時が来た

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌228番
讃美歌238番

《聖書箇所》

新約聖書:マルコによる福音書 14章32-42節 (新約聖書92ページ)

◆ゲツセマネで祈る
14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

《説教》『時が来た』

本日は、本来ならばCS合同礼拝の日ですが、ご覧の様に教会学校の生徒さんは皆さんお休みなので大人向けにお話しをいたします。

また、今日は、世界的な新型コロナウィルス感染症流行で、日本国内の2回目の「緊急事態宣言」が先週21日をもって解除されましたが、実際はワクチン接種もまったく進んでおらず、リバウンドの流行拡大が極めて心配されています。こんな中での礼拝です。感染が心配で礼拝参加を遠慮されている方々も居られます。皆様是非とも、感染防止に心掛け手指消毒して、三密防止してお聞きください。

本日の始めにある「ゲッセマネ」ですが、これはヘブル語で「油絞り」という意味です。エルサレムの町を囲む城壁の外の東側にあるオリーブ山の麓にあった、オリーブ油を絞る小さな庭園の「油搾り場」でした。ここは、キリスト者にとって、主イエスのお苦しみを偲ぶ大切な場所です。とりわけ、受難節の最期の「棕櫚の主日」の今日は思いを馳せる日であるとも言えましょう。

最後の食事いわゆる「最後の晩餐」を終えた主イエスは、弟子たちを連れてこの場所に来られました。そして、八人の弟子たちを入口に留め、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れてゲッセマネの中に入り、次に、ペトロたちを残して、お一人でさらに奥へ入って行かれたと記されています。

さほど広い場所ではありません。それなのに、その都度「ここに座っていなさい」(32)「ここを離れず」(34)と、それぞれの弟子たちに待つべき場所を指示しておられます。

今日のゲッセマネの物語は、主イエス・キリスト御自身が選び出される人々の物語であり、主イエスが「ここで待て」と言われたとき、待つ者の姿の大切さが語られているのです。

かつて、シナイ山の麓で、神に呼ばれて山に登るモーセから、「ここで待て」と言われたイスラエルの長老たちが、その後、どんな醜態を演じたかを思い出してみましょう。モーセに率いられていた筈のイスラエルの人々の眼は、主なる神以外のものに向けられて行ってしまいました。主なる神の大いなる御業がなされるに際して、それを待つ者の姿勢が問われるのも当然でありましよう。

今、神の御業の頂点とも言うべき主イエスの十字架の御業の直前の重大な時に、主イエスに選ばれ、主イエスが生命を十字架の御業でささげられた、その後を託されるべき者が、どのように御心に応えたのか。今日は、それを語る痛恨の物語とも言えましょう。

33節には、「ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた」とあり、続いて「ひどく恐れてもだえ始め」られたとありますが、口語訳では「恐れおののき、また悩み始めて」と訳されており、また文語訳では「いたく驚き、かつ悲しみ出でて」と訳されています。また、34節には「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語られており、ルカ福音書では、ここのところに「汗が血の滴るように地面に落ちた」という言葉を加えています(ルカ22:44)。

これは、主イエスが平静でいられなかった異常な状態であると言えます。そして、この主イエスを襲う異常さの中にこそ、人間自身の異常さというべき人間の罪深さを見い出さなければなりません。

死に直面した人間の姿を思う時、私たちは、このゲッセマネの主イエスの御姿に何を見るのでしょうか。十字架へ向かう主イエスの御姿を仰ぐ時、その何処に「死を恐れるイエスが描かれているか」を、先ず見なければなりません。

十字架の御業を過越の祭りの時に実現しようと決められたのは、主イエス御自身でした。大祭司を初めとする人間の思いでは、14章2節にあるように「祭りの間はやめておこう」ということでしたが、主イエスがイスカリオテのユダの密告を許したため、急遽この時に十字架刑が行われたのです。このように、主イエスは、自ら十字架に向かわれたのであり、十字架を避けようとされたり、別の救いの方法を探すようなことはされませんでした。むしろ、御自身を十字架へ追い込もうとするイスカリオテのユダに、行動の自由を与えておられ、止めようとはなさいませんでした。

それ故に、十字架への道は、御子イエス御自身の意志によって選び取られた道であったと言うべきでしょう。その主イエス・キリストが、どうして死を恐れる筈があるでしょうか。

33節以下に記されている「怖れと嘆き」を、主イエス御自身の死に対する恐れと嘆きと見ると、根本的に間違った理解となってしまいます。主イエスの十字架を「この私、即ち、自分自身の問題である」ということに気付かない人には、所詮、ゲッセマネは理解できないと言わざるを得ません。

聖書に記されている「死」とは何でしょうか。それは生物的な「死」ではありません。「形あるもの必ず滅ぶ」などという無常観も聖書にはありません。聖書の「死」は、神の信頼を裏切り、神の愛に背を向けた人間の罪に対する「神の裁き」なのです。「死」の恐怖は、未知と不安による怖れではなく、罪を激しく追及する義なる神の審きです。この人間の罪を知って、その異常な状態を解消するために世に来られたのが、神の御子イエス・キリストでした。

主イエスの苦しみは、神の御子主イエス御自身の死の問題ではなく、神の独り子が十字架に付かなければならない程の人間の罪深さに向けられた、神の怒りの激しさに直面する「畏れ」なのです。それ故に、神の御子をこれ程までに悲しませ苦しませたのが「私たち自身の罪」であることに、気付かなければなりません。しかも主イエスは、「御心に適うことが行われますように」と祈っています。「御心のままに」という祈りが出来る者こそ、本当の神に従う者です。神への絶対服従こそ、人間にとってもっとも大切なことであるからです。

この主イエスの祈りこそが、罪の中に滅んで行く者への救いの祈りです。

主イエスは、今、すべての人の罪を、私たちが受けるべき「罪がもたらす苦しみ」を、神の御前にお一人で十字架の上で一身に引き受けようとしてくださっているのです。

37節から40節にかけて、弟子たちが眠っているのを起こして目を覚ましている様に注意をし、再び祈られて戻ってみると、何と弟子たちが、また眠り込んでしまっているのをご覧になったとあります。

実に情けない弟子たちの姿と言わざるを得ません。これが、十字架と復活の出来事を全世界に宣べ伝えさせるべく主イエスが選んだ人々でした。主イエスご自身が選び、日々共に過ごし自ら親しく教え、宣教の務めのすべてを託そうとしている人々です。主イエスの招きに応え、家を棄て、仕事も棄て、文字通り寝食を共にし、各地を巡り歩いて来た人々です。主イエス・キリストへの忠誠心が私たち以下であったとは到底考えられません。その弟子たちが、ギリシャ語で石を投げれば届くほどの近いところで、主イエスが血の汗を流して祈っている時に、居眠りをしていたというのです。

三度目に戻って来られた主イエスは、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」(41)と言われました。この主イエスの言葉は何を語っているのでしょうか。口語訳聖書ではここは「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう」となっています。この訳は明らかに、眠っている弟子たちに対する叱責の言葉、あるいは「あきれた、こいつらはもうどうしようもない」と諦めたような響きになっています。しかし原文は「眠っているのか、休んでいるのか」という疑問文ではありません。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい」。それは弟子たちへの叱責ではないのです。その直ぐ後には「時が来た」とあります。それは主イエスが捕えられ、十字架につけられる時が来た、ということです。

その十字架の時、弟子たちは眠っているどころか、あわてふためき、十字架に架けられようとする主イエスを見捨てて結局主イエスを置いて逃げてしまうのです。あるいは主イエスを知らないとまで言ってしまうのです。

その「十字架の時が来る」までのしばらくの間、弟子たちは眠り込んでいる、主イエスはそのことを咎めておられると言うよりも、ある同情をもって彼らを見つめて下さっているのです。「休んでいるのか」という言葉にそれが感じられます。心は燃えても肉体が弱いあなたがたは、疲れ果てて眠っている、休んでしまっている、それは彼らの信仰における弱さと挫折を、責めるのではなく同情をもって見つめて下さっている言葉なのです。

弟子たちの、そして私たちの、弱さと挫折の現実のただ中で、主イエスはお一人で、彼らのために、そして私たちのために、死ぬほどの苦しみ悲しみを背負い、その中で祈り続けて下さったのです。

信仰において眠り込み、祈りを失い、挫折していく私たちを、主イエスの祈りが、死ぬまでの苦しみと悲しみの中でなお父なる神に深く信頼し、その御心こそが成るようにと祈って下さったその祈りが、支えて下さっているのです。

私たちは、すぐに眠り込んでしまい、祈りを失ってしまう者ですが、この主イエスのゲツセマネの祈りに支えられて、なお神様の下に留まり、主イエスの祈りに導かれて、「アッバ、父よ」、「天にまします我らの父よ」と新たに祈っていくことができるのです。

主イエスのゲツセマネの祈りが、すぐに眠り込んでしまい、祈りを失ってしまう私たちをしっかりと支えて下さっている。苦しみ悲しみに勝利することへの道は、そこにこそ開かれているのです。

三人の弟子たちはこのことを体験するために特別に選ばれたのでした。彼らは主イエスが死者を生き返らせた奇跡に立ち会い、主イエスの栄光のお姿を見る体験を与えられました。その彼らは、このゲツセマネにおいて、主を支えるために目を覚ましていることができない自分たちの弱さと挫折をも体験し、しかしそのような罪人である自分たちのために主イエスが祈り、支えて下さっていることを体験したのです。

神が定められた「時」の前で、もし、私たちに何かをすることが出来るとするならば、それは「祈り」以外の何ものでもないのです。主イエスは「祈れ」と言われたのです。この夜、イエス・キリストが弟子たちに命じられたのは、「祈れ」ということだけでした。「祈り」をもって主イエス・キリストに応えることこそ、選ばれて教会に召し集められた者の姿であるのです。

お祈りを致しましょう。

受難節第5主日礼拝 (2021/3/28 № 3746)

 

司会:齋藤 正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏 集会自粛を中止して、主日礼拝を再開します
招詞
讃美 11番
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 13056節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 228
聖書 マルコによる福音書 143242 (新約 p.92)
説教
「時が来た」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 238
献金 547 勝田令子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:原田史子