イースター聖餐礼拝
聖書:イザヤ42章10-16節, マルコ16章1-8節
主の年2018年のイースターを迎え、主はわたしたちを成宗教会に集めてくださいました。日頃、主を覚え、礼拝を思いながらも、集まることのできない多くの人々のために、主は今日、特別な時を与え、必要なものをお与えくださって、わたしたちが取るものも取りあえず、集まって主を礼拝する心を備えてくださいました。復活の主が二千年前に人々にお知らせくださったように、今は全世界でご自分の復活をお知らせくださり、その命にわたしたちをも招いておられるのです。
しかし、わたしたちは日常の生活で、主のご復活を思うよりも先に、日日の出来事に深くかかわり、時間に追われるより他ないのが実情です。あれやこれやの急な出来事があり、心配事や、周囲の人々の言動に影響され、悩まないではいられないのです。そんなわたしたちが主の御言葉を思い出すと、弟子たちがうろたえた気持ちがよく分かるのではないでしょうか。彼らは主に従って来たのですが、主の御言葉の意味が分かりませんでした。マルコ10章33-34節です。82頁。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして人の子は三日の後に復活する。」
そしてお言葉通りになりました。エルサレム入城された時、喜び出迎えた群衆は、十字架を見て、イエス様を軽蔑し、呪う群衆と変ってしまいました。そして弟子たちも、「たとえイエス様と一緒に死ななければならなくなっても、イエス様を知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロは、「あの人は知らない」と激しく三度も言ってしまいましたし、他の弟子たちは逃げ去ってしまいました。みんなうろたえ、変ってしまった。それも本当に主の御言葉通りになったのです。
それならば、主の最後の一言もやっぱり、お言葉通りになるはずではなかったでしょうか。主の御言葉は次の通りです。「そして人の子は三日の後に復活する。」けれども、それについて思い出し、思いめぐらす者はだれもいなかったのでした。ご復活の朝、婦人たちは、主が葬られたお墓にやって来ました。彼女たちがやって来た訳は、ご復活を信じていたからではありません。しかし、絶望の時にも、彼女たちはてきぱきと行動しました。なぜなら、その当時の社会の習慣があったからです。それは死んだ人の遺体に香料を塗ることでした。彼女たちもイエス様の十字架の死に衝撃を受け、これからどうやって生きて行くのか、と途方に暮れていたでしょう。
しかし、そんな時にも彼女たちはできる限りのことをしました。出来る限り日常の生活を続けるのです。お腹がすいた者に食卓を整え、子を産み育てる者を助け、病気の者を気遣い、そして死者を大切に葬って、真心を尽くすのです。「一番偉くなりたい者は仕える者となりなさい」言われた主の言葉を思います。彼女たちは偉くなりたいと思わなかったかもしれません。そして実際男の弟子たちからも偉いとも思われてはおらず、むしろ、話をしても、「なんだ、女の言うことじゃないか」ということでしょうか、信じてももらえなかったようです。しかし彼女たちは、実はこのように主の言葉に従っているのです。たとえどんなに希望の見えない時にも。これからどうすれば良いのか、と途方に暮れる時も。取りあえずしたことは、イエス様に対する礼儀、感謝を具体的に表すことだったのです。
しかも、お墓に出かけたのは、冷静で計画的とも言えない行動であったようです。なぜなら、彼女たちはお墓の入り口に大きな石があるので、中には入れないことを知っていたのですから。ところがこのような女性たちを主は祝福しておられます。彼女たちは他の弟子たちと同様、主のご復活のことが分からなかった。覚えてもいませんでした。それでも主に対する愛を表して、お墓にやって来た。泣きに来たのかもしれません。その女性たちを祝福して、主は空っぽの墓を見せてくださいました。なぜご遺体は消えてしまったのだろうか。もしや泥棒が盗んだのだろうか。仰天した彼女たちが、あれこれ思い悩む前に、主は白い衣の若者を遣わされました。白い長い衣が天使を思わせます。
彼は次の言葉を告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」復活!彼女たちも知っていました。イスラエルの人々は皆、死者の復活を信じていたからです。わたしたちは皆終わりの日に復活させられ、神の裁きを受けなければならないことを。
イエス様は人間の罪を借金に例えられました。神様に借金しているその負債額は天文学的数字にも上ると言われたのです。人は神様に、きっと自分で払いますから待って下さいと願っていますが、到底自分で返すことはできないのです。そこで、神様は人をかわいそうに思い、負債を免除して上げました。天文学的数字の負債をゼロにしてくださる神。その方はどんなにありがたい方でしょうか。終わりの日にどんなに感謝してもしきれるものではないでしょう。ところが罪の赦しを約束された人は、何と、自分に対する人の罪が赦せません。大きな深刻な罪から小さな些細な罪に至るまで、どれもこれも赦せないのです。
神様がお怒りになるのはこのことです。神様は御子を世に遣わして、大きな罪も小さな罪も決して免れない世の人々を憐れんでくださいました。そして人の罪がどれだけ大きいかをまざまざと目の前に見せてくださいました。それが御子の十字架の死です。何の罪もない真心溢れる方を、残虐な死に追いやったのは、力ある者、世の指導者たちではありませんか。それを止めることもできない民衆は、ただ力ある者に追随するばかりなのです。この方の誠実を知り、その隠れた愛の力を知っている弟子たちさえ、逃げ出してしまった。一体だれが、神の恵みに与るにふさわしいでしょうか。全くだれ一人いないのです。
罪が赦されるにふさわしい人はいない。救われる値打ちのある人はいない。しかし、イエス・キリストはそのような罪人を愛して、救いに招くために世に来られ、十字架に死んでくださいました。そして三日目に復活してくださった。それが神の御心であったからです。終わりの日に死者が復活して裁かれる前に、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じて、罪の赦しと永遠の命に結ばれるために、神は救いの道を開いてくださったのです。
では、この救いに与るために、わたしたちに必要なことは何でしょうか。この世の借金を返済するために一生懸命働くように、神様からお借りしている積りに積もった負債を返済しようと、良い業に励むことでしょうか。実際、そうしようとする人々は少なくないのです。そして大威張りで、「神様、わたしはあなたにお借りしているものは何一つありません」と言いたい人は多いのです。神様はこのような傲慢な人々にも忍耐しておられます。また、全くだらしがなく、人々にも神様にも重荷を負わせ、平気な顔をしている人々にもじっと我慢をしておられます。しかし、そこに、その人々に救いはあるでしょうか。
空っぽの墓を指し示して、天使は婦人たちに命じます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かけて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」これが婦人たちに与えられた使命でした。福音を宣べ伝える者たち、弟子たちとペトロ。ここで特にペトロの名が挙げられているのは、ペトロが誰よりも強くキリストを否定して裏切ったからです。主は、ペトロに復活を知らせて、罪に苦しんでいるペトロを特別に慰めようとしておられるのです。こうして彼らに福音を運んだのが、女性たちでありました。それは、彼女たちに対する主の特別な祝福であり、励ましです。もっとも、彼女たちはただただ恐ろしくて、すぐにはその役割を果たすことができなかったようですが。このように、復活の知らせは、聞いても俄かには信じられなかったのです。主のご復活の喜ばしい知らせが、初めは恐ろしいこととしか思えなかったのです。
わたしたちは思います。人間は一方ではどんなに高慢であり、他方ではどんなに弱い者であるかを。そしてどんなに自分にこだわっているかを。自分はどのように生きて、どのようにして死を迎えるか、にばかりこだわり、自分を中心にすべてを考えるのです。しかし、本当にこだわらなくてはならないことは、キリストの死と復活であります。一体、キリストは、あなたと関わりなく十字架に死なれ、あなたと関わりなく復活されたのでしょうか。この答を考えてください。神はキリストによってわたしたちにその答を与えておられます。「そうではない」と。キリストはあなたのためにも十字架に死なれ、あなたのためにも復活されたと。
これを信じるならば、あなたの人生は変えられます。自分にこだわる者から、イエス・キリストによって、神様との関係にこだわるものに変えられる。キリストに結ばれたあなたは生きる時も、死ぬときも、神に属する者と変えられます。その時、あなたの命は神のもの。神の中に隠されていると知るでしょう。その時、あなたはキリストと共に死んで、キリストと共に神の永遠の命に移って行くでしょう。祈ります。
主イエス・キリストの父なる神様
主のご復活を祝い、感謝を捧げる礼拝に、わたしたちをお招き下さり、真に感謝申し上げます。わたしたちは小さな群れですが、あなたを仰ぎ見、天にも地にも一つである
キリストの体なる教会を見上げ、主の御心に適った教会を建てようとわたしたちはみ言葉を聞き、聖餐に与って、主の聖霊がわたしたちの心を照らしてくださることを切に願っております。
本日あなたは、わたしたちの群れに1人の信仰者を興してくださいました。真に感謝申し上げます。どうか、今日洗礼の恵みに与った齋藤倫子姉妹を豊かに祝し、ご主人齋藤眞兄と共に助け合って、主に仕えることができますように。遠くから通って来られますので、あなたがその道々を顧みてくださいますよう、お願いいたします。また、教会のすべてのものがこの洗礼式を通して改めて自分に与えられた計り知れない救いの恵みを再認識し、主と結ばれた者としての自覚、信仰を増し加えていただけますよう、お願い申し上げます。
変わりゆく時代の中で、変ることのない主の御言葉による主の御支配が、この教会の上に、そして共に学び、歩んでいる東日本連合長老会の諸教会の上に、また志を同じくする全国連合長老会、また改革長老教会の諸教会の上に豊かにございますように祈ります。
人口減少が進むこの国で、次世代にもとこしえに残る神の言葉を伝えるために、どうかわたしたちをお用いくださり、知恵と力と、何よりもイエス・キリストに現れた計り知れないあなたの愛をお与えください。新年度が始まりました。どうか、今月行われる成宗教会総会にあなたのご計画を表すことができますように。議案の準備、また長老選挙を導いてください。私たちはそれぞれが多くの課題、多くの困難を抱えています。その中で日々の信仰の戦いを立派に戦うために、自分中心を捨て去り、主に従って、主の御支配を仰ぐものとならせてください。そして、わたしたちの死を打ち破り、あなたの永遠の命をいただくために、それぞれの戦いを主の戦いとしてください。教会の戦いをキリストの命が現れるための戦いとしてください。
ご病気のために、また様々な弱さのために苦しんでいる方々を覚えます。今日いただく聖餐、あなたの計り知れない恵みを感謝し、共にこの救いの恵みに与る人々を覚え、祈ります。この感謝と願いをわたしたちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。