主を待ち望む

聖書:イザヤ40章3-5節, マルコによる福音書1章1-8節

私たちはこの年も主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマスを迎えようとしています。救い主の到来は全世界が待ち望んでいることです。昔そうであったように、今も全世界が救いを求めているのではないでしょうか。一体。救いを待ち望まない人々が本当にいるのでしょうか。

旧約聖書の神の民に預言者たちは、長い間語りかけて来ました。彼ら預言者たちは、神の民でありながら、神の掟を守らない人々に、神の言葉を語り続けて来たのです。「主に立ち帰れ」と。神の掟を守り、神に捧げるならば、あなたがたは豊かな祝福を受けるだろう。そして、世界中の人々があなたがたを幸いな者と呼ぶだろう、と。しかし人々は、神に従っても、何の得もない。神の戒めを守って謙って歩いても何の利益があるだろうかと言いました。むしろ高慢な人々に従った方がいいではないか。彼らは悪事を行っても何の損もしない。むしろますます繁栄しているではないか。神を試みても罰を受けていないではないか、と。

私たちはどう思うでしょうか。この世界は貧しい者がますます貧しくなり、力ある者がその力を最大限に生かして富に富を積み上げ、力を増し加えているように見えます。戦争さえも、力を持つ者が起こしている。もっと力を持つために。そして戦いの最前線に出されるのは貧しい人々、戦争で家を失い、土地を追われるのも貧しい人々なのです。そのような人々と、多くの力を握り占めている人々とでは、命の値打ちが違うのでしょうか。権力者の命は金やダイヤモンド。そして貧しい人の命はゴミのようなものなのでしょうか。

主の憐れみが深ければ深いほど、主の怒りは火山のように高く、激しく燃え上がらないでしょうか。こうして戦争に次ぐ戦争が起こるのです。荒廃に次ぐ荒廃に人々は心も荒れ果てて行きます。それでも、地上に僅かな人々が残される。わずかな人々、それは主を畏れ敬う人々です。男であれ、女であれ、身分の高い者であれ、取るに足らない小さな者であれ、強い者であれ、力尽きて倒れる者であれ、主を畏れ敬う人々が残されています。そして、それも神の御業に違いありません。人は皆罪を犯して、神の恵みから遠く離れてしまっているので、神がその人を慈しんでくださらなければ、だれも神を仰ぎ見ることもできない。ですから、神を畏れ敬うことも、皆神から心にいただく賜物ではないでしょうか。

私たちもまた、こうして何の取り得もない者も、ある者も、こうして主の日の礼拝を守るために招かれました。いても立ってもいられないほど、忙しい時代に、また「何かしなければ明日が心配だ」という時代に、不思議にも私たちは神に従う者とされている。これこそは、私たちにとって福音の初めです。福音、神の喜ばしいメッセージを聞きましょう。

マルコ福音書は書き出しの言葉を次のように始めました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」キリストは「ダビデの子」と呼ばれたり、「アブラハムの子孫」と呼ばれたりします。キリストは、アブラハムの子孫である神の民の中にお生まれになって、神に背いている罪人を救ってくださる救い主でありますが、マルコが強調しているのは、この方は神の子であるということです。なぜなら、罪人を救うことは神の力でなければできないことだからです。神は背く者の傲慢不遜を大目に見たり、甘やかしたり、なさる方では決してないのですが、その一方、ゴミのように打ち捨てられている小さい者を、お見捨てになっておられるのではありません。預言者たちが繰り返し語っているように、神は「不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜わる」方でありますから。

そこで、苦難の時に、何の希望も見いだせない時に、なお主を待ち望み、「あなたこそ主、正しくお裁きになり、私に落ち度があっても、どうぞ憐れんでお救いください」と祈り求める信仰こそ大切なのであります。神は荒れ野に使者を遣わすことを約束されました。荒れ野。わたしたちは、荒れ野というと、もちろん文字通りの厳しい気候風土で荒廃した場所を思い浮かべることもできましょう。しかし、むしろ荒廃しているのは、自然だけではなく、戦争によって、また人の強欲、傲慢、心無さによって破壊された自然や、農耕地や、建物なのではないでしょうか。さらに荒廃しているのは、人々の悪意に囲まれて、踏みにじられて、すっかり貶められてしまった心、自分の価値など全く見い出せないほど地に落ちた人間の魂の荒れ野ではないでしょうか。

神は悪事を決して見逃されない方であり、しかしまた、罪人を憐れんで救ってくださるために、私たちの思いをはるかに超えた恵みの業を備えてくださいます。この方が御子にこう言われたのです。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」と。そこで、神の子イエス・キリストの福音の初めに、語られるのは、キリストに先立って荒れ野に遣わされた使者。すなわち洗礼者ヨハネのことであります。

彼に与えられた使命は、救い主のために道を整えることでした。私たちの人生の荒れ野。そこにはいろいろな道があります。細い道、曲がった道、崖に沿った道、谷間の道、鬱蒼とした山中の道。救いに至る道はどこか、探すうちに迷路に入ってしまうかもしれない私たちの人生です。神から遣わされた者の声は、そのとき荒れ野に響き渡ります。その声は「主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ」と叫ぶのです。いろいろな道があるのです。しかし、主の道は一筋。それは救いに至る道です。その道を真っすぐにしなさい。

「救われるために何をしたらよいのですか。」それは複雑なことではありません。もったいぶって、「それはなかなか難しい」と言っている人がいます。ああでもない、こうでもない、とさんざん議論し、「あれをしなさい」、「これをしなさい」と勧めて人を引き回す人がいます。そうではない。そんなことは聖書には書いてないのです。主の道は真っすぐ、だれでも見出せる広い道に整えなさい、と命じられています。でこぼこもなくし、歩きやすくしなさいと言われているのです。

私たちは多くの人々が長命を生きる時代にいます。昔の人々と比較して、世の中何が変ったかというと、いろいろありますが、何と言っても多くの人々が長生きできるようになったことが100年前、200年前、500年前と全く違うところだと思います。昔の人は子供を沢山授かりましたが、育って成人になる確率は決して高くなかったと思います。戦争の危機に加えて、ペストのような疫病が突如猛威を振るったからです。宗教改革者ルターもカルヴァンも子供たちに先立たれました。そして本人は60代で亡くなりましたが、それでも長生きした方ではないかと思います。

自分はいつまでも生きられるわけではない、と思う時、私たちの心に一筋の道が与えられるなら、私たちは非常に幸いです。自分の救いのために最善の道を日々祈り、選ぶでしょう。また、自分が先立つ時に残される人々のために、最善の道を日々祈り、自分の力で出来ることはして、彼らのために真心を尽くすでしょう。それに対して、いつまでも生きられるという想定をするなら、一筋の真っすぐな道よりも、寄り道をしてみようと思うでしょう。面白いことの追及が最大の目的となり、迷路遊びに取りつかれ、ついに迷宮入りとなってしまわないでしょうか。真に残念なことです。

洗礼者ヨハネは、文字通り荒れ野に現れたと思われます。便利で華やかな都会ではなく、不便で生活も厳しい地方に生活しました。ヨハネの服装や食べ物については、預言者として禁欲的な生活を進んでしたのだと考えることもできますが、彼の生活ぶりはこの時代の農耕や牧畜をして生活する人々の生活と変わりなかったというかもしれません。ヨハネは人々に質素な禁欲的な生活を勧めようとしたのではないのです。ただ私たちもそうですが、立派な風貌の人が立派な身なり出で立ちで現れると、何となく偉い人のように思ったり、話を聞く値打ちがあるように思ったりするものです。しかし、ヨハネは普通の庶民の貧しい身なりをしていました。そしてそれにも拘わらず、人々が彼の許に集まるほど、ヨハネの宣教は力に満ちたものだったことが分かります。

彼は救いの道を真っすぐに整えます。救われるためにはどうしたらよいのか。ヨハネは罪の赦しを求めている人々に、悔い改めを迫りました。すなわち、「私は神さまに背いて罪を犯しました」と告白することを求めました。この告白を公に行った人々に、ヨハネは洗礼を授けたのでした。ですから、洗礼を受けるためにしなければならないことがある訳です。それは神と人の前で(公に、ということの意味です)罪を告白することです。こうして人々は彼の宣べ伝える言葉を受け入れました。その人々の数は、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたと言われますから、本当に相当な人数になったと思われます。

人々は神から遣わされたヨハネを非常に尊敬したと思われます。神から遣わされ、神の御心をその通り人々に教える預言者。洗礼者ヨハネもその通りの忠実な人でありましたから、人々は彼を尊敬したことは言うまでもありません。牧師が一生懸命福音を宣べ伝えているのは、聞く人に、福音の中心であるイエス・キリストを心に受け取っていただくためであります。別の言い方をすれば、福音を聞く人が福音を通して、主イエスが自分を救いに招いてくださっていることを知るためであります。ところが、聞く人は、イエス・キリストが自分を招いておられると感じないで、○○牧師が自分を招いておられると錯覚してしまうことがあるのではないでしょうか。

バプテスマのヨハネもそのような間違いを心配していました。救いの道は神の子イエス・キリストの御名にこそあるのに、「ヨハネ先生は素晴らしい。救いはヨハネ先生の言葉にある!」と勘違いしてしまい、「この先生について行こう」ということになってしまうのではないか。洗礼者ヨハネはそのことを大変心配しました。そこで、彼は救い主について、次のように予言したのであります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

来るべき救い主、キリストは、力と地位において自分よりはるかに優れているので、ヨハネは一般的な表現(ここでは、「履物の紐を解く」という奴隷の仕事を例にとりました)を用いて、自分との差が絶大なものであることを教えました。そうしてヨハネは、キリストの栄光をほめたたえ、キリストに比べれば自分は無に等しいものだと述べているのであります。ヨハネがこのように証しした通り、教会の牧師も罪を告白する者に対して、形式として、目に見える形でバプテスマを授けるのです。これはキリストが自ら定められた聖礼典であるので、教会は聖餐式と同様に、この形式を固く守っています。しかし、この形式に表された内容、内実をお与えになる方は救い主、イエス・キリストその方であります。

ヨハネは宣言しています。自分は外的な(目に見える形のことです)バプテスマを授ける者に過ぎない。けれども、やがて来られるキリストは聖霊によってバプテスマを授けてくださる方なのだと。

今成宗教会は、長村牧師以後、今に至るまでの時代の記録を編纂しようとしており、他の教会の記念誌にも目を通して参考を得ております。それらを見ると、今80歳前後の世代の方々がお若い頃は、日本は戦後のキリスト教ブームがあり、多くの人々が洗礼を受けたようでした。時代は変わって行きます。しかし、主の体の頭であるイエス・キリストは変わることがありません。だからこそ、私たちがよろよろしてもグラグラしても、この方に救いの望みをかけることができるのです。本当に主の教会に結ばれる人々は、移り行く時代の牧師に、ではなく、変らない主の体に結ばれているのです。この恵みに感謝してクリスマスを迎えましょう。

 

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。待降節第三主日の礼拝に私たちを呼び集めて下さり、ありがとうございました。この日も恵みの御言葉をいただき、讃美と感謝を捧げることができました。 クリスマスを迎えようとしているこの時、私たちの心と体と魂を、御子をお迎えするにふさわしく整えてください。日頃のあわただしい心、落ち着きのない考えを鎮め、感謝と祈りによって一週間を過ごすことができますように。

私たちの地上の命を永くしてくださり、主の恵みを証しする機会を日々与えてくださることを感謝します。どうか若い人々に、次の世代の人々に慰めと励ましと、生きる勇気と知恵の源であるあなたをイエス・キリストを通して紹介することができますように。

クリスマスの準備が沢山ございますが、奉仕者が限られた力を精いっぱい捧げております。どうかあなたが喜んで助けてくださいますように。健康を整え、クリスマス主日聖餐礼拝、祝会、そしてイヴ礼拝を捧げる私たちに、恵みを豊かにお与え下さい。多くの地域の方々の間に、あなたの御名が高く崇められますように。福音が宣べ伝えられますように。そして病気のため、ご高齢のため、礼拝に参加できない方々の上にもクリスマスの喜びと慰めをお与え下さいますように祈り願います。

最後に私たちの教会に集う者すべてのうちに、その背後にあるご家族のうちに、どうか福音の光が届きますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの権威は人を救う

聖書:イザヤ書9章5-6節, マルコによる福音書1章21-28節

 先週からクリスマスに向かう待降節が始まりました。世界中がイエス・キリストについて聞いたことがあり、お名前を知っています。その中にはただ名前だけ知っている人々も大勢いますが、この方を礼拝している人々も大勢なのです。キリストは神と等しい方、神の御子でいらっしゃいましたが、限りなく高いところから、御自身を低くされて、地上に降って来られました。人間の罪を負うために、人間として苦しみを受けてくださったのです。キリストには世に来られたことには、はっきりとした目的がございました。それは私たちの罪を贖って、私たちを自由にしてくださることでした。

イエス・キリストのお働き、職務について、教会は三つのことを信じて来ました。それは、第一に預言者の務めです。旧約聖書にはモーセ、イザヤ、エレミヤなど多くの預言者が登場します。神は見えないお方であり、私たちはその声を聞くこともできないのですが、神は御自分の御心を預言者の口を通してお知らせくださいました。その言葉を聞き、神に従う民となるためです。地上に来られた主イエスもユダヤ人の会堂に入ってしばしば人々を教えられました。旧約聖書を紐解いて神の御心を教えられたのです。今日読んでいただいたマルコ福音書の物語も、その一つの場面です。

安息日にはユダヤ教徒の人々は旧約聖書の教え通り、労働を止めて会堂に集まりました。そして聖書を読み、讃美と祈りを捧げていました。その時に会堂の責任者がこれと思う人々に話をすることを要請したと思われます。キリスト教会の礼拝のルーツもここに見られるでしょう。主イエスも促されて、人々の前に立たれました。すると人々はその教えに驚きました。主イエスの教えは他の人々の教えとは全く違っていたからです。それは、人々がいつも聞きなれていた律法学者のようではなかったというのです。律法学者は旧約聖書の専門家です。聖書の解釈が専門です。聖書に精通して、どこから聞いてもまちがい無く答えたと思います。しかし、そこには聖霊の神の力がなかったのです。

正しい教えであるはずなのに、それは心を動かす話ではなかった。魂を揺さぶる話ではなかったということでしょうか。人々はそういうお説教に聞き慣れてしまっていました。律法を守りなさい。そうすれば救われる、という教えです。その通りだ。しかし、実際、救われている実感がない。あれも出来ていない。これも出来ていない。出来ていないことが多い、どんどん増えていくように思われるのです。その一方罪の償いのために、しなければならないことがありました。人々は疲れ果てていたのではないでしょうか。

主イエスは権威ある者としてお語りになりました。主イエスは、律法学者のような経歴も無く、人から教えられて学んだのではなかったでしょう。それだけに、人々は驚きが大きかったこともあったでしょう。しかし、主イエスの権威は人からのものではなかった。それは天から与えられた権威であったのです。だからこそ、人々は主の御言葉に計り知れない威厳を感じたのであります。その御言葉は神の国が近づいたことを人々に告げ知らせるものでありました。すなわち、人間の側から何かをして、手柄を立て、点数を稼ぎ、積み上げて神の国を目指して這い上がって行くのではない。神の国が近づいたのは、神の方から恵みをもって近づいてくださるからに他なりません。

預言者イザヤが何百年も前に告げ知らせた御言葉を今日は読みました。9章5節。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」それは幼子誕生の預言です。そしてイザヤは、幼子キリストがやがて果たすべき職務について、この預言を信じる者に告げ知らせるのです。「驚くべき指導者」と。驚くべきとは、素晴らしいという意味です。「指導者Counselor」と呼んでいるのは、キリストがあらゆる角度から見て最高の完全な教師であるからです。

私たちの救いに必要なすべてのことは、このようにしてキリストよって道が開かれました。そのことを、キリストは人々に親しく教えられたのでありました。権威ある者として教えられたのですが、しかし同時に親しみをもって身近に教えられました。それはキリストが弟子たちを僕と呼ばず、友人と呼んでいる親しさなのです。ヨハネ福音書15章15節に主の御言葉を聞きましょう。(199上)「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

幼子の名はまた、「力ある神」であるとイザヤは預言しました。人々は神を信じていると思いながらも、不安に揺らいでいました。それは昔も今も変わりありません。クリスマスが近づくこの時期、一度は行ってみたいベツレヘム生誕教会をはじめエルサレムは、クリスマスを祝う観光客でにぎわうはずですが、今年はただただ大きな戦争にならないことを祈るばかりです。何十年も前にパレスチナを訪れた友人からは、イスラム教徒が観光客にキリスト教徒の喜ぶ土産物を盛んに勧められたと言っていました。そのような平和な共存のためにこそ、私たちは力ある神を頼ります。「キリストは力ある神」と私たちが賛美するのは、この平和を実現してくださるキリストに全面的に頼っているからです。この方が全世界の主として執り成してくださる。キリストは私たち小さな者の日々の救いのためにも執り成しをして、大祭司の務めをも果たしておられます。これが、キリストが世に来てくださった第二の目的です。

また預言者イザヤは幼子を三つ目の名で呼びました。それは「永遠の父」です。父という名前は造り主を意味するものです。キリストは御自分をただ一度罪の犠牲、供え物として十字架に死なれました。そして三日目に復活され、御自分を信じる者を御自分の復活の命に結んでくださいました。こうしてキリストの体である教会を造られ、教会を世々限りなく保ってくださいます。だからこそ、主イエス・キリストは永遠の父と呼ばれているのであり、私たちは永遠の命であるこの方に心を高く挙げて生きるべきであります。

最後にキリストは「平和の君」と呼ばれています。私たちは戦争のない世界を一心に望んではおりますが、神の望まれる平和とは、戦争なしに世界を維持すること以上のものでしょう。平和とは、ヘブライ語では、繁栄prosperityを意味します。すなわち、すべての祝福のうちでも、よりよいもの、望ましいもの。それが平和なのであり、ただ争いがないという状態よりも豊かな内容を持っています。さらにその中に調和のある健全な姿を含んでいるというべきものではないでしょうか。

今、私たちの目には、世界中あまりにも平和がない、むしろますます争いと混乱と悲惨が増し加わって行くばかりのように見えるのではないでしょうか。しかし、それでもこの悩みに満ちた世界に、毎年クリスマスは巡って来ます。その度に私たちは祈り願わずにはいられません。平和の君がやがて完全な幸福の元となることを。または少なくとも平穏で祝福された平安の元となることを。キリストが私たちの世界に来てくださった目的の第三はそのことです。すなわち、キリストは王としての務めを果たすためにいらしたのです。

平和の君。それは、キリストが十字架に付けられる前、エルサレムに王として入城されたことでも知られることです。人を驚かせ、恐れさせるきらびやかな姿で軍隊によって先導されたこの世の権力者としての王ではなく、聖書の証しする平和の王としてキリストは来られました。その様子をマタイ福音書はイザヤの預言を引用して記しています。マタイ21章4節5節。(40上)「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前の所においでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

このように、イエス・キリストは三つの職務を果たすために世に来られました。それはすなわち預言者の務め、祭司の務め、王の務めであったのです。そしてその三つの働きはすべて、神に背いて敵となっていた人間が本来神に造られたとき持っていた姿、すなわち神の似姿を取り戻させるために、用いられたのです。

このような神のご意志に、私たちは私たちの理解をはるかに超える愛を知らされるのではないでしょうか。神のこの決意、この熱意こそ、本日読まれましたマルコ1章の21節以下に語られている権威なのです。その権威は神の権威、聖霊によって告げられた言葉となりました。それは人々を非常に驚かせました。そしてその権威はついにそのとき会衆の中にいた一人の男に叫び声を上げさせました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

この人は汚れた霊に取りつかれた男と呼ばれています。どうしてそんなことが分かるのだろうか、と私たちは不思議に思いますが、汚れた霊、つまりサタンの力によって魂も身も心も強く押さえつけられているので、その話すこと、行うことすべてがサタンの思うままにされていると見做されていたのだと思います。よほど尋常でない言動をしていたから人々にそう言われたのでしょうが、神さまから御覧になれば、この男と他の人々とどれぐらい違いがあるのだろうかと疑問に思います。なぜなら、皆が神から遠ざかり、皆が神に従っていないとすれば、皆が神の敵であるサタンの近くにいるわけですから。

ところがこの汚れた霊に取りつかれていると言われる男は、他の人々とちがった行動に出ました。すなわちいきなり主イエスに向かって叫びました。「かまわないでくれ」と。サタンは、たとえ他の人々が知らなくても知っていました。キリストが神の聖者であることを。それを知っていても黙っていれば、他の人々には気づかれない。サタンには何の損害もないはずです。ところが、サタンはこの人を使ってわざわざ「あなたの正体は神の聖者だ」と言わせたのです。これはサタンの策略ではないでしょうか。

汚れた霊に取りつかれていると人々が思っている男の口から、主イエスを持ち上げる言葉を語らせる。そうすれば、あの男とナザレのイエスは知り合いだ、と印象を人々に与えるでしょう。何か深い関係があるのではないか。ひょっとしたら仲間なのではないか?という憶測さえ生まれるかもしれません。神の国を宣べ伝えようとされる主イエスを貶めるためにサタンは巧妙な手段を取っているのではないでしょうか。真に神の恵みから人々を遠ざけようとするサタンの策略は、実に底知れないことをわたしたちは知らなければなりません。

しかし、主イエスはお命じになります。「黙れ。この人から出て行け。」この命令はサタンに対するもの。サタンは神の権威に逆らうことはできません。そして汚れた霊に取りつかれている人に対しては、これは解放の言葉となりました。「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」からです。同じ出来事が記述されているルカ福音書では、「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も追わせずに出て行った」のでした(ルカ4章35節)。サタンつまり悪霊によってこの人はさんざん苦しみました。この人とサタンは一体のように人々に見えていましたから、サタンを恐れる人々は当然この人を怖がっていたことでしょう。しかし、主イエスはおいでになり、御自分の前に姿を現わした悪霊を追い出して、この人を解放しました。

この人は人々の目に一目で分かるほど悪霊に取りつかれていましたが、罪の奴隷になっているのは、決してこの人ばかりではありません。人間のすべてが、神に従う道を見失っていたのです。何が良いのか、悪いのか、どれが正しい道なのか、そうでないのかさえ、しばしば分からなくなっているからこそ、この世界に多くの苦しみがあります。人は人を訴え、家族が親しい者が争い、憎み合い、殺し合う有様です。ましてや、遠い国と国の間に悪の応酬があり、真に無慈悲な戦争に発展するのは当然ではないでしょうか。

しかし、希望はイエス・キリストにあります。すっかりサタンの手先になってしまっていてどうにもならないこの男さえ、主の御前に叫んで救われました。真に主の御前に出ることがどんなに幸いなことであるか。この事を私たちは教えられました。なぜなら、キリストは神の権威を持って私たちを執り成してくださるからです。預言者の務め、祭司の務め、そして王の務めによって、私たちを罪から救ってくださることを知らされました。この救いに招かれてキリストの救いの木の枝に連なりましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。私たちは今日の礼拝で御子イエス・キリストの地上でのお働きについて教えを受けました。深く感謝いたします。悪霊に取りつかれた人が、自分では何もできなくなっているのに、ただ恵みによって罪から解放されました。ただキリストこそ、変らない希望であることを多くの若い人々に告げ知らせることができますように。私たちは何かできることによって救われるのではなく、ただただ、地上に来てくださった御子の働きの中に現れたあなたの尊い恵みと慈しみによって救われました。

どうかこのことをこの上ない喜びとし、感謝とし、今日この日から感謝と賛美の生活に入るよう、私たちを造り変えてください。そして、これから多くの重荷を負って生きて行こうとしている人々が、自分の働きによる救いではなく、イエスキリストの働きによる救いを信じ、身を委ねて、安らかに健やかに生きる者とされますように。

私たちの教会では、多くの方が高齢になり、健康に支障をきたすことが多くなりました。しかし、自由に何でも出来ていたとき以上に、あなたを思い、祈り、感謝して生きることの幸いを感じております。あなたの恵みを証しする生活を祝福して下さい。今、ご病気の方、入院されている方々を心に覚えます。どうかそれぞれの苦しみを取り去ってください。それぞれの困難を通して主の愛が新たに確信されますように。今週もクリスマスに向かう歩みを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。