主日礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌166番
讃美歌205番
讃美歌494番
《聖書箇所》
旧約聖書:ヨブ記 13章4-6節 (旧約聖書857ページ)
13:4 あなたたちは皆、偽りの薬を塗る/役に立たない医者だ。
13:5 どうか黙ってくれ/黙ることがあなたたちの知恵を示す。
13:6 わたしの議論を聞き/この唇の訴えに耳を傾けてくれ。
新約聖書:マルコによる福音書 5章21~24節&25~43節 (新約聖書70ページ)
5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
《説教》『主よ、手を置いてください』
本日はマルコによる福音書の第5章21節以下をご一緒に読んでいきます。最初の21節に「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」とあります。先週読んだ5章1節以下で主イエスは弟子たちと共に舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、その東南のデカポリス地方、ゲラサ人の地に行かれました。そこで汚れた霊に取りつかれた一人の男を癒されました。そして本日の箇所で再び舟に乗って、もとのガリラヤ地方に戻られたのです。すると今度は二人の女性との出会いが起りました。一人は会堂長の一人でヤイロという人の幼い娘です。もう一人は十二年間出血の止まらない病気で苦しんできた女の人です。この二人とも、主イエスによって、新しい人生を歩み出すことができたのです。しかも本日のヤイロの娘と次回の長血の女の二つの物語は織物の縦糸と横糸が互いに織り込まれるように語られています。本日の21節から24節に、会堂長ヤイロが主イエスのもとに来て、娘が死にそうだから来て癒してほしいと願ったこと、主イエスがその願いを聞いて出かけられたことが語られています。ところが来週の25節以下には、ヤイロの家へと向かう途中で、十二年間出血の止まらない病気の女が、後ろからそっと主イエスの服に触れて、そこで癒しの出来事が起ったことが語られているのです。この話が中に挟まれて、35節から再びヤイロの娘の話になっています。このようにこの箇所では、二つの話がサンドイッチ構造になって語られているのです。マルコ福音書にはしばしばこういう語り方が出てきます。これは、二つの話の内容が密接に結びついているので、両者を一つの話として読んでほしい、という著者のサインだと言ってよいでしょう。そのことを、意識しながら聞いて下さい。
当時、ユダヤ人の会堂で行われていたことは数々ありますが、先ず、何と言っても「安息日の集会」です。犠牲をささげる礼拝はエルサレムの神殿で行われますが、エルサレムから離れた各地の会堂では、律法の朗読を聞き、会堂長が選んだ人の講話を聞き、祈りを合わせていました。安息日の集会、これがユダヤ人にとって最も大切な民族的自覚の確認であり、ユダヤ人のアイデンティティーの中核を占めていました。
会堂は、住民たちの中心であり、地域の核と言っても良いでしょう。ですから、会堂長とは、安息日集会の責任者のみならず、教育の責任者、生活の指導者、行政上の責任者、地域社会の代表者であり、彼は常に住民たちの視線にさらされていました。
さてヤイロの娘の話と言いましたが、むしろ重要な登場人物は父親である会堂長のヤイロです。そのヤイロが、ガリラヤ湖のほとりにおられた主イエスのもとにやって来て、その足もとにひれ伏したのです。そして23節にあるように、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と「しきりに願った」のです。多くのユダヤ群衆の目の前で、主イエスの足もとにひれ伏してこのように願うというのは、地位も名誉もある会堂長の彼にとっては大変な勇気のいることだったのです。しかし彼は、もはや恥や外聞にこだわってはおれない、切羽詰まった状況にあったのです。十二歳になっていた最愛の娘が死にかけていたのです。勿論これまでに、医者を始めとしていろいろと手を尽くして娘の病気を治そうとしてきたでしょう。しかしもう万策尽きてしまったのです。恐ろしい死の力が愛する娘を、そして彼の家庭を飲み込もうとしており、その力の前で自分が全く無力であることを思い知らされているのです。そういう苦しみ、絶望の中で彼は、主イエスの足もとにひれ伏したのです。おそらく彼は主イエスに今日初めて会ったわけではないでしょう。主イエスがガリラヤでの活動の拠点としておられたのはカファルナウムの町であり、彼はおそらくそこの会堂長の一人だったのだと思います。ですから彼が管理している会堂で主イエスが説教してきたのを彼は何度も聞いていた筈です。1章21節以下には、主イエスが会堂で、汚れた霊に取りつかれていた男を癒したことが語られていましたが、彼はそのみ業を目の前で見ていたに違いありません。しかし今まで彼は、主イエスの足もとにひれ伏すことはありませんでした。それは彼が会堂長という社会的にも宗教的にも一目置かれる立場に立つ者であったからです。ユダヤ人社会の重鎮であり、信仰的にも指導者である、そういう自負、自尊心を彼は持っており、これまではその自分の立場から、主イエスの教えやみ業について、いいとか悪いとか判断していたのではないでしょうか。彼は主イエスとは距離を保ちつつ、その教えやみ業を評価、判定していたのです。主イエスの教えを聞き、み業を見て、この教えは納得できるとか、いやこれはおかしいとか、この業は不思議だなどと言っていたのです。私たちはそれぞれ、自分がこれまでに得てきた知識や体験に基づいて世界観、人生観あるいは信念を持っています。社会的地位に基づく自負や自尊心もあります。私たちはそういう自分の思いを基準にして、聖書の教えを評価し、なるほどと思ったり、それはちょっと納得できないと思ったり、そんなバカなことが、と思ったりしているのではないでしょうか。ヤイロはこれまではまさにそのように主イエスのことをある距離をもって眺めていました。しかし今、娘が死にかけているという人生の危機に直面して、自分の力ではどうすることもできない恐ろしい死の力に脅かされる中で、彼は主イエスの足もとにひれ伏して救いを求めたのです。地位も名誉も外聞もかなぐり捨てて、自分の人生観や価値観も脱ぎ捨てて、主イエスに「助けてください」とすがったのです。彼は主イエスに「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と言っています。主イエスが手を置いてくれれば娘の病気は必ず治ると心から信じ、主イエスにしか救えないという確信を持っていたということです。ヤイロはここで、「娘が死にかかっている」という現実の問題だけではなく、「ヤイロ自身が娘と共に死に直面している」と考えるべきです。むしろ、あちこちで癒しの業を行っているという主イエスの評判を聞くだけでなく、主イエスの一言で汚れた霊が追い出されたのを自分の会堂の中で目撃した、その主イエスという方に、まさに溺れる者が藁をもつかむ思いですがった、ということだったのだと思われます。
「死」は人間の避けることのできない運命です。どのような人でも必ず「死」を迎えなければなりません。そしてその「死」は、人間の予想や計画を全く無視して、ある日突然襲って来るのです。
何の予告もなく襲いかかり、ある日突然、大切なもの全てを奪って行く「恐るべき死」の力。その前で、何の抵抗も出来ない人間の限界。この世で築いて来た幸福の儚さが突きつけられる時、私たちは初めて、自分の「生」に対して疑問を抱くのです。自分の生き方について、自分の生涯について、ここに決定的な問い掛けを改めてヤイロは投げかけられたのです。
ヤイロは会堂長でした。恐らく、当時の状況から見てユダヤ教のファリサイ派であったでしょう。旧約聖書の御言葉は殆どそらんじていたに違いありません。そして彼は、その信仰を、会堂長として、地域の代表者として、語り続けて来たに相違ありません。またファリサイ派は終末の日の復活を信じていました。ですから、「死」の問題は「解決済み」であった筈です。それにも拘らず、ヤイロは娘の「死」を恐れました。何故でしょうか。何故、彼の信仰が、彼がこれ迄学び続けて来た旧約聖書の御言葉が、人生の最大の危機に直面した彼の心を支えなかったのでしょうか。
ヤイロが「イエスの足もとにひれ伏した」とありますが、ユダヤ教の会堂長ヤイロにとって大変なことでありました。ファリサイ派は「神の子」を語るナザレのイエスを憎んでいたからです。その憎しみは、今度はヤイロが「裏切り者」として受けることになり、これ迄、地域の指導者であった彼が、人々の前で信仰のなさと無力さをさらけ出すことになるのです。これまでの全てを失うことになると言っても良いでしょう。何故ヤイロは、これほどの行動に出たのでしょうか。
ここはカファルナウムであり、主イエスの活動がこの町の会堂から始まりました。(1章21節以下、3章1節以下参照)。カファルナウムには現在でも立派な会堂の遺跡が残っています。ヤイロは、この会堂の責任者として、幾度も主イエスの説教を「他人事として聴き」、悪霊を追い出す御業を「見物人として見て来た」のです。
しかし今、自分の娘が「死」に直面し、「死」を、「単なる肉体の滅びではなく罪の結果である」と告げた主イエスの説教を思い返した時、かつては「他人事として聴いていた」説教が、真正面から自分に問いかける御言葉として聞こえて来たのです。
「死」とは、私たちには全く分からない神様のみぞ知ることで、人は「死んだ時」には神様の前に立たされるのです。人は生きていた時の神様との関係の歪みを覚えた時、「死」に対しての心の平安はなくなり、神なき世界に生きた負い目を持つ者の心は、乱れに乱れざるを得ません。この時ヤイロは、初めて、主イエスこそが、自分の「死の苦しみ」に直接関っていることに気がついたのでした。
自分の存在の意味が失われようとする時、私たちは、いったい誰に最後の望みを託せるでしょうか。苦しみの中で、心から誰に「主よ、私に手を置いて下さい」と言えるでしょうか。それこそ神様でしかないでしょう。
主イエス・キリストはヤイロと共に娘の居る彼の家へ向かって出かけられました。自分の誇りの全てを投げ捨て、過去の業績の全てを虚しくした人間と共に、主イエスはご一緒に歩まれるのです。
私たちのこの世における歩み、人生には、自分ではどうすることもできない苦しみ悲しみ困難があります。抗うことのできない死の力によって愛する者を奪われてしまうことがあります。また自分自身も、病や老いによって次第に死の力に支配されていくことを体験させられていきます。ヤイロが味わった苦しみ、絶望を私たちも覚えるのです。そのヤイロは主イエスの足もとにひれ伏して救いを願いました。その時主イエスは私たちの願いに応えて、共に歩み出して下さいます。しかし、時としてその歩みにおいても、「もう神様に頼れない」と私たちを絶望させるような出来事が起ります。主イエスはそこで私たちに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけて下さるのです。そして、ヤイロとその家族が体験したように、主イエスによって死の力が打ち破られ、その絶望からの解放が与えられることを体験していくのです。それは主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって実現した恵みです。
十字架と復活の主イエスが、「恐れることはない。ただ信じなさい」、「あなたを脅かしている死は、私の恵みの前では眠っているに過ぎない」と語りかけ、私たちの手を取って、「わたしはあなたに言う。死の恐れの中から起き上がりなさい」と告げて下さっているのです。
お祈りを致します。