主日礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌10番
讃美歌270番
讃美歌354番
《聖書箇所》
旧約聖書:サムエル記 上 9章9節 (旧約聖書440ページ)
9:9 昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた。
新約聖書:マルコによる福音書 6章6b-13節 (新約聖書71ページ)
6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
《説教》『キリストと共に』
私たち教会に集う者は全て、「主の御心を受け」て、「全員が福音の宣教者として神様の招きを受けている」のです。
「救われた喜び」を、私たち一人ひとりが言葉で語り、生きる姿で表す、これこそが更に多くの人々の心を開かせるのです。父なる神が、人間の救いを御自身の直接的な御業によらず、「教会に委ねた」と言われる時、選ばれた誇りと共に背負う責任の重みを、ひしひしと感じます。それこそがキリスト者の生き甲斐です。本日の礼拝では、与えられたキリスト者の使命の重みと共に、如何に意義ある人生が用意されているかを、お話ししたいと思います。
6節から9節に、「それから、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」とあります。
ここで呼び寄せられた十二人とは、言うまでもなく、主御自身が選び出されたペトロ以下の十二人のことです。少し前の3章14節で、彼らは「使徒」と名付けられました。
「使徒」ギリシャ語で「アポストロス」という言葉は「遣わされた者」という意味ですが、基本的には「使命を与えられて遣わされた者」ということです。務め・使命を与えられた「神様の意志」が最も大切なことは言うまでもありません。ですから、「使徒」という言葉は、常に「遣わされる」という受け身で理解されなければならないのです。
それに対し、通常用いられる「弟子:マセーテース」という言葉は、「教えを受ける者」という意味であり、十二人だけではなく、使徒言行録によれば、後にキリスト者全てが「弟子」と呼ばれています。
何故、このようなことを初めに述べるのかというのは、十二人が「使徒であった」から遣わされたのではなく、遣わされたことによって、「使徒になった」ということが大切だからです。
キリストに従う者は、ひとつの固定した身分や地位で生きているのではなく、「そこで何が命じられているか」ということを考え続けていかなければなりません。そして私たちが、そのキリストの御言葉に対してどのような応答をするかによって、私たちの呼び名もまた決定されるのです。十二人は「遣わされた者」として相応しく行動したため、「遣わされた者」即ち「使徒と呼ばれた者」と表現されているのです。
初代教会の信徒たちは、何事においても「キリストを第一」にするので、「キリストに従う者」(クリスティアノス)と呼ばれるようになり、それが「クリスチャン」という言葉になったということはよく知られている通りです。つまり、クリスチャンとは、自分たちが付けた名称ではなく、日々の生活があまりにも独特だったために、周囲の人から付けられた「あだ名」でした。
私たちが「何をなすべきか」を考えることは、自分自身のキリストの御前における姿を決定することなのです。自分に出来ること、自分がしたいこと、それらを考えるのではなく、主イエス・キリストが「私をどのような使命に用いられるのか」、それを聞き取ることが大切なのです。
では、主イエスは、遣わされて行く者にどのような使命を与えられたのでしょうか。
先ず第一に、7節に「二人ずつ組にした」と記されています。伝道は孤独な作業ではなく、常に、祈る友を持たなければなりません。そして祈りも、信仰の仲間の支えなしには出来るものではなく、御言葉を宣べ伝える中でこそ、キリストを主と信じる者の交わりが確認されるのです。
更に、申命記19章やルカ7章にあるようにイスラエルでは昔から証人は二人以上と定められています(申19:15、ルカ7:18)。伝道者とは御言葉の証人であり、決して個人的な作業ではなく、神に代わって御言葉を語り、神の代理者として人々の応答を聞かなければならないのです。このことは、7節の「汚れた霊に対する権能を授けた」ということからも明らかでしょう。これはキリストが持っておられる権威を代行することを示しています。遣わされた者は、遣わした方の権威を代行する者なのです。
伝道者は、自分が救われた個人的体験を語るだけであってはなりません、自分の救われた喜びを伝えるだけであってもなりません。キリストに代わって、「神の赦しの福音」を語らなければならないのです。
更に8節に「何も持つな」とも言われました。
こんなことを言った人がいました。「貧しい姿をしてこそ、貧しい者は耳を傾ける」。確かにそれは人間の心理です。しかしこのような場合、しばしば「持つな」という言葉は「持っている」ことを前提にしているのです。持っているものを隠す意図があるのです。しかし、心理的効果を高めるために、「わざわざ貧しい姿をせよ」と主イエスが命じられたとは思えません。御言葉の意図するところは、「ことさらに貧しい身なりをして語れ」ということではなく、「この世を見詰められる主の御心」を見なければなりません。仕えられるためではなく仕えるために来られた主イエスの低さと同じようにならなければなりません。
主イエスは弟子たちが宣教することが、ただ主なる神にのみに依存しているということのしるしとして、軽装で旅に出るように彼らに命じられたのです。それは、彼らが唯一の頼みとするものは、主イエスから受けた権威だけだからでした。弟子たちは村に入ったときに提供されるもてなしは何でも受けること、そして、よりよい便宜を計ろうとする者を探しに行ってはならないことを、主イエスは彼らに命じたのです。それは、与えられた仕事の達成に彼らの精神と力とを集中し続けることができるようになるための訓練でした。
私たちは、「伝道に出る」ということを「汚れた世界へ福音を伝えに行く」と考えがちです。しかし、主イエスの見方は正反対です。キリストの眼には、もともと汚れている場所はひとつもありません。主イエスの眼差しの下では全ての土地は聖なるものでした。何故なら、全ての人は神様に愛されており、主イエス・キリストは愛されている全ての人々を救うために来られたからです。ヨハネによる福音書3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記されています。御言葉が語られる場所は、すべて「聖なる場所」なのです。主なる神様がそこにおられる場所です。そしてこのことに気付く時、11節の、「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」と言われる御言葉の厳しさが初めて理解出来るのです。
それは交わりの正式な否認でしたが、同時に、弟子たちを受け入れない村に対して、その拒絶によって彼らが招く危険について警告を与えるものでした。御言葉を拒否する者の地こそが汚れた者の地であり、「神に創造された聖なる地が、神に背を向ける新しい異邦人の土地になった」ということの告知でした。ここにおいて、ヨハネによる福音書3章18節に記されている、「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」。この御言葉が現実になるのです。
救いの地、顧みの地からの脱落、この恐るべきことが、「遣わされた者の言葉」によって初めて起こるのです。このように読んで来ると、御言葉の証人として使わされる者の使命は大変重要であると言えるでしょう。「二人一組」と表現されている証人の使命は、救いを拒否し、滅びの世界に留まろうとする人間自身への裁きの証人となることです。そしてまた、御言葉を受け入れる人間の救いを保証する証人になることでもあるのです。
誰がこの伝道の使命を果たすことが出来るでしょうか。誰がこの使命に相応しいと自認することが出来るでしょうか。しかし、選ばれた十二人は出て行きました。12節から13節には、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」とあります。
彼らは、自分たちが「その業に相応しい」と考えたからではなく、また、「出来る自信があった」からでもなく、ただ、キリストが「行け」と言われたから行ったのです。そしてそこで、キリストの権威を代行することが出来ました。
私たちもまた、伝道する時には、先ず、主の御言葉を聴くことから始めなければなりません。「私に何が出来るのか」ということではなく、「自分の思いを虚しくして主の御言葉を聴いているか」ということが必要なのです。
そして今、「主よ、語りたまえ。しもべは聞いております」と祈ったサムエルと同じように御前にひれ伏すならば、その時、私たちを召し、「お前を遣わそう」という御言葉を聞くことが出来るのです。
主イエス・キリストが復活されて、今も生きてここにおられるからこそ、私たちは、主イエスの成し遂げられた救いを信じることができます。私たちが生きているこの世の現実には、苦しみや悲しみが満ちています。また肉体をもってこの世を生きる私たちの歩みは、病や老い、そして最終的には死の力によって常に脅かされています。それらのことによって苦しみ、悲しみ、恐れを覚えずにいられないのが私たちの現実なのです。その私たちの救いのために、神様の独り子である主イエス・キリストがこの世に来て下さいました。主イエスは私たちの全ての罪と、苦しみ悲しみの全てを背負って十字架にかかって死んで下さいました。そして、父なる神様は主イエスを復活させて下さったのです。主イエスをも捉えた死の力を打ち破り、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったことで、私たちにも、同じ復活と永遠の命を与えることを約束して下さったのです。主イエスの復活によってこそこれらの救いが与えられています。しかしこれらのことにも増して大事なのは、復活なさった主イエスが今も生きておられる方として私たちと出会って下さり、語りかけて下さり、そして私たちを召して、伝道へと派遣して下さるということです。
私たちは伝道に派遣されるのです。この礼拝の最後でも、その伝道への派遣を祈る祝祷がなされます。私たちにとって、その伝道への派遣とは、どういうことでしょうか。
それは、聖書を開いてキリスト教を人に伝えることでも、世の為、人の為に一生懸命社会奉仕することでもありません。勿論奉仕も大切ですが、それは結果としてなされるものです。
伝道の第一歩はマルタとマリアで例えられたマリアになることから始まるのです。主イエスのみ言葉を足もとで聞き、それに聞き従うのです。そして、その結果主イエス・キリストの十字架の救いの御業を頂き、自分自身が悔改めて変えられていくのです。
その救いによって変えられた結果は私たちの生活から直ぐに人の目に見えるように出て来ないかもしれませんが、確実に私たちの生き方を変えて行くでしょう。それは、救いの喜びに満たされ、救いの喜びの溢れ出す生き方です。
そして周りの誰もが、そんなあなたを見て、その喜びを少しでも自分に欲しいと思うんではないでしょうか。それが私たちの伝道です。
お祈りを致しましょう。
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