齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌7番
讃美歌195番
讃美歌502番
《聖書箇所》
旧約聖書:ヨエル書 4章13-15節 (旧約聖書1,426ページ)
4:13 鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ/酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。
4:14 裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく。
4:15 太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
新約聖書:マルコによる福音書 4章26-34節 (新約聖書68ページ)
◆「成長する種」のたとえ
4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」◆「からし種」のたとえ
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」◆たとえを用いて語る
4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
《説教》『神の国』
マルコによる福音書を連続して、ご一緒に読んで来ました。本日は4章26節以下をご一緒に読むのですが、ここには、主イエスがお語りになった二つの譬え話が記されています。小見出しの表現で言えば、「成長する種」の譬えと、「からし種」の譬えです。そしてこれらが、4章の始めから語られてきた一連の譬え話の締めくくりとなっています。主イエスはこのような譬え話を用いて人々に教えを語られたのでした。主イエスの語られた教えは、守るべき戒律や宗教的な教訓話ではありませんでした。主イエスは「神の国」を告げ広めておられたのでした。「神の国」とは、神様のご支配ということです。神様の独り子である主イエスがこの世に来られたことによって、神様のご支配が実現しようとしている、その神の国について主イエスは譬え話によってお語りになったのです。本日の箇所の二つの譬え話にはそのことがはっきりと示されています。「成長する種」の譬えは「神の国は次のようなものである」と語り始められています。「からし種」の譬えも、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と始まっています。私たちがこれらの譬え話から読み取るべきことは、主イエスによって実現する神の国のことなのです。
しかし、ここに示されているのは、「神の国とはこのような素晴らしい所だ」といった話ではありません。神の国ってどんな所だろうか、という興味でこれらの譬え話を読んでも、肩すかしです。私たちは「神の国」を、死んだら行くであろう「天国」と重ね合わせて理解してしまうことがあるかもしれません。死んだ後行く天国とはどんなところだろうか、それを知ろうとしてこの話を読んでも、まったく満足な答えは得られません。主イエスはそういうことを語ってはおられないからです。主イエスは「神の国」を、そういう素晴らしい所があるから、あなたがたもそこへ行けるように頑張りなさいとか、まして、死んだらそこへ行くことができる、などと語っておられるのではありません。主イエスが語っておられるのは、神の国はもうあなたがたのところに来ている、あなたがたの間で今まさに実現しようとしている、ということなのです。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの言葉がそれを示しています。どこかにある神の国を求めなさいとか、今いる所が神の国になるように努力しなさいと言うのではないのです。あなたがたが生きているその現実、あなたがたの人生そのものにおいて、神の国、神のご支配が今や実現しようとしているのだ、神様があなたがたの日々の生活を、恵みをもって支配して下さる、その神のご支配が既に始まっているのだ、と語っておられるのです。
その神の国、神のご支配は、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていません。私たちの生きているこの現実、この人生において神の恵みのご支配が実現しようとしていることは、私たちの目にははっきりとは見えないのです。それは隠された事実、秘密にされている事柄なのです。2月21日に「みことばの実り」と題してお話しした4章11節には「神の国の秘密」という表現がなされていました。神の国は「秘密」と表現されるような、隠された事柄なのです。その隠された神の国を、それが全く見えない現実の中で、なお神様のご支配を「信じて生きる信仰」へと私たちを招くための話なのです。
26節から、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」とあります。種は蒔かれると土に埋もれてその姿は見えなくなります。隠されてしまうのです。しかし隠されていても、土の中で人知れず根を張り、成長していくのです。そしてやがて芽を出し、伸びていきます。その成長は私たちが夜昼、寝起きしているうちに進んでいきます。勿論農夫はその作物の成長のために水をやり、雑草を刈り、肥料をやりと手を尽くします。しかしそれらは作物の成長のための環境を整えるということです。水を吸収し、養分を取り入れて成長していくこと自体は、作物そのものの持っている力であって、それは人間の理解を超えた、また人間の力の及ばないことです。そのように作物は、28節にあるように「ひとりでに」実を結ぶのです。作物が「ひとりでに」実を結ぶのも、作物をそのようにお造りになり、力を与えた方がおられるからです。つまりこの「ひとりでに」という言葉は、人間の理解を超えた、人間の力の及ばない所で、神様が作物を成長させ、実を実らせて下さっているのだ、ということを語っているのです。神の国もそれと同じです。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国の種が、あなたがたのところに既に蒔かれている。その神の国の種は、今は隠されているけれども、着実に成長を始めている。人間の理解を超えた、人の力の及ばないところで、神様がそれを育て、実を結ばせようとしておられる。その収穫の時が今や近づいているのだ。「成長する種のたとえ」はそういうことを語っているのです。
このことは、先週ご一緒にお読みしました4章21節からの「ともし火」の譬えにおいて語られていたことと通じるものです。ともし火は升の下や寝台の下に置くためのものではない、燭台の上に置くものだ、というあの譬えは、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉と結び合わされて、今は隠されているともし火が、将来必ずあらわになり、全ての人を照らすようになる、という約束を語っていました。そのともし火が、神の国、神のご支配です。今は隠されている神の国が、神様ご自身の働きによって、いつか必ずあらわになるのです。そのことが、本日の「成長する種」の譬えにおいては、種はひとりでに育って行って、ついに収穫の時が来る、という譬えによって言い表されているのです。神様はそのように神の国を育て、完成して下さる、だからそこに希望を置いて、収穫の時を待ち望みつつ生きるようにとこれらの譬え話は教えているのです。
続く30節以下の、「からし種」の譬えも同じことを語っています。この譬え話のポイントは、蒔かれる時には地上のどんな種よりも小さなからし種が、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、ということです。砂粒のようなからし種が、五メートルぐらいの大きな木のように成長し、その葉陰に鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようになるのです。これも「神の国」の譬えです。神の国、神のご支配は、今は隠されており、目に見えないので、多くの人々はそれに見向きもしません。今は目にも止まらないような小さな小さな種である神の国が、最終的には素晴らしい木へと成長するのだ、ということを主イエスはこの譬えによって語っておられるのです。
先程もお話ししましたが、マルコは主イエス・キリストの宣教の第一声を「神の国は近づいた」という御言葉の中に見ていました。この「近づいた」という言葉は、確かに「近づく」という意味ですが、さらに具体的には、「来た」という意味もあります。「神の国」の実現は、神の御計画の必然であり、御子キリストの到来と共に「始まった」と述べられているのです。新約聖書128ページ、ルカによる福音書11章20節には、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と記されています。ここは、口語訳聖書では、「来ているのだ」という言葉の前に、「既に」という言葉を加えており、また岩波訳では「まさに」という表現で実現性を特に強調しています。
「神の国は、まさに、今、来ているのだ」。これが最も正確な翻訳と言うべきでしょう。「神の国」は、歴史の遥か彼方に実現を期待する希望ではありません。現実に、この世界に成就した神の御業であるのです。「神の国」とは、私たちがこの世界に建設する何らかの特定な社会ではなく、主イエス・キリストの御業が行われる場のことです。御子キリストの到来、即ちクリスマスこそ、「神の国の始まり」であったということなのです。
このように、私たちは、「神の国」の始まりを見ながら、なお、その完成を望んで生きているのです。ここに、キリスト者の緊張感があると言えるでしょう。私たちの生きる姿は、「既に」と「未だ」という「二つの一見矛盾した時間の中」を過ごしていかなければならないのです。
「既に、神の国の中を生きている」と言う時、「今のこの時」を軽んじることは出来ません。「未だに完成していない」と言う時、「今の生きていること」がすべての終わりになる終末であるとは言えません。
私たちは全て、今、自分が置かれている時をはっきりと見詰め、「来るべき時のために、今日を生きる」という姿勢を明らかにしなければなりません。このような生き方を、難しい言葉ですが、「信仰的実存」と呼ぶのです。このように、私たちは、「既に」と「未だ」という「二つの時」の緊張状態の中にあるのです。従って、この「既に」と「未だ」の緊張感を正しく捉えられない時に、キリスト者としての考えや生活に乱れが生じると言えましょう。
主イエス・キリストは、このような「二つの時の間」を生きる私たちを顧み、恵みに恵みを増し加え、約束の確かさを明確にして下さるのです。
「神の国」の実現は、私たちの力ではなく、努力によってでもなく、神の御心によって進むのです。私たちの心の中に蒔かれた福音の種は主イエス・キリストが正しく成長させて下さるのです。
御子イエスは、この世において極めて軽んじられた生涯を送られました。誕生はベツレヘムの宿屋の家畜小屋であり、御使いの知らせがなければ、誰も訪れることもなく、誰からも祝福されない誕生でした。ナザレの村で育ち、村の人々から特別な注目を受けることもない平凡な大工でした。そして、福音を語り始めると、変人として村から追い出されたのです。その後、ガリラヤ各地を巡り、福音の宣教に携わった時も、周囲に居たのは漁師や徴税人、病人など、恵まれない人々でした。そして、生涯の最後に待っていたのは、最も恥ずべき十字架でした。
この世の誰もが、目もくれないような、主イエス・キリスト。
地上において全く軽んじられる扱いを受けた、主イエス・キリスト。
全ての人々から嘲られ、見捨てられた、主イエス・キリスト。
人間の眼から見れば、この十字架のキリストに「神の国」を見ることは、とても出来ないでしょう。その誕生から十字架までの惨めさが、神としての栄光を隠してしまっているからです。
しかしそれにも拘らず、神の御業は、そのどん底の惨めさから始まったのです。私たちの眼には、この世での力やこの世での姿が強く逞しい方が魅力的に映るかもしれません。しかし、「神の国」は、この十字架の主イエス・キリスト以外からは始まらないのです。ナザレの主イエスに、全ての希望がかかっているのです。
神の国、神のご支配は、このようにして、主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、人間の力や思いをはるかに超えた神様の力によって、まさに主の熱意によって前進し、実現し続けているのです。弟子たちは、この神の国の前進に巻き込まれ、その中で、自らの罪と弱さとそれによる挫折を思い知らされると同時に、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと、新しい命の恵みをも豊かに味わい、体験させられていったのです。そのようにして弟子たちは、神の国、神のご支配を本当に知り、信じる者となりました。主イエスによって到来した神の国、神のご支配は、からし種一粒のような小さな小さなものでしたが、大きく成長したことは歴史が示しています。私たちも、からし種の様な小さな信仰が、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのだということを心から信じる者となり、主イエス・キリストに遣わされて、この神の国の福音を宣べ伝える者とされていくのです。
神の国は今、この成宗教会と私たちをも巻き込んで前進し続けています。私たち一人一人の日々の生活が、人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。神の国の列車が、私たちを乗せて既に走り出していることを信仰の目を通して見つめ、終着駅での豊かな収穫を待ち望みながら、「時の旅人」として信仰の歩みを続けていきたいものです。
お祈りを致します。
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