主日礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌20番
讃美歌194番
讃美歌453番
《聖書箇所》
旧約聖書:コヘレトの言葉 3章1-8節 (旧約聖書1,036ページ)
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
新約聖書:マルコによる福音書 9章33-37節 (新約聖書79ページ)
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
《説教》『仕えて生きる』
主イエスと弟子たちはカファルナウムにやって来ました。ガリラヤ湖のほとりにあるカファルナウムは、ペトロの家がある町であり、イエスが宣教の生涯を始められた記念の場所でもあります。
しかし今、このカファルナウムは、旅の目的地ではなく、「旅の通過点」に過ぎませんでした。主イエスの眼は、しっかりとエルサレムへ向けられ、父なる神の御心に従い、全ての人間の罪の贖いを実現するため、十字架を生涯の目標として定められていたからです。
33節の「家に着いた」とは、恐らくペトロの家でしょう。彼の家は、イエスが最初の説教を行ったカファルナウムの会堂のすぐ前にあり、ペトロの義理の母の熱病を主が癒されて以来、活動の拠点として用いられていたようです。
それ故に、「その家に着いた」ということは、ペトロにとって生家であり、また、元来この町の漁師であったペトロの弟アンデレや、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟たちにとっても、懐かしい心安らぐ場所であったと言えるでしょう。
久し振りに故郷へ帰って来た思いに満たされている弟子たち。その町も棄てて行かれようとする主イエス。この意識の差が、まさに喜劇的であり、悲劇的なかたちでここに記されているのです。
「途中で何を議論していたのか」。イエスは弟子たちにこうお尋ねになりました。彼らが何を話していたのかは、すぐ次の34節で明らかにされていますが、先ず、この「途中」という言葉に注目する必要があります。
文語訳聖書では、ここを文学的に「道すがら」と訳しています。「汝ら、道すがら、何を論ぜしか」。素晴しい訳文です。主と共に歩む旅が私たちの人生であるならば、私たちもまた、この「主と共に歩む旅の道すがら、何を語るのか」を問題にすべきでしょう。ですから、「何を議論していたのか」は少々大袈裟で、「語り合い」と言うほうが適切でしょう。「主と共に歩む人生の道すがら、何を語るのか」。それが今日、改めて考えるべき問題です。
フイリポ・カイサリアからエルサレムへ、主イエスは十字架への道を歩んでおられるのです。生まれ故郷を棄て、親しい人々と会うこともせず、ただひたすらに、父なる神の救いの御計画実現のために尽くされようとしているのです。
主イエスの受難に向かわれる道すがら、共に歩む弟子たちはは何を語り、何を思うべきでましょうか。
私たちもまた、「キリストと共に生きるとき」、自分が何処へ向かって歩んでいるのか、何処へ導かれているのかを、改めて見詰めるべきです。そして、自分の歩むべき道が行き着くところを正しく見極めた時、初めて、この人生の道すがら「主の弟子として何を語るべきか」ということを知るのです。
主イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになると、弟子たちは「黙っていた。」とあります。
弟子たちは黙っていました。主イエスの問いに答えられませんでした。主イエスの問いかけに対し、沈黙する人間に、「正しい生き方をしている者は一人もいない」と言ってよいでしょう。
例えば、今年1月10日に「怒る主イエス」と題して、マルコ3章1節から御言葉を聞きました。お読みします。
3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
キリストの問い掛けに「彼らは黙っていた。」とあります。キリストの御言葉を、正面から受け止めようとしない姿。都合の悪いことには答えない「頑なさ」。その時、その人の心の中には何があるのでしょうか。
主イエスの問いかけに沈黙する時、いや、沈黙せざるを得ない時、それは、自分の心への警戒警報であると言えます。何故、答えることが出来なかったのでしょうか。何故、沈黙してしまったのでしょうか。弟子たちは、決して口数の少ない人間ではありませんでした。あの厳粛な最後の晩餐の席上でも、いろいろなことを語り続け、主イエスにたしなめらるような人々でした。
しかしながら、それでもなお、「何を話していたのか」と尋ねられた時、「黙ってしまった」ということは、彼ら自らが問題点を暴露してしまったと言うべきではないでしょうか。
何故なら、その「おしゃべり」の内容が、主イエスには言えないようなものであったからです。主イエスと共にその道を歩きながら、「主イエスを抜きにした話に熱中していた」というのです。
私たちの日毎の歩みでも、現に慎むべきことは、主イエス・キリストを抜きにした「おしゃべり」です。「主の御前で言えないような話」はしないことです。互いの「おしゃべり」には熱心だが、キリストとの対話は拒否してしまう人間。それが弟子たちの姿であったということは、驚くべきことではありますが、信仰に生きていないときは、誰でも、そうなる恐れがあるのではないでしょうか。
さらに恐るべきことは、主イエスに分からないように話し合っていたつもりのことが、全て、実は「イエスには分かっている」ということです。それは35節からもあきらかです。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と、あります。弟子たちが、沈黙によって心の中に覆い隠したつもりのことを、主イエスの方から話題にされました。「分からないから」尋ねたのではなく、「知っていながら」問いかけたのです。
エデンの園の物語を思い出してください。あの時、御言葉に背いたアダムとエバは、主なる神がお帰りになったことを知り、木の陰に隠れました。その時、主なる神は「あなたは何処にいるのか」と言われました。全能の神に木の陰にいるアダムが分からない筈はありません、すべてを御存知でありながら、アダムに自分の罪を告白して出て来ることを期待しておられたのです。誰が、主なる神の眼差しから自分を隠すことが出来るでしょうか。誰が、主イエス・キリストに聞かれないように内緒話をすることが出来るでしょうか。主なる神は、全てを見通しておられる方です。
語り合っていたことは、「誰がいちばん偉いか」ということでした。「いちばん偉い」とは、「おおいなる者」という意味です。「最も大切な役目を果たす者」のことです。
このこと自体、決して悪いものでないことは、主イエス御自身、「いちばん先になる方法」を教えておられることで明らかです。むしろ、よく言われる「無気力なキリスト者」になってはならないのであり、誰でも「上を望む心」「向上心」を持たなければなりません。
弟子たちは、「誰が一番偉いか」と議論していたというのですが、それは、誰が一番身分が高いかとか、誰が一番金持ちか、というような話ではありません。彼らは、誰が主イエスに一番仕えているか、弟子としての務めを最も忠実に果たしているのは誰か、ということを競い合っていた筈です。例えばペトロは、「自分こそ、一番先にイエス様に呼ばれて弟子になった者だ。自分は誰よりも長くイエス様に従い、仕えている」と主張したことでしょう。それに対して他の弟子たちも、「イエス様に従い仕える思いなら自分だって決して負けてはいない」と反論したことでしょう。そのように彼らは、主イエス・キリストに仕えることにおいて、一番素晴らしい弟子になろうとしていた筈です。それと同じことは教会においてもしばしば起ります。教会で自分の意見ばかりを主張してそれに固執し、人を自分に従わせようとするようなタイプの人はあまり好まれません。むしろ身を低くして神様と隣人とに仕えていくような人が尊敬されます。それは主イエスの教えからして当然のことですが、しかしそこにはともすれば、自分はいかに謙遜に奉仕をしているか、ということにおいて人よりも先になろうとする、という競い合いが起ります。「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちの思いは私たちの中にもあります。ですから弟子たちに対して語られた主イエスのみ言葉は、私たちに対するみ言葉でもあるのです。
それを、主イエスの御前では言えないのは何故でしょうか。ひとことで言ってしまえば、弟子たちの話し合いの内容が、神中心ではなく、人間中心、自己中心的であったのです。神との対話を「祈り」と言います。「祈り」から離れた姿、「祈り」を必要としない事柄、これら全ては、神なき人間の姿であり、人間主義として否定されなければならないのです。
しかも、弟子たちは、それを自覚して、恥ずかしくて言えなかったのです。既に見て来たように、御言葉に答えられない沈黙は、しばしば主の叱責を受けざるを得ません。弟子たちが競い合っていた「偉さ」とは何でしょうか。この論点をもう少し深く理解しておくことは大切です。
ここで主イエスは、あえて「いちばん先になる方法」を教えられました。「いちばん先」と訳されているギリシャ語の“プロートス”とは、文語訳聖書では「かしら」、新改訳聖書では「ひとの先に立つ」、翻訳に忠実な岩波訳聖書では「筆頭の者」と訳されている、時間的に早いという意味を含めて英語の“First”と言う言葉に当たります。
主イエスは、「いちばん先」となることを否定しているのではなく、むしろ、「それを望め」と言われています。大切なことは、「何がいちばん先なのか」ということを知ることでです。
主イエス・キリストの福音を信じる者の最大の希望は、罪赦されて「永遠の生命」を受けることであり、「神の国」に迎えられることです。
罪を自覚する意識が強ければ強いほど、神の国を求める願いは強くなります。そして罪の恐ろしさを知る者は、決して罪の世界に長く留まりたいとは思わないでしょう。
私たちもまた、神が「生きよ」と言われる限り、生き続けるのです。その歩みの全て、その努力の全ては、招かれている「神の国に於ける喜び」が目標なのです。キリスト者は、この希望を明らかにする者です。そして、その希望を持つ者は、必然的に、「いちばん先になりたい」と思い、神の国に最初に入りたいと願う筈です。
「いちばん先になりたいと思わない人」は、自分が今生きている世界の価値のなさを自覚していない人であり、キリストが招いて下さる神の国の素晴しさを、理解出来てない人と言えるでしょう。
しかし、主イエス・キリストは、その願いを強く持つ人ほど、結果として、「いちばん後になる」と言っておられます。
「いちばん後になる」とは何でしょうか。これは、決して、「最後で結構です」というような遠慮がちで謙虚なものではないのです。むしろ、願いを強く持つ人ほど、自分から「後になる」と思うでしょう。「いちばん後になる」というところに重点があるのではなく、「仕える者になる」ということが大切なのです。主に招かれた者にとって、人生の目標は明らかです。
もし、神の国に入ることが最も大切な願いとなっているならば、「自分ひとりだけ入れば良い」とは、誰も思わないでしょう。自分が愛している人々と、「なんとか一緒にそこへ行きたい」と願うのではないでしょうか。
山に登る時、自分だけ頂上を目指し、足の弱い人を置いて行く登山者がいるでしょうか。疲れた人を励まし、登頂を断念しようとしている人に、頂上の素晴しさを語って力づけるのではないでしょうか。そして、なんとか一緒に到達の喜びを味わおうと、荷物を持ち、手を引き、後ろから押し上げるのです。強い人ほど、後ろから上がることになります。
それと同じように、「共に神の国に入りたい」という熱心さが、結果として、「いちばん後ろになる」のであり、御心を受けて「人に仕える」という姿が、そこに表されるのです。
身体に障害のある人々など社会的弱者は、この社会では一人前の権利を認められているとは言えません。しかし、神の国では、そのような差別はありません。つまり、神の救いの御業の対象は、人間の差別を超えるものであり、神の愛が「全ての人間に向けられている」のです。
従って、信仰の熱心さは、「一人でも救いから漏れることは耐えられない」という気持ちとなって出てくるでしょう。もちろん、その「救い」の成果は、私たちの手によって決定するものではありません。父なる神の御心を想い、十字架への道を歩み続けた主イエス・キリストの御姿を思い返すならば、「一人でも多くの方々と共にその道を行こう」と思うのではないでしょうか。共に生きる人を思わず、自分だけの誇りを求めることは有り得ません。
弟子たちが議論していた「誰が一番偉いか」とは、「すべての人を救いたい」とのキリストの御心忘れていることであり、主イエスは、信仰の本来の姿を弟子たち、私たちに教えたかったのです。
主イエスの愛に包まれた人生の喜びを覚える時、神の国に向かって生きる人生の意味を知る時、その時こそ、御子キリストを遣わされた神の喜びに仕えて行く人生を確認することが出来るのです。
私たちキリスト者は、人生の旅路が決して孤独ではないことを知っています。そして、人生が、「孤独の旅ではない」ことを知り、一人でも多くの「共に信仰の旅路を歩む人」を望むのです。
その希望に満たされて歩むこと、それが、イエス・キリストの問いかけに、正しく答える人間の生き方です。
お祈りを致します。