《賛美歌》
讃美歌6番
讃美歌243番
讃美歌298番
《聖書箇所》
旧約聖書 詩篇 23篇1~3節
23:1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
新約聖書 ヨハネによる福音書 10章7~18節
◆イエスは良い羊飼い
10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
《説教原稿》
今日のヨハネ福音書10章は、この前の9章で生まれつき目の見えない人を主イエスが見えるように癒された奇蹟物語の後半でファリサイ派の人々が主イエスを責め、彼らの罪が明らかにされた直後に、一見唐突とも思える書き方で、いきなり、主イエスの「はっきり言っておく。」という御言葉で始まります。しかも、今日の8節には「盗人であり強盗である」という強い表現で、ファリサイ派の人々を非難することから始まります。6節にあるように「彼ら〔ファリサイ派の人々〕はその話が何のことか分からなかった。」ことから、彼らの霊的無知を思い起させます。それによって、今日の譬え話が霊的に理解されなければならないと主イエスは、ここで告げられているのです。
主イエスは、ご自分を羊飼いに譬えられ、羊との羊飼いの関係を用いてご自身について語られます。羊というのは弱い動物で、狼などに襲われたら、自分で自分を守ることが出来ません。又、他の動物に比べて力が弱いというだけでなく、自ら生きていく術を知らないために、羊飼いの保護なしには生きていけません。主イエスは、主により頼んで歩む信仰者を羊に、そして、救い主であるご自身を羊飼いに譬えられたのです。
神の民を羊に、民の指導者を羊飼いに譬えることは、すでに旧約聖書の中に幾つかの例が見られます。その場合、しばしば横暴な偽羊飼いとまことの羊飼いとが対比されます(Ⅰ列22:17、エゼ34章、37:24‐28、ゼカ10:2‐3、11章)。ここで主イエスは偽りに満ちたユダヤ人の宗教指導者たちに対して、自らをまことの良き羊飼いとして啓示されているのです。盗人や強盗にすぎない者と、本当の羊の牧者の姿が印象的に描かれているのです。羊飼いは「自分の羊の名で呼んで連れ出す」と「羊はその声を聞き分ける」のです。何故なら「羊はその声を知っているので」ついて行くのです。盗人や強盗が羊の命を奪うためにやって来るのに対して、羊は主イエスという「門」を通って牧草地に安全に導かれるという意味で、主イエスは「羊の門」なのです。また、羊のことを心にかけない無責任な「雇い人」に対し、羊のために命を捨てる「良い羊飼い」であると宣言されるのです。当時の羊飼いという職業は、実際、狼などの野獣から羊の群れを守るために身を危険にさらしました。
今日の、「良き羊飼いのたとえ」は、主イエスと父なる神との関係、主イエスと信仰者との関係、主イエスの十字架の死の意味にまで及ぶ物語です。主イエスの羊は主イエスが羊飼いであることを知っており、主イエスも羊を知っておられるのです。そして、主イエスの羊はユダヤ民族に限られず、「この囲いに入っていないほかの羊も」含むのです。しかも、この囲いに属さない者たちが主イエスの群れとなるためには、主イエスの死と復活が必要です。そのことを暗示するかのように、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と、主イエスの死に言葉が及ぶのです。ユダヤ人たちはすでに主イエスを殺そうという思いを抱いていました(5:18)。しかし、主イエスが命を捨てるのも、それを再び得て復活されるのも、主イエスご自身の権威によるのであり、そして、そのことは父から受けた「掟」であると述べられるのです(18)。
今日のこのヨハネ10章7節から18節では、旧約聖書にしばしば書かれている羊飼いのイメージを用いて、主イエスこそが神の民「羊」が必要とするお方であることを強く指し示しているのです。
ファリサイ派の人々とは、当時のユダヤ教の指導者たちのことで、自分たちにこそ神様の救いが与えられると思っていました。律法を守ることによって救いが得られると信じ、律法の教師として人々を教え、指導していたのです。まさに、羊であるユダヤの民の羊飼いとして振る舞っていたのです。しかし、この人々は、自分たちが律法を厳格に守っていることを誇り、律法を守ることが出来ない隣人を裁くことに熱心でした。
主イエスがこの世に来られたのは、人々に永遠の命を与えるためであり、それについてはヨハネ福音書の随所に書かれていますが、ここ10章の特徴は、永遠の命は、主イエスが己の命を与えることによってなされることを、良き羊飼いに譬えて描いていることです。
ここで命を与えるとは、自分の命を犠牲とするただ一回限りの御業です。この事を中心的なテーマの一つとするヨハネ福音書にあって、この10章は極めて重要な位置を占めているのです。
主イエスは先ず7節で、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」と語ります。主イエスは、ご自身こそ門であると言われるのです。ここで語られているのは、9節に「わたしは門である、わたしを通って入る者は救われる」とあるように、救いにいたる門のことです。羊は、この門を通って出入りすることによって牧草を得ることが出来るのです。主イエスを通してしか救われないことを強調しています。「わたしを通って入る者」とは原語では“わたしによる者”となりますが、これは、主イエスによる絶対的な救いを強調しています。主イエスが唯一の救いに至る者であることが示されているのです。8節では、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われます。ここで、「盗人」、「強盗」とされている、「主イエスより前に来た者」というのは、主イエスより時間的に前にいた人々、旧約聖書の預言者たちのことではありません。「前に来た者」とは、前の1節において「門を通らないで他のところを乗り越えて来る者」と言われていた人たちのことです。主イエス・キリストという門を通らない者のことです。まさに主イエスと対立して律法による救いを主張していた、ファリサイ派の人々に目が向けられているのです。9節の「救われる」とは、神の裁きを受けない永遠の命を得ることを意味し、文法的には未来形で書かれ、救いの約束がずっと続くことを指し示しているのです。
10節に記されているように、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」からです。たとえ、彼らが表面的には、羊たちを養っているように見えても、実際は自分自身を養うことにしか関心がないのです。律法による救いを説いていましたが、それは本当に人々の救いを願って教えていたのではありません。むしろ、自分たちが人々から一目置かれ、尊敬されることに気を配っていたのです。そのために、自分たちが守っている律法によって人々は救われるのだと主張していたのです。
このイエスを「門」とする表現にも、旧約聖書のイメージが強く組み込まれています。門から入って救いを見い出すという約束は、詩篇118編(19-20節)の「主に感謝するために正義の城門を開く」と書かれていますし、また、牧草を見つけるという約束は詩篇23編(1-2節)の「私を青草の原に休ませる主なる羊飼い」やエゼキエル書34章(14-15節)の「肥沃な牧草地でイスラエルの民を養う」と書かれています。また、今日の9節の「牧草を見つける」約束は、主イエスご自身による約束、渇きと飢えを終らせる4章(14節)の「サマリアの女への水の賜物」や7章(37-38節)の「主イエスを信じる者は生きた水が川となって流れ出る」といった水となって恵みが与えられる話を連想させます。このように新約聖書は旧約聖書を土台として書かれているのです。
10節では盗人に対置して、主イエスの来臨が語られ、それは羊が「命」を受けるためであると、「命」が強調され、主イエスがこの世に来られた目的が明らかにされるのです。11節から、これまでの「わたしは門である」に代わって、「わたしは良い羊飼い」と言われます。
羊のために命を棄てることが、ここで良い羊飼いの「良い」ということを規定しています。この羊飼いは、羊のために命を捧げるという自己犠牲を行なうと言われるのです。自己犠牲がなく単に牧草を与えて羊に自然の命を与えるのではありません。ここではエゼキエル書34章(1-16節)にある「良き羊飼いとしての父なる神」について語られます。良い羊飼いである神は散らされたところから羊たちを救い出し、彼らを養い、弱いもの、傷ついたもの、失われたものをいたわり、羊のために心を砕くのです。この羊飼いと同一化することによって、主イエスはご自分が神の約束を成就し神の業を行なう者であると語られるのです。羊のために自分の命をも投げ捨てる羊飼いとして、ご自身を語られるのです。良い羊飼いは野獣から自分の羊の群れを守るためには、その命をも投げ出さなければならなかったのです。この「私は命を捨てる」との御言葉はヨハネ福音書独特の雰囲気の中に何回となく(10:15-18、13:37-38、15:13等)使われて、主イエスご自身の十字架の死を暗示しているのです。
ここまでに出てくる「羊飼い」という名詞は、新約聖書では18回も用いられています。今日のヨハネ福音書のこの箇所では、良い羊飼いとして主イエスは、群れのために自分の命を進んで投げ出す用意がある(11、15、17、18節)ばかりでなく、羊の所有者として(12節)、殊更の責任を羊に対して持とうとされているのです。更に、良い羊飼いといして(14節)主イエスは羊を知っており(15、27節)、羊は主イエスを知って(15節)、主イエスに従うのです(27節)。それだけでなく、羊飼いとしての主イエスの働きは信じる教会の人々ばかりでなく、牧場の囲いに属さない異邦人にまで及んでいます。唯一の羊飼いとして、主イエスは彼らを一つの群れにされようとしているのです(16節)。
12節では、羊飼いと雇い人が対置されます。雇い人も羊を養うのですが「良い羊飼い」ではないのです。4節にある「自分の羊」とは、羊飼いがその羊の名を知っていて、その羊を呼ぶと、羊はその声を聞き分けて羊飼いのもとに集まって来るのです。単に所有しているといった関係ではなく、呼べば答え、羊は羊飼いの献身振りを知っているのです。こういった意味から雇い人とは単に羊を所有していないだけではなく、自分の命が羊の命より大切だから、危険が迫ると羊を置き去りにして逃げるのです。この12節では、盗人や強盗といった危険に代わって「狼」の危険について書かれています。ここでは、通常群れで狩りをする動物である狼に単数形が使われていることから14章20節の「世の支配者」といった者が比喩されているとも考えられます。良き羊飼いに飼われている羊は見捨てられることがありません。すべての羊が救われるのです。「雇い人」とは、悪い意味の「羊飼い」として用いられて、羊のそばにいない「日雇い労働者」としての羊飼いのことです。この雇い人はエゼキエル書34章(5-6節、8-10節)の「群れを養わず自分自身を養う悪い牧者」や、またエレミア書23章(1-3節)の「羊の群れを顧みない牧者」などの「悪い羊飼い」の描写とも重なります。旧約聖書の愚かな牧者や雇い人についての描写は羊の安寧を犠牲にしても自分たちの安泰を重視するユダヤ教指導者やファリサイ派の人々の姿を思い起こさせているのです。「狼は羊を奪い、また追い散らす」ことが起こるのは、羊が雇い人に任されているからです。雇い人は羊のことを「心にかけない」からです。彼らは決して「羊飼い」とは呼ばれない「雇い人」なのです。14節からは、二つの譬えの説明がされます。
14節は「わたしが良い羊飼である」という主イエスを象徴する語句が繰り返されます。羊の羊飼いに対する関係は、啓示者である父なる神に対する関係に相当します。それは、「彼は羊たちの名を呼び」、「羊たちはその声を聞く」という関係です。羊飼いの羊に対する関係は、ここでは、羊飼いが羊のために命を捨てるという、主イエスの十字架の死を、人々のための犠牲としての死を指すものとして説明されます。ヨハネ福音書によれば、神に遣わされた主イエスの死は、ご自身の自由意志に基づく犠牲としての命の放棄なのです。
12節にある「この囲い」とは、譬えとしてユダヤ民族を指しています。主イエスに属する「羊」は、イスラエルだけでなく、広く世界に生きているのです。羊の群れと一人の羊飼いとは、主イエスの言葉に聞き従う教会を示しているのです。17節は主イエスの十字架の犠牲死が、ご自身の自由意志であることが強調されています。主イエスは命を受け、そしてまたそれを取られる。主イエスは、神の力を以てご自分の命を自由に扱われるのです。ここでは一貫して「復活する」と言われ、「復活させられる」と受動態ではないのは、主イエスの死は栄光を受けることであり、父なる神への帰還だからなのです。人の姿をとった主イエスの死は、ご自身の意志によるのであり、死に対して絶対に自由な支配力を持っているのです。主イエスの死は、死の力による破滅(カタストロフ)ではなく、むしろ、命を捨て、命を得る、その高い権威は、父なる神の意思に基づいて、再び命を得る全権を、父なる神から与えられているのです。主イエスは死をも支配される御方なのです。
キリストという門を通らないで牧草を得ようとしてしまう所に人間の罪があります。その罪の力から誰も自由になれないのです。信仰に生きている者、教会に属する者こそ、一人一人の名を呼んで下さる羊飼いの声にいつも耳を傾けていなくてはならないのです。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。主イエスはご自身が門であると共に、「良い羊飼い」であると語られました。
「雇い人」と「良い羊飼い」の違いは、「羊のために命を捨てる」かどうかということです。
罪のために、私たちは滅び死ぬことになるのです。ですから、罪と死の力に襲われる時にも、私たちを見捨てない羊飼いこそが、本当に良い羊飼いであり、私たちの救い主なのです。普段どれだけ、喜びや、楽しみを提供し人生を豊かにしてくれるかということではありません。私たちが罪と死に直面する時に、主イエスは体を張ってその危機と立ち向かい、私たち羊の身代わりとなってくださるのです。主イエスは、羊の身代わりとなって命を捨てられる羊飼いなのです。
主イエスが、ご自身のことを、このような良い羊飼いであると言われるのは、主イエスが十字架において自らの命を投げ出されることで、羊たちを襲う狼と戦われた方だからです。しかし、ただ、身代わりとなって死なれただけではありません。17節に、「わたしは命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」と言われるように、主が十字架で命を捨てられたのは、それを再び受けるためであったからです。ただ十字架で死なれたのではなく、そこから再び命を受けられて復活されたことによって、死の力に勝利しておられるのです。
主イエスが再び命を得られたように、私たちにもその命が与えられるのです。父なる神との愛の交わりの中にある羊飼いに導かれる時に、私たちは命の恵みを豊かに受けることになるのです。
主イエスは、16節に「この囲いに入っていないほかの羊」とキリストに養われていない群れ、すなわち教会に属していない人々も気にかけておられます。門であるご自身を示して、ここから入るようにと、救いに至る道を示し続けておられるのです。
主イエスの十字架による救いの御業は、キリストの群れの交わりの中にいない者のためにもなされたものであり、主イエスは、そのような人々も救いあげようとしておられるのです。
教会の交わりの中にいない、まだ救われていない方々の中から一人でも多くの方々が、この幸いなるキリストの救いに与れますよう、お祈りを致しましょう。
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