聖書:イザヤ55章8-11節, マルコ福音書8章27-37節
今年の受難節は2月の14日(水)から始まりました。例年二月はほとんど特別な行事がありませんで、それだけ静かにしみじみと主のご受難を覚える季節を迎えるのですが、今年は少し様子が違いました。東日本連合長老会の行事として、2月11日(日)講壇交換礼拝が行われ、十貫坂教会の清野先生をお迎えしました。続いて12日(月)には東日本の長老、執事研修会が自由が丘教会で行われ、その同じ日に、第4回東日本長老会議も開かれました。
例年以上に厳しかった寒さ、インフルエンザの流行が影響して、教会学校やピアノ教室もお休みの方が多かった2月でしたが、皆様のお祈りと奉仕が祝され、支えられて、成宗教会は無事に受難節第3の主日を迎えることが出来ました。真に感謝です。そして2017年度も今月で終わろうとしています。今、ご存知のように成宗教会は記念誌を編集しております。発行は2019年3月です。この計画は2017年度の教会総会で可決承認されたものですが、アッという間に一年が経ちましたので、来年度一年で何とか完成させることを目指さし、皆様のご協力をお願いしたいと思います。
私が赴任しましたのは、2002年ですから、今月で16年が過ぎたことになります。私の前々任の長村亮介先生の時代に50年史が編纂されていますので、それ以後、大石健一先生と私の赴任していた時代の記録を整理することが、成宗教会に必要であるということで賛同を得ています。私は今日まで16年も成宗教会に仕えて参りましたが、私の牧師としての務めは、実は第二の人生の務めでありました。私の前歴については、どなたもほとんど関心をお持ちにならないと思って、お話もあまりしなかったのですが、元々、私が一番やりがいがあると感じ、また誰からも喜ばれた仕事がありました。それは産休代替の教員です。
今有名人の藤井君という中学生棋士が通う名古屋大学附属学校をはじめ、4つぐらいの公立私立で臨時教員を務めました。その仕事の特徴は、勤務年限がはっきりしていることです。産休代替の教員は産休、育休の間、学校に派遣されて喜ばれ、お産の教師が職場に戻れば、辞めていなくなって喜ばれる。だれからも喜ばれる教師でした。そして私個人としては一人の人の出産に協力したという喜びがある。産休と育児休暇で長くても15カ月を超えることはありませんでした。居心地が良いからそこにいつまでもとどまりたい、そういう選択肢はありません。しかし、私はこういう仕事が非常に気に入っていました。
ところが、神さまは私の気に入っていることを好きなようにさせてくださる、ということではありませんでした。神さまは、「自分の好きな道を行きなさい」とは仰らない。ただ、「わたしに従って来なさい」と言われます。ある日神さまは突然、すべてのわたしの気に入っていた職業も、教会も、ボランティアの仕事も次々と道を閉ざされました。そして、神学校だけが、それも東京神学大学への道だけが開かれました。
わたしたちは、皆それぞれに決心をして洗礼を受けています。私も50年前洗礼を受ける前に勉強会があったことを覚えていますが、進行について十分分かったから受けたというようなものでは決してありませんでした。洗礼を受けるということは、自分はこう信じるとか、ああ信じると告白することではありません。そうではなくて、教会が信じて来た信仰を受け入れ、イエス様の体に連なることなのです。しかしそのことも、教えられなければ自分で分かることは困難です。それでも、わたしたちは皆それぞれに、いろいろあっても今日も礼拝を守り、教会に連なる者とされています。これは、決して当たり前のことではなく、とても恵まれた不思議なことなのだと思います。
本日の聖書は、イエス様が弟子たちに信仰の教育をされているところであります。受難節が巡って来ますと、イエス様の弟子たちについて、わたしたちは学ぶのですが、イエス様の弟子たちも元々はわたしたちとそんなに変わりのない人々だと感じるのではないかと思います。イエス様が大好き。でも、あまり苦労はしたくない。イエス様と一緒にいると何か得することがあるのではないか。と思っているような、まあ普通の人々ではないかと思います。イエス様は初めに一般の人々は、御自分のことをどういう者だと考えているのか、と尋ねておられます。それは、イエス様が世間の評判を気にしておられたからではありません。そして弟子たちも、イエス様にはっきりと敵対している人々の考えについて答えたのではありませんでした。むしろ、ユダヤの人々はイエス様を洗礼者ヨハネと比較し、エリヤと比較して、似ているとか、そっくりだとか、評価していたのでしょう。その好意的な意見について弟子たちは報告しています。
わたしたちも教会の外の人々について考える時、イエス様に好意的な人々、キリスト教に対して良い印象を持っている人々があることを知っています。それはうれしいことではありますが、しかし、イエス様は弟子たちにお尋ねになりました。他の人々はそう考えているのだということだが、それでは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」イエス様は今、エルサレムを目指して進んで行かれます。その目的地には、非常な苦難が待っていることを弟子たちに教えなければなりません。弟子たちはこれまでイエス様に従って、教えを受けていたのですが、イエス様が受けなければならない苦難については、何も理解してはいませんでした。彼らは本当にわたしたちとあまり変わりない人々だったことは、驚きでもありますが、神さまがイエス様によってこういう人々を呼び集めてくださったことは、わたしたち自身の現実を考える時には、慰められることでもあります。
ところが、イエス様の問に対して、ペトロははっきりと答えます。「あなたは、メシアです。」つまりペトロは、あなたはキリストです、と答えたのでした。キリスト、ヘブライ語でメシアは、救い主の永遠の御支配と祭司職を表します。キリストはわたしたちを神に和解させて下さり、わたしたちのために完全な義を獲得して下さいます。つまりキリストの捧げる犠牲によって、わたしたちの罪を廃棄してくださるのです。こうしてキリストはわたしたちを自分のものとされ、御自分の中に受け入れ、わたしたちをあらゆる種類の祝福で豊かにして保ってくださるのであります。
「あなたはキリストです」という告白。この中にわたしたちの救いがすべて含まれているのです。教会の信仰告白としてわたしたちは使徒信条を告白しています。しかし、ペトロの告白は教会の信仰の根幹であります。こう告白出来たということは、本当に素晴らしいことでありました。では、この告白をしたからには、弟子たちはイエス様のことがすっかり理解できたのでしょうか。それは全くそうではなかった。31節以下を見ますと、そうではなかったことが分かります。
わたしたちの歩んできた生活を振り返ってみますと、弟子たちの様子はよく分かるのではないでしょうか。「あなたはキリストです」と告白出来たことは、本当に素晴らしいことで、奇跡的なことというべきです。なぜなら、わたしたちはだれも、イエス様がキリストである、ということが本当にどういうことなのか、よく分かっている人はいないからです。わたしたちがたとえ長生きするとしても、キリストの担われる苦難と死について、どうして十分理解できるはずがあるでしょうか。ですから、真に聖霊の助け、恵みの御業がなければ、この小さな告白も決して起こらないのです。
しかし、イエス様は弟子たちが全く理解出来ないことをお教えにならなければなりませんでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と。苦難と死の予告は、弟子たちには全く耐え難いものでした。想像を絶するものでした。そのことを知っておられるイエス様は、すぐに「三日の後に復活することになっている」というお言葉を述べて、彼らを慰めてくださったのですが、本当に衝撃は大きく、彼らの耳に全く入りませんでした。
イエス様があからさまに話された時、ペトロはイエス様をわきの方にお連れしたということです。それは、「イエス様に皆の前で何か物申すのは失礼だから・・・」という配慮からでしょうが、しかし、そもそも先ほどの告白と、ペトロの行為はどうつながっているのでしょうか。あなたはメシア、キリストですと告白したからには、わたしたちはキリストにただただ従って行くだけなのです。それなのに、ペトロはキリストに意見をして「苦難を受けるなんてとんでもない!」「殺されるなんてとんでもない!」とお考えを変えるように迫りました。わたしたちはいかにキリストを侮っていることか。それは神を侮っていることと何一つ変らない、恐ろしいことなのです。
わたしたちは、神様に従って生きているつもりでも、実はどんなに逆らっているか、神様を説得して考えを変えさせようとするほど、神様を侮っていることに気がつきません。自分の考えは絶対正しい!と少しも疑わないということが起こります。イエス様はペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」ペトロは何とサタンと呼ばれました。実際、彼は神に逆らっている彼はサタンの支配を受けていたからです。しかし、このように厳しいお叱りを受けたからこそ、彼は悔い改めることになるのでした。
キリストはわたしたちを招いておられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」わたしたちは自分には背負うべき十字架があるとはあまり思っていなかったでしょう。わたしたちは自分の行きたいところに行って、自分のしたいことをして生きるのが理想だったかもしれません。楽しい趣味で生活を満たして生きようとしたかもしれません。一方、イエス様だけが重い十字架を背負って苦しんでおられるように見えていたのではないでしょうか。
イエス様はあんなに苦労なさって死の報いを受けることしかなくて、お気の毒でした。イエス様は大変立派な方で、奇跡も起こしてくださったけど、あんな苦労は、わたしはしたくない、というのが偽らない気持ちではなかったでしょうか。そして、苦労は一方的にイエス様のところに、楽な人生は一方的に自分のところにあるような錯覚に陥っていたのではないでしょうか。
私は学校教員として派遣されて喜ばれ、学校を去って喜ばれた、と自分の過去を申しました。私は16年前に成宗教会に派遣された時、教会の皆さんに喜ばれているようには感じられませんでした。非常な悲しみと痛みが皆さんの背後に感じられたからです。私はその原因についてほとんど何も分かりませんでした。けれども、少なくとも私は、私を成宗教会に呼んでくださった方を知っておりました。私をここに来させた方は、この教会と共にあり、わたしたちが苦労も苦難も拒否していた時もわたしたちのために、わたしたちに代わって、十字架を負ってくださったことを、私は知っていたからです。それがどなたであるか、皆様はもうご存知です。その方こそ、教会の主イエス・キリストです。教会と共にいてくださる主、皆様の背後にある苦労と苦難と悲しみと痛みを負ってくださるキリストを信じて、皆様は教会にとどまることが出来ました。だからこそ、主はわたしたちに主の命をくださろうとしておられる。そして、それをわたしたちは信じているなら、そのことこそが、わたしたちに与えられた恵みなのです。祈ります。
主なる父なる神様
信仰弱い教会に、計り知れない慈しみをお示しになって、救いに招いてくださるあなたの愛を見上げ、心からの感謝をささげたいと願います。昔地上にいらした時にあなたが読んで下さった弟子たちをあなたは御子によって愛し、その愚かさにも拘わらずお見捨てになりませんでした。わたしたちは何も知らないものでありながら、自分を賢い者のようにあなたに従おうとしませんでした。自分の考えの方があなたよりも正しいと思うに至るほど、罪深いものです。しかし、実際には少しの重荷にも、労苦にも耐えられない。あなたはそのようなわたしたちに、絶えず愛を注ぎ、希望を注いで導いてくださいました。どうかわたしたちがそのことに気付き、驚き、感謝に溢れる日が来ますように。
今苦しんでいる者も、今悩んでいる者にも、そのような日が来て、あなたの思い、溢れる愛を発見する恵みに与りますように。どうかイエス様の労苦、苦難がわたしたちを救うためであったことを悟ることができますように。喜びと感謝に溢れる日が来ますように。この受難節の日々、どうか人知れず労苦している方々の労苦を顧みてください。病気の悩み、孤独の悩み、仕事の悩みにあなたの助け、慰めと癒しをお与え下さい。
今、わたしたちは2017年度の終わりを迎えています。様々な困難のあった一年でしたが、あなたは多くの悩みを通して、共に祈り支え合うことを教えてくださいました。どうぞ、ここにこそ、主の喜ばれることが実現しますようにお助けください。新しい年度に向けて整えなければならないことが多くあります。どうか貧しいわたしたちが持てる力、与えられた賜物を生かしてあなたの喜ばれる教会を建てることが出来ますように、お導きください。連合長老会と共に歩む歩みが祝されますように、切に祈ります。復活のお祝いの日を目指して、わたしたちの日々を一歩一歩整えてください。お病気の方々も癒されて共にイースターを喜び迎えることが出来ますように。
この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。