十字架の勝利

聖書:哀歌3章18-33節, マルコ福音書10章32-45節

 一行はエルサレムに上って行く途中であります。一行とはイエス様につき従って来た人々の一団であります。イエス様を救い主と告白する人々で成り立つ集団であります。そうだとしたら、それは教会ではないでしょうか。イエス様を救い主と信じた人々。まもなくイエス様は栄光をお受けになると信じた人々です。では彼らはなぜ信じたのでしょう。イエス様がいかにも救い主らしい威厳に満ちた、神々しいお姿でいらしたからでしょうか。あるいは天から響くような美しい声で教えられたからでしょうか。聖書にはそのような記述は一つもありません。

では、イエス様は王侯貴族のような地位と身分の方だったからでしょうか。いいえ、わたしたちの誰もがそうではないことを知っています。イエス様は慎ましい生活の中に生まれ育ち、その御姿には取り立てて言うほどの美しさはありませんでした。それにもかかわらず、その教えに人々が集まり、その癒しの業を見聞きして、やがてたくさんの人々がイエス様に着き従いました。彼らはイエス様の平凡な、むしろ貧しいお姿を見上げて、この方に救いの望みをかけたのでした。

わたしたちは聖書の中に登場する最初の弟子たちが、しばしばあまりにも普通の人々のように見えるので、半分驚きながら、半分安心するのではないかと思います。彼らはあまりにもわたしたちの現実に近いということを思うのですが、ではわたしたちもなぜ、他の人々はイエス様について来ないのに、わたしたちはついて来たのでしょうか。本当に自分が他の人々と特別に変わったこともなく、特に立派である訳でもないことを思う時、改めて分かることがあるのです。彼らも、またわたしたちも、こうしてイエス様の教会にいる、イエス様の群れの中にいるその理由は、イエス様が招いてくださったからです。招いてくださったからこそ、イエス様のお言葉を信じることが出来たのです。

イエス様は「神の国は近づいた」と言われました。神の国とは、神の御支配される王国です。悩みのあるわたしたちを神がご支配なさる、と聞いて、それを信じたからこそ、わたしたちは祈ります。『御国が来ますように』と。「御心の天になるごとく地にもなさせ給え」と。なぜか分からないけれども、わたしたちの悩みを御支配くださり、悩みを平安に変えてくださる神を信じる。その信仰がイエス様の教えによって与えられました。それでは、今はもうわたしたちも悩みなく、憂いなく、生きているでしょうか。そんなことはありません。地上に生きているわたしたちは、今も「神の国は近づいた」と言われたイエス様を信じ、『御国が来ますように』とひたすら祈っています。また祈ることが必要です。それは、わたしたちもまた教会の中にあってイエス様と共に旅を続けている途上にあるからなのです。

さて、一行はエルサレムに上って行きます。イエス様はこの旅路を先頭に立って進まれます。この世の王様のように先立つ者に露払いをさせ、多くの人々に守られて行くのではありません。先頭に立ってエルサレムを目指しておられます。エルサレム、そこに待っている敵対する者がいることを、主に従っていた人々は知っていたでしょう。そこには、主イエスを憎み、陥れようとする者たちが待っている。しかも彼らは権力ある者たちです。だから、弟子たちは驚き、従っている人々は恐ろしく思いましたが、しかしそれでも、彼らは主の後につき従って行った。それは、彼らに信仰が与えられていたからです。神の救いの恵みが何より素晴らしいと思う心が与えられていたからです。

そこで、主は今一度改めて弟子たちに教えられます。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と。この苦難と死と復活。これこそがこの旅の目的でありました。この目的を理解させるために、主は繰り返し語られ、弟子たちを励ましておられます。すなわち、これから起こることを前もって知らせることによって、主は彼らを信仰の戦いに備えさせ、彼らが思いがけない悪に突然襲われるような時にも、悪に負けないようにさせたいのです。

主はまたご自分の十字架に対して、弟子たちが短期間ではあっても屈辱を受けられる主を見て心挫けることがないようにさせたい。この方こそ神の子であり、死に勝ち給う方であることを確信するようにさせるためでありました。このために主は三日目の復活を弟子たちに知らせて励ましてくださいました。彼らは臆病になっていましたが、それでも主を離れてしまわなかった。自分たちも主の弟子として迫害や暴力を受ける危険があるかもしれないけれど、それでも主に従って行きました。

これは神の国を来たらせるための戦いだ、わたしたちはイエス様に従って行こうと、弟子たちは決心した。そこまでは良かったのですが、その時です。主に対する熱意と信仰が、思いがけない欲望にとって代わられたのです。それがあからさまに行動に表れたのは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネでした。この二人は兄弟で、主イエスが「わたしについて来なさい」とお招きになった最初の頃の弟子たちの二人です。彼らは熱心に主に従い、ペトロと共にいつも主の近くにお仕えしていました。そのうちに彼らは、主はわたしたちを特別にだれよりも大切に思っておられるのだ、という得意になっていたのではないでしょうか。

彼らのように、教会の中でたくさんの奉仕を熱心に行い、主に仕えることが喜びであるという人々は、主にも喜ばれ、教会にとっても大変ありがたいと思われるでしょう。しかし、自分たちは神さまから特別に大切にされて当然だと思うほど働いている、と思い上がってしまった結果、神の国に特別な地位を求めるとしたら、それは大変な問題であります。

ヤコブとヨハネは「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と求めましたが、一体彼らはキリストが栄光を受けるということが何を意味するか知っていたでしょうか。ほとんど知らなかったと思います。主イエスがエルサレムに上って行かれるのは、苦難と死を受けるためです。そして、この苦難は御自身のためではなく、わたしたちが受けるはずの苦難です。この死は御自身のためでなく(神の御子がどうして死ななければならないはずがあるでしょうか)、わたしたちが受けるはずの死なのです。

彼らは主イエスが世に軽蔑され、非難にさらされているのを見ていました。しかし、それでも彼らは主がまもなく偉大な王となるだろうと信じていました。なぜなら、ただ主がそう言われたからです。主の教えを単純素朴に信じた彼らの信仰は素晴らしいと思います。しかし彼らは将来実現されると信じた王国を心に描いた時、たちまち欲望に囚われました。神の国で一番になりたい。二番になりたいと。このように単純な素直な信仰者も、たやすく自分に取りつかれてしまうことを思う時、私たちは自分のためにこう祈らなければなりません。

主よ、どうかわたしたちの心の目を開いてください、そしてわたしたちを導き、常に正しい目的に向かってひたすら進むことが出来るようにお守りくださいと。わたしたちに信仰を起こしていただくだけでなく、その信仰が救いの道から踏み外すことのないようにお守りくださいと。その時イエスは言われたのです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。わたしたちは神に従う者とされました。それは、本当に不思議な恵みの選びによるもので、なぜなのかをわたしたちは知りません。しかし、この恵みによる救いだけがいつもわたしたちの喜びであることを思う者は真に幸いであります。

しかし、ヤコブとヨハネはそれだけに満足しないで、神さまがお望みかどうか知ることのできないことにまで口を出し、自分を神さまのお考え以上の者にしようと画策しました。他の弟子たちは憤慨しましたが、実は彼らもまた同じようなことを考えていたからこそ腹が立っただけなのです。こういう態度は決して主に喜ばれるものではないでしょう。更に問題なのは、彼らが、神の王国について、地上の王国のような序列を想像していることです。人間の浅はかな空想で神の国や、天国について好き勝手なことを考え、それを事実であるかのように言いふらす人々は大きな過ちを犯していると言えるでしょう。

主は彼らの願いがまちがっていることを教え、諭そうとしてくださいます。そのために「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」とお尋ねになりました。それは、主イエスの受けなければならない苦難と死を受けることが出来るかと、問うておられるのです。彼らは簡単に「できます」答えました。これもまた、傲慢な態度だと言わざるを得ません。苦難について、一体誰が自信満々に「わたしは耐えられる」と言うことが出来るでしょうか。わたしたちは日頃、なるべく楽に生きたい。苦労はしたくない。災難には遭いたくないと思っています。それにも拘わらず、天の父は思いがけない苦難、苦労の体験をわたしたちにお与えになりますが、それがわたしたちに必要だとお考えだからなのだ、と思わざるを得ません。

わたしたちは愚かにも、自分が病気にならないと病人の辛さを思い遣ることが十分できないし、また自分が苦労しないと他人の苦労が十分には分からない者です。「そうだね、本当だね」と共に悩みを分かち合うことが出来るように、神さまはご配慮くださっているのではないでしょうか。そのようにして主は世にいらしたとき、わたしたちの弱さをいつも担ってくださり、真の神として誰よりも偉い方であられるのにも拘らず、真の人として誰よりも下にお立ち下さり、多くの人々を下から支えてくださったのです。

私は一生の間に多くの教師に出会い教えられました。高校、大学の先生。そして50歳で編入学した東京神学大学の先生方。教区の牧師方や連合長老会の教職の方々。結論から申しますと、優れた先生ほど、謙虚でありました。相手が優秀であろうがなかろうが、質問を喜んで受け、相手に力に応じて熱心に教えてくださったことを思い出します。だからイエス・キリストの苦難の意味に納得させられるのです。キリストはこの上ない高いところにおられた卓越した方だからこそ、地の底にまで降って、救われる値打ちのない者をも、ただ恵みによって、愛によって救ってくださる天の父の御心を表していることが知られるのです。

エルサレムに上って行く主イエスに、教会も従って行きます。この苦難はわたしたちの勝利のためです。主イエスは十字架の勝利を目指して進んで行かれました。主の勝利はわたしたちに対しても約束された勝利です。ただ、わたしたちは主イエスに従って行く途上にあります。そして主イエスは、ご自分の教会に勝利を確信しなさいと言われます。しかしそのことは、「もう勝ったんだ」とか、「どうせ最後は勝利に終わるから」と言って、地上の日々を無為に過ごしたり、好き勝手なことに時を費やして安閑と空しく過ごすことではありません。この日々の労苦が必ず報われると天の父に希望をかけ、日々の思いがけない戦いに備え、そこにわたしたちの努力を傾けることに集中する。それが十字架の勝利を確信する生き方なのです。

では、十字架の主に従うわたしたちの戦いは、どんな戦いなのでしょうか。それは、主イエスがなさってように、仕えられるためではなく、仕える者となるように、すべての人の僕(しもべ)となるように、日々、このことを私たちの祈りとし、与えられた立場において、境遇において、主が望み給う最善を尽くして、主の体の教会にふさわしく生きる戦いではないでしょうか。教会学校の今月の聖句は、次の言葉です。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つです。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」わたしたちは主イエスの命のパンを分けていただいて一つの家族、神の家族とされているのです。一つの体として、だれかの苦しみを共に苦しみ、だれかの悩みを悩みとし、だれかに慰めをもたらすように。だれかに喜びをもたらすように。この戦いが、私たちに絶えず働いてくださる聖霊の神の助けによって十字架の勝利をもたらしますように。祈ります。

 

御在天の父なる神様

あなたは御子をわたしたちに賜り、あなたの御心を十字架に表してくださいました。御子がわたしたちのためにあらゆる労苦を忍んでくださったことを覚え、深く感謝申し上げます。何のとりえもないわたしたちが、ただ恵みによって救いに招かれていることを思い、わたしたち、喜んで主に従う者となりますように。

一筋の救いの道を歩み、あなたがわたしたちに与えられた尊い使命を見い出し、どのような日にも倦むことなく疲れることなく、いただいた務めを果たすことが出来ますように。私たちの教会に与えられている使命を思います。どうか世の終わりまで福音が力強く宣べ伝えられ、恵みの福音を新しい世代もまた聴くことが出来ますように。救いに入れられる人々をこれからもこの教会に起こしてください。また同時に、わたしたち年老いて行く者が、主に従う者として地上の生涯を全うすることが出来ますように。幾多の苦しみ悩みを乗り越えさせていただき、本当にイエス様は神の御子であったと心から告白しますように。

成宗教会のイースターへ向かう日々、また教会総会に向けて準備する私たちの歩みをお守り下さい。また、悩み多い世に在って、またご病気のため、なかなか礼拝に来られない方々を覚えます。どうかその方々の心身共に安らかに今週もお守り下さい。新年度に備えるこの時期、来年度もいただいた賜物を生かし用いてくださる主の聖霊の導きを切に祈ります。この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストは我らの苦難を負って下さった

聖書:イザヤ55章8-11節, マルコ福音書8章27-37節

 今年の受難節は2月の14日(水)から始まりました。例年二月はほとんど特別な行事がありませんで、それだけ静かにしみじみと主のご受難を覚える季節を迎えるのですが、今年は少し様子が違いました。東日本連合長老会の行事として、2月11日(日)講壇交換礼拝が行われ、十貫坂教会の清野先生をお迎えしました。続いて12日(月)には東日本の長老、執事研修会が自由が丘教会で行われ、その同じ日に、第4回東日本長老会議も開かれました。

例年以上に厳しかった寒さ、インフルエンザの流行が影響して、教会学校やピアノ教室もお休みの方が多かった2月でしたが、皆様のお祈りと奉仕が祝され、支えられて、成宗教会は無事に受難節第3の主日を迎えることが出来ました。真に感謝です。そして2017年度も今月で終わろうとしています。今、ご存知のように成宗教会は記念誌を編集しております。発行は2019年3月です。この計画は2017年度の教会総会で可決承認されたものですが、アッという間に一年が経ちましたので、来年度一年で何とか完成させることを目指さし、皆様のご協力をお願いしたいと思います。

私が赴任しましたのは、2002年ですから、今月で16年が過ぎたことになります。私の前々任の長村亮介先生の時代に50年史が編纂されていますので、それ以後、大石健一先生と私の赴任していた時代の記録を整理することが、成宗教会に必要であるということで賛同を得ています。私は今日まで16年も成宗教会に仕えて参りましたが、私の牧師としての務めは、実は第二の人生の務めでありました。私の前歴については、どなたもほとんど関心をお持ちにならないと思って、お話もあまりしなかったのですが、元々、私が一番やりがいがあると感じ、また誰からも喜ばれた仕事がありました。それは産休代替の教員です。

今有名人の藤井君という中学生棋士が通う名古屋大学附属学校をはじめ、4つぐらいの公立私立で臨時教員を務めました。その仕事の特徴は、勤務年限がはっきりしていることです。産休代替の教員は産休、育休の間、学校に派遣されて喜ばれ、お産の教師が職場に戻れば、辞めていなくなって喜ばれる。だれからも喜ばれる教師でした。そして私個人としては一人の人の出産に協力したという喜びがある。産休と育児休暇で長くても15カ月を超えることはありませんでした。居心地が良いからそこにいつまでもとどまりたい、そういう選択肢はありません。しかし、私はこういう仕事が非常に気に入っていました。

ところが、神さまは私の気に入っていることを好きなようにさせてくださる、ということではありませんでした。神さまは、「自分の好きな道を行きなさい」とは仰らない。ただ、「わたしに従って来なさい」と言われます。ある日神さまは突然、すべてのわたしの気に入っていた職業も、教会も、ボランティアの仕事も次々と道を閉ざされました。そして、神学校だけが、それも東京神学大学への道だけが開かれました。

わたしたちは、皆それぞれに決心をして洗礼を受けています。私も50年前洗礼を受ける前に勉強会があったことを覚えていますが、進行について十分分かったから受けたというようなものでは決してありませんでした。洗礼を受けるということは、自分はこう信じるとか、ああ信じると告白することではありません。そうではなくて、教会が信じて来た信仰を受け入れ、イエス様の体に連なることなのです。しかしそのことも、教えられなければ自分で分かることは困難です。それでも、わたしたちは皆それぞれに、いろいろあっても今日も礼拝を守り、教会に連なる者とされています。これは、決して当たり前のことではなく、とても恵まれた不思議なことなのだと思います。

本日の聖書は、イエス様が弟子たちに信仰の教育をされているところであります。受難節が巡って来ますと、イエス様の弟子たちについて、わたしたちは学ぶのですが、イエス様の弟子たちも元々はわたしたちとそんなに変わりのない人々だと感じるのではないかと思います。イエス様が大好き。でも、あまり苦労はしたくない。イエス様と一緒にいると何か得することがあるのではないか。と思っているような、まあ普通の人々ではないかと思います。イエス様は初めに一般の人々は、御自分のことをどういう者だと考えているのか、と尋ねておられます。それは、イエス様が世間の評判を気にしておられたからではありません。そして弟子たちも、イエス様にはっきりと敵対している人々の考えについて答えたのではありませんでした。むしろ、ユダヤの人々はイエス様を洗礼者ヨハネと比較し、エリヤと比較して、似ているとか、そっくりだとか、評価していたのでしょう。その好意的な意見について弟子たちは報告しています。

わたしたちも教会の外の人々について考える時、イエス様に好意的な人々、キリスト教に対して良い印象を持っている人々があることを知っています。それはうれしいことではありますが、しかし、イエス様は弟子たちにお尋ねになりました。他の人々はそう考えているのだということだが、それでは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」イエス様は今、エルサレムを目指して進んで行かれます。その目的地には、非常な苦難が待っていることを弟子たちに教えなければなりません。弟子たちはこれまでイエス様に従って、教えを受けていたのですが、イエス様が受けなければならない苦難については、何も理解してはいませんでした。彼らは本当にわたしたちとあまり変わりない人々だったことは、驚きでもありますが、神さまがイエス様によってこういう人々を呼び集めてくださったことは、わたしたち自身の現実を考える時には、慰められることでもあります。

ところが、イエス様の問に対して、ペトロははっきりと答えます。「あなたは、メシアです。」つまりペトロは、あなたはキリストです、と答えたのでした。キリスト、ヘブライ語でメシアは、救い主の永遠の御支配と祭司職を表します。キリストはわたしたちを神に和解させて下さり、わたしたちのために完全な義を獲得して下さいます。つまりキリストの捧げる犠牲によって、わたしたちの罪を廃棄してくださるのです。こうしてキリストはわたしたちを自分のものとされ、御自分の中に受け入れ、わたしたちをあらゆる種類の祝福で豊かにして保ってくださるのであります。

「あなたはキリストです」という告白。この中にわたしたちの救いがすべて含まれているのです。教会の信仰告白としてわたしたちは使徒信条を告白しています。しかし、ペトロの告白は教会の信仰の根幹であります。こう告白出来たということは、本当に素晴らしいことでありました。では、この告白をしたからには、弟子たちはイエス様のことがすっかり理解できたのでしょうか。それは全くそうではなかった。31節以下を見ますと、そうではなかったことが分かります。

わたしたちの歩んできた生活を振り返ってみますと、弟子たちの様子はよく分かるのではないでしょうか。「あなたはキリストです」と告白出来たことは、本当に素晴らしいことで、奇跡的なことというべきです。なぜなら、わたしたちはだれも、イエス様がキリストである、ということが本当にどういうことなのか、よく分かっている人はいないからです。わたしたちがたとえ長生きするとしても、キリストの担われる苦難と死について、どうして十分理解できるはずがあるでしょうか。ですから、真に聖霊の助け、恵みの御業がなければ、この小さな告白も決して起こらないのです。

しかし、イエス様は弟子たちが全く理解出来ないことをお教えにならなければなりませんでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と。苦難と死の予告は、弟子たちには全く耐え難いものでした。想像を絶するものでした。そのことを知っておられるイエス様は、すぐに「三日の後に復活することになっている」というお言葉を述べて、彼らを慰めてくださったのですが、本当に衝撃は大きく、彼らの耳に全く入りませんでした。

イエス様があからさまに話された時、ペトロはイエス様をわきの方にお連れしたということです。それは、「イエス様に皆の前で何か物申すのは失礼だから・・・」という配慮からでしょうが、しかし、そもそも先ほどの告白と、ペトロの行為はどうつながっているのでしょうか。あなたはメシア、キリストですと告白したからには、わたしたちはキリストにただただ従って行くだけなのです。それなのに、ペトロはキリストに意見をして「苦難を受けるなんてとんでもない!」「殺されるなんてとんでもない!」とお考えを変えるように迫りました。わたしたちはいかにキリストを侮っていることか。それは神を侮っていることと何一つ変らない、恐ろしいことなのです。

わたしたちは、神様に従って生きているつもりでも、実はどんなに逆らっているか、神様を説得して考えを変えさせようとするほど、神様を侮っていることに気がつきません。自分の考えは絶対正しい!と少しも疑わないということが起こります。イエス様はペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」ペトロは何とサタンと呼ばれました。実際、彼は神に逆らっている彼はサタンの支配を受けていたからです。しかし、このように厳しいお叱りを受けたからこそ、彼は悔い改めることになるのでした。

キリストはわたしたちを招いておられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」わたしたちは自分には背負うべき十字架があるとはあまり思っていなかったでしょう。わたしたちは自分の行きたいところに行って、自分のしたいことをして生きるのが理想だったかもしれません。楽しい趣味で生活を満たして生きようとしたかもしれません。一方、イエス様だけが重い十字架を背負って苦しんでおられるように見えていたのではないでしょうか。

イエス様はあんなに苦労なさって死の報いを受けることしかなくて、お気の毒でした。イエス様は大変立派な方で、奇跡も起こしてくださったけど、あんな苦労は、わたしはしたくない、というのが偽らない気持ちではなかったでしょうか。そして、苦労は一方的にイエス様のところに、楽な人生は一方的に自分のところにあるような錯覚に陥っていたのではないでしょうか。

私は学校教員として派遣されて喜ばれ、学校を去って喜ばれた、と自分の過去を申しました。私は16年前に成宗教会に派遣された時、教会の皆さんに喜ばれているようには感じられませんでした。非常な悲しみと痛みが皆さんの背後に感じられたからです。私はその原因についてほとんど何も分かりませんでした。けれども、少なくとも私は、私を成宗教会に呼んでくださった方を知っておりました。私をここに来させた方は、この教会と共にあり、わたしたちが苦労も苦難も拒否していた時もわたしたちのために、わたしたちに代わって、十字架を負ってくださったことを、私は知っていたからです。それがどなたであるか、皆様はもうご存知です。その方こそ、教会の主イエス・キリストです。教会と共にいてくださる主、皆様の背後にある苦労と苦難と悲しみと痛みを負ってくださるキリストを信じて、皆様は教会にとどまることが出来ました。だからこそ、主はわたしたちに主の命をくださろうとしておられる。そして、それをわたしたちは信じているなら、そのことこそが、わたしたちに与えられた恵みなのです。祈ります。

 

主なる父なる神様

信仰弱い教会に、計り知れない慈しみをお示しになって、救いに招いてくださるあなたの愛を見上げ、心からの感謝をささげたいと願います。昔地上にいらした時にあなたが読んで下さった弟子たちをあなたは御子によって愛し、その愚かさにも拘わらずお見捨てになりませんでした。わたしたちは何も知らないものでありながら、自分を賢い者のようにあなたに従おうとしませんでした。自分の考えの方があなたよりも正しいと思うに至るほど、罪深いものです。しかし、実際には少しの重荷にも、労苦にも耐えられない。あなたはそのようなわたしたちに、絶えず愛を注ぎ、希望を注いで導いてくださいました。どうかわたしたちがそのことに気付き、驚き、感謝に溢れる日が来ますように。

今苦しんでいる者も、今悩んでいる者にも、そのような日が来て、あなたの思い、溢れる愛を発見する恵みに与りますように。どうかイエス様の労苦、苦難がわたしたちを救うためであったことを悟ることができますように。喜びと感謝に溢れる日が来ますように。この受難節の日々、どうか人知れず労苦している方々の労苦を顧みてください。病気の悩み、孤独の悩み、仕事の悩みにあなたの助け、慰めと癒しをお与え下さい。

今、わたしたちは2017年度の終わりを迎えています。様々な困難のあった一年でしたが、あなたは多くの悩みを通して、共に祈り支え合うことを教えてくださいました。どうぞ、ここにこそ、主の喜ばれることが実現しますようにお助けください。新しい年度に向けて整えなければならないことが多くあります。どうか貧しいわたしたちが持てる力、与えられた賜物を生かしてあなたの喜ばれる教会を建てることが出来ますように、お導きください。連合長老会と共に歩む歩みが祝されますように、切に祈ります。復活のお祝いの日を目指して、わたしたちの日々を一歩一歩整えてください。お病気の方々も癒されて共にイースターを喜び迎えることが出来ますように。

この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。