言(ことば)は神であった

クリスマスイヴ礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌98番
讃美歌121番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章1-5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ヨハネによる福音書 1章1-14節 (新約聖書163ページ)

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)は神であった』

このヨハネによる福音書1章1節にある「初めに言があった」とは謎のような分かり難い言葉です。まず漢字で「言」と書いて、これを「ことば」と読みます。この読み方も初めから、この福音書を分かり難くしている理由かも知れません。そんな多くの謎も、先へ読み進んでいくと少しずつ解きほぐされ、語られていることが分かってきます。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」、これは、何のことを言っているのか、14節を読むとはっきりします。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ここで「肉となって」とあるのは「肉なる人」つまり「人となって」という意味です。神と共にあり、それ自身が神である、初めにあった言、その言が肉となって私たちの間に宿られた。それは、まさに神の独り子イエス・キリストのことです。その栄光が父なる神の独り子としての栄光だったと言われていることからもそれが分かります。初めにあった言とは、神の独り子であられる主イエス・キリストのことなのです。神の子である主イエスが、全てのものの初めに、父である神と共におられたと語っているのです。2節にはもう一度、「この言は、初めに神と共にあった」と繰り返されています。そして3節には、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。父なる神と共におられた独り子主イエス、「言」であるその方によって、この世の全てのものは成ったのです。「成った」とは「創造された」ということです。父なる神と共におられ、ご自身も神であられる独り子主イエスによって、この世の全てのものは造られた、主イエスは、全てのものをお造りになった創造者なる神である、ということをこの福音書ははっきりと語っているのです。

それは、天地をお造りになったのは父なる神ではなくて主イエスだ、ということではありません。天地を創造なさったのは父なる神です。後に肉となって私たちの間に宿って下さり、人間となって、この世界に来て下さった主イエスは、世の初めから、父である神と共におられ、ご自身もまことの神として天地創造のみ業に関わっておられた、それが、この福音書が宣べ伝えようとしていることなのです。

1節、2節で使われている「初めに」という言葉は、旧約聖書の創世記第1章1節の「初めに神は天地を創造された」と連動しているのです。神による天地創造こそが、聖書が語るこの世界の「初め」なのです。

「言」による天地創造とは、天地創造においても、神の独り子である主イエス・キリストが神と共にあって、私たちに語りかけてくださっておられるということです。言葉というのは必ず語りかける相手があるものです。天地創造における神の言葉は、虚しい空間に向かって語られたのではありません。神は言葉によって天地をお造りになり、私たち人間が生きることのできる場としてこの世界をお造りになったのです。そして神は言葉によって私たち人間を造り、命を与えて下さり、私たちを、神の言葉を聞き、それに応答して生きるもの、人間として、神と交わりをもって生きる存在として下さったのです。

主イエスこそ、初めにあった「言」であり、その「言」によって全てのものは造られた。この言こそ命であり、光である。その光が世に来て、全ての人を照らして下さる光、救い主となって下さる。それが主イエス・キリストであると、ヨハネ福音書は語っています。

しかしそれは、誰が読んでも「その通りである」と理解でき、納得できるものではありません。そのことを信じるのか、信じないかの決断が私たちに求められているのです。主イエス・キリストのご生涯とは、まさにそのような歩みだったということが、10節以下で語られています。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。「言」は主イエス・キリストという一人の人となって、私たちのこの世界に来て下さいました。主イエスは、ご自分が創造し、命を与えたご自分の民のところに来られたのです。しかし人々は、その主イエスを認めず、受け入れなかった、主イエスを拒み、十字架につけて殺してしまったのです。この世の人々は、主イエスがまことの神であり救い主であることが分からなかったのです。

12節に、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。主イエスを受け入れ、そのみ名を信じる者に、主イエスは「神の子となる資格」を与えて下さるのです。ここで「資格」と訳されていますが、これは私たちが試験を受けて取るような資格とは全く違います。資格と訳されている言葉は「権威」という意味です。「権威」は、獲得するものではなくて与えられ、認められるものです。神の子となることも、私たちが自分の力でその資格を得るのではありません。神が子として認め、受け入れて下さるという恵みによって与えられるのです。生まれつきの私たちは、この世界と私たちを造り、生かして下さっている神に逆らい、神を神として認めずに拒んでいる罪人であって、神の子となることなど到底出来ない者です。神はその私たちをご自分の子としようとして、神はその独り子である主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さいました。神が遣わして下さったこのただ一人のまことの神の子主イエス・キリストを救い主と信じて受け入れ、主イエスと共に生きるなら、神はその人をご自分の子として受け入れて下さるのです。それは13節に語られている、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」ということが実現することです。主イエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、神は私たちをご自分の子として生まれ変わらせて下さるのです。

神の「言」としての主イエスのご生涯を語っているのがこのヨハネ福音書です。主イエスのご生涯全体が、神の言、神から私たちへの恵みの言葉の語りかけなのです。3章16節に、この福音書を凝縮したような言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスという「言」が私たちに語りかけているのはこの神の愛です。主イエスは、その愛のみ心を実現するために、神に背き逆らい、み言葉に応答しない私たち罪ある人間のところに来て共に生きて下さいました。そして、私たちの身代わりとなって、私たち罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はその主イエスを復活させて下さいました。主イエスの復活によって、神の恵みのみ心が、人間の罪と死とに勝利したのです。私たちも今、神の「言」であられる主イエスとの出会いを与えられています。そして復活して今も生きて働いておられる主イエスが私たちに呼びかけておられるのです。その主イエスの呼びかけに私たちが応え、主イエスは神の子メシアであると信じて告白する時、神は私たちを神の国の愛と平安の中に入れてくださるのです。

お一人でも多くの方が、このキリストの愛、キリストの救いへと導きいれられますよう、主イエス・キリストの愛と恵みに溢れた呼びかけに感謝して、お祈りを致します。 皆様、お祈りの姿勢をお取りください。

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クリスマス イヴ礼拝説教「言(ことば)が人となった」

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌106番
讃美歌103番
讃美歌119番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章1―2節 (旧約聖書1ページ)

1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

新約聖書:・・・ヨハネによる福音書 1章1―14節 (新約聖書163ページ)

1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)が人となった』

新約聖書には四つの福音書があります。福音書とは、2000年前にこの地上で人として生きて働かれた主イエスの活動記録です。ヨハネによる福音書は四番目の福音書ですので、第四福音書とも呼ばれます。この第四の福音書は、他の三つの福音書とはかなり違ったものになっています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、主イエスのご生涯を、ほぼ同じ調子で語り、共通する記事も多くあります。そのためにこの三つは並べて比較しながら読むことができます。そういう意味でこの三つを共に同じ観点から見る「共観福音書」と言います。しかしヨハネ福音書が語っている主イエスのご生涯は、共観福音書とはかなり違いますし、他の三つの福音書には語られていない話も沢山あり、かなり毛色の違う、独特な福音書です。そして、新約聖書にこのヨハネ福音書が入っていることによって、主イエス・キリストについての、また救いについての私たちの理解と認識は、大きな広がりと深まりを与えられているのです。

ヨハネ福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り始めています。この謎のような言葉によってこの福音書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。「初めに」という冒頭の言葉によって、この世界の、そして私たち人間の「初め」を尋ね求めているのです。この「初め」、それは起源、根源と言う言葉です。この世界の、人間の、初め、起源、根源とは何か。それは「言」だ、と語っているのです。その「言」とは、私たち人間が語る不確かな、あやふやな、また不誠実な言葉ではありません。神の言です。神の私たちに対する語りかけです。この世界の、そして私たちの人生の、初めには、神の語りかけがある、とヨハネ福音書は宣言しているのです。そしてその神の語りかけ、言は、神と共にあり、言そのものが神であった、と続いています。それはこの福音書が、神の語りかけ、「言」を、一人の人格的な存在として見ているということです。そのお方とは主イエス・キリストです。14節まで読み進めるとそれが分かります。この福音書が「言」と書いて「ことば」と読む「言」とは、肉つまり人となって私たちの間に宿られた主イエス・キリストのことなのです。ですから、「初めに言があった」という謎めいた言葉で語り始められているこの福音書も、やはり冒頭から主イエス・キリストのことを語っているのです。主イエスとは、この世界の根源であり、私たちの人生を根底において支えている土台であるところの神の「言」、神からの語りかけなのだ、ご自身が神であられるその「言」が肉なる人となってこの世を生きて下さったのが主イエス・キリストなのだ、ということをこの福音書は語っているのです。

2節の「この言は、初めに神と共にあった」は一見、1節を言い直しているだけのように思えますが、「この言」と訳されているのは「このもの」あるいは「この方」という意味であって、それは1節の「言」を受けていると同時に、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」を既に意識しています。肉となってこの世を生きて下さった主イエス・キリストは世の初めに既に父である神と共におられたのです。この「初めに」は創世記冒頭の「初めに神は天地を創造された」を意識しているのです。神がこの世界を創造なさった時、そこに、言である主イエス・キリストも共におられ、天地創造のみ業に共に関わっておられたのです。そのことが3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と語られているのです。「言」であられる主イエス・キリストによって、この世の全てのものは造られたのです。主イエス・キリストは神によって造られた被造物ではなくて「創造主」であられるのです。主イエスは父なる神から生まれた子なる神であられ、まことの神として創造の初めから父と共におられるのです。しかしそれは父なる神と子なる神という二人の神がおられるということのではありません。神はお一人である、ということも聖書の根本的な信仰です。そこにさらに聖霊なる神が加わって、父と子と聖霊という三者でありつつお一人なる神であるという、いわゆる「三位一体の神」という神の本質的なお姿が見えてくるのです。ヨハネ福音書のこの冒頭の部分は、聖書においてご自身を啓示しておられる神が父と子と聖霊なる三位一体の神であられることを私たちが認識するための大切な役割を果しているのです。

6節になると、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」と、一人の人間のことが語られ始めます。ここで私たちの目は、この世のこと、地上を生きた具体的現実的な人間のことへと向けられるのです。このヨハネとは、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれ、ヨハネ福音書を書き記したヨハネとはまったくの別人です。主イエス・キリストが宣教活動を始められる前に、洗礼者ヨハネが現れ、主イエスの伝道のための備えをしました。しかし、その洗礼者ヨハネがどのように主イエスのための備えをしたかは、ヨハネ福音書と他の三つの福音書ではかなり違っています。他の三つの福音書では、洗礼者ヨハネは人々の罪を指摘し、悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けました。自分たちが罪人であることを人々に意識させ、悔い改めて神に立ち帰り、向き合うことによって、救い主イエス・キリストを迎える準備をしたのです。それに対して、ヨハネ福音書において洗礼者ヨハネがしたことは何か。7節に「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」とあります。ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、証しをするために神から遣わされた人なのです。証しとは、証言です。見たり聞いたり体験して知っていることを、「こうでした」と人に伝え、それを聞いた人々が「ああそうなんだ」と知るようになる、それが証しです。洗礼者ヨハネは、「光について証しをするため」に神によって遣わされました。その光とは、初めにあった「言」に命と光があった、と言われているその光です。5節に「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われているその光です。そして9節では「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われています。初めにあった「言」、自らが神であり、命であり、光であるその方がこの世に来られて、まことの光として全ての人を照らす、それは主イエス・キリストのことです。「言」も「命」も「光」も、主イエス・キリストのことなのです。その「光」である主イエスについて証しをするために洗礼者ヨハネが現れたのです。洗礼者ヨハネは、「証し人」です。彼は主イエスこそがまことの光であることを全ての人が知り、信じるようになるために証しして、救い主イエス・キリストの働きのための備えをしたのです。

これは、主イエス・キリストの現れとは、罪が支配するこの世の暗闇の中に、神の救いの恵みの光が輝き、罪の闇に打ち勝つ、というような象徴的なことではありません。そうではなく、人間を照らす光が、暗闇の中に輝いているのです。それは、まことの神である主イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、この地上を生きて下さり、十字架の死と復活による救いを実現して下さったことを言っているのです。「人間を照らす光」とは、主イエス・キリストです。「光は暗闇の中に輝いている」というのも、私たちの罪によって深まっているこの世の暗闇の中に、主イエス・キリストが来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、それで私たちの罪を赦して下さり、その死からの復活によって、私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さった、ということです。その主イエスが今、この礼拝において私たちと出会い、語りかけ、交わりを持って下さっているのです。この世の現実におけるどのような暗闇も、この主イエスの恵みの光に打ち勝つことはできません。暗闇は光を支配下に置くことはできないのです。

主イエスについての証しを聞いて、主イエスを神の言、救い主、まことの光として信じ、受け入れると、私たちには「神の子」として新しく生かされる、という救いを与えられます。

しかしそこには同時に、主イエスを受け入れず、信じない、ということも可能です。この世を生きている私たちは、自分がそのどちらの道を選び、歩むのかを問われているのです。「証しの書」であるヨハネ福音書は、そのことを私たちに問い掛けているのです。その最初の「証し」が洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネから始まった主イエスについての証しを信じて受け入れ、世に来てすべての者を照らして下さるまことの光である主イエスによって照らされるなら、私たちも神の子とされて生きることができます。その信仰の歩みにおいて私たちも、まことの光である救い主イエス・キリストの証し人として、それぞれの生活の場へと、神によって遣わされていくのです。

お祈りを致します。

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