山の下にて

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌12番
讃美歌294番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書:マラキ書 3章23-24節 (旧約聖書1,501ページ)

3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

新約聖書:マルコによる福音書 9章9-13節 (新約聖書78ページ)

9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

《説教》『山の下にて』

本日の9節には、「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。」とあります。

これまで隠されていた神様の御計画を知らされた時、人は何を感じるでしょうか。「創造の出来ないようなことを教えられた」「思いもよらないことが明らかになった」。今まで誰も会ったことのない神様の御顔を拝して、神様の秘密を知った優越感を他の人々に対して持つことが出来るかもしれません。

しかし、神様の栄光が輝く時、そこで明らかにされるのは、神様に背を向け、罪の中にあるこの世の闇です。そしてその闇が、この「私」がこれまで暮らし、慣れ親しんで来た「世界そのもの」であるならば、そこに生きて来た自分を否定しなければならないのです。初めて見た神様の栄光の前で、「何故、私たちはこのような闇の中に安住しているのか」という疑問が湧いてくるのは当然のことと思われます。

主イエスは、「医者を必要とするのは病人だけである」と言われました。確かに、健康な時には医者や薬の必要性を感じません。しかし、身体に異常を感じるならば、医者や薬を求めます。

弟子たちが、山の上で明らかにされた神様の栄光の下で考えなければならないことは、この世界・神なき世界が示す異常性であり、「何故、私たちの世界がこのような状態に留まっているのか」という疑問です。

何故、人は神様を求めないのか。何故、人は今のままで「よし」としているのか。これこそ、神様の真実の姿をかいま見た人間の疑問であり、聖書を読む私たちが抱く基本的な問題意識です。そして、その問いを発することから、「栄光をかいま見た山から下りた生活」は始まるべきなのです。

そして、10節から11節に、「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。」とあります。

このエリヤとは、紀元前九世紀の預言者です。アハブ、イゼベルという偶像礼拝者たちと闘い、カルメル山上でバアルの預言者やアシェラの預言者たちを打ち破り、さまざまな出来事の後、弟子のエリシャが見送る中、火の車に乗って天に昇った人物です。彼はイスラエル最大の預言者です。そして、死ぬことなく天に昇ったエリヤは、この世の終わり、終末に先立って、再びこの世にやって来るとイスラエルでは信じられていました。それは、旧約聖書1501ページ、マラキ書3章23節以下に、こうあるからです。もう一度お読みいたします。

見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。

律法学者をはじめとするイスラエルの宗教指導者たちは、民にこのことを教えて来たのであり、ペトロたちも、それを聞かされて育って来ました。

しかし、彼らがかいま見た信仰の現実は、エリヤは山の上に居り、「山の下にはいない」ということです。主イエスだけがそこに居られ、主イエスは御自身の迫害を予告し、十字架の死が必要なことを語られました。弟子たちにとって、謎は深まるばかりでした。約束のエリヤさえ来れば全ては明らかになり、主イエスが迫害され死ぬこともないのでないか。

ペトロたちの疑問も当然でした。山の上にエリヤが現れたことを今こそ大いに広めるべきではないのか。ナザレのイエスこそが約束の救い主であることを、エリヤの出現によって証明出来るのではないのか。ペトロは単純にそう思ったに違いありません。しかし、意外にも、主イエスはそれを禁じ、「だれにも話してはいけない」と命じられたのです。

何故、禁じられたのでしょうか。それは、聖書の御言葉を自分の思い通りに都合よく理解しようとする人間の愚かさを主イエスが御存知だったからです。

異民族の支配による長い苦しみの中で、「エリヤさえ現れれば」とイスラエルの民が待ち続けた気持ちは分かります。しかし、「来るべきエリヤ」とはいったい何者でしょうか。もし、エリヤが来たとしても、何をもって「約束のエリヤ」と断定するのでしょうか。エリヤが天に昇った時から既に九百年近く経っているのに、どうしてそれが「約束のエリヤ」だと分かるのでしょうか。

それは「姿によって」ではなく、「働きによって」と言う他はありません。「終末のエリヤ」は、約束され、預言されて来た務めを果たす時、初めて「その姿を認め得る」ということです。人の役柄は「その人が何をしたのか?」ということでしか分からないものなのです。

律法学者やイスラエルの民衆はエリヤを待ち望んでいました。しかし、「そのエリヤは何をするのか」ということを「聖書に基づいて」考えてはいなかったのです。自分の期待や希望を第一にし、エリヤは天の軍勢と共に現れて憎いローマ軍を追い払い、イスラエルの栄光を回復して下さると勝手に考えていました。それ故に、ローマの占領下、政治的独立を回復していない以上、「エリヤは未だ来ていない」と決め付けていたのです。

12節以下で主イエスは言われました。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」とあります。

主イエスは先ず、旧約聖書に記されている預言の正しいことを指摘し、父なる神の約束に少しの狂いもないことを明らかにしています。神の御言葉には変わりがなく、ただ、約束を待ち望む人々の信仰が問題なのだと言われたのです。

エリヤがこの世に来る目的は何でしようか。主イエスが言っておられるように「すべてを元どおりにする」ということです。それでは、「元どおり」とは何のことでしょうか。大切なことはここです。

当時の人々は、ダビデ時代の独立王国の夢を追っていました。かつての、栄光に包まれたユダヤ人・イスラエル民族の独立王国の再建が人々の希望でした。エリヤの到来は、この夢の実現と同一視されていたのです。

しかしながら、「本来の人間の姿は、『そこにあるのではない』」と主イエスは教えて来られた筈です。何故なら、人々が千年前のダビデ時代に憧れ、ダビデを永遠の王のモデルと見做しても、そのダビデ自身も数々の過ちを犯し、ダビデの王国時代にも人間は惨めな姿を示していました。

たとえ、政治的独立があり、周辺諸民族に対する優越感に満足したとしても、人間の苦しみや悲しみは何ら解決されず、神様を忘れて生きる人々で満ちている現状は変わりません。決して理想的で幸福な時代・ユートピアの到来ではなく、依然として、アダム以来の罪と罰の世界であり続けるのです。

ですから、もし立ち戻るならば、ダビデ時代ではなく、もっと以前の「人間本来の姿への復帰」がなされなければなりません。「元どおり」とは、神様が見て「よしとされた人間本来の姿」への回帰のことであり、アダムによって歪められた罪の姿から、真っ直ぐに神様へ向かう人間本来の姿勢を回復することなのです。

先程お読みしたマラキ書には「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」と記されていました。神様に背を向けて来た者が神様へ顔を向けて方向転換すること、それを新約聖書では「悔い改め」(メタノイア)というのであり、エリヤの使命は、最後の時が来る前に、全ての人々を悔い改めに導くことにあったのです。

このマラキ書3章の1節には、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」とあります。

この悔い改め「メタノイア(方向転換)」を叫び、「わたしの後に来る人を見よ」と語る人物が、既に現れて居たということは、この時代の人々は誰でも知っていました。

「エリヤは既に来た」と主イエスがはっきりと語っておられるように、バプテスマのヨハネこそ、「救い主の到来を告げる先触れ」、「約束のエリヤ」であったと言われているのです。

しかし、「人々は好きなようにヨハネをあしらった」と主イエスは指摘しておられます。何故、人々はバプテスマのヨハネによる神様の告知を聴かなかったのでしょうか。

人々は、空虚な栄光のメシアの幻影を追って、真実の平安を見ようともしなかったのです。繰り返し聞かされながら、互いに繰り返し語りながら、なおそのことに気付かなかったところに、罪の中に埋没している人間世界の闇の深さが感じられます。

自分の要求を第一に考える人。自分たちの期待する通りに神様が働いてくれると考える人々。神の御業をこの世での誇りを尺度に考える人々。自分の思いに反する神様を、心の中から追い出す人々。このような人々が、神の御業を正しく見ることが出来ないのは当然です。主なる神が自分の前に立たれたその時でも、自分の思いに固執して心の耳を塞ぎ、心の目を閉じて、「これは違う」と言ってのけるからです。

「神の御子が自らこの世に来られた」という驚くべき出来事に接しながらも「これは私たちの考えていることと違う」「私たちの期待はこんなものではない」と言って、拒否してしまうのです。神の御計画の実現を祈るのではなく、自分たちの期待の成就だけを願っていたのが、「山の下の世界」でした。

これが、私たちの「本来あるべき姿」ではありません。人間の要求は各自異なります。百人百通りです。私たちの世界の悲惨は、人間が自分自身の要求を頑迷に貫くところにこそ原因があるのです。

それ故に、この世界を「元どおりにする」ということが大変な難事業であるということは、明らかです。この世の闇の中にあって、罪の世界にどっぷりと漬かり、自分が異常であることを自覚していない私たち人間を、正常に戻さなければならないからです。

自分が「本来あるべき姿」ではないことをどのようにして知ることが出来るでしょうか。それは、「神の御子が十字架につけられ、殺され、その死に於いてなお、私たちを愛されたという出来事」を認識することによってしかありません。十字架の惨めさを自分の姿に重ねあわせることによってのみ、それが分ってくるのです。自分のために支払われた代償の大きさによって、初めて、自分が犯した罪の大きさを知るからです。

もう一度、9節を読んでみましょう。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない。」と主イエスご自身が教えられています。

ここで主イエスは、十字架と復活を経なければ「全ては意味をなさない」ということを告げられています。十字架と復活、人の罪への処罰と救済の実現。これが運命の大逆転を決定するのです。

山の下の世界に神様の栄光が輝き渡るためには、キリストの死と復活が絶対的に必要なのです。十字架の苦しみがなければ人間の罪は贖われず、その出来事への驚きがなければ、神への反逆は終わることはありません。そして、御子キリストにしか出来ないその御業は、ここで、実現に近づいているのです。

十字架へ向かう主イエスの御姿を仰ぎつつ、「私たちの世界はこのままでよいのか」という問いを、もう一度今、自分に問いかけることが必要ではないでしょうか。

山の上の栄光と、山の下の悲惨。この格差を埋めるために遣わされたのが聖霊なる神であり、聖霊なる神が御業を行われる場が教会です。

お一人でも多くの方が、共に救われ、山の下の世界に一筋の神様の栄光が輝きますよう、お祈りを致しましょう。