耐え忍ぶ者は救われる

《賛美歌》

讃美歌546番
讃美歌68番
讃美歌243番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 77編5-16節 (旧約聖書912ページ)

77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
77:6 いにしえの日々をわたしは思います/とこしえに続く年月を。
77:7 夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。
77:8 「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。
77:9 主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
77:10 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ
77:11 わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」
77:12 わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け
77:13 あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。
77:14 神よ、あなたの聖なる道を思えば/あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
77:15 あなたは奇跡を行われる神/諸国の民の中に御力を示されました。
77:16 御腕をもって御自分の民を/ヤコブとヨセフの子らを贖われました。

新約聖書  マルコによる福音書 13章1-13節 (新約聖書88ページ)

◆神殿の崩壊を予告する

13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

◆終末の徴

13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

《説教》『耐え忍ぶ者は救われる』

本日はマルコによる福音書第13章の御言葉が与えられました。私達の信仰生活は「最後まで耐え忍ぶ」歩みであると言うことが出来るでしょう。「最後」というのは、主なる神の救いの御支配が完成する時です。終わりの時、終末とも言われます。

聖書は、はっきりとこの世の最初、創造と、この世の終わり、終末を語ります。聖書の世界観は、すべてのことが繰り返されて行く輪廻転生的なものではなく、創造から終末に向かって一筋に進んで行く直線的なものなのです。

今日のマルコ福音書の13章は、この福音書において主イエスの教えをまとめて語っている最後の部分です。次の14章からは受難の物語に入っていきます。その直前のこの13章は「小黙示録」とも呼ばれます。「小さな黙示録」です。ということは「大きな黙示録」があるわけで、それが新約聖書の最後、「ヨハネの黙示録」です。そのヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難に、主イエス・キリストが勝利し、そのご支配が完成し、主に従って生きた信仰者の救い、永遠の命が実現することが語られています。そのヨハネの黙示録と同じように、このマルコ13章にも、この世の終わりのことが語られているのです。しかもここでは主イエスご自身がそれを語っておられます。十字架につけられる直前に、主イエスは最後の教えとして、世の終わりのことをお語りになったのです。

今日は、この終末についてマルコ福音書から読み取っていきたいと思います。

13章始めには、この小黙示録がどのような経緯で語られたのかが示されています。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」とあります。主イエスは弟子たちと共にエルサレムに来られ、神殿に入り、その境内で人々に教えを語り、また律法学者たちと論争しておられました。そのことが11章以来語られてきたのです。そのような一日が終わり、夕方になって神殿の境内を出て行こうとした時に、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったのです。この弟子の言葉は正直な感想でした。当時のエルサレム神殿は、あのヘロデ大王が何十年もの歳月をかけて改築したまことに壮麗なものでした。現在、ユダヤ人が祈っている姿が時々報道されるいわゆる「嘆きの壁」というのは、このエルサレム神殿の僅かに残っている壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていたのです。ガリラヤの田舎から出て来て初めてこの神殿を見た弟子たちが、その壮麗さに息を呑み、圧倒されたとしても不思議ではありません。けれども主イエスはこれに対して「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来るのだ、と主イエスはおっしゃったのです。実はこの神殿破壊は、主イエスが十字架に架かられて暫らく後の紀元70年に現実となりました。ローマ帝国によって、このエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終ってしまうのです。そして神殿の中心部分があったと思われる場所には、今は「黄金の岩のドーム」と呼ばれるイスラム教のモスクが建っているのです。

主イエスは、数十年後に起るこの神殿の崩壊を予告なさったわけですが、私たちはこれを、主イエスには予知能力があったとか、時代の流れを見抜く敏感な感覚があった、というようなこととして捉えてしまってはなりません。そこにはもっと深い意味があります。その第一は、主イエスは、神殿の持っている問題性を見つめておられた、ということです。神殿とは、神様がそこでご自分の民と出会って下さり、そこへ行けば神様を礼拝することができる場所です。それはもともとは、イスラエルの民のただ中に主なる神様がいて下さる、神様が民と共に歩んで下さる、という恵みを覚えるための場所でした。ところがその意味が次第に逆転してしまって、神殿があるから、神は我々と共におられるのだ、神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えられるようになっていったのです。主イエスは先ず「これら大きな建物を見ているのか」と仰っているように、建物に目を向ける弟子の態度を問題にしているのです。目を見張るような神殿が建てられている事実をもって、ここに神がおられると考えていたことは、人間の宗教心が生み出す偶像礼拝であると言っても良いでしょう。そこには、神の居場所を人間が決めて、人間が好き勝手に神を所有するということが起こります。旧約聖書のエレミヤ書7章11節には「神殿を強盗の巣窟にしてる」といった厳しい表現で、神殿があるから大丈夫、というイスラエルの民の安易な思いへの警告が語られています。「我々には主の神殿がある、という虚しい言葉に依り頼んではならない。主に真実に従うことなしに、ただ神殿に依り頼んでもそれは虚しい。そのような神殿を主は滅ぼすだろう」と言われているのです。どのような立派な建物であっても、いや立派な建物であればある程、人間の思いが神に向かうのではなくてその建物に向かっていってしまう、神に信頼し、依り頼むのでなく、立派な建物を見つめてそれによって安心を得ようとする。主イエスはそういう思いを厳しく戒め、壮麗な神殿に頼ることの虚しさを教えておられるのです。これが、主イエスが語られた第一の意味です。

しかしさらにもっと深いことがこのみ言葉には込められています。主イエスは、神殿における礼拝そのものの終わりを見つめておられるのです。神殿は礼拝の場ですが、その礼拝は、動物の犠牲を献げることを中心としていました。動物の命を身代わりとして献げる礼拝によって、神に罪を赦していただき、神の民として歩み続けることができる、それが、イスラエルの民が神殿において行なってきた礼拝でした。しかし、神の独り子であられる主イエスが来られ、まもなくご自分の体を、私たちの罪の赦し、贖いのための完全な犠牲(いけにえ)として、十字架の上で献げて下さろうとしているのです。この主イエスの十字架の死によって、私たちの罪の赦し、贖いは完成し、動物の犠牲による贖いはその意味を失うのです。主イエスが来られたことによって、礼拝は、動物を献げることによってではなく、主イエスによる救いを宣べ伝えるみ言葉を聞き、主イエスとの交わりを与えられることによってこそ成り立つようになったのです。神殿崩壊の予告は、神殿における礼拝の終わり、神殿はもはや礼拝のためには不要となった、ということを語っておられるのです。私たち人間の偶像、神殿は、永遠のものではない、それ故、必ず崩れるものなのです。

3節以下で、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに主イエスに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。神殿の崩壊についての話題の後に、弟子たちは世の終わりのことについて尋ねました。弟子たちが語る「そのこと」と言うのは、「神殿の崩壊」のことであると共に、世の終わり、終末のことです。弟子たちは、神殿の崩壊と世の終わりを結びつけたのです。これだけ大きく荘厳な神殿、神が住みたもう家が崩壊するというのであれば、それこそ、その時は世の終わりであるにちがいないという思いをもったのです。大災害や世界大戦のようなものが起こることによって破滅が訪れて、世界は終わるというイメージをもつということは私たちにもあることです。弟子たちは、今、目の前にそびえ立つ、立派な神殿が崩壊するということを聞き、そのような世の終わりがいつ来るのかを知ろうとしたのです。

終末のしるし、終末の時を聞き出そうとした弟子たちに主イエスは話し始められます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。多くの偽預言者が登場するというのです。さらに続けて、主イエスは、私たちが世の終わりであると思いがちな事態をお語りになっています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」。更に、12節では次のように言われています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して 殺すだろう」。ここで語られていることは、誰しも目を覆いたくなるような事態です。しかし、一方で、ここで語られていることは、私たちが今、現在、直面していることであると言ってよいのではないでしょうか。世界を見渡せば戦争や内戦があります。テロの恐怖も増しています。まさに、国、民の間に争いがあるのです。さらに、「地震」「飢饉」と言われている自然災害も、私たちに身近なことです。ここ最近、地球は災害に見舞われていると言って良いでしょう。日本においても、いくつかの大きな地震が起こりました。世界では、サイクロンや山火事、異常気象等、年々深刻になる環境破壊による災害が生じています。人間の、とどまることを知らない豊かさの追求が、際限なく石油を燃やし、畑にするための土地を求めて熱帯雨林を焼き払うことによって、膨大な二酸化炭素が放出されて、地球温暖化が進んでいるのです。人間の身勝手な行いは、地球に壊滅的なダメージを与えていて、この地球は、後どれだけ私たちが住むことが出来る場所として保たれるかということすら心配される状況ではないでしょうか。又、兄弟、親子の間の殺人事件も、たびたび報道されています。現代人の精神的荒廃を思わずにはいられません。ここで主イエスがお語りになっていることは、これから将来にわたって起こるであろうことと言うよりも、これまでの人間の歴史において、そして、今私たちが生きている現在において起こっていることなのです。主イエスが二千年前に預言されたことが今起こっていると考えることもできます。主イエスは、私たちがどのような時代を生きるかに関わらず直面する世の現実をお語りになっているのです。主イエスは、私たちが、世の終わりと思ってしまうような事態をお語りになった上で、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と仰るのです。

9節以下に、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とあります。様々な噂が流れ、預言者まがいの者が現れます。しかし、そこで、それらに惑わされるのではなく自分のことに気をつけろと言われるのです。何に気をつけるのでしょうか。それは、自分がしっかりと、主なる神の救いの希望に生かされているか、主なる神の恵みを見失うことなく歩んでいるかということです。

主イエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれたのです。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を立てたいと考えます。

主イエスは11節でこのように約束して下さっています。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。聖霊はこのように働いて下さるのです。私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくなどという力を持っていません。それを私たちにさせて下さるのは聖霊なのです。聖霊は、様々な苦しみの中にいる私たちに、その苦しみを経て世の終わりに実現する神様の救いを見つめさせて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中で耐え忍んで信仰を守ることができ、そして主イエスを証ししていく言葉を与えられるのです。

キリスト教信仰のゆえに迫害を受けたこと自体が人類の長い歴史上で信仰の証しの機会となっているのです。その厳しい迫害の中でも、主イエス・キリストを証ししていくことによって、10節の、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」という神の御心が実現していくのです。

祈りつつ、御言葉に立って歩みを続けることこそ、私たちの信仰生活なのです。

世の終わりは既に来ているのです。その現実の中で、私たちは、ただひたすら祈りつつ、御言葉に立つのです。主イエスがお語りになり、十字架と復活によって示して下さった救いの約束の御言葉に立つのです。聖霊の働きに身を委ねつつ、真の平和を作り出す歩みをしていくのです。それは私たちにとって、忍耐を強いるものです。神様の言葉より人の言葉に聞くことが多く、真の御言葉に聞くよりも、様々なものを偶像とし、それを拝むことによって安心しようとするのが私たち人間だからです。

そのような私たちに主イエス・キリストが、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 と語って下さっているのです。この御言葉に促されて、私たちは、神様がなして下さる救いを見失わずに、この世で、真の救いの御支配を待つ希望に満ちた日々を歩み続ける者となるのです。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

 

私について来なさい

賛美歌

讃美歌7番

讃美歌238番

讃美歌502番

聖書箇所

旧約聖書 エレミア書 16章16節

16:16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多く の狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。

新約聖書 マルコによる福音書 1章16~20節

◆四人の漁師を弟子にする

1:16  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っ ているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17  イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18  二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19  また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20  すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

説教原稿

私たちは時の流れの中で生きています。昨日から今日へ、今日から明日へと向う時の流れの中です。そし て今日を生きるということによって、常に新しい時に出会っていると言えるでしょう。現在とは、未来という時を 過去に変えるものであり、毎日一つずつ卵を産む鶏のように、私たちは毎日過去を生み出しているのです。

過去とは古い時であり、既に背後に追いやられた時です。一方、未来とは「新しい時」であり、未だ誰も知らな いことが起こる時です。その「新しい時」を如何に生きるか。それが私たちの課題と言わなければなりません。

もちろん、この「新しい時」とは無自覚に迎える自然の時の流れではありません。自然のサイクルから言え ば、朝、眼が覚めた時、「新しい一日が始まった」ということです。しかし、自分の生きざまを深く省みて問うな らば、朝の目覚めにおいて出会う一日が、果たして「新しい一日」「新しい時」と無条件に言い得るでしょうか。

確かに、そこには未だ出会っていない未経験なものがあるでしょう。しかし「新しさ」とはいったい何でしょう か。もしその一日が古い一日の焼き直しに過ぎないとするならば、「新しい一日を生きた」とは言えないのかも 知れません。判で押したような日常生活の中で、何を「新しい時」と言うのでしょう。ガリラヤの湖畔で起こった 出来事は、その「新しい時」への招待でした。

16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打 っているのを御覧になった。」とあります。そして19節には「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟 ヨハネが、舟の中で網の手入れしているのを御覧になった。」とあります。

ここは、ルカ福音書によれば、時は朝でした。つまり、シモンとアンデレは未だ朝の漁をしており、ヤコブとヨ ハネは一晩の漁で痛んだ網を繕っている、ガリラヤの漁師たちにとって昨日と変わらない朝でした。早朝まで 魚をとり、陽が昇ったら漁を終え、岸に上がって明日のために網を繕う。そして昼間は休み、また日暮れと共 に湖へ出て行く。これまで何年もの間続けて来たのです。昨日と少しも変わらない同じような朝であり、一日 の始まりでした。ガリラヤ湖の漁師として、父親もそのまた父親も、同じようにして過ごしたであろう生活がここ に繰り返されているのです。シモンにもアンデレにも、ヤコブにもヨハネにも、それぞれ夢や希望があったこと でしょう。しかし、生活のためには大きな冒険は諦めざるを得ず、昨日と同じような今日を過ごし、明日もまた 同じ仕事を続けて行かなければなりませんでした。そしてその日常生活の中で、ささやかな夢や希望をそれ なりに実現して行く。これは誰もが過ごしている人生です。

私は何時までこの仕事をしなければならないのか。何故、この仕事をしなければならないのか。私たちは、 よくこのようなことを考えるのではないでしょうか。そして、もしかすると、ほかにもっと生き甲斐のある良い仕 事があるのではないか、とも思います。しかしながら、そう思いながらも、やはり、昨日と同じように、同じことを 繰り返している自分を見出さざるを得ません。

朝、仕事に出かける時に、あるいは夫を送り出した後、洗濯掃除に追われる時に、このような自分の姿を見 出すことはないでしょうか。そこには「新しい朝」を迎える新しい気持ちは感じられません。

シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、そのような朝を迎えました。誰もが迎える「昨日と同じ朝」それがこの場 面です。ところが、その「少しも変わることのない昨日と同じであった筈の朝」が、突然、「全く新しい朝」になった のです。そしてこの出来事において、「新しい時」というものが自分の思いの外にあることを教えられるのです。

四人にとって、主イエスとの出会い、それが「古い生活」から「新しい生活」への転換を引き起こしました。16節 にも19節にも「イエスが御覧になった」と記されています。「御覧になった」とはどういうことでしょう。主イエスが 漁師の仕事を珍しくてつくづくご覧になったということなのでしょうか。

 

主イエスの眼差しは、彼らの仕事へではなく、その仕事をしている人間そのものに向けられているのです。 「その人が何をしているか」ではなく、「その人がどのように生きているか」ということに向けられているのです。 私たちが今、何をしているのか、何をしようとしているのかということに関りなく、常に、主イエスの眼差しは

私たちの心に向けて注がれているのです。そして、そのキリストの眼差しが自分に向けられていることを意識 した時、「新しい朝」が訪れるのです。

シモンたちは誰一人として、その日、自分の生活を変えようとは思っていませんでした。与えられた環境の 中で、ただひたすらに生きて行くことだけを考えていました。しかし今や、彼ら自身、全く考えていなかったこと が始まろうとしているのです。

17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と言われた。」とあります。

「私について来なさい」。主イエスが新しい朝に語りかけるのは、この言葉です。「ついて行く」とは、ただわけ も分からず「後ろからついて行く」ということではありません。

ここで主イエスがお語りになった「わたしについて来なさい」は、「わたしに」と「ついて来なさい」の組み合わ せではありません。原文の構造に従って訳すならば、「来なさい(あるいは「おいで」)、わたしの後ろに(あるい は「あとに」)」となります。主イエスはここで、「来なさい」「おいで」と招いておられるのです。あのマタイ福音書 11章28節の主イエスのお言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ げよう」と同じ言葉なのです。「わたしのところに来なさい」と主イエスは招いておられるのです。その招きに応 えて主イエスのところに行った者は、主イエスの後ろを、その後(あと)について歩んでいくのです。

よく「あの人の生き方にはついていけない」とか「あの人の考え方にはついていけない」という表現がなされま す。また以前は、結婚のときなど「夫を信じて何処までもついて行きます」などという覚悟が語られたものでした。

このような表現は、ただ単に、表面的に追従することではなく、生きる営みを共にするということであることは 言うまでもありません。「私について来なさい」と主イエスが言われる時、それは主イエスと共に生きる生涯へ の招きであり、キリストと共に人生の営みを全うすることへの呼びかけなのです。

主イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。この言葉は誤解されやすい面があります。 「あなたがたは今、魚をとる漁師をしているが、魚よりも人間をとる方が尊い仕事だから、あなたがたを今より もっと大事な働きをする人へと格上げしてあげる」という意味に理解してしまったら全くの間違いです。人間を とる漁師にするということによって語られているのは、主イエスの後について行く者となることによって与えら れる新しい歩み、それまでとは違う新しい人生が与えられるということです。人間をとるとは、主イエスが神様 の独り子、救い主としてこれから成し遂げようとしている救いのみ業、それによって実現する神の国に人々を 招き、人々が主イエスの救いにあずかって新しく生きることができるように導くこと、伝道の働きを担う者となる ということです。

18節に「二人はすぐに網を捨てて従った。」、そして20節には「この二人は父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った。」と驚くべきことが起こりました。仕事を捨て家を捨てた人間がここに 描かれているのです。

この物語を読む時、「いったい誰がこのようなことを行えるのか」と思わずにはいられないでしょう。しかも聖 書によれば、「すぐに従った」と記されています。「すぐに」という言葉を、時間的速さだけで理解するのは間違 いです。もちろん、主の呼びかけに対して応答を先に延ばす決断の弱さは責められなければなりません。

ここまで、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉の意味を見てきました。 主イエスは四人の人々をじっと見つめ、このように語りかけて彼らをお招きになったのです。シモンとアンデレ は「すぐに網を捨てて従った」とあります。またヤコブとヨハネは「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った」とあります。ここには二つのポイントがあります。一つは、彼ら四人 が皆、主イエスの招きを受けてすぐに従って行ったことです。もう一つは、「網を捨て、父と雇い人を舟に残し て」とあるように、自分の大事なものを捨てて、また家族から離れて従ったということです。

私たちはこれを読むと不思議に思うんではないでしょうか。どうしてそんなにすぐに従って行くことができたの だろうか、何故大事なものを捨てたり家族と別れたりできたのだろうか、と思うのです。

「すぐに」ということは、あれこれ条件を確認したりせずに、ということです。主イエスについて行くとどうなる のか、こんな場合にはどうか、あんな時にはどうすればよいのか、などと一切質問をしていないのです。また、 ついて行くことによってどういう酬いがあるのか、主イエスは自分に何を約束してくれるのか、という確認もして いません。また、ついて行くことができるように自分の側の状況を整えたいのでそれまでもう少し待って、とい うことも言っていません。それらの条件を一切顧みることなく、つまりそれらのことを全て捨てて従ったのです。 「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」という言葉がそれを現しています。ですから先程二つのポイントと言い ましたが実は一つと言えます。それは「献身」という一言で言い表すことができます。主イエスの弟子となると は、主イエスに、そして神様に自分自身をお献げし、委ねることなのです。彼ら四人は献身したのです。そこ に、彼らの人生の転換、それまでとは全く違う新しい歩みが始まったのです。

この主イエスの呼びかけは、私たち、一人ひとりの個人に対する神の個別の御業なのです。この主イエスの 呼びかけは、「そこにいる皆」とか「あなたがたの誰でも」というようなものではありません。はっきりと一人ひと りの個人を名指しされた個別の呼びかけなのです。

20節で「彼らをお呼びになった」とは「名を呼ぶ」ということです。大勢の人々に向って語られた言葉に感動し て「その中から誰かが従った」ということではなく、大勢の人々の中にいた「この私に向けて呼びかけられた」 ので、キリストの招きに従ったのです。主イエスは私たちを、常に、一人の人格として扱って下さるのです。決 して十羽ひとからげに扱うようなことはなさいません。

シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの決断を見ると共に、名指しで召されるイエスの御心と私たち自身の決断 を、各自の個別の問題として考えることが大切です。ですから「よくも仕事を捨てられたものだ」「親を捨てるこ となど誰が出来るか」などと考える人たちは、既に聖書を読み違えていると言わなければなりません。仕事を 捨て親を捨てたというのは、伝道者として召されたシモンたちの「この時」の応答の仕方なのです。

彼らは彼ら自身の召しにそのように応えたのですが、私たちの召しはシモンたちとは違う筈です。私たちに はそれぞれ違う召しがあり、それぞれ独自な応答がなされなければなりません。それが個別性というもので す。「仕事を捨て、親を捨てた」という外面的なことに拘るのではなく、そのようなシモンたちの個別の問題の 底に流れる普遍的なもの、私たちとの共通な特徴に眼を向けることが大切です。

それを一言で言えば、「日常の断ち切り」とか「惰性を絶つこと」と表現出来るでしょう。昨日行ったことを今日 もまた同じように繰り返して行なうことを断ち切ることです。仕事を辞めたり、肉親の絆を切ることが必要なの ではなく、それらの生活を続ける中で、無自覚的・惰性的に生きることを止め、主の呼びかけに応え、キリスト と共に生きる生活の中に飛び込んで行くことが「惰性の断ち切り」「切り換え」です。新しい生活への切り換え が大切なのです。

自分の喜びのため、自分の欲望のために生きることから、神の喜びのために生きる人間へとなるのです。 キリストに仕える人間に変わり、神の喜びが私のどのような生き方の中に求められているかを正しく聞き取る のです。

キリストの招きを聞き取り、受け入れなければ、決して「新しい一日」に踏み出せないことを知るべきなのです。

主イエスはガリラヤの漁師を使徒としてお立てになりました。そして彼らは、主イエスの御言葉の前に服従し たのです。その直前まで予想もしなかったこと、考えることさえなかった新しい生き方の中に飛び込んで行き ました。

ここに神の召しの特徴があると言えるでしょう。自分の能力、資格、性格、興味など、自分自身に対する人 間的価値や判断はそこでは一切意味を持ちません。「召しへの相応しさ」とは、自分自身の姿を省みて自分 が信仰者に相応しいのだとして信仰に入るのではなく、キリストへの信頼によって、自分自身の人間的価値を 捨て去ることなのです。シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、各自の個性の数々の欠点にも拘らず、使徒と しての名を聖書に残しました。

召された者は、その召しに応える生涯をもって、神の選びの正しさを証すると言えるでしょう。私たちにとって の「新しい一日」とは、その神の御業の証人としての目覚めでなければならないのです。

私たちはどうしても、いろいろな人間的条件を考えようとします。条件が整っているかどうかを見極めたいと 思います。そういうことによって、先の見通しをはっきりさせた上で進みたいと思います。それはそれで大事な ことでしょう。けれども、人生において、私たちの側で整えることのできる条件というのは、実はそんなに多くは ありません。

明日何が起るか、私たちは知ることができません。今日どんなに条件を整えても、それによって明日の歩み が保証されることはないのです。本当に確かな歩みは、私たちが条件を整えたり確認することによってではな くて、この世界を造り、私たちに命を与え、全てを導いておられる主なる神様のご支配を信じて、自分の身を 献げることによってこそ与えられます。神様はご支配される神の国を、独り子主イエス・キリストによって、その 十字架の死と復活によって実現して下さり、その裁きと救いとを私たちに告げ知らせて下さいます。悔い改め て神様の方に向き直ることによってこそ与えられる救いへと私たちを招いて下さり、その救いのみ業の前進の ために私たちを用いようとしておられるのです。そのみ業の前進のために必要な全ての条件は、神様ご自身 が整え、与えて下さるのです。ですから、今私たち一人一人をこの礼拝へと招き、私たちのことをしっかり見つ めつつ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけて下さっている主イエスに自分の身 を、人生を、委ね、お献げしましょう。それによって私たちも、大きな転換を与えられ、それまでとは全く違う新 しい、神様の恵みのみ手の中で生きる人生を歩み出すことができるのです。

お祈りを致します。 <<<祈 祷>>>

十字架への道

齋藤 正 牧師

聖書箇所

詩篇 22篇2a,b~41節 (旧約聖書852ページ)

22:2 わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。

マルコによる福音書 15章33~41節 (新約聖書96ページ)

◆イエスの死
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

説教

今から約2000年前の西暦33年、ユダヤの暦でニサンの月の14日、金曜日の午後、全地は「暗黒」に閉ざされました。マルコによる福音書15章33節には、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されています。

この日、朝の9時に十字架につけられた主イエスは、午後3時までの6時間、苦しみ抜かれ、遂に息を引き取られました。ローマ帝国の極刑であった十字架刑は処刑者を苦しませるためもあって、死ぬまでに数日かかる残酷な処刑でしたが、主イエスはその直前の苛酷な鞭打ち刑もあって短い時間で息を引き取られました。この聖書が記す「全地の暗黒」は、この主イエスの苦しみの頂点で起きました。

この「暗黒」とは何であったのでしょうか。ある人は日食があったのであろうと言います。またある人は、東の砂漠から吹いて来た砂嵐によって太陽が隠されたと説明したりします。聖書は、「全地は暗くなって、三時まで続いた」と記していますが、聖書が告げることを裏付ける記録はどこにもなく、このときの「暗黒」を聖書以外には誰も記してはいません。

1951年度のノーベル文学賞に輝いたスウェーデンの作家ラーゲル・クヴィストは、受賞作品「バラバ」の中で、このように書いています。

イエスの十字架刑がローマ総督ピラトから言い渡され、その時、イエスの代わりに赦されたバラバは、自分の身代わりになった男はどんな男かを見るために、ゴルゴタへやって来ました。十字架上のイエスを見上げていると、突然、暗くなり、その闇の中で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という声を聴きました。三本の十字架がボンヤリ見えるだけの真昼の暗黒の中で、バラバは怖ろしくなりました。やがて、明るさが戻って来た時、すべては終わっていたのです。バラバは自由でした。「身代わりの男は死んだ。もう自分の罪を咎める者はいない」。ところが、エルサレムの街の中に帰って来て、今、自分が見てきたイエスの死の様子を話すと、誰も「暗くなった」ことを認めません。何も変わらなかったと言います。太陽は何時もの通りでした。ここからバラバの悩みが始まります。「あの時の暗黒は何であったのか」。そしてバラバは、彼の生涯を賭けて、その「暗黒の意味」を尋ね続けるのです。

聖書は、この時の「暗黒」を明確に語っています。しかし、この世の記録は、それについて何も記しておらず、あたかも何事もなかったかのようです。この食い違いに直面するとき、私たちもまた、あのバラバと同じ場に立たされていることに気付かなければなりません。

あの「暗黒」が日食であったのか、砂嵐によるものなのか、そんなことが問題なのではありません。

大切なことは、バラバのように、ナザレのイエスを、自分の罪の身代わりになって死んだ方として仰ぐ者だけが認める「暗黒」なのではないでしょうか。そして、十字架の下であの声を聴いた者が、「あれはいったい何であったのか」と、生涯をかけて尋ね求めるべき「暗黒」なのです。古代の記録の何処にも記されていない「暗黒」。それにもかかわらず「全地が」と告げている聖書。私たちは、ここに、聖書の明確な主張を読み取ることが出来ます。

太陽が出ていようが隠れていようが、暗くなったと認めても、認めなくとも、それに関わりなく、全地の、即ち、神によって造られたものすべての「暗黒」が、ここに宣言されているのです。光を失った世界。それが主イエスが叫んだ言葉によって表されているのです。34節には、「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とあります。この言葉は、先程お読みした詩編22編の冒頭の言葉です。この詩編22編は、確かにこの嘆きの言葉をもって始まっていますが、全編を貫くものは神への信頼であり、神の栄光を讃美する喜びの歌です。そのことから、十字架の主イエスの言葉は、「信仰者の勝利を叫んだのである」と解釈する人もいますが、そうでしょうか。

むしろ、主イエスご自身が日頃から親しまれていた詩編の中の一つの聖句を、十字架上で死を目前にした絶望的な苦しみの中で、主イエスの口をついて出たとみるべきではないでしょうか。主イエスの十字架は、この言葉の通りでした。御子イエスは、ゴルゴタにおいて、まさしく「神に捨てられた」のです。

パウロは、ガラテヤの信徒への手紙 3章13節で、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」と記しています。

私たちクリスチャンは、主イエスの十字架の死を、どんな意味においても英雄の死のように美化してはなりません。主イエスの十字架の死には、恥ずかしさと惨めさと醜さと神に見捨てられた絶望を見なければなりません。神の怒りが主イエスに対して徹底的に向けられたものに他ならないのです。主イエスの十字架において、私たちの罪のすべてが、神の眼の前に曝け出され、徹底的に罪が糾弾されたのです。もはや、どこへ逃げることも出来ず、隠れることも誤魔化すことも出来ず、自分の身に負う罪を、神の裁きの前に曝すのが主イエスの十字架なのです。そしてこれこそが、神から見捨てられた人間の本来の死の姿です。

私たちは、この世を生きる間、この恐ろしさをしばらくは忘れて過ごすことはできるでしょう。生活の慌ただしさによって、職場の厳しさによって、また、さまざまな趣味や娯楽によって、本来の死の姿を忘れ、罪の重荷を考えないようにして、ひとときを過ごすことはできるでしょう。しかし、本当に死に直面した時、それまでのすべての誤魔化しは無駄です。もはや、恐ろしさを紛らわすものは何一つなく、裸の自分がただ一人、神の裁きの前に立たされるのです。これこそが死の恐怖です。死に際して出会う神は正義の神であり、御心に逆らって生きて来た者の罪を、どこまでも追及する裁き主である神です。神の怒り、神の呪い、神からの完全な絶縁。「もうお前のことは知らぬ」と告げられるのが、罪の下における死です。十字架における主イエスの『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』との叫びは、この絶望を表すものと見るべきです。私たちすべてが受けなければならない苦しみを、主イエスが受けられたことを現しているのです。肉体の苦しみは死と共に終わります。しかし、魂の苦しみは、そこから始まるのです。主イエスの叫びに「真実の暗黒」を見るとは、こういうことを現しているのです。

そしてこの主イエスの十字架から、まさに「この時」から、新しい時代が始まりました。それは、人間の苦しみ、その「暗黒」を、「神の独り子・主イエス・キリストが引き受けられた」ということです。

「全地は暗くなった」と聖書は告げています。すべての人間が、例外なくすべての人間が、この怖ろしい神の裁きの下で絶望を味わわなければならない、と告げる聖書が、同時に、この「暗黒」を主イエス・キリストもお受けになったと記しているのです。私たちは、その「暗黒」を自分一人で負うのではなく、その「暗黒の絶望」の中でも、キリスト・イエスが共にいて下さるということです。さらに、その「暗黒の絶望」が、私たち自身では負えない怖ろしい「暗黒」であることを知っておられる神の御子が、私たちに代わって引き受けてくださったのです。御子イエス・キリストは、私たちと共に歩まれ、寄り添われるだけではなく、私たちに先立って、その「暗黒の重荷」を担われる方なのです。

まさに、主イエスが十字架に架かられたあの日は「暗黒の日」でした。すべての人間が絶望を見るべき日でした。しかし、その後の歴史が語っていることは、この世界はその「暗黒」に気付かなかった、ということです。

聖書が、「全地は暗くなった」と告げているのに、それに気付いた人はいなかったのです。神の御子が、私たちの絶望を代わりに引き受けて下さっている時にも、自分たちは明るさの中で生きていると思っていたのです。

旧約聖書1,150ページ、イザヤ書 53章6節から8節をお読みします。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わされた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼は神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

これこそが、聖書が告げる「暗黒」です。そして、この「暗黒」に気付くとき、聖書が伝えようとしているメッセージが明らかになるのです。それは、この「暗黒」が、主イエスの死と共に終わったということであり、むしろ、主イエスの死が「暗黒」を追い払ったと言うべきです。37節には、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」とあります。

並行箇所にあたるヨハネ福音書では、この主イエスの最後の言葉を、「成し遂げられた」と記しています。神の怒り、神の裁きは、主イエスの死によって、まつとうされたということです。また、口語訳では、ここを「すべてが終った」と訳しています。この訳の方が聖書の告知を正しく伝えていると言えるでしょう。「すべてが終った」。これは驚くべき言葉です。「すべてが終った」即ち「神の裁きが終った」と御子イエスは最後に言われたのです。

私たちの罪は、「もう追及されることはなくなった」と主イエスは、この世の生命の最後の言葉でおっしゃったのです。小説のバラバが、主イエスの死を見て「これで自分は本当に自由になった」と感じたように、主イエスの死によって、私たちに対する神の怒りは終わり、私たちの罪は赦されたのです。

旧約聖書(1,237ページ)エレミヤ書31章31節から34節で、預言者エレミヤは次のように語っています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」

「わたしは新しい契約を結ぶ」という主の御言葉をエレミヤは記しています。「わたしは彼らの罪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」。これが、エレミヤを通して語られた「新しい契約」であり、「新約」の新しい約束とはこのことなのです。何も知らず、何も気づかず、無知の中に日々を過ごして来た者の犯した罪のために、神の御子は、贖いの小羊となられたと聖書は語るのです。そして、主イエスの十字架の死で、象徴的なことが起こりました。38節に、「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」とあります。「神殿の垂れ幕」とは、至聖所と聖所との間にある幕のことです。普段は祭司と言えども、人はその幕の内側に入ることは許されず、年に一度、大祭司だけが「全イスラエルの罪の赦しを祈るために、入ることが出来る」と定められていました。「幕」は、神の神聖さの象徴であると共に、聖なる神の御前に出られない「罪の下にある人間」の惨めさの象徴でもあり、神と人を隔てる「隔ての象徴」でした。「その幕が無くなった」というのです。私たちが神の御前に出ることを妨げていたものが主イエスの死によって取り払われ、私たちと父なる神を隔てるものを、主イエス・キリストは、御自身の生命と引き換えに取り去って下さったのです。そして「その幕が無くなった」ということによって、はじめて神と人の交わりが回復したのです。エデンの園から追放以来の長い間の苦しみが今や終わり、神を「父」と呼び、「子よ」と呼ばれる神と人間の関係が、ここにようやく回復したのです。

そして、このキリストの十字架の御業は、私たちと神との関係を回復しただけではなく、同時に、人と人との交わりをも正しくされたのです。それを、新約聖書354ページ、エフェソの信徒への手紙 2章14節から20節でパウロは、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」と告げているのです。

私たちの幸福のすべてが、十字架に基づいていることが明らかです。39節には、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」と記されています。

神に選ばれたユダヤ人が主イエスを憎んで十字架に追いやり、異邦人であるローマの百人隊長が主イエスを「神の子」と告白したとは、実に皮肉なことです。私たちは、ここに神が、すべての人を救いに招き、キリストを信じる信仰のみによって、新しい民を誕生させられたという、新しい時代の始まりを見ることができます。

この告白をする者のみが神の国の民であり、神の家族なのです。主イエス・キリストの十字架の下、たとえ「絶望の暗黒」を味わったとしても、私たちは、「すべてが終った」というキリストの宣言に守られ、無知と無力にも拘わらず、今、御国へ招かれていることを感謝しようではありませんか。

新しい神の家族。それが、主イエスが流された「十字架の血」によって誕生したのです。

お祈りを致しましょう。

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2018年9月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

焦 凝先生のお話

(これは今年6月17日の礼拝で話されたものです。)

聖書:マルコによる福音書2章13-17節

「罪人を招くイエスさま」

焦 凝

皆さんはお熱が出して、風が引いた時、お母さんやお父さんは皆さんを病院に連れて行き、お医者さんから薬をもらいます。もらった薬を飲んだら、お熱が下げ、病気が治ります。

以前の教会学校の授業では、私たち人間は罪びとであることを学ぶことができました。では、神様が私たちのような罪びとをどうやって救ったのかについて、今日皆さんと一緒に学びましょう。

今日の聖書箇所では、イエス様がレビや多くの罪人たちと一緒にお食事したことを書きました。レビはイエス様の弟子という表現がありしましたが、ここの聖書箇所以外では、レビという名前を出ていません。聖書研究家たちの間では、レビはマタイと同一人物だいう説もあります。マタイはイエス様のお弟子さんで、聖書に名前もついているから、何となく偉い人だということがわかります。だからイエス様が彼と同じ席でお食事することがわかります。でも、イエスさまがなぜ多くの罪人と食事するかはわかりません。イエス様は神様の一人子ですから、高貴なお身分です。

実はマタイも自分自身が生きる時代において、高貴な身分をもっていません。マタイの仕事は徴税人です。当時の徴税人は今の徴税人と違いまして、お給料がとても少ないのです。しかし、人々から本当にいくら税金をもらったかは、徴税人の上司である政府が管理できないので、徴税人は人々から集めた税金を隠して自分のものにしてしまう。そのようなことがよく行われていました。そしてこの事実は皆が知っているから、徴税人は皆から嫌われています。マタイの身分と立場は他の罪人に比べても低いです。

では、なぜイエス様はこのような身分の低い人たちと一緒に食事するのでしょうか。イエス様はこのことを自分のお考えで行動したわけではなく、神様のご意志に従って行動しています。イエス様のご誕生も生涯も死も全部そうです。なぜなら、神様は私たち人間の中に罪があって、苦しんでいるので、私たちを救いたいからです。神さまはそのために、イエス様をこの世に遣わしたのであります。

従って、私たちもそのような徴税人や罪びとと変わりありません。そこでイエス様は私たちと一緒に食事することだけではなく、この罪びとの、この私たちのために死ぬことになったのです。

すべては神様がイエス様を通して私たちの罪を贖い、救いたいみ旨があるからです。

9月の御言葉

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

創世記15章6節

9月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

9月2日(日)  創世記3:1-10            お話の担当…並木せつ子

9日(日) 創世記4:1-7               並木せつ子

16日(日) 創世記9:9:17             勝田令子

23日(日) 創世記11:1-9             興津晴枝

30日(日) 創世記15:1-7             山口智代子


8月19日教会学校と大人の合同礼拝、そして一日夏期学校

長い夏休み、皆さんいかがお過ごしでしたか。8月19日に夏の1日教会学校が行われました。教会学校では、初の試みとして、大人と子供の合同礼拝を守りました。大人の礼拝に出席したことがない皆さんも、大人の礼拝プログラムに従い、讃美歌を起立して歌い、静かに聖書の御言葉に耳を傾けていました。献金の歌とお祈りは教会学校の仕方で、守りました。何よりも、子供も大人も一緒に大勢の方々と共に礼拝を捧げることは、大きな恵みでした。

その後、和田堀公園のバーベキュー場に移動しました。生徒の皆さんも荷物を運んだり、椅子を組み立てたり、お手伝いをして、みんなで協力して、準備することが出来ました。「お肉、お肉」と小学生に急かされ、大人が次から次へお肉と野菜を焼き、美味しく頂き、あっという間に完食しました。その後みんなで後片付けをし、教会に戻り、スイカを食べ、ガレージで花火をしてから、勝田さん手作リのシフォンケーキを美味しく頂きました。

お天気にも恵まれ、暑すぎず、怪我や事故がなく、無事に終えることが出来ました。保護者の方々には、備品を貸して頂いたり、多大なご協力をありがとうございました。主にある交わりの時を持つことが出来て、感謝です。参加は生徒9名、大人(教師、保護者、ヘルパー)13名でした。

(報告は主に山口智代子先生)

成宗教会学校からお知らせ

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。

2018年8月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

並木せつ子先生のお話

(これは今年6月10日の礼拝で話されたものです。)

聖書: マルコ1章21-28節

「イエスさまの三つのお働き」

並木せつ子

 イエスさまが地上に来てくださったのは、神様から与えられたお仕事があったからです。

今日のお話はイエスさまが汚れた霊に取りつかれた人から、その霊を追い出したというお話ですが、この中で、イエスさまは御自分に三つの働き(お仕事)が与えられていることを、人々にお示しになりました。

その一つは、イエスさまが安息日に会堂で教えられたことです。私たちが日曜日教会に集まって、神さまの教えを聞いているように、イエスさまは聖書の言葉から、神さまのお心を皆さんに知らせたのです。これが預言者の働きです。

するとみんなが静かに聞いていたとき、汚れた霊にとりつかれた男が騒ぎ始めたのでした。その男はそこにいた人々の目には変な人だとか、怖い人としか見えなかったでしょう。でも、イエスさまはその人の本当の気持ちと、その人の言っていること、していることが違うと分かってくださいました。彼が悪霊にとりつかれていたことも。彼の本当の気持ちは、悪霊に出て行ってほしいのだ、とイエスさまには分かったので、彼の本当の願いの通りにして上げました。「悪霊よ、この人から出て行け」と言って追い出しました。その人がしたくてもできなかったことを、その人に代わってして上げたのです。これは祭司の務めです。人のために代わってして上げる働きです。

でも、わたしたちにはできないことですね。なぜなら相手は汚れた霊で人間より強いのですから。出て行けと言ったって出て行くはずがありません。でもイエスさまにはお出来になります。イエスさまは神の権威をお持ちなので悪魔もイエスさまには勝てないのです。この働きは王の働きです。

イエスさまはこの三つの働きをもって地上に来てくださいました。そして神さまの本当のお心を人々に伝えました。神さまは罪の奴隷になっている(悪霊にとりつかれている人はその一番目立つ例です)人間の本当の苦しみを分かってくださり、身代わりになって罪を引き受けて十字架の死を耐え忍んでくださいました。神はイエスさまを死から復活させて神の権威をお与えくださいました。わたしたちもイエスさまを信じるならば、イエスさまの三つの働き

によって救われるのです。イエスさまは、十字架に死なれましたが、復活され、信じる人を罪から解放してくださいました。今も天に在ってこの働きをしてくださっているのです。

9月の御言葉

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

創世記15章6節

9月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • ◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

9月2日(日)  創世記3:1-10            お話の担当…並木せつ子

9日(日) 創世記4:1-7               並木せつ子

16日(日) 創世記9:9:17             勝田令子

23日(日) 創世記11:1-9             興津晴枝

30日(日) 創世記15:1-7              山口智代子


成宗教会学校からお知らせ

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。
  • 成宗教会学校の夏休み・・・8月一か月は9時15分から10時15分までの教会学校はありません。この機会に10時半からの礼拝に参加してみて下さい。どなたでもイエスさまは招いておられます。
  • 8月19日(日)夏休み一日教会学校・・・この日は10時半からの合同礼拝から始まります

Ⅰ 大人との合同礼拝・・・10時半~11時20分(いつもより短めです。どなたも遅刻しないように心掛けてください。) 教会ガレージで持ち物準備。出発は11時50分。

Ⅱ 善福寺川緑地公園でバーベキュー・・・12時半~15時

Ⅲ 教会に戻っておやつタイム、お祈り、解散・・・15時半~16時半

  • 詳しい案内を差し上げています。郵送もしています。申込み締切は7月29日(日)