けがれ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌 2番
讃美歌520番
讃美歌98番

《聖書箇所》

旧約聖書:出エジプト記 29章33-34節 (旧約聖書143ページ)

29:33 彼らは、自分たちの任職と聖別の儀式に際して、罪の贖いとして用いられた献げ物を食べる。それは聖なるものであるから、一般の人は食べてはならない。
29:34 もし、この任職の献げ物の肉やパンが翌朝まで残ったならば、焼き捨てる。それは聖なるものであるから、だれも食べてはならない。

新約聖書:マルコによる福音書 7章14-23節 (新約聖書74ページ)

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

《説教》『けがれ』

本日の説教題を「けがれ」とつけました。本日はマルコによる福音書第7章14節以下をご一緒に読むのですが、ここには、本当に人を汚(けが)すものは何なのか、ということについての主イエスの教えが語られています。何が人を汚(けが)すのか、ということが、当時のユダヤ人たちにとって大変大きな問題だったのです。旧約聖書には、清いものと汚(けが)れたものとを区別するための大変細かい掟が記されています。汚(けが)れたものに触れて汚(けが)れを身に負ってしまうと神様の前に出ることができなくなるからです。この汚(けが)れは衛生的な問題ではなくて宗教的な意味での汚(けが)れのことを言っています。旧約聖書には、そのように汚(けが)れてしまった人が身を清めて再び神様の前に出るためになすべき儀式や捧げものについても細かく書かれています。この旧約聖書に語られている、清いものと汚(けが)れたものについての教えは私たちキリスト者においてはもう乗り越えられているのです。しかしそれはどのようにして乗り越えられたのでしょうか。時代が新しくなって合理的な考え方が定着してくると、そのような感覚は自然に乗り越えることができたのでしょうか。そんなことではありません。私たちが、日常の生活の中で「これは清いものか、汚(けが)れているか」などと気にすることなく生きていけるのは、本日語られている主イエスの教えがあるからです。

先週の説教では、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、「食事の前の手洗いという伝統的な宗教儀式を主イエスの弟子たちが守らない」ということを非難しました。それに対し、主イエスは、律法を与えて下さった神の御心に従うことを疎かにしている彼らの形式主義の誤りを指摘しました。

本日のこの14節以下では、律法学者たちが出した問題に対する答えを、律法学者たちに向かってではなく、主イエス御自身が呼び寄せた群衆に対して語られるのです。この主イエスのお姿は、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対する神の裁きを示すと共に、古い時代との訣別と新しい歩みを明らかにしています。

14節にある、「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」、これは当時の人々にとって大胆な驚くべき発言でした。何故なら、当時の人々にとって、ここにある「聞く」という言葉は「聖書に聞くこと」「聞き従うこと」を意味したからです。勿論、この場合の聖書とは旧約聖書のことです。

イスラエル最古の信仰告白と言える申命記6章4節以下の御言葉は、「聞け、イスラエルよ」という言葉で始まります。「シェマー・イスラエール」という呼びかけで始まるこの聖句を、現代でもイスラエルの人々は家の全ての戸口に貼り付けており、祈りの時には身体に付けます。神は語り、人はそれを聞く。それが神の民の生き方の基本であったからです。神は聖書を通して語り、人は聖書を通して御言葉を聴く。そしてその御言葉を解釈して語る律法学者たちの言葉がイスラエルの人々の生活を支配していました。

御言葉を解釈する権威を持つ律法学者たちの前で、彼らを無視して、今、主イエスは群衆に向って「わたしに聞け」と言われたのです。神の御子としての隠されている主イエスの御業の一端を、主イエス御自身がお示しになったのです。

15節の、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」、これが御言葉の中心であり、ここに「新しいこと」が語られているのです。ペトロを初めとする弟子たちがこの御言葉を理解出来なかったということは、17節でこの御言葉を弟子たちが「たとえ」として聞いたことからも明らかです。15節の何が「たとえ」なのでしようか。

「汚(けが)れ」については、既に7章1節以下の先週の説教で詳しく述べましたが、重要なことなので、もう一度、簡単に繰り返しておきます。先ず、ここでは「ケガレ」と読み、「ヨゴレ」とは読みません。食事の前の手洗いは、ユダヤ人にとって「ヨゴレ」の問題ではなかったからです。重要なことは「ケガレ」です。「神の御前に出られない状態」を「穢(けが)れ」と言います。

イスラエル民族は小さく弱い民族でした。他の民族と一緒になったら必ず飲み込まれてしまいます。そして周辺の人々は全て偶像礼拝の民族でした。偶像礼拝によって神の御名を「汚(けが)す」ことこそ避けなければなりません。それ故に、主なる神は異民族に近づくことを禁じられました。これを「分離」と言いました。偶像礼拝から引き離された民、それを「聖なる民」と言うのであり(出エジプト記29章33節~34節)、旧約聖書ヘブライ語で「分離」「聖別」を意味した“コーディシュ”という言葉が「聖なる者」(ギリシア語ではハギオス)という意味になったと先週お話しました。

しかし今、主イエスは全く新しいことを示されました。主イエスはその考え方を根本から否定されたのです。18節の、「外から人の体に入るもので、人を汚(けが)すことの出来るものは何もない」という御言葉は、異邦人という、神から遠ざけられた者を危険ではない受け入れなさいと肯定するものでした。19節では、「外から入って来るもの」の代表として食物があげられています。しかし勿論、主イエスが単なる食物のことを語っているのではないことも明らかです。

ユダヤ人にとっての食物は、レビ記11章に詳しく記されているように、食べてよいものと悪いものとが現代においても厳密に区別され、これまた分離の大切な「しるし」でありました。それ故に、ユダヤ人は「他の民族と一緒に食事をしない」ということが固く守られるようになりました。ですから、「全ての食物は清い」と主イエスが言われたことは、実は、現代のユダヤ人にとっても驚くべき宣言であるのです。

神様は、万物を創造された時、「それを見て、よしとされた」と創世記は祝福を語っています。神様が造られたものは「全て、よいもの」でありました。この世界は「清いもの」として造られたのです。

ですから、ここに語られた主イエスの御言葉は、今や、神様に造られた全てのものが「本来の姿を取り戻す時が来た」ということを告げているのです。

それでは「汚(けが)れ」は全く消滅したのでしようか。そうではありません。20節以下には、「人から出て来るものこそ、人を汚す」とあります。それは、「つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」と主イエスは言われました。

「汚(けが)れ」とは、「神の御前に出ることが出来ない状態」のことであり、私たちをそのような状態に引き落とすものが、「自分の心の中にある」というのです。この21節以下の悪のリストと言うべきものは、心の中から出る悪の代表的な例に過ぎません。

私たちは、何故、人を欺くのでしょうか。ねたみを抱き、悪口を言います。傲慢であり、無分別です。これらの醜い姿は心の中にあるのです。口から出る言葉が、目に見えない隠された心の罪を顕わにするのです。心の卑しい人は、口から出る言葉によって醜さを現し、言葉に棘のある人は、そのことによって、心に思いやりの少ないことを示すのです。

神に背を向けた人間の生きざまがさまざまな悪となって表面に現れて来ます。それは、赦されざる罪の結果であり、私たち全てが背負っている罪が「聖なる民」となることを妨げているのです。

「外からの汚(けが)れ」。即ち、異邦民族からの分離や食物などによる差別は、キリスト・イエスの一言によって消滅しました。イスラエルが長く守って来た分離の思想は、神の御子主イエスによって、それまでの意味を失いました。しかしながら、人の中に存在し続ける「汚(けが)れ」即ち「罪」は、御子の死「十字架」を待たなければ解決しなかったのです。

弟子たちはそれを理解できずに17節で主イエスに尋ねました。主イエスは、罪について実に明確に語ったのですが、弟子たちには、それが分からなかったのです。このことは、罪を背負って生きる人間、弟子たちでさえ罪の中にあれば、「汚(けが)れ」の意味が如何に理解できなかったのかに具体的な姿と言えるでしよう。

主イエスはこのように、人の汚(けが)れは外から入って来るのではなくて、人の心の中から生まれるのだとおっしゃいました。汚(けが)れは洗って落とせるような外側にあるものではない、あなたがたの心そのものが汚れの源なのだ、とおっしゃったのです。それはファリサイ派の人々や律法学者たちに対する批判であるだけではありません。私たちが、自分は清く正しい者であり、ある人を悪人であると差別しようとする時、その前提には、自分がもともと清い者であり、汚れは外から入って来る、という思いがあるのです。主イエスはそういう私たちに対して厳しい否をつきつけて、あなたがた自身の中に汚れがある、そこから悪い思いや行いが次々に外に出て来るのだと言っておられるのです。だから、外側をいくら一生懸命に清めても、私たちは清い者となることができないのです。

それでは私たちはどうすればよいのでしょうか。汚れは外側からではなく内側から、心の中から生じるのだから、外側ではなくて心の中をこそ洗い清めなさい、と主イエスは教えておられるのでしょうか。そうではありません。私たちが洗い清めることができるのはせいぜい外側だけです。心の中を自分で洗い清めることはできません。悪い思いを捨て、心を入れ替えて清い思いで生きようと決心しても、それは出来ることではありません。そのように決心する私たちの心そのものが汚れの源なのだと主イエスは言っておられるのです。

主イエスは、伝道の最初の時以来、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語って来られました。「神の国は近づいた」、つまり神様のご支配が今や実現し、あなたがたを捉えようとしている、それが主イエスの教えの根本です。この主イエスの宣言にこそ、私たちの心にある汚(けが)れ、罪からの解放、救いがあるのです。その解放、救いは、神様が私たちを支配して下さることによって実現し、与えられます。その神様のご支配が、今や主イエス・キリストによって実現しようとしている、それが「神の国は近づいた」ということです。私たちの、汚れからの、罪からの解放は、主イエス・キリストによって与えられるのです。それは、私たちを支配している罪、汚(けが)れをすべて、ご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さるためでした。キリストの十字架の死によって、神様が私たちの罪を赦し、汚れをぬぐい去り、清めて下さったのです。それが「福音」です。「悔い改めて福音を信じなさい」とは、自分の力で自分の心を洗い清めようとするのではなく、キリストの十字架による罪の赦しという福音、救いの知らせを信じ受け入れて、その神様の恵みのご支配の下に身を置くことです。お一人でも多くの方が、とりわけ身近なの人々が共々に罪から救われますよう、お祈りを致します。

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