平和の君を迎える

聖書:ゼカリヤ書9章9-10節, マルコ福音書1-11節

 全世界の今年も棕櫚の主日を迎えます。日本にいる私たちは、今年は桜の開花と共に今日の日を迎えました。特に寒かった冬。東京でさえ、たくさん雪が降って、雪を片付けようにも場所に困るほどだった。それでも今年の桜は平年より早く咲いたそうです。何だかんだあっても、春は必ず巡って来る。これは本当にありがたいことです。

しかし、わたしたちは同じ季節を迎えているようでも、それは同じ年では決してありません。年は変り、時代が変って行くのですから。子供たちはこの間、赤ちゃんだったのに、今は立派に讃美歌を歌っています。この間小学生だと思ったら、今はもう大学も卒業する年だと聞いてびっくりするのです。それでは、年取って行くのは、しわが増えるくらいであとは変らないのでしょうか。私たちは何となくそんなふうに思って生きて来ました。年を取ったら家で静かに過ごしたいと思っていました。ところが独り暮らしがおぼつかなくなると施設に入ることになる。もちろん、病気になれば病院に入ります。そこで過ごす生活は、自分のイメージしていたこととは一変します。毎日、朝から晩まで、入れ替わりたくさんの人と会わなければなりません。挨拶したり、質問に答えたり、次々と人が来るので、一体自分はだれに頼れば良いのか、というほど、目まぐるしい社交的な生活の始まりです。

成宗教会では、私の務めとして、多くの高齢の教会員のご様子を拝見し、共に歩んできたので、高齢者を巡るこういう変化が、私たちの時代の特徴の一つなのだと感じないではいられません。しかし、若い世代の人々にとって、時代の変化はもっと激しく、凄まじいものではないか、と想像しているのです。同じ春は巡って来る。しかし巡って来る時代は決して同じではないのです。新しい時代が来る。それが良い時代であろうと、自分にとって好ましくない時代であろうと、必ず時代は先へ先へと進んで行きます。私たちは準備をしているでしょうか。新たな時代に主の教会を建てるために備えをしているでしょうか。

本日は棕櫚の主日、パームサンデーと呼ばれる日です。マルコ福音書11章8節では「ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」と書かれていますが、ヨハネ福音書12章13節では「人々が椰子の枝を持って出迎えに出た」と言われていることに由来するもので、イエス様がエルサレムに入城された日を表しています。それは、ゼカリヤ書9章の預言の言葉が実現した日でありました。ゼカリヤ章9章9、10節をもう一度読みましょう。「娘シオンよ、大いに躍れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」この預言が成就されるために、キリストは神に従う者となりました。その結果、神から勝利を与えられた者として、平和をもたらす王として、神の都エルサレムに迎えられるのです。

そしてキリストは高ぶることがないと書かれています。高ぶらない勝利者。謙っておられる王。このことは私たちには驚きではないでしょうか。勝利者であると同時に高ぶらない。そういう勝利者を私たちは見たことがあるでしょうか。勝利の凱旋パレードと言えば、豪華な車に乗って華やかに、きらびやかに見る者を圧倒するのが普通です。それが勝利者にふさわしいはずです。ところがゼカリヤ書に不思議なほど強調されているのは、この方が「高ぶらない」ということなのです。謙虚な勝利者というのはあまり聞いたことがありません。しかし、ゼカリヤ書では、謙虚な勝利者のしるしがあるというのです。それは子ろばです。子ろばに乗って謙虚な王が来る。この方こそ、あなたの王である。ゼカリヤは宣言しました。

そしてその預言から何百年後でしょうか。主イエスはエルサレムに入ろうとしておられます。勝利者として。苦難と死に打ち勝つ勝利者として。苦難と死を御自分のものとするために。そういうわけで、主はエルサレムに近づいた時、二人の弟子にろばの子を連れて来るように使いに出しましたが、それは御自分が疲れたので乗り物に乗りたいと思われたからではありませんでした。主は御自分の十字架の死を目の前にした今、ご自分が神の国の王であることを、荘重な儀式でお示しになることを望まれたのです。それがエルサレム入城でありました。そして御自分の王国、すなわち神の国の支配は、人々が考えるような王国とは全く違うことをお示しになりたいとお考えだったのです。もしもゼカリヤ書の「あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばの子に乗って来る」という預言がなかったら・・・。そしてその預言を誰も知らなかったなら、主イエスのエルサレム入城は大変滑稽なものであったことでしょう。

わたしたちは、この儀式に備える弟子たちの姿を注目したいと思います。彼らは主の言葉を素直に受けて従っています。主は命じられました。「向こうの村に行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」わたしたちは、主イエス・キリストを信じることは、主の言葉に従うことであると教えられています。しかし、わたしたちには常に不安があります。主に遣わされて向こうの村に行くときに、もしそんなろばが見つからなかったらどうしよう、と思うのです。そして見つかったとしても、だれもそこに人がいなかったら、黙って連れて来ても良いのだろうか。泥棒と間違われるかもしれない、と心配になります。更に、「なぜ、そんなことをするのか」と言われたとして、「主がご入用なのです。すぐここにお返しになります」と答えても、「ダメダメ、貸して上げられない」と言われたらどうしようか、等々心配の種は尽きません。

その時わたしたちは、いかに自分が主を信頼していないか、主に頼り切っていないかが分かって愕然とするのではないでしょうか。そして改めて、弟子たちがどんなにイエス様を信じていたかを発見するでしょう。彼らは特に立派な人々ではありません。密かに、自分と人とを比べて、自分の方が上だ、とか、偉いとか、思うような浅はかな者でもあったでしょう。しかし、主イエスのことを愛していました。皆、いつも一緒にいたいと思い、主イエスのお言葉通りになることを信じていた。そういう弟子であったのです。そして主イエスが彼らに命じられたことは、本当にすべてその通りになりました。私たちが心配するようなことは全く起こらなかったのです。このことにおいて、イエス様はその貧しいお姿の中に、真の神のご性質を示されていたのです。すなわち、神がお命じになったことはその通りになるように、イエス様がお命じになったことも、その通りになったからです。

さて、そうして連れて来られた子ろばには、まだだれも乗ったことがないのですから、当然鞍も鐙もありませんでした。もちろん弟子たちにもその用意がありませんでしたので、弟子たちは子ろばの上に自分の服をかけてイエス様をお乗せしました。その御姿を想像して見ても、何とも貧しいお姿ではなかったでしょうか。しかし多くの人々が自分の服を広げてカーペットのように道に敷いた。また他の人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いたということです。そして喜んで、貧しい姿の王を迎えました。主の前を行く人々も主の後ろから従う人々も声を張り上げて叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来(きた)るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

人々はホサナと叫んでいますが、「ホサナ」というヘブライ語は元々、「主よ、救い給え」という意味の言葉です。しかし、ギリシャ語に音訳されて初代教会に用いられた時には、祝福の歓呼と理解されていました。それは、主イエスがほめたたえられますように、という祈りであり、感謝であり、祝福でありました。

神の子とされた者たちが、堅く持ち続けなければならない希望、唯一つの希望があります。それは、わたしたちの悩みに沈み、罪に苦しんでいる日々の中でも、ついには贖い主が来られるという希望なのです。神はただ仲保者、すなわちキリストの執り成しによって、人々に慈悲深い方となられるのです。そして仲保者は御自分の民をあらゆる罪、咎、過ちから解放なさる方であります。この方こそ、罪に沈み、悲惨に打ちのめされた人々を歓喜させる方にほかなりません。だからこそ、預言者ゼカリヤとその言葉を語る今日の聖句は、私たちを励ましているのです。たとえわたしたちに何がなくても、だれがいなくても、贖い主が共におられる。だからこそ、わたしたちは真に喜ぶことが出来るのだと。

今日まで、そして後も、主イエス・キリストは天の父の右に座し給い、御国を求める教会の人々を御支配くださっておられます。しかし、十字架にかかられる前、主イエス・キリストの地上のお姿を記したこの有様は何と貧しいものであったことでしょうか。それにもかかわらず、大勢の人々が歌いながら、叫びながら、子ろばに乗った王を迎え、従って行ったのでした。

「主の名によって来られる方に」と歌うこの言葉に注目しましょう。主の名によって来られるとは、すなわち、神によって任命され、遣わされたという意味です。神の遣わし給う王は、世の人々の罪を贖う救い主。この方に贖っていただいて初めて、わたしたちは神の国の住民、御国の子らとさせていただけるのです。罪、咎、過ちを免れないわたしたちは、正しいことを行おうと大変な努力を重ねたと思うことで、自分に満足しようとしています。しかし、それでも救われません。神の国の住民とはなれないのです。なぜでしょうか。わたしたちは神に従うよりも早く、自分の道を行こうとするからです。キリストが「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい、と言われても、自分には十字架はないと思うほど高ぶっています。自分のことさえ十分に分かっていません。まして、自分以外の人のことがどれだけ分かるでしょうか。

また、主と共にエルサレムに入城した弟子たちは、「我らの父ダビデの来(きた)るべき国に、祝福があるように」とも歌いました。「我らの父ダビデの王国が再び建てられるように」と歌っているのは、地上に自分たちの国が再建されることを弟子たちも民衆も願っていたのではないでしょうか。そして、イエス様にその願いを託していたのかもしれません。つまり、イスラエルの貧しい人々は、救い主が御支配なさるその時には、実際に自分たちの国も他国からの支配ではなく、ダビデ王が支配したような国がキリストによって実現されると考えたのではないでしょうか。わたしたちも『御国が来ますように』と祈る時に、どうしても御国の御支配の中に自分の願い、具体的な願いを入れているかもしれないのです。そのような人々の過ちが、やがて主イエス・キリストに失望し、怒りと憎悪と軽蔑を向けるようになった。それは聖書の中では、彼らの出来事であり、弟子たちの出来事であります。そして、その罪を負って主は十字架に着かれました。このすべての的外れな人々のために。

彼らは心底主イエスを愛してついて行ったでしょう。しかし、最後までつき従うことはできませんでした。主の受けられた苦難と自分の願いとちがってしまった時、彼らはイエス様に対する自分の愛も力尽きてしまいました。しかし、それに対して、主イエス・キリストはどうでしょうか。この方は真に人の子であり、人の弱さを御自身に持っておられました。だからこそ、死の苦しみを苦しまれました。そして同時に、この方こそ真に神の子であられます。だからこそ、わたしたちの願いを打ち破り、それに代えて神の願いをお与えになりました。神の願い、神の御心はわたしたちの死を死んでくださったキリストに、わたしたちが結ばれること。そしてキリストの復活に、神の永遠の命にわたしたちが結ばれることに他なりません。これからわたしたちが直面するあらゆる罪との戦いに勝利して、平和をもたらす王。イエス・キリストを、心を新たにして迎え入れましょう。

わたしたちが御子を心に迎えさせてくださいと祈る時、わたしたちの王として、わたしたちに平和の御支配をもたらしてください祈る時、キリストの王国はわたしたちによって建てられるのではなく、わたしたちの力によって維持されるものでもなく、ただ天の助けによって堅く立つことを、わたしたちは知る者とされるでしょう。来週はイースター、そして新しい年度を迎えます。わたしたちは教会に復活の主イエス・キリストをお迎えしましょう。そして、わたしたちの心に、わたしたちの家庭に職場に、主イエスを迎え入れ、平和の御支配を祈り求めましょう。祈ります。

 

教会の頭、主イエス・キリストの父なる神様

棕櫚の主日礼拝を感謝いたします。主は私たちの罪を贖うために、来てくださいました。たとえ、私たちの罪の悩みは深くても、キリストが私たちを御支配くださるならば、私たちの罪は赦され、あなたと和解させていただけることを教えられました。どうか、聖霊のお働きによって、私たちを作り変えて、心新たに主に従う者としてください。

受難週を迎える今、どうか主イエス・キリストのご受難を覚え、心砕かれて、歩む者となりますように。病気や、仕事、また様々な事情により、礼拝を守ることが出来ないでいる兄弟姉妹を特に顧みてください。わたしたちはどんな困難な時も、主の憐れみと愛が注がれている教会であることを、信じ、感謝します。わたしたちの不信仰を打ち破り、新しい年度も、主の執り成しによって罪赦され、喜びと感謝を以て、教会を建てて行くことが出来ますように。イースターの礼拝、そこにおいて行われる洗礼式、聖餐式を導いてください。教会学校のイースター礼拝から午後の祝会に至るまで、わたしたちの捧げる喜びの賛美と感謝に豊かな祝福をお与えください。

この祈りと願いとを主イエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。