主が教えて下さったとおり

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌301番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:ダニエル書 7章13-14節 (旧約聖書1,393ページ)

7:13 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
7:14 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

新約聖書:マルコによる福音書 8章31-33節 (新約聖書77ページ)

8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

《説教》『主が教えて下さったとおり』

私たちキリスト者の信仰の中心は、「主イエス・キリストの十字架による贖いと復活」を信じることです。

本日の聖書箇所は、「受難の予告」と呼ばれ、ここで初めて「十字架と復活」という主イエスのこの世での最終目的を弟子たちに明かされるのです。主イエスが自ら教えて下さった「福音」を受け入れるために何が必要であるのか、聖書はそれをここに語るのです。

キリスト信仰とは、「キリストと私」という「神と人の一対一の関係」でなければならないということです。「キリストと私」という関係は、他のあらゆるこの世的なものの介入を否定するものです。たとえ、親子、兄弟、夫婦だけでなく牧師でさえ、「キリストと私」という関係の中に入って来ることは出来ないのです。一人ひとりが主イエス・キリストの御前に立ち、自分の生きる姿を明らかにしなければなりません。

このような意味から考えれば、一人ひとりの心の中にある主イエス・キリストの御姿は千差万別です。全ての者は、キリストとそれぞれ独自な関係を形作るからです。先週の29節に記されていた「ペトロの告白」は、「イエスとペトロ」の関係を、ペトロ自身の言葉によって明らかにした「信仰告白」でした。

このように、信仰とは極めて個人的なものでありながら、その反面、最も重要なことは、信仰とは「教会によって伝えられたものである」ということなのです。これを、「信仰の公同性」と言います。

主イエス・キリストとの関係は、確かに、個人によって様々な「あり方」が可能です。しかし、「ナザレのイエスとは、どのような御方であるのか」ということに関しては、全てのキリスト者が「ひとつの告白」の下に立たなければなりません。

先程も触れた29節では、ペトロは主イエスの問いかけに対し、「あなたはメシアです」という初めての信仰告白をしました。この告白は、キリストの御前にただ一人で立つときの中心となる軸というべきものです。

しかし、ここでペトロが語った「あなたはメシアです」という言葉は、未だペトロ個人の心の中だけの問題であり、ペトロ個人の判断に過ぎませんでした。つまり、主イエスとペトロの私的関係に過ぎなかったということです。「あなたこそメシア・キリストです」という個人の告白と、そのキリストが「どのようなお方であるのか」という普遍的な内容とは、比較してみれば、「信仰の個人性と信仰の共同性・普遍性」ということです。それが、今、ここにおいて、主イエス御自身によって明らかにされて行くのです。

31節以下には、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。」とあります。これこそが、2000年に亘って世界の教会が伝えて来たことの根本であり、全てのキリスト者の告白が一致すべきものです。

この教えが、ペトロの告白に引き続いて、「イエス御自身によってなされた」ということが大切なのです。「あなたこそメシア・キリストです」という信仰告白は、あたかも一人の信仰者の判断によるものと考えられがちですが、その告白の内容は、「主イエスから与えられたものである」ということなのです。教会が伝えて来たものとは、主イエス御自身が教えられたことであり、教会の務めは、その告白を、絶えることなく、正しく伝えることです。31節の、「人の子は必ず多くの苦しみを受け」とありますが、主イエスは御自分のことを語られる時、「わたし」とは言わず「人の子」という表現をとることが普通でした。「人の子」とは、旧約以来、特別な意味を持っている言葉でした。先程お読みした旧約聖書、ダニエル書7章13節には「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り…」とありました。このダニエル書によれば、「人の子」とは、神の権力をもってこの世を支配する「栄光のメシア」と考えられて来ました。主イエスの時代、紀元一世紀のイスラエルの人々は、殆ど例外なく、この「栄光のメシア」が来られることを期待していたと言えます。何故かと言えば、

① ローマ帝国の占領下にある惨めさという政治的な苦しみ。

② ローマ帝国とヘロデ王家の二重支配によって搾取される経済的な苦痛。

③ 救いを失い、形式ばかりに拘る神殿宗教になったユダヤ教への信仰的な虚しさ。

これらの時代的危機の中で、神の偉大な力によって一気に世界を覆すメシアを求める気持ちになるのは、無理もないことでした。それが、ダニエル書に語られている「政治的・栄光のメシア」でした。

しかしながら、主イエスは、このような期待を抱いている人々の考えも及ばない、根本的な解決・徹底的な救いを用意して来られたのです。何故なら、たとえローマ軍を追い払い、ヘロデ・アンティパスを打ち倒し、世界がどのように変わったとしても、そこに生きる人間が神に背を向けた姿勢をとり続ける限り、楽園の回復は決してあり得ないからです。人間が背負う「神に対する反逆の罪」は、如何なる人間の努力によっても解消されることは有り得ません。日常生活の苦しみ、現実的な社会生活の苦しみにあえぐ人々は自分自身の罪を見つめることがありませんでした。このような、誰一人として考えもしなかった「救いの実現」のために、誰一人として考えもしなかった方法で、ただ一人、その道を行かれる主イエス・キリストの姿を、ここに見なければならないのです。

また、主イエスは、31節で、「必ず多くの苦しみを受け」と、ここで「必ず」と言われました。「必ず」と訳されているギリシャ語は「デイ」という言葉です。この言葉は、「神の絶対的な定め」「避けることの出来ない神の必然性」を表す言葉で、「決定的に定められて変わらない神の御計画」であることを示しています。これを「信仰のデイである」と強調される先輩牧師がいます。十字架と復活、それが父なる神の絶対的な決意であるということなのです。もはや、人間が関与すべき余地のないところで神の御子の御業が進められて行くのであり、人間の犯した罪が、神の独り子の死に於いて徹底的な裁きへと向かうのです。

「あなたは、メシアです」という告白は、このような罪の中に生きて来た「自分自身への完全な否定」を意味するものであるということが、ここで告げられているのです。

そして、その最終的な結論が主イエスの「復活」です。「復活を欠落させた信仰告白」が如何に無意味なものであるのかは、もはや明らかでしょう。

何故なら、キリストの十字架は、罪の裁き・神の怒りの表れであり、もし十字架がその後に復活を伴わなかったならば、父なる神の御心は「怒りによる裁き」で終わることになってしまうからです。それ故に、復活は、怒りから赦しへの偉大な大逆転なのです。もはや明らかなように、先程から注目して来た「必ず」という神の決意を表す言葉「デイ」は、この「復活する」というところにまでかかっているのです。神の正義による裁きとは、人間の罪を余すところなく暴き出し、それを御子の十字架という究極的なかたちで遂行されました。まさに徹底的な仕方で「裁き」が為されたのです。

しかし同時に、悪に対して怒られる神の正義は、御子の死に続く「復活」に於いて、愛と結ばれるのです。

「死んだ者が甦る」という、まさにあり得ない奇跡によって、今や、愛が、赦しの愛が、罪を糾弾する正義に代わって、私たちの前に示されたのです。主イエス・キリストは、「あなたこそメシアです」というペトロの言葉に対して、父なる神の変わることのない永遠の御計画である信仰の本質を、ペトロに初めてお与えになったのです。

ところが、32節後半に「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とあります。これは一体なんでしょうか。ペトロの「いさめる」とは、元来、ギリシャ語で「叱る」という意味であり、強い否定・反対を表す言葉です。このペトロの言葉は、キリスト者として生きる私たちに重大な警告を与えていると言えましょう。何故なら、彼は、今、主イエスが明らかにされた「信ずべきことがら」を、自分の考えによって変えようとしているからです。ガリラヤ湖の漁師であったペトロも、当時の人々の常として、「栄光のメシア」を期待していたのでした。民族の誇りを回復し、現実の生活を良くしてくれるメシア・救い主、それが忘れられなかったのです。栄光のメシアを期待している者の心は、「罪の身代わりとして苦しむメシア」を受け入れることが出来ません。自分の思いによって神の御計画を歪めようとする人間の新たな罪がここにある、と言えるでしょう。何故ペトロは、この神の御業に気付くことが出来なかったのでしょうか。それは、ペトロが、主イエスが語られた神の御計画から「復活」を聞き漏らしていたからに他なりません。「苦難のメシア」から「栄光のメシア」への転換こそ、「復活」です。神の愛と力があらゆるものに勝り、御心が余すところなく示されるのが「キリストの復活」です。ペトロは、最後の勝利である復活の力に気付きませんでした。それ故に、「惨めな死を遂げられる栄光のメシア」など考えたくなかったのでしょう。

おおよそ、キリストの復活を信じない人は、全てこのペトロと同じであり、主イエス・キリストから「サタン」と呼ばれ、退けられるのです。何故なら、「復活」は、キリスト御自身が私たちに与えて下さった福音の根本です。キリスト御自身が教えて下さった信仰を、人間が勝手に変えてしまうことは許されないからです。「あなたはメシアです」という信仰告白は、キリストの復活の上に立たなければなりません。

私たちは、キリストが教えて下さったとおり、主イエスが御自身の身体で「復活」の確かさを示して下さったとおり、この喜びのメッセージを受け取るものでありましょう。この主イエスの受難予告は、受難だけの予告ではなく、私たちの救われるべき完成の時が近づいたという「喜びの予告」であるからです。

お祈りを致します。