのではないでしょうか。世界を見渡せば戦争や内戦があります。テロの恐怖も増しています。まさに、国、民の間に争いがあるのです。さらに、「地震」「飢饉」と言われている自然災害も、私たちに身近なことです。ここ最近、地球は災害に見舞われていると言って良いでしょう。日本においても、いくつかの大きな地震が起こりました。世界では、サイクロンや山火事、異常気象等、年々深刻になる環境破壊による災害が生じています。人間の、とどまることを知らない豊かさの追求が、際限なく石油を燃やし、畑にするための土地を求めて熱帯雨林を焼き払うことによって、膨大な二酸化炭素が放出されて、地球温暖化が進んでいるのです。人間の身勝手な行いは、地球に壊滅的なダメージを与えていて、この地球は、後どれだけ私たちが住むことが出来る場所として保たれるかということすら心配される状況ではないでしょうか。又、兄弟、親子の間の殺人事件も、たびたび報道されています。現代人の精神的荒廃を思わずにはいられません。ここで主イエスがお語りになっていることは、これから将来にわたって起こるであろうことと言うよりも、これまでの人間の歴史において、そして、今私たちが生きている現在において起こっていることなのです。主イエスが二千年前に預言されたことが今起こっていると考えることもできます。主イエスは、私たちがどのような時代を生きるかに関わらず直面する世の現実をお語りになっているのです。主イエスは、私たちが、世の終わりと思ってしまうような事態をお語りになった上で、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と仰るのです。

9節以下に、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とあります。様々な噂が流れ、預言者まがいの者が現れます。しかし、そこで、それらに惑わされるのではなく自分のことに気をつけろと言われるのです。何に気をつけるのでしょうか。それは、自分がしっかりと、主なる神の救いの希望に生かされているか、主なる神の恵みを見失うことなく歩んでいるかということです。

主イエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれたのです。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を立てたいと考えます。

主イエスは11節でこのように約束して下さっています。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。聖霊はこのように働いて下さるのです。私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくなどという力を持っていません。それを私たちにさせて下さるのは聖霊なのです。聖霊は、様々な苦しみの中にいる私たちに、その苦しみを経て世の終わりに実現する神様の救いを見つめさせて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中で耐え忍んで信仰を守ることができ、そして主イエスを証ししていく言葉を与えられるのです。

キリスト教信仰のゆえに迫害を受けたこと自体が人類の長い歴史上で信仰の証しの機会となっているのです。その厳しい迫害の中でも、主イエス・キリストを証ししていくことによって、10節の、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」という神の御心が実現していくのです。

祈りつつ、御言葉に立って歩みを続けることこそ、私たちの信仰生活なのです。

世の終わりは既に来ているのです。その現実の中で、私たちは、ただひたすら祈りつつ、御言葉に立つのです。主イエスがお語りになり、十字架と復活によって示して下さった救いの約束の御言葉に立つのです。聖霊の働きに身を委ねつつ、真の平和を作り出す歩みをしていくのです。それは私たちにとって、忍耐を強いるものです。神様の言葉より人の言葉に聞くことが多く、真の御言葉に聞くよりも、様々なものを偶像とし、それを拝むことによって安心しようとするのが私たち人間だからです。

そのような私たちに主イエス・キリストが、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 と語って下さっているのです。この御言葉に促されて、私たちは、神様がなして下さる救いを見失わずに、この世で、真の救いの御支配を待つ希望に満ちた日々を歩み続ける者となるのです。

お祈りを致します。

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