主イエスの新しい掟

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌151番
讃美歌532番

《聖書箇所》

旧約聖書  レビ記 19章17~18節 (旧約聖書192ページ)

19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

新約聖書  ヨハネによる福音書 13章31~35節 (新約聖書195ページ)

13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

《説教原稿》

本日与えられた聖書箇所は、弟子のユダが主イエスを裏切り最後の晩餐の場を出て行ったところで、残った弟子たちに対して主イエスが最後の教えを語られる所です。主イエスはまず人の子が栄光を受けることについて語られます。そして最後の御言葉として34節で、「あなたがたに新しい掟を与える」とおっしゃっているのです。この掟とは、主イエスご自身が「新しい掟」と言われているように、今まで語られていた掟とは違ったものです。ここで主イエスがお語りになることは、今まで、誰も語ったことの無い、主イエスによって初めて語られるものです。主イエスが語る「新しい掟」とはどのようなものなのでしょうか。主イエスは、それを、一言で「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいます。誰でも、隣人愛に生きることが出来れば素晴らしいと思うでしょう。私たちが生きていく上で心がけるべきことの神髄がこの言葉に集約されているとさえ思われます。しかし、私たちは、そんなことは今更言われなくても充分分かっているとの思いがするのではないでしょうか。私たちは、人を愛し、親切にすると言うことを、倫理道徳として既に子供の頃から耳にタコが出来るほど聞かされています。では、主イエスがお語りになる「互いに愛し合いなさい」と言う掟の、どこが新しいのでしょうか。

主イエスが、どのような状況の下で、この掟について、お語りになったかを考えてみたいと思います。31節と32節で、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」と一寸読んだだけでは、何の意味か良く分からない不思議なことを言われています。

ここの最初に「ユダが出て行くと」とあるのは、丁度、このヨハネ福音書13章の直前の聖書箇所で、主イエスがイスカリオテのシモンの子ユダの裏切りを予告し、ユダが、主イエスを祭司長や律法学者に引き渡すために、主イエスと弟子たちのもとを離れて行ったことを言っているのです。主イエスを十字架につけるための計画が弟子であるユダの手によって開始されたのです。今まさに、弟子ユダの裏切りで、主イエスは十字架と言う悲劇的な死を迎えようととしているのです。しかし、この出来事は、主イエスにとって、決して、悲しむべきことではありませんでした。何故なら、「今や、人の子は栄光を受けた」とおっしゃっています。ここで「人の子」とは、主イエスご自身のことです。弟子に裏切られ、十字架という重い刑罰で殺されると言う、人間的な判断では死刑囚として屈辱の極みと言った死刑執行の出来事が始まろうとしていることを、ご自身が栄光を受けたのだと言われているのです。しかも、ここで「今や」と言われていることから、主イエスが、この特別な時を待っておられたことが伺われます。そして、ご自身が栄光を受けたと言うだけではありません。父なる神もまた、主イエスによって栄光をお受けになったと加えて語られています。これが意味していることは、主イエスの十字架の出来事が、神の御業であると言うことです。神の独り子である、主イエスが、人間の罪の身代わりとなって十字架に架かられて死に、それによって人間の罪からの救いが実現しようとしているのです。これこそが、神様の大きな救いの御計画の実現であるのです。この32節では、神が「栄光をお与えになる」と未来形で書かれて、これから父なる神によって栄光が与えられることが語られています。これは、この主イエスが十字架の死後、復活と昇天によって神から与えられる栄光のことが語られているのです。十字架から復活、昇天へと至る、一連の救いの出来事によって栄光が現され、神の救いの御業が成し遂げられるのです。だからこそ、ユダが裏切ったこの時、主イエスは、ご自身と父なる神の栄光をお語りになったのです。これこそが、神の救いが世界にはっきりと現わされる「新しい時」の到来なのです。「新しい時」が到来し「新しい掟」が実現するのです。

続いて33節で主イエスは、「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と、主イエスが弟子たちのもとを去る時が来たことが告げられます。ここまで、弟子たちは、主イエスと一緒に過ごし、共に歩んできました。しかし、この十字架から先は、主イエスと共に歩むことは出来ないと主イエスははっきりと言われたのです。主イエスは十字架の御業による救いを成し遂げられた後、天に昇られて、もう地上におられないのです。人間の姿を取られた、人となってこの世に来られた主イエスは、栄光をお受けになって、弟子たちと共におられなくなるのです。この「新しい掟」とは、主イエスが側におられなくなり、目の前から主イエスがおられなくなった後で、主イエスに従って行く者たちに示される新しい掟なのです。

十字架上の御業において栄光を受けるということは、弟子たちとの別離を意味します。32節にある「子たちよ」という弟子たちへの呼ひ掛けは、ヨハネ福音書ではここにしか出て来ません。

「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように」とあるのは、少し前になりますが、新約聖書179ページ、ヨハネ福音書7章33節と34節にファリサイ派の人々や祭司長たちが主イエスを捕えようと遣わした下役たちに主イエスが言われた「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」と言われたことを指しています。ここでは、不信仰なユダヤ人たちには、主イエスが言われたことの意味を理解出来なかったことが分かります。それだけではなく、この主イエスの発言を巡って、この直後、筆頭弟子であるペテロの否認の予告へと話が展開するのです。

それでは、ヨハネ福音書特有の弟子たちへの惜別説教の意味は何でしょうか。それは、世の人々を救うために、この地上に遣わされた主イエスが、もともと存在されていた天に栄光の帰還をされるということなのです。弟子たちに別れを告げ、彼らを世に残して行くことを悲しまれますが、弟子たちだけにしてしまうのではありません。主イエスは弁護者(パラクレートス)である「聖霊」を遣わしてくださり、弟子たちと共に居らせ、弟子たちにすべてを教えて、主イエスが地上で言われたことを思い出させるのです。それだけでなく、この聖霊の派遣こそが共同体である教会の中に主イエスご自身が再び共に居られるということなのです。

そのような主イエスによって暗示される十字架の出来事を踏まえつつ語られるのが「互いに愛し合いなさい」と言う掟なのです。続いて34節と35節で、主イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と語られました。

主イエスが、「互いに愛し合いなさい」と言われる時、抽象的に愛を教えようとしているのではありません。「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、ご自身が愛に生きて下さり、その具体的な愛と同じ愛をもって弟子たちが互いに愛し合うようにとおっしゃっているのです。

では、この主イエスの愛を弟子たちが生きるとはどういうことなのでしょうか。それは本日お読みした箇所の直前の聖書箇所に記されています。主イエスが、最後の晩餐の席で、弟子たちの足をお洗いになりました。人の足を洗うと言うのは、ローマ時代では奴隷の仕事でした。主イエスは、自ら弟子たちの僕のお姿となって仕えることを通して愛をお示しになったのです。この弟子たちの足を洗う出来事は、明確に主イエスが向かわれようとしている十字架の出来事を指し示しています。主イエスが僕となって弟子たちの足を洗って下さったとは、神の独り子でありながら、十字架で人々の罪を担って死んでくださることを示しているのです。この時、まだまったく、主イエスの十字架のことを聞かされても分からなかった弟子たちに向かって、足を洗うことを通して、人々に仕える神の愛を教えておられたのです。主イエスは弟子たちの足をすべて洗い終わった後、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」とはっきりと弟子たちに告げられています。

これは、互いに愛し合いなさいと言われる主イエスの「新しい掟」と重なります。主イエスが、十字架で命を犠牲とすることによって僕となり愛を示してくださった。その愛を受けた者は、互いに足を洗い合うように、隣人の罪を担い、赦し合いながら歩む者とされるのです。それは決して簡単なことではありません。自分の罪に気付かず、自分のことを棚に上げて、他人の罪を裁こうとするのが私たちの常ではないでしょうか。まして、自分に対する隣人の罪を赦すことなどなかなか出来るものではありません。罪を赦し、愛に生きると言うことは、私たち自身の力では出来ないのです。ただ、主イエスが自ら愛を示し、私たちを愛し、語られる掟に見習い、従うときに実現出来るのです。

「わたしがあなたがたを愛したように」主イエスが示して下さった互いに僕となって、互いに愛し合う。

ここにこそ、主イエスの「新しい掟」があるのです。

例えば、主イエスが、ただ「互いに愛し合いなさい」とだけ語られたとしたならば、それは、私たちが自分の内にある愛によって、隣人を愛すると言うことになるのではないでしょうか。しかし、そのように自分の行いによって愛すると言った行為は、どこかで、自分に対する誇りを生みます。自分の栄光を求めようとするようになるのです。そこでは、自分を誇り、隣人を蔑み裁くような歩みが生まれます。主イエスが「互いに愛し合いなさい」という掟に、「わたしがあなたがたを愛したように」と言う言葉が加わっていることによって、この掟は、主イエスによって愛された者が、その愛に応えつつ、その愛に生かされていくための指針になるのです。それは、自分の努力や業によって救いを得ようとするための掟ではなく、主イエスによって愛され、主イエスによって赦された者として、その愛に生かされていく道を示す掟です。その掟によって歩みを導かれていく時、私たちは主イエスによって罪赦された者として、人々の罪を赦し、その罪を担って行く者とされて行くのです。私たちは、主イエスの愛が示されている十字架への道を見る時、自らが、主イエスを裏切る者でしかない現実を知らされます。しかし、そのような、愛に生き得ない人間の現実の只中で、主イエスが愛に生きてくださったことを知らされる時に、その愛に促されて、そこで示される愛に生きる者とされていくのです。

弟子たちのもとを去る主イエスは、地上に残る弟子たちに「新しい掟」を与えられました。弟子たちがこの「新しい掟」を守り、弟子たちが互いに愛し合うならば、主イエスが地上を去った後にもなお、弟子たちが主イエスの弟子であることがすべての人々に認められるのだと教えられているのです。主イエスのこの愛の掟が“新しい”と言われる理由は、「わたしがあなたがたを愛したように」という点にあるのです。御子イエス・キリストを通して示された神の愛に基づいている点なのです。ここまで聞くと、主イエスの掟の新しさとは、今までまったく聞いたことがないような斬新な教えと言う意味での新しさではないかも知れません。

しかし、この主イエスの「新しい掟」というお考えは、私たちの掟に対する概念を根本から覆し、私たちの生き方に根本的な変化をもたらすような、新しさを持っているのです。私たちは、「戒めとしての掟」を求めます。自分自身の業に生き、自分の努力や、その結果の中に、自分自身に栄光を帰そうとします。そんな自分自身に栄光を得ようとして歩む私たちに、真の神の救いの御業を示しつつ、その神の愛に応答して行く道を示す全く新しい掟なのです。

そして、そのような新しい掟に生きる時にのみ、私たちは、互いに足を洗い合うような、お互いの罪を担いつつ歩む歩みが出来るようになるのです。

この「新しい掟」が私たち人間にもたらす変化を弟子のペトロの姿の中に見出すことが出来ます。36節でペトロは、主イエスの言われたことの意味が分からず、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いかけます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることができないが、後でついて来ることになる」とおっしゃった主イエスに向かって、ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」とまで言い切ります。しかし、そのペトロに対して、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と主イエスは予告なさったのです。そして、実際、この主イエスの予告通りに、ペトロは、主イエスが裁判を受けている最中、主イエスのことを否むのです。「あなたのためなら命を捨てます」と豪語するペトロは、まさに、自分の力で主イエスを愛し、主イエスについて行こうと努力しているのです。しかし、そのようなペトロの努力が続いたのは、主イエスの十字架まででした。ペトロは、十字架で死んでしまわれた主イエスを見捨てて逃げてしまいました。主イエスの行く所について行くことが出来なかったのです。しかし、主イエスはここでペトロに「後でついて来ることになる」とおっしゃっています。これは、ペトロが後に復活の主と出会い伝道者として立てられ、その働きの中でローマから迫害され殉教することを示しているとされています。実に、ペトロは、そのような歩みを辿るのです。しかし、それは、自分の業によって、主イエスに仕えた結果ではありません。主イエスの愛を知らされ、その愛に応答する新しい歩みを始めたことによる結果です。十字架と復活によって救いを成し遂げられた主イエスと出会い、自らの愛の破れと共に、自らを包む大きな神の愛を知らされた時、自分が主イエスのために死ねないどころか、主イエスが自分のために命を投げ出して下さっていることを知らされた時、ペトロはその愛に応える者とされたのです。そこでは、自らの力によって歩み、自分の栄光を求めるのではなく、主イエスの愛に支えられて、自らを捧げる歩みが生まれていったのです。

主イエスが世を去ってしまい、主イエスのところに行けない、そこについて行くことが出来ない弟子たちの状況は、そのまま現代を生きる私たちが置かれている状況です。2000年前のユダヤで、人間となってこの世に来て下さった主イエスは、現代の私たちと共にはおられないのです。

従って、この主イエスの「新しい掟」は、現代を生きる私たちキリスト者に向かって語られているとも言えます。私たちは、主イエスの行かれた場所に行くことは出来ません。しかし、この世にあって、主イエスが語りかけて下さる「新しい掟」によって、主イエスの愛をこの身に受けて生きるのです。自ら十字架に歩まれた、主イエスの愛に倣うのです。そして、そのような歩みが生まれていく時に、私たちは、キリストを証しする者とされます。35節には、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と主イエスが言われています。ここで「皆が知るようになる」の「皆が」と言われているのは、まだキリスト者とされていない人々を指しています。そのような未だキリストに出会ってない人々がキリストを知ることができるのは、キリスト者共同体である教会で、キリストの愛が生きて続けていることによって知るしかないのです。もし、このキリストの愛が生きていないのであれば、ただ戒めとしての掟によって、共同体である教会が、お互いに、自分の栄光を求めながら歩んでいたとしたらキリストの愛である救いは伝わらないでしょう。まして、互いの罪を担うのではなく裁きあいながら歩んでいたとしたら、その群れがたとえ教会の看板を掲げて、そこに人々が集まっていても、伝道が進むことはないでしょう。私たちは、絶えず、主イエスのお語りになる「新しい掟」を聞かなくてはなりません。その掟によって互いに愛し合う時、今、地上におられない、主イエスの愛が、私たちを通して示されていくのです。戒めとしての掟を求め、自分の栄光を求めて歩んでいる私たちに、御言葉を通して掟が新しく語られています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。今日も、この御言葉から、互いに仕え合う新しい歩みを始めたいと思います。

お祈りを致します。

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