安息日の主

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌239番
讃美歌497番
讃美歌67番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 5章12-14節 (旧約聖書289ページ)

5:12  安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
5:13  六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
5:14  七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。

新約聖書:マルコによる福音書 2章23-28節 (新約聖書64ページ)

2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

《説教》 『安息日の主』

明けましておめでとうございます。今年もこうして皆様と共に聖書に耳を傾ける新しい年を迎えられたことを感謝します。今年は引き続きマルコによる福音書を連続してご一緒に読み進めて行きたいと思いますので、宜しくお願いいたします。

本日は「安息日」に関するお話ですが、「安息日」とは聖書で定められている最も重要な規定です。それがどのような意味で定められた日であるかを、先ず確認することが大切です。

ヘブライ語で“シャッバット”と呼ばれる「安息日」とは「休む」という意味です。そのことから、誰でも安息日と言えば、「休みの日」と考えるのが当然かもしれません。しかし、キリスト者であるならば、この「休む」ということが何から始まり、何を意味しているかを、聖書から考えてみたいものです。

この「安息日」とは、先ず第一に、「神様が祝福し、聖別された日」です。それは旧約聖書2ページ、創世記2章1~3節にあるように、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」と、創造の御業の最期に祝福し、聖別された日でした。

第二には、「神様との契約のしるしの日」であり、生命をかけて守らなければならない「聖なる日」「最も厳かな日」です。それは、旧約聖書146ページ、出エジプト記31章13~16節にあるように、「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。」と、死をもってしても守るべき日でした。

第三には、出エジプト、「神様の救出を想い起こす日」です。旧約聖書289ページ、申命記5章15節には、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」とあります。

これら三つが、「安息日の制定」です。神の民イスラエルは、この安息日を厳守することで、周囲の諸民族の中に埋没しがちな弱小民族でありながら、自分たちの独自性とアイデンティティを維持し続けて来ました。

安息日は確かに「休みの日」です。如何なる仕事もしてはならず、それを汚す者、即ち仕事をする者は死刑に処せられると定められた厳粛な日です。同時に一週間に一回の休日でもありました。しかし、その「休み」とは、人間が身体の疲れを癒すことに第一の目的があるのではなく、ましてや、天地創造された「神様の休養」にお付き合いをする日でもありません。

天地創造の第七の日に「神はその日を聖別された」と記されています。「聖」と訳されているヘブル語の“コーデシュ”は、元来「分ける」「分離する」という意味で、信仰の問題に用いられる場合、神と人間との分離を示し、神に属するものと人間に属するものとの区別を表しました。「聖なるもの」とは「神にのみ属するもの」であり、「神によって特別に選ばれたもの」「特別により分けられたもの」を意味するのです。天地創造の第七の日を「神がその日を聖別された」ということは、その日を「特別な日として定められた」ということです。「特別な日」とは「神の創造を覚える日」であり、「神の契約の記念日」であり、「人間を奴隷の苦しみから救い出された神」への信仰を新たにする日なのです。主なる神の恵みを思い、「神の民・しもべ」としての姿を明らかにし、礼拝を献げる日であり、『その礼拝を守るため』に仕事を休むのです。

「仕事を休む」とは、「主のために休む」のであり、主なる神の御心に応える時、結果的に、一週間の労働で疲れた身体を休めることになるのです。三千年以上の昔から一週間に一度仕事を休んでいたのは、イスラエル民族をおいて他にありませんでした。六日間の労働で疲れた身体に安らぎを与え、社会生活の中で荒んだ心に神様を仰ぐ喜びを呼び戻すことが、安息日を定められた神の御心でした。安息日とは、私たち人間を見詰められる神の御心、愛の満ち溢れる日なのです。

本日の、マルコ福音書2章23節には、「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」とあります。実にのどかな光景で、都会生活では味わえない農村風景が本日の舞台です。時は安息日とあります。弟子たちは何故「麦の穂を摘み始めた」のでしょうか。よく、面白半分で、何気なく道端の木の枝を折ったり、草をむしったりすることがあります。しかし>
この時の弟子たちは、マタイ福音書12章1節によると、「空腹になったので」と理由が記されています。そしてこれは、イスラエルでは認められていることでした。律法にはこのように定められています。旧約聖書317ページ、申命記23章25~26節に、「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよい>が、その麦畑で鎌を使ってはならない。」と、あります。これは、「家に持って帰るほど取ってはならないが、そこで食べるのはよい」ということです。おおよそ、一人の人が腹一杯食べたとしても、どれほどの損害になるのか。まして、そのようなことをする人はよほどの空腹であり、その空腹を癒すことが出来ることを喜ぶべきではないのか。これが律法というものの本来の精神です。律法は神から与えられた戒めであり、人間が正しく生きるための道しるべです。神が教えて下さった人間の正しい生き方とは、疲れた者を慰め、飢えた者を満たすことにあります。貧しい者が苦しむことなく、互いの助け合いによって日々の生活を喜ぶことが出来る生き方なのです。

では、ファリサイ派の人々は何を非難したのでしょうか。24節にあるように、「安息日にしてはならないことをした」というのがその理由でした。「安息日にしてはならないこと」とは、先程の出エジプト記31章14節以下に記されている通り「仕事」です。既に見て来たとおり、律法は安息日に仕事をすることを固く禁じていました。そこで神の御民として直ちに問題にせざるを得ないのは、それでは「仕事とは何か」という定義です。「してよい事」と「してはいけない事」の境目を明らかにしなければ、律法に従う生活を遵守することが出来ません。そこで律法学者たちは、律法の内容を事細かに定義して行きました。紀元二百年頃に編纂された権威ある口伝律法集ミシュナーには、伝承されて来た膨大な規定が残され、安息日に関する規定だけでも、何と24章にもわたって記されています。

ファリサイ派が律法を何よりも大切なものとして受け入れ、御言葉を重んじたということ自体は誤りではありません。律法は神より与えられたものであり、御心そのものと考えられていました。しかしながら、律法を見る彼らの眼が、律法本来の精神から離れ、「それをどのように守るか」ということのみに向けられたことが問題なのです。安息日は「聖なる日」であり大切な日です。しかしファリサイ派の眼は、「安息」即ち「休む」ということへ重点的に向けられていました。律法の専門家として、「安息日には仕事を休まなければならない」と教え、このことに「神の民イスラエルの基本的な姿が示されなければならない」と説いたのです。本来の目的と付随的な結果とが入れ替わってしまったと言えるでしょう。

このような理解に立つファリサイ派によれば、この時の主イエスの弟子たちの行為は「安息日に禁じられている四つの罪」を犯していることになります。麦の穂を摘むことは「刈り入れの罪」、穂から実を取ることは「籾殻を取り分ける罪」、手でもんで食べることは「臼で引く罪」、そしてこれらを合わせて「食事の準備をした罪」ということです。

25節から26節で主イエスは、「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」と言われました。

これは旧約聖書サムエル記上の21章1節以下に記されていることです。昔、サウルに追われ逃れたダビデがノブの聖所に立ち寄った時、祭司アヒメレクは、空腹で逃亡中のダビデに、祭司以外の者が食べてはならない「祭壇から下げてきた聖別された供え物のパン」を与えました。これは非常の場合、「例外はあり得る」という有名な故事であり、規定上は違反であったとしても律法の精神はそこにあるという実例です。

安息日に麦の穂を摘んだ弟子たちを責めるファリサイ派の人たちに、主イエスは「形を守ること」ではなく、「御心に従うこと」に重要な視点があることを告げたのです。ファリサイ派の立場から言えば弟子たちの行為は明白に律法違反でした。しかしそれは、父なる神がどのような眼差しで空腹な者を御覧になっているかということは、全く考えられていません。空腹に苦しむ者に、「安息日だから空腹のままで我慢せよ」と主なる神が言われるでしょうか。そもそも、聖書の何処にも「安息日に食事をしてはならない」などとは書かれていません。むしろ、安息日こそ、人間が最も大切にしなければならない日なのです。愛し合い、助け合い、支え合って生きる人間の姿を喜ばれるのが御心であり、そのように生きる人々との交わりの日を望まれるのが主なる神です。

弟子たちが麦の穂を摘んだことの背景に、この神の御心を見なければなりません。神が定められた安息日に、御子キリストと共に歩み、神によって許された食物を採る、この姿こそ、恵みの中にある人間の姿そのものと言えるでしょう。

さらに重要なことは、ファリサイ派の人々が安息日を論じるに当って、「礼拝」について全く触れていないということです。もし、主イエスの弟子たちがこの日、神を讃美することを怠っていたならば、この非難は正当であったでしょう。礼拝を怠ることは、どんな理由があったとしても正しい弁明にはなりません。何故なら、安息日こそが礼拝をするための日であり、仕事を休むことは礼拝を守ることから生じる恩寵の結果であったからです。そのことから見ても、ファリサイ派が、安息日の意味を「礼拝」よりも「仕事を休む」ことの方に重点を移してしまったことは明らかでしょう。

現代でも、この意味でのファリサイ主義は横行しています。日曜日は仕事を休む日であり、遊ぶ日、休息の日、家族慰安の日という考えが支配しています。「日曜日に何故家族サービスをしないのか」と言われて後ろめたい思いをする人もあるでしょう。「何故、せっかくの休みに教会へ行かなければならないのか」と言われて反論出来ない奇妙なクリスチャンも少なくありません。熱心なファリサイ派も不熱心な現代のクリスチャンも、主なる神が居られることを忘れている姿では、全く同じだと言わざるを得ません。

そして27節から28節で更に、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」と言われました。

「人のための安息日」とは、人が自由に行動して良いということではなく、人間が「正しい人間であるための日」という意味で理解すべきです。「イエス・キリストは主である」という告白を、他の六日間よりも純粋に、真心から告白できる日が現代の安息日、即ち「聖日」の意味なのです。

本日の物語では、ファリサイ派の人々の律法理解がいかに本末転倒になっているかがよく分かります。しかしこれは決して他人事ではありません。私たちは、神様が安息日を与えて下さった意味を本当にしっかりとわきまえているでしょうか。私たちがもし、教会に集うことで、神様からの安息をいただくのではなく、有意義な働きや意味ある奉仕をすることを第一とし、自分が役に立つ者となることを追い求め、その結果信仰に生きることは疲れることだと思い、自分より多くの奉仕をしている人には心苦しさを感じ、自分より奉仕をしていないと思う人を裁いたりしているならば、ファリサイ派の人々と同じ本末転倒に陥っていると言わなければならないのです。

このことをわきまえるなら、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会の礼拝に集い、神様を礼拝しつつ神様に仕えて生きる信仰の生活において、自分が有意義な働きや意味ある奉仕をすることを目的としてはならないことが分かります。礼拝を守って信仰者として生きることは、私たちが良いことをし、役に立つ人になるためではなくて、神様が、独り子主イエス・キリストによって与えて下さる救いにあずかり、まことの安息、休みを与えられるためなのです。しかもそれは私たちの自己満足や誇りを満たすことによる安息ではありません。むしろ神様は私たちを、そのような自己満足や誇りを満たすことを求める思いから解放して下さるのです。主イエス・キリストは、そういう疲れから私たちを解放し、まことの安息を与えて下さるのです。神様の独り子である主イエス・キリストが、何の役にも立たないどころか、神様に迷惑をかけてばかりいる罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さり、罪を赦し、神様の子として生きる新しい命を与えて下さったのです。私たちは、有意義な働きも意味ある奉仕も何もなしに、ただ神様の恵みによって安息を与えられ、明日へと歩み続ける力を、今日も礼拝によって与えられるのです。

お祈りを致しましょう。

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・・・以 上・・・

キリストの御前に出る

《賛美歌》

讃美歌Ⅱ-30番
讃美歌187番
讃美歌000番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 43章25-26節 (旧約聖書1,132ページ)

43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。
43:26 わたしに思い出させるならば/共に裁きに臨まなければならない。申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。

新約聖書:マルコによる福音書 2章1-12節 (新約聖書63ページ)

2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

《説教》『キリストの御前に出る』

先週の説教では、重い皮膚病を患っている男の「癒し」というより、「救い」を主イエスがなさり、その評判を聞いた人々が癒しを願って殺到し、主イエスはカファルナウムの町に入ることができなくなりました。町の外の人の居ないところに移られましたが、それでも人々が主イエスのもとに集まって来てしまいました。

1節から、「家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」とあります。この家とはおそらくシモン・ペトロの家と考えられます。

物語に入る前に、当時の庶民の家の構造をお話ししておきましょう。木材が極端に乏しいパレスティナでは、土に藁などを混ぜて固めた日干し煉瓦で壁を作りました。雨の殆ど降らない砂漠の国だから使える材料です。この家は壁が厚いので、夏は涼しく、冬は暖かいという利点もありました。壁から壁に約1米間隔で渡された梁があり、その上に泥で塗り固められ平たい屋根を乗せたというような簡単な作りになっていました。ペトロの家もおそらくこのようなものであったでしょう。

2節に、「戸口の辺りまですきまもないほど」と記されていますが、狭い漁師の家であり、近所の人々が集まっただけで一杯になり、入りきれない人々が戸口から中を覗いていたという状況が思い浮かびます。

この人々が何を期待して集まっていたのかは聖書からは分かりませんが、おそらく、再び奇跡を求めて来たのではないでしようか。しかしここで主イエスがなされたのは神様の愛の宣言であり、人間の救いに関する福音の説き明かしでした。人々は期待外れの思いをしていたでしよう。そんな話より噂に聞いた素晴らしい奇跡を見たいものだ。誰もが見たことのない驚くべき力を早く示してくれないだろうか。集まった人々の心はおそらくこのような奇蹟を期待するものであったでしょう。しかし、主イエスは福音を語られたのです。それが教会の始めであり、教会とはそのようなものでなければなりません。しかしながら、この集まりは思いもかけないことによって中断されてしまうのです。

3節と4節には、「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」とあります。既に述べた当時の庶民の家の構造から、緊急の時に屋根をはがすことは決して考えられないことではありませんでした。

ところが、そうは言っても、他人の家の屋根を剥がして、家の中を土煙・土埃まみれにして、行われている集会を中断させ、集まった人々の真ん中に頭上から病人を吊り降ろすとは実に乱暴で、無作法なことでした。部屋の中にいる人々の頭の上から、壊された屋根の泥や土埃がたくさん落ちてきたことでしょう。家の主人であるペトロにとって、言葉にもならない驚きであったに違いありません。

ところが、ここには、さらに驚くべきことがあるのです。この男たちの非常識さに勝って私たちを驚かせ、当惑させるものが、ここにあります。それが、このときの主イエスの仰った言葉です。5節に、「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」とあります。

主イエスはこの時、信仰の何を御覧になったのでしょうか。何故、このような宣言をなさったのでしょうか。

これまでも病気の癒しを主イエスは数多くなされてきました。主イエスのもとに来るのは、御言葉を聞く人より、病気の癒しを求める人のほうが圧倒的に多かったからです。そしてその都度、主イエスは病気で苦しむ人々の要求に応えられながらも、御言葉を求めることを知らない人々にガッカリなさった筈です。

それにも拘らず、主イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われました。ここに、私たちの眼と主イエスが御覧になる眼との違いが明らかになって来るのです。

今ここで、主イエスの眼差しは病気の男だけにではなく、このような非常手段に訴えて病人を運んで来た四人の男たちにも向けられているのです。私たちは彼らの行動を非常識なものと考えてしまいます。しかしそれでは、常識的な行動とはどのようなことでしょうか。病人を運んで来た四人の男が常識的に行動するとは、どうすることでしょうか。

この男たちが病人を連れて来た時、主イエスの居られる家は満員でした。中へ入る余裕はありませんでした。しかし彼らは諦めなかったのです。彼らの求めは、「場所が空くまで外で待とう」などという程度ではなく、「何としても中に入る」という行動に結び付きました。「何が何でもナザレのイエスの前に連れて行かなければならない」ということに心は集中していました。もちろんそれは「友人の病気を治したい」という次元のものでした。

主イエスがこの四人の男を御覧になり、彼らを受け入れられたのはもはや理屈ではありません。彼らの行動がどのようなものであり、正しいか間違っているか、或いは社会常識においてどうか、などということを主イエスは問題にされませんでした。四人の男たちは、ただひたすらに「キリストへ近づく」ということに集中しています。自分の前に置かれている障害を突破し、なんとしてもナザレのイエスの前に辿り着こうという凄まじい気迫を、この四人の男たちに見ることが出来ます。

主イエス・キリストとの出会いを妨げるものに対して、私たちはこれほど強引でしようか。主イエス・キリストに近づくために、私たちはこれほど力を出せるでしょうか。主イエス・キリストの前に出ることの価値を、私たちはこれほど尊く感じているでしょうか。

「病気を治してもらいたいだけではないか」と批判する前に、この世に来られた神の御子の前で、友人のために屋根をはがした男たちと、今の自分の姿とを比べてみるべきでしょう。

主イエスは彼らを受け入れました。この男たちの友人への愛と熱情を主イエスは喜ばれ、「よし」とされたのです。「ナザレのイエス以外に希望はない」という彼らの思いを受け止め、主イエスは救いを宣言されたのです。

「あなたの罪は赦される」。ここでの「罪」という言葉は原文では複数なので、生まれながらの罪である「原罪」ではなく、日々の生活の中で犯す罪、日々積み重なる「個々の罪」のことです。当時の人々が病気の原因と考えていたものを主イエスは取り去られたのです。「何か悪いことをしたから病気になった」と思い込んでいた人々に、「もうそのようなことで悩む必要はない」という宣言がここにあるのです。

6節と7節には「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」とあります。さすがに律法学者たちは聖書に詳しく、ものごとを聖書に従って正しく判断しており、「罪を赦すのは神のみである」とはまさしくその通りです。もし、律法学者たちが主イエスを批判し、その正体を探るために監視していたのであるならば、「罪を赦す者は神のみである」との正しい答えがここから出て来る筈です。しかし、そのような考え方は、律法学者たちにとって「決してあってはならないこと」でありました。彼らにとって、自分たちが理解している律法を超える救い主など断固として認められなかったからです。ですから、彼らはこれまで多くの人々と共にペトロの家で、御言葉を聞いていながらも、実は、心の中で「そんなことがある筈はない」と思い、あら探しに熱心になっていたのです。律法学者たちは、その他大勢の人々と同じように、主イエスの御言葉を福音として聞いていなかったのです。

それに対して、屋根を壊してでも病人を吊り下げた男たちは、それを少しも信仰だとは思っていなかったかもしれません。しかし、主イエスは御自身に対する「強引な委ね」を受け止められたのです。

この男の病気は癒されました。もはやこの癒しが「罪の赦し」という御業の前では付録に過ぎないことは明らかでしよう。しかし、世の中には付録の方を大切にする人もいるのです。そこで主は「付録」において神の御子としての権威をお示しになったのであり、この奇跡は、かたくなな全ての人々の誤りを正す「思いやり」としてみることが出来るでしょう。

12節に「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」とあります。

「今まで見たことがない。」とは、「聞かされた主イエスの御言葉」より、自分が目にした出来事の方が問題になっているということです。ここに、信仰の本当の意味を決して悟ることの出来ない人間の姿があります。

そして何よりも私たちが驚かされるのは、この人々の悟ることの出来ない姿にも拘らず、主イエスが人間の僅かな思いも見落とされず、受け止めて下さるということです。主イエスご自身が、この様な無知で、知ろうとしない人々に対して、怒ったり、落胆されたりせずに、丁寧に愛情あふれた対応をされているのです。

無知な人間の熱心さとかたくなな人間の批判の眼の前において、なおも神様のご愛とご栄光が、明らかにされているのです。神様の怒りを招くのではないかとさえ思える人間の愚かさに対してさえ、神様の赦しがなされるのです。

この素晴らしい神様の恵みである主イエス・キリストの救いを、皆様が大切にしたいと願っている人たちにお伝えしていきましょう。お祈りを致しましょう。

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