偽善と本当のこと

《賛美歌》

賛美歌7番
賛美歌24番
賛美歌280番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨナ書 4章1-11節

4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

新約聖書:マタイによる福音書 6章1-15節

◆施しをするときには
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
◆祈るときには
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

《説教》『偽善と本当のこと』

わたしたちは幸せに生きたいと思います。幸せに生きたいと願っています。
ですが、今、私たち、幸せでしょうか。幸せですか?
誰もが幸せを願っています。でも、幸せって何でしょうか?
私たちが幸せを感じる時は、どんな時でしょう。
聖書は、どう考えているのでしょうか。聖書は、信仰、希望、愛が大切で、最後まで愛は残ると言っています。
幸せの根本は愛です。
愛が大切なのです。
とは言っても、愛ってなんなのでしょうか。
愛って、たとえば、自己愛という言葉があります。
それって、愛でしょうか。聖書が言う愛でしょうか。
それは違うでしょう。聖書が言う愛とは、対極なものです。
私たちが本当に求める愛も自己愛とは違うのではないでしょうか。
愛は自己愛を満たすことではありません。
けれども、私たちは愛されなければ、委縮し、いくら美辞麗句で、塗り固めても心は焼け焦げていくのではないでしょうか。ただ、その美辞麗句をいつのまにか求めてしまうということがあるかもしれません。
とは言っても、もし、いつもけなされたり、頭ごなしに言われたり、下僕に言うように言われたら、魂は焼け焦げて、涙すら枯れてしまうかもしれません。
そんな不幸なことってあるでしょうか。
愛って、何なのでしょうか。それを今日の聖書に聞きたいと思います。
そして、偽りではなく、愛を求めたいと思うのです。

今日の聖書は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」というイエス様のお言葉からはじまります。
これは、なるほどと思います。
ただ、善行、善い行いは大抵はだれかのためにすることです。ですから、人の前で行うことになるでしょう。
イエス様は、善い行いを人前でするなとおっしゃっているのでしょうか。
それは、違います。
イエス様は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」とおっしゃっています。
「見てもらおうとして」というのが問題なのです。
でも、それはこれ見よがしにするなという意味でしょうか。確かにそうも言えます。ただ、それは人に「見てもらおうとして」善い行いをすれば、あざといので人にその意図がばれてしまうから、「見てもらおうとして」善い行いをするなということなのでしょうか。
それも違います。
そもそも、善い行いとはなんでしょうか。
イエス様は続けてこうおっしゃっています。
「さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」と。
すると、善い行いとは「天の父」、神様から「報い」を受けるためにするのでしょうか。それは、「善いこと」をすれば、何か神様から善いことが来るからするのでしょうか。
日本には、「情けは人のために非ず」という言葉があります。
これは、人に情けをかけるのは、巡り巡って自分のためになるから、人のためでなはいという意味です。そう、自分のために善い行いをするのです。
でも、それって本当に善い行いでしょうか。情けでしょうか。自分のために情けをかけるのですから、それは、結局は単に自分の利益のためで、なんの善い行いでもなんでもないのではないでしょうか。
見てもらおうとして善い行いを行うこと、それは、自己愛を満たすだけのことにすぎないのです。
そうではなくて、見てもらおうとしないで、人前で善行を行うことは、それは愛の問題なのです。
人のため、相手のためを思ってすることです。善い行いには愛が伴うのです。
でも、それは一方的なものではありません。疲弊していきます。愛し合うことが大切なのです。
イエス様は、こうもおっしゃいました。
「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
これもなるほど、イエス様のおっしゃる通りだなと思いませんか。
これは、施しの話です。
善い行いの中で、具体的な話です。それをたとえで、こうしてはならないとおっしゃっています。
それは、「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」というお話です。
人にほめられようと会堂や街角で、ラッパを鳴らしてしていた人がいたんでしょう。でも、今だって、街角で歌を歌っている人はいます。そういう人たちがいけないといっているのでしょうか。
そんなことをイエス様はおっしゃっておられません。
そのラッパを鳴らすということは、宗教的な意味合いがあったのでしょう。ラッパを鳴らすことでいかにも神様に敬虔な人物であるかのように自分を見せていたのです。
そういう施しはしてはならないとイエス様はおっしゃっているのです。結局、自分のための自己愛のための施しだからです。

ところで、イエス様は、お生まれになったあと、どこに行ったでしょうか。その時の王、ヘロデ王は、ユダヤ人の王が生まれると聞いて、その子を探し出して殺そうとしました。イエス様の父ヨセフに天使のお告げがあって、ヨセフはイエス様と母マリアを連れて、エジプトに逃げました。
そこには、父ヨセフのイエス様に対する愛がありました。
ただ、ヨセフとマリアとイエス様の親子は、難民となったのです。当然、施しを受ける立場になったことでしょう。困窮を極めたはずです。人から舐められ、人からの上から目線での施しや、笑われて、さげすみ、善意と称する偽善にもあってきたはずです。身をもってイエス様はそれを体験していたはずです。
そこで、イエス様を支えたのは、神様からの愛と、お互いを愛する愛です。
イエス様は、ヘロデが死んで父ヨセフの故郷イスラエルのナザレに帰ってきました。
ところが、父ヨセフは、早くに亡くなってしまったようです。
イエス様には、母マリアと多くの兄弟姉妹がいました。
イエス様は長男でしたから、母マリアと兄弟姉妹たちを食べさせ、彼らが独り立ちし、母マリアも生活していける段取りをつけてから、伝道にでたのです。もちろん、十戒の「父と母を敬え」という律法があります。それを守ったということもあるでしょう。
でも、大切なのは、イエス様が家族を愛したことです。兄弟姉妹は少なくとも6人以上いたと考えられます。その兄弟姉妹を独り立ちさせるには、相当のご苦労があったはずです。さらに、母マリアがイエス様が伝道にいかれても、食べて行けるようにもなさったのです。どれほどのご苦労がおありだったのか。神の子イエス様が、本当にこの世界で人間として生活され、ご苦労され、律法を守られた、その背景には、イエス様がきちんと家族を愛した愛があったのです。そして、伝道にいかれたのです。神様から愛され、人を愛され、神様と、人とお互いに愛し合う愛がそこにあったのです。
ところで、施しについて、イエス様は、こうおっしゃっています。
「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
イエス様のおっしゃる通り、施しは人の目につかなくても出来ます。イエス様は、エジプトにいたとき、善意と称するさげすみの、あるいは自己満足な施しをうけたかもしれません。イエス様は、現実を知っておられるのです。
ただ、ここでも「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」とおっしゃっています。
神様から、報いを受けるために施しをするのでしょうか。
イエス様は、今日の聖書の中で、「主の祈り」を私たちに教えてくださいます。そのお祈りのはじまりは「天におられるわたしたちの父よ、」です。
「父よ」と祈れとおっしゃいます。
たとえば、子供が何か出来たときに、「お父さん、見て見て」とくると思います。そしたら、お父さんは「すごいね。よくできたね。」と言うのではないでしょうか。
それはいけないことでしょうか。
そうではありません。
子供は純粋にお父さんにほめられたいと思っていると思います。それをほめるのは愛です。
「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」とイエス様はおっしゃっていますが、「偽善者たちが人からほめられよう」とおっしゃっています。
偽善者たちは人からほめられるためにいかに自分が神様に敬虔であるかを見せようとします。それは善い行いでも施しでもなんでもありません。イエス様はこうもおっしゃいました。「はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
これは、何を指しているのか、少し、難解ですが、実は、とても単純で、イエス様のおっしゃるとおり、彼らは報いを受けているのです。
それは、自己愛を満足させることです。
善い行いも施しもすべて、自分の自己愛を満足させることです。そこには愛する対象はありません。すべて自分の利益のみです。なんとむなしくさみしい、魂が焼け焦がれる状態ではないでしょうか。
しかし、私たちにはそうなる誘惑がいつも転がっています。
人から美辞麗句を言われたい、善い人だと思われたい、あるいは敬虔な人だと思われたい、そうやって、偽善の罠が待ち構えているのです。
ただ、偽善には、もう一つあるのではないでしょうか。
自分を綺麗に、良く見せようとするほかに、綺麗なものは、すべて建前で、綺麗事だと考えることです。
一見、真実のようにも聞こえますが、果たしてそれが真実でしょうか。これも偽善なのではないでしょうか。
本当に、善い思いからしていることや敬虔さはかけらもないでしょうか。
イエス様は、施しについて、「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」とおっしゃいました。
神様からの報いとは、子供がお父さんからほめられたいというの似ているのではないでしょうか。父なる神様が喜んでくださる、父なる神様にほめられたいと。
そして、神様を、あの人を愛するから助けるんだという思いもあるのではないでしょうか。それは善意です。

しかし、この当時の人々は、とくに律法を厳格に守り、敬虔さを売りにしていたファリサイ派や律法学者には、その愛を忘れて、自己愛を満たすことだけにすべてを費やしていったのではないでしょうか。

例えば、赤信号があります。
赤信号ではわたってはならない
それは法律です。
もしかしたら、無機質なものかもしれません。
秩序のためであることは確かです。
でも、赤信号は、人を殺さないためにある、人を傷つけないためにあると考えたら、全く違って読めるのではないでしょうか。人の命を守るためなんだって。それにだれも人を殺したくはないからです。
そういう意味で、愛の法律だって考えることも出来ます。
でも、ファリサイ派や律法学者たちは、律法を厳格に守り為にどんどん無機質になっていったのです。
律法は神様が制定されたものです。
無機質なわけがありません。
例えば、十戒の第1戒「あなたはわたしの他に、何者をも神としてはならない」第6戒
「あなたは、人を殺してはならない」
この二つも神様の「あなたはわたしの他に、何者をも神としないでほしい」「あなたは人を殺さないでほしい」という神様の思いが込められているのです。
それなら、大切なのは、無機質に厳格に守ることではなくて、神様の思いに応えること、受け取ること、それが神様の求めておられることなのです。神様は一方的なことをのぞんでおられるのではないのです。神様の思いが先にあって、それに私たち人間が応える、神様が私たち人間を愛してくださって、私たちも神様を愛する、それを神様は望んでおられるのです。
しかし、私たちは、神様を愛することも、人も愛することも出来ないでしょうか。
そう、イエス様が十字架につけられるまではできなかったのです。だから、イエス様は十字架につけられなければならなかったんです。
善い行いをしているつもりで、実は、人に見られるためにやっていたり、神様に対して敬虔であるように見せかけて、自己愛を満足させるためであったり、愛し合うということは一つもなかったのです。
そこに愛がなかったのです。だから、なんの罪もない神の子イエス様が私たちの代わりに罰を受け、十字架につけられ死なれたのです。そして、神様によってイエス様はその死から復活されました。
愛のない私たちの罪のために、イエス様は十字架につけられて、その死から復活されました。それは愛のない私たちの罪が赦されるためでした。そこに本当の愛があるのです。
ただ、それは、赦されたんだから、何をしても許されるということではありません。たとえば人を何人も殺したり、貶めたりしても、それを悔い改めなくても何をやってもいいなんてことにはならないんです。
むしろ、愛せない自分の罪が赦されたことを知った時、イエス様の十字架と、その死から復活が自分のためであったことを知ったとき、私たちは変えられていくのです。赦しには変化が伴うのです。
少しづつ神様を、人を愛することが出来るようになってくるのです。
神様に愛されて、神様を愛し、私たちは人間同士少しずつ愛し合うことが出来るようになるのです。
今日の聖書ある主の祈りのはじめは、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけから始まりますが、「わたしたちの」と祈るのです。そこに私たち同士が愛し合うことも秘められているのです。
主の祈りは、愛の祈りです。
イエス様は、現実を知っておられます。
だから、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」というお祈りがあるのです。私たちの信仰や愛は、精神論ではないのです。
次に「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」というお祈りがあります。
これは難解です。
何をやられても赦すということを意味するでしょうか。
それは違います。
もし、家族が殺されようとしている、強姦されようとしている、それをすることを許すのでしょうか。それは違います。
殺しに来る相手とは、全力で命をかけて戦わないと勝てません。その時、自分が殺されるかもしれません、そうしなければその相手は止まらないかもしれません。強姦をしてくるあいてもそうです。
ですが、戦わなければ家族の愛は壊れます。
もとに戻ることはないでしょう。
赦しには変化が伴うのです。
悪いことをしても、反省もしない人がいます。でも、それは、既に報いを受けているんじゃないでしょうか。
私たち人間は、赦すことはできないかもしれません。でも、神様は、反省して悔い改めた人をお赦しになるでしょう。
ということは、反省も悔い改めもしないということ自体が裁き、報いになっているのです。
それに、私たちが思う負い目や過ちは、私たちの見る目でしかありません。例えば、私のお祖父さんでは、よく怒鳴る人でした。僕は怒鳴られたことはありませんでしたが、父はとても苦しみました。
一度、理不尽におばあさんに怒鳴っているのを見た私は、お祖父さんにやめろと怒鳴りました。すると聞こえないふりをしたのです。
私はその時、思いました。自分は怒鳴って他の人に嫌な思いをさせているのに、しかも弱いおばあちゃんに、なのに、自分が怒鳴られたら逃げるのかと。自分が嫌な思いを人にさせているのに、自分がやられるのは拒否するのかと。
今日の聖書の最後に書かれている「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」というイエス様のお言葉は、まさにそのことを指しているのではないかと。
確かに、私たちの目に移る負い目や過ちは自分の感覚でしかないかもしれない、でも、その自分の感覚で裁かれるのではないでしょうか。だから、偽善者たちはもう報いを受けているのです。自己愛を満足させるという報いを。
でも、その負い目、過ちを認めるなら、そのことで人を裁くのはやめにしよう、赦そうとなるんじゃないでしょうか。
人に怒鳴るなら、人から怒鳴られても赦そうと。
僕たちがしなければならないことは、神様を愛して、人を愛して、そして愛し合うことです。そして、本当の負い目をイエス様があの十字架で磔にしてくださった私たちの神様を人を愛せなかった自分です。
だから、今は、そのイエス様の十字架とその死からの復活を信じる時、少しづつでも神様を愛し、人を愛し、お互いを少しづつでも愛せるようになるのです。そのために全力で戦うのです。愛の戦いです。神様を愛し、人を愛し、お互いを愛し合うそれが本当の幸せです。だから、この一週間もそうしてすごしてまいりましょう。