キリストの権威は人を救う

聖書:イザヤ書9章5-6節, マルコによる福音書1章21-28節

 先週からクリスマスに向かう待降節が始まりました。世界中がイエス・キリストについて聞いたことがあり、お名前を知っています。その中にはただ名前だけ知っている人々も大勢いますが、この方を礼拝している人々も大勢なのです。キリストは神と等しい方、神の御子でいらっしゃいましたが、限りなく高いところから、御自身を低くされて、地上に降って来られました。人間の罪を負うために、人間として苦しみを受けてくださったのです。キリストには世に来られたことには、はっきりとした目的がございました。それは私たちの罪を贖って、私たちを自由にしてくださることでした。

イエス・キリストのお働き、職務について、教会は三つのことを信じて来ました。それは、第一に預言者の務めです。旧約聖書にはモーセ、イザヤ、エレミヤなど多くの預言者が登場します。神は見えないお方であり、私たちはその声を聞くこともできないのですが、神は御自分の御心を預言者の口を通してお知らせくださいました。その言葉を聞き、神に従う民となるためです。地上に来られた主イエスもユダヤ人の会堂に入ってしばしば人々を教えられました。旧約聖書を紐解いて神の御心を教えられたのです。今日読んでいただいたマルコ福音書の物語も、その一つの場面です。

安息日にはユダヤ教徒の人々は旧約聖書の教え通り、労働を止めて会堂に集まりました。そして聖書を読み、讃美と祈りを捧げていました。その時に会堂の責任者がこれと思う人々に話をすることを要請したと思われます。キリスト教会の礼拝のルーツもここに見られるでしょう。主イエスも促されて、人々の前に立たれました。すると人々はその教えに驚きました。主イエスの教えは他の人々の教えとは全く違っていたからです。それは、人々がいつも聞きなれていた律法学者のようではなかったというのです。律法学者は旧約聖書の専門家です。聖書の解釈が専門です。聖書に精通して、どこから聞いてもまちがい無く答えたと思います。しかし、そこには聖霊の神の力がなかったのです。

正しい教えであるはずなのに、それは心を動かす話ではなかった。魂を揺さぶる話ではなかったということでしょうか。人々はそういうお説教に聞き慣れてしまっていました。律法を守りなさい。そうすれば救われる、という教えです。その通りだ。しかし、実際、救われている実感がない。あれも出来ていない。これも出来ていない。出来ていないことが多い、どんどん増えていくように思われるのです。その一方罪の償いのために、しなければならないことがありました。人々は疲れ果てていたのではないでしょうか。

主イエスは権威ある者としてお語りになりました。主イエスは、律法学者のような経歴も無く、人から教えられて学んだのではなかったでしょう。それだけに、人々は驚きが大きかったこともあったでしょう。しかし、主イエスの権威は人からのものではなかった。それは天から与えられた権威であったのです。だからこそ、人々は主の御言葉に計り知れない威厳を感じたのであります。その御言葉は神の国が近づいたことを人々に告げ知らせるものでありました。すなわち、人間の側から何かをして、手柄を立て、点数を稼ぎ、積み上げて神の国を目指して這い上がって行くのではない。神の国が近づいたのは、神の方から恵みをもって近づいてくださるからに他なりません。

預言者イザヤが何百年も前に告げ知らせた御言葉を今日は読みました。9章5節。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」それは幼子誕生の預言です。そしてイザヤは、幼子キリストがやがて果たすべき職務について、この預言を信じる者に告げ知らせるのです。「驚くべき指導者」と。驚くべきとは、素晴らしいという意味です。「指導者Counselor」と呼んでいるのは、キリストがあらゆる角度から見て最高の完全な教師であるからです。

私たちの救いに必要なすべてのことは、このようにしてキリストよって道が開かれました。そのことを、キリストは人々に親しく教えられたのでありました。権威ある者として教えられたのですが、しかし同時に親しみをもって身近に教えられました。それはキリストが弟子たちを僕と呼ばず、友人と呼んでいる親しさなのです。ヨハネ福音書15章15節に主の御言葉を聞きましょう。(199上)「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

幼子の名はまた、「力ある神」であるとイザヤは預言しました。人々は神を信じていると思いながらも、不安に揺らいでいました。それは昔も今も変わりありません。クリスマスが近づくこの時期、一度は行ってみたいベツレヘム生誕教会をはじめエルサレムは、クリスマスを祝う観光客でにぎわうはずですが、今年はただただ大きな戦争にならないことを祈るばかりです。何十年も前にパレスチナを訪れた友人からは、イスラム教徒が観光客にキリスト教徒の喜ぶ土産物を盛んに勧められたと言っていました。そのような平和な共存のためにこそ、私たちは力ある神を頼ります。「キリストは力ある神」と私たちが賛美するのは、この平和を実現してくださるキリストに全面的に頼っているからです。この方が全世界の主として執り成してくださる。キリストは私たち小さな者の日々の救いのためにも執り成しをして、大祭司の務めをも果たしておられます。これが、キリストが世に来てくださった第二の目的です。

また預言者イザヤは幼子を三つ目の名で呼びました。それは「永遠の父」です。父という名前は造り主を意味するものです。キリストは御自分をただ一度罪の犠牲、供え物として十字架に死なれました。そして三日目に復活され、御自分を信じる者を御自分の復活の命に結んでくださいました。こうしてキリストの体である教会を造られ、教会を世々限りなく保ってくださいます。だからこそ、主イエス・キリストは永遠の父と呼ばれているのであり、私たちは永遠の命であるこの方に心を高く挙げて生きるべきであります。

最後にキリストは「平和の君」と呼ばれています。私たちは戦争のない世界を一心に望んではおりますが、神の望まれる平和とは、戦争なしに世界を維持すること以上のものでしょう。平和とは、ヘブライ語では、繁栄prosperityを意味します。すなわち、すべての祝福のうちでも、よりよいもの、望ましいもの。それが平和なのであり、ただ争いがないという状態よりも豊かな内容を持っています。さらにその中に調和のある健全な姿を含んでいるというべきものではないでしょうか。

今、私たちの目には、世界中あまりにも平和がない、むしろますます争いと混乱と悲惨が増し加わって行くばかりのように見えるのではないでしょうか。しかし、それでもこの悩みに満ちた世界に、毎年クリスマスは巡って来ます。その度に私たちは祈り願わずにはいられません。平和の君がやがて完全な幸福の元となることを。または少なくとも平穏で祝福された平安の元となることを。キリストが私たちの世界に来てくださった目的の第三はそのことです。すなわち、キリストは王としての務めを果たすためにいらしたのです。

平和の君。それは、キリストが十字架に付けられる前、エルサレムに王として入城されたことでも知られることです。人を驚かせ、恐れさせるきらびやかな姿で軍隊によって先導されたこの世の権力者としての王ではなく、聖書の証しする平和の王としてキリストは来られました。その様子をマタイ福音書はイザヤの預言を引用して記しています。マタイ21章4節5節。(40上)「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前の所においでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

このように、イエス・キリストは三つの職務を果たすために世に来られました。それはすなわち預言者の務め、祭司の務め、王の務めであったのです。そしてその三つの働きはすべて、神に背いて敵となっていた人間が本来神に造られたとき持っていた姿、すなわち神の似姿を取り戻させるために、用いられたのです。

このような神のご意志に、私たちは私たちの理解をはるかに超える愛を知らされるのではないでしょうか。神のこの決意、この熱意こそ、本日読まれましたマルコ1章の21節以下に語られている権威なのです。その権威は神の権威、聖霊によって告げられた言葉となりました。それは人々を非常に驚かせました。そしてその権威はついにそのとき会衆の中にいた一人の男に叫び声を上げさせました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

この人は汚れた霊に取りつかれた男と呼ばれています。どうしてそんなことが分かるのだろうか、と私たちは不思議に思いますが、汚れた霊、つまりサタンの力によって魂も身も心も強く押さえつけられているので、その話すこと、行うことすべてがサタンの思うままにされていると見做されていたのだと思います。よほど尋常でない言動をしていたから人々にそう言われたのでしょうが、神さまから御覧になれば、この男と他の人々とどれぐらい違いがあるのだろうかと疑問に思います。なぜなら、皆が神から遠ざかり、皆が神に従っていないとすれば、皆が神の敵であるサタンの近くにいるわけですから。

ところがこの汚れた霊に取りつかれていると言われる男は、他の人々とちがった行動に出ました。すなわちいきなり主イエスに向かって叫びました。「かまわないでくれ」と。サタンは、たとえ他の人々が知らなくても知っていました。キリストが神の聖者であることを。それを知っていても黙っていれば、他の人々には気づかれない。サタンには何の損害もないはずです。ところが、サタンはこの人を使ってわざわざ「あなたの正体は神の聖者だ」と言わせたのです。これはサタンの策略ではないでしょうか。

汚れた霊に取りつかれていると人々が思っている男の口から、主イエスを持ち上げる言葉を語らせる。そうすれば、あの男とナザレのイエスは知り合いだ、と印象を人々に与えるでしょう。何か深い関係があるのではないか。ひょっとしたら仲間なのではないか?という憶測さえ生まれるかもしれません。神の国を宣べ伝えようとされる主イエスを貶めるためにサタンは巧妙な手段を取っているのではないでしょうか。真に神の恵みから人々を遠ざけようとするサタンの策略は、実に底知れないことをわたしたちは知らなければなりません。

しかし、主イエスはお命じになります。「黙れ。この人から出て行け。」この命令はサタンに対するもの。サタンは神の権威に逆らうことはできません。そして汚れた霊に取りつかれている人に対しては、これは解放の言葉となりました。「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」からです。同じ出来事が記述されているルカ福音書では、「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も追わせずに出て行った」のでした(ルカ4章35節)。サタンつまり悪霊によってこの人はさんざん苦しみました。この人とサタンは一体のように人々に見えていましたから、サタンを恐れる人々は当然この人を怖がっていたことでしょう。しかし、主イエスはおいでになり、御自分の前に姿を現わした悪霊を追い出して、この人を解放しました。

この人は人々の目に一目で分かるほど悪霊に取りつかれていましたが、罪の奴隷になっているのは、決してこの人ばかりではありません。人間のすべてが、神に従う道を見失っていたのです。何が良いのか、悪いのか、どれが正しい道なのか、そうでないのかさえ、しばしば分からなくなっているからこそ、この世界に多くの苦しみがあります。人は人を訴え、家族が親しい者が争い、憎み合い、殺し合う有様です。ましてや、遠い国と国の間に悪の応酬があり、真に無慈悲な戦争に発展するのは当然ではないでしょうか。

しかし、希望はイエス・キリストにあります。すっかりサタンの手先になってしまっていてどうにもならないこの男さえ、主の御前に叫んで救われました。真に主の御前に出ることがどんなに幸いなことであるか。この事を私たちは教えられました。なぜなら、キリストは神の権威を持って私たちを執り成してくださるからです。預言者の務め、祭司の務め、そして王の務めによって、私たちを罪から救ってくださることを知らされました。この救いに招かれてキリストの救いの木の枝に連なりましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。私たちは今日の礼拝で御子イエス・キリストの地上でのお働きについて教えを受けました。深く感謝いたします。悪霊に取りつかれた人が、自分では何もできなくなっているのに、ただ恵みによって罪から解放されました。ただキリストこそ、変らない希望であることを多くの若い人々に告げ知らせることができますように。私たちは何かできることによって救われるのではなく、ただただ、地上に来てくださった御子の働きの中に現れたあなたの尊い恵みと慈しみによって救われました。

どうかこのことをこの上ない喜びとし、感謝とし、今日この日から感謝と賛美の生活に入るよう、私たちを造り変えてください。そして、これから多くの重荷を負って生きて行こうとしている人々が、自分の働きによる救いではなく、イエスキリストの働きによる救いを信じ、身を委ねて、安らかに健やかに生きる者とされますように。

私たちの教会では、多くの方が高齢になり、健康に支障をきたすことが多くなりました。しかし、自由に何でも出来ていたとき以上に、あなたを思い、祈り、感謝して生きることの幸いを感じております。あなたの恵みを証しする生活を祝福して下さい。今、ご病気の方、入院されている方々を心に覚えます。どうかそれぞれの苦しみを取り去ってください。それぞれの困難を通して主の愛が新たに確信されますように。今週もクリスマスに向かう歩みを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。