主イエスはまことのぶどうの木

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌354番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書  創世記 49章 11~12節 (旧約聖書90ページ)

49:11 彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。
49:12 彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 15章 1~11節 (新約聖書198ページ)

◆イエスはまことのぶどうの木
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

《説教原稿》

本日の説教題は「主イエスはまことのぶどうの木」です。先週の説教題での主イエスは「羊飼い」で、本日は「ぶどうの木」です。両方ともに主イエスを「羊飼い」や「ぶどうの木」に譬えた話です。そして先週の「羊飼い」には「良い羊飼い」と「良い」という形容詞がついていました。そして今日の「主イエスはぶどうの木」には「まことのぶどうの木」と「まことの」といった形容詞が付けられています。

1節には「わたしはぶどうの木」と主イエスがご自身をぶどうの木に譬えられています。なぜ譬えられたのかは、5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあるように信じる者を「あなたがたはその枝である」と言われるためでした。ところが1節にもどると「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とあります。主イエスは、ご自身をぶどうの木に、そして父なる神をぶどうの木を剪定される農夫に、主イエスを信じる者たちをぶどうの枝に譬えられました。ぶどうの木と枝と農夫の関係によって、主イエスと父なる神と主イエスの救いにあずかる者の関係が描かれているのです。枝は、木が地中から吸い上げる養分を得て、果実を実らせます。枝だけでは果実は実りません。ぶどうの枝が、木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、信仰者も、キリストにつながっていなければ実を結ぶことができない上に農夫の剪定を受けないと充分な実を結ぶことが出来ないというのです。しかし、もし、枝が木にしっかりとつながっていれば、その枝は養分を与えられて豊かに実を結びます。5節の後半に、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあるように、信じる者は、キリストとしっかりと結びついていれば、豊かに実を結ぶ者とされるのです。このぶどうの木の譬えは、人々に非常に知られ愛されている聖書箇所であると言って良いでしょう。皆様の中にも、この箇所が好きだという方も多いんではないでしょうか。既に、キリスト者とされている方は、誰しも、キリストとの出会いを与えられ、救いにあずかり、それによって生かされているという思いをもっています。キリストの救いの恵みを知らされて、以前と比べて、はるかに生き生きと積極的に喜んで歩むことができるようになったと思う方もあるでしょう。そのような者たちにとって、このぶどうの木の譬えは、主イエス・キリストと密接に結びついて生きる自らの姿が、非常に良く言い表されている聖書箇所です。

このぶどうの木の譬えは、主イエスと信仰者との関係をイメージ豊かに語っています。しかし、これによって私たちは、主イエスとの関係にだけに注目してしまうんではないでしょうか。1節には、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。主イエスがぶどうの木であり、信じる者が枝であるということよりも先に、主イエスがぶどうの木であり、父なる神が農夫であるということが語られているのです。主イエスと父なる神との関係が先に語られているのです。私たちは、ぶどうの木全体を植え、養い、育てておられる神様を忘れてはならないのです。ここに直接書かれてはいませんが、当然ながら、主イエスは、ぶどう園を管理する農夫である父なる神に植えられた木なのです。だからこそ、その木である主イエスに結びついている枝は、真の命の源である神様からの救いをいただき、養われて行くのです。

そして、主イエスは、ここで、ご自身を、ただの「ぶどうの木」ではなく「まことのぶどうの木」と「まこと」を付けられています。自分こそ、真実なぶどうの木だとおっしゃっているのです。それは、主イエスが、父なる神に植えられた木であり、信仰者を真の命につながらせる木だからに他なりません。私たちの周りには、ぶどうの木、即ち、私たちが実を実らせるために養分を与えてくれそうに見えるもの、自分の人生を豊かにしてくれそうなものがたくさんあります。主イエスは、そのような中で、何が真実なのかを見失ってしまう人間に、父なる神と密接に結びついており、それ故に信仰者が結びつくべき木は誰なのかをはっきりと示しておられるのです。

では、私たちがこの譬えにおいて先ず注目するべき、父なる神の働きとはどのようなものなのでしょうか。そのことが2節以下で記されています。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなされる」。父なる神の働きは、枝を手入れするもの、枝、即ち、信じる者は、神様から手入れされるものなのです。ここで先ず注意したいことは、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」と言われていることです。主イエスとつながっているかどうかということと共に、実を結んでいるかどうかということが重要なことなのです。主イエスが、私こそまことのぶどうの木だとおっしゃる時、単純に、キリスト教こそ、救いに至る道だということを言っているのではないのです。この世には、私たちに人生の実りをもたらしてくれそうな様々な宗教があります。キリスト教を信じる者は救われるが、他の宗教を選択した人は救われないということを示すために、この譬えを語られているのではありません。主イエスにつながり、キリスト者とされていながら、実を結ばないという事態が問題にされているのです。キリスト者とされていながら形式的な信仰に陥ってしまう危険が語られているのです。

農夫である主なる神は、その実りのない枝を取り除かれ、実を結ぶ枝が更に豊かに実るように手入れをするのです。つまり、農夫である父なる神は、ぶどうの枝を良い枝と悪い枝に分け、実りのない枝を取り除きつつ、実を結ぶ枝がより一層豊かに実を結ぶように剪定されるのです。

しかし、この言葉には注意を要します。私たちの中のある人が、実りをもたらさない枝で、ある人は実りをもたらす枝であると言うように、取り除かれる人と、そうでない人の二つのグループに分けられるのだと考えてはいけません。

そうではなく、どのような人でも、一人の人間の内側に、実りをもたらさない枝と、良い実りをもたらす枝を持っているのです。その実りをもたらさない枝は、私たちの罪とも言えるでしょう。父なる神様は、そのような部分を取り除き、私たちが、良い実を結ぶことが出来るように養って下さっているのです。

では、父なる神の手入れは、どのようになされるのでしょうか。続く3節では、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」という主イエスご自身の言葉が記されています。信じる者が御言葉によって清くされていることが語られているのです。この「清くする」という言葉は、2節で農夫が実を結ぶ実の手入れをなさると言う時の「手入れする」という言葉と同じ言葉なのです。即ち、農夫である父なる神の手入れは、信仰者が御言葉に聞き、それに生かされる、信仰者が御言葉によって生きる時に実現するのです。神様の手入れは、主イエスの御言葉を通して実現するのです。主イエスの御言葉は、農夫が果実を実らせるために剪定するように、真の実りをもたらすように、私たちを剪定するということです。キリスト者は、剪定されることなく、豊かな実りをもたらすことは出来ないのです。御言葉に聞くと言うことは、私たちの中にある真の実りを実らせない罪の部分が取り除かれ、実りある枝が伸ばされて行くことです。このことが語られた上で、4節以下で、まことのぶどうの木である主イエスとその枝である信じる者の姿が語られていくのです。主イエスにつながっていることによって、キリスト者は、御言葉によって剪定されるという形で、父なる神の手入れを受け清くされ、豊かな実を結んで行くのです。

この、ぶどうの木の譬えは、旧約聖書にも出てきます。イザヤ書や詩篇に、ぶどう畑が登場します。これは、 イスラエルの民の姿を歌ったものです。旧約聖書918ページの詩篇80編9節から16節をお読みします。

80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。
80:10 そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。
80:11 その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。
80:12 あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。
80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
80:14 森の猪がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。
80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
80:16 あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。

ここでは、イスラエルの民をぶどうに譬え、植えられ世話をされ、一旦は大きく成長したにもかかわらず、その地は侵略され続けていることが歌われています。この譬えにおいて、ぶどうは、旧約における神の民イスラエルです。旧約聖書においてぶどうの譬えが語られる時、共通していることは、神の民イスラエルが、主なる神の守りの内にありながらも、そこで実らせるべきぶどうを実らせても神様に実りを返していない、または実を実らせていないということを示しています。イスラエルの民は、神の民として、主なる神の救いの約束の中を歩んでいた人々でした。しかし、彼らは、救いの約束にあぐらをかいてしまったのです。そして、自分たちの力で神様の救いを獲得できると考えたのです。そのような中で、人間の業によって神様の救いを得ようとする態度が生まれたのです。そして、自分自身を誇り、他人を裁きながら歩んでいったのです。この旧約聖書が語るイスラエルの民の姿勢は、この世で信仰者が陥ってしまう可能性があるものと言わなければならないでしょう。御言葉によって清くされキリスト者とされていながら、絶えずその御言葉に聞き、その前で自らが変えられて行くことがなされなくなってしまったとしたら、それは、真に神様の救いにあずかっていると言うことにはなりません。

主イエスの御言葉は、罪の中にある人間に対して、いつも悔い改めの思いをくださり、罪の部分をとってくださいます。ここで、御言葉と言うのは、ただ、主イエスがお語りになった教えと言うだけでなく、主イエスの言葉、行い、人格、全てを指します。それは、主イエスが、人となってこの世に来て下さり、十字架にかかって人間の罪を贖い、復活によって、罪のために死の支配の中にあった私たちを命に生きるものにして下さったということです。言葉だけでなく、主イエスのすべてを通した語りかけを聞く時に、私たちは、自分自身の罪を知らされるのです。そして、その罪が赦されているという恵みの中で、自分の思いにのみ従って生きていこうとする罪を取り除かれて、神様の下に立ち返り、神様の御心に生かされて行くのです。真の赦し、救いを知らされる時、私たちは自らを悔い改め、新しい命に歩み出さずにはいられないのです。私たちは、常に、御言葉に聞き、そこから生じる、悔い改めによって、自分自身が変えられていかなくてはならないのです。そのことによって、主なる神が与えて下さる真の命に生きることこそ、私たちの豊かな実りなのです。これ以外に、私たちが真の実りを得ることはありません。御言葉によって、変えられて行くことによってのみ罪からの解放があるのです。6節には、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と語られています。主イエスとの交わりから離され、キリストの救いの恵みが及ばない所には、主なる神の裁きが臨むことになるのです。

このヨハネ福音書に用いられている象徴的な、15章「まことのぶどうの木」の「まことの」や10章「良い羊飼い」の「良い」という表現は、ヨハネ福音書の特徴的な言葉です。「羊飼い」や「ぶどうの木」といった表現によって主イエスを他の多くの宗教者や救済者と区別し、救いが主イエスによってのみしかないことを強調し、救いの独自性を強く語っているのです。

私たちが神様の恵みを感謝する時、それは、この世における成功であったり、社会的な高い地位であったり、充実した豊かな暮らしというような、人間の清く正しい立派な行いではないでしょうか。そのような人間の価値観によって考えられる豊かな実りのみが求められる時、キリスト者とされていながら、キリストを自分の思いに従わせ、自分の願う範囲で人生を豊かにしてくれる、自己実現の手段としてしまうことも起こって来るのです。その時私たちは、自分の力で養分を吸い上げることが出来るぶどうの木であるかのように錯覚してしまうのです。そこでは、キリストの御言葉が、自分の都合に合わせて剪定出来る枝のようなものになってしまいます。

私たちは、ぶどうの枝であることを忘れて、自分自身がぶどうの木であるかのように思い違いをしてしまうことがあります。自分で養分を吸い上げ、豊かな実を実らせようと自立しているぶどうの木であるかのように考えてしまうのです。私たちは、ただ、自分がぶどうの枝であることを知り、ぶどうの木である主イエスにしっかりと結びつかなければなりません。御言葉によって剪定され、自分本位の実りへの思いが打ち砕かれて行くことによってのみ、真の実を結ぶ者とされるのです。主なる神は、今日も、主イエスの御言葉を通して、私たちを清くしようとしておられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。この御言葉に聞きつつ、御言葉に剪定され、清められて行くときこそ、自分の力で神の御前に立とうとするのではなく、とうてい神様の前に立てない者が、キリストによって生かされていることを知らされるのです。

主イエス・キリストによって与えられる命を受けつつ歩んで行く所に、真の実りが生まれて行くのです。それは、私たちの滅び行く命を超えて、真の命に通じて行く、確かな実りなのです。主の御言葉に生かされて、今日も新たな歩みを始めたいと思います。

お祈りを致します。

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あなたは宝の民

成宗教会副牧師 藤野美樹

聖書:ヨハネによる福音書 15:12~17、申命記7:6~11

私たち夫婦が、この成宗教会に赴任して、2ヶ月が経とうとしております。雄大牧師と、成宗教会に赴任してまだ二ヶ月か、もう二年経ったような気がするね、と言っていました。というのも、この二ヶ月は、いろいろなことがぎっしりつまった二ヶ月間でありました。並木牧師から引き継ぎ、受難節、イースター礼拝、定期総会、納骨式、墓前礼拝、そして、ひとりの姉妹の信仰告白式を行うことができました。家族のようにホットする雰囲気の教会の方々にいろいろ教えていただきながら、牧会をすることができており、とても感謝しております。

二ヶ月前、成宗教会にどんな方々がいらっしゃるのかも知りませんでした。でも、今では毎週お会いして、ともに礼拝を守り、祈り合っております。二ヶ月前には想像もつかないことでした。この成宗教会に赴任したことに、神様の不思議なお導きを感じずにはいられません。

教会というところには、さまざまな人たちが集まっています。年齢も仕事も境遇も教会へ通うきっかけも、それぞれ違う方々が週一回集まり、ともに神様のまえにひれふして、礼拝を捧げています。そう考えますと、教会とはとても不思議なところに思えます。

教会とは、一体何でしょうか。

本日読みました、申命記ではこう語られています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民のなかからあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」

教会とは、「聖なる民」の集まりだと言われているのです。ここで言われている「聖なる」というのは、道徳的に清く正しいという意味ではありません。「聖なる民」というのは、「主なる神様のために聖別された」人々、という意味です。私たちは、それぞれ、神様との関係の中で、召し出され、招かれて、いま教会にいるということです。そして、神様は私たちのことを「宝の民」と呼んで、宝のように価値のある者としてくださっています。

しかし、私たちがそのようにして神様から選ばれ、「宝の民」と呼ばれるのは、なぜでしょうか。私たち、教会に集う者たちは、この地上の誰よりも優れているから、選ばれたのでしょうか。7節ではこう語られています。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。

つまり、私たちが選ばれ理由は、私たちの能力、素質によるのではなく、ひとえに「神様の愛」によるのです。神の選びは、人間の側の価値ではなく、むしろ資格のないような者に向けられているのです。それは、この世の価値観とは正反対です。「宝の民」と呼ばれる私たちは、優れたものであるどころか、神様から見たら貧弱な存在です。しかし、神様は私たちを選んで、「神様の宝の民」としてくださいました。

このように、教会というのは、ただ神様の愛によって選ばれた者の集いなのです。

本日お読みしました、もうひとつの聖書のみことば、ヨハネによる福音書にも、この「選び」ということが語られています。15章16節で主はこうおっしゃいます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。」

主イエスは、はっきりと仰います。主が私たちを選んでくださいました。私たちの側には主の選びにふさわしい理由は何もないのです。主イエスが私たちを探しに来てくださったから、私たちは主イエスを知ることができたのです。主の無償の愛が私たちには注がれているのです。

13~15節では、さらに、その主の愛について語られています。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」 

 主イエスは、私たちを「友」と呼んでくださっています。「友」とは、何でも打ち明けたり、共有したりできる間柄です。長く続く友情というのは、利害関係によって成り立つものではなく、利害に関わらず、何でも打ち明けたり、指摘し合ったりできる間柄ではないでしょうか。主イエスは、無償の愛を注いで、私たちの本当の「友」になってくださいました。

主イエスは友である私たちのために、十字架の死によってご自分の命を捧げられました。主の十字架の死によって、私たちの罪は帳消しにされました。それほどまでに、私たちを愛してくださったからです。主が私たち人間のために命を捨てられ、罪を赦してくださったことを思う時、そこには人間の友人関係以上の、もはや私たちには想像できない、深い愛を感じるのではないでしょうか。

主は、私たちとの関係性を僕と主人にたとえておられます。僕つまり奴隷は、主人のことをよく知らず、愛されているかいないかもわからず、ただ主人から命令されたことだけをするのです。でも、私たちと神様の関係は異なります。友となってくださる神様は、私たちにはっきりと、その愛を知らせ、すべてを打ち明けてくださっています。

カルヴァンは15節の注解で、このように言います。「わたしたちは福音のうちに、いわば開かれたキリストの心を所有しており、かれの愛を疑わず、容易に把握できるようにされているのである。わたしたちは、わたしたちの救いの確実性を求めて、雲の上はるかに高く登ったり、深淵の奥底に深く沈み入ろうとする必要はない。福音のうちに含まれているこの愛のあかしだけで満足しよう。」と言っています。

私たちは、福音のみことば、聖書、つまり主イエス・キリストを通して、神様の愛を知らされています。ですから、すこしも神様の愛を疑わず、救いに預かることができるのです。

主が、私たち人間のために、罪を贖うために、この世に降りてきてくさって、十字架の死と復活によって、大きな愛を示してくださいました。ですから、私たちのほうが、がんばって登って行く必要もないし、神様の愛がわからない、難しい、と深淵でもがき苦しむ必要もないというのです。

教会というのは、そのとてつもなく大きな、神様の無償の愛を受けるために選ばれた者が集まるところです。

成宗教会は、今から約80年前、この成田の地で開拓伝道された有馬牧師の家庭集会から始まりました。現在に至るまで、成宗教会は滞ることなく礼拝をずっと守り続け、永遠に変わることのない福音をのべ伝えて来ました。そしてこれからも、福音をのべ伝えて行きます。

教会員の数が減り、伝道が困難なこの時代です。日本の教会はずっと、多くの信仰者が与えられるように祈り続けてきました。それでも、クリスチャンの人口は減っており、もともと1パーセントと言われていましたが、もう1パーセントを切ってしまいました。

アメリカ留学中には、いろいろな国の生徒がいました。アメリカや韓国、中国、エチオピア、ナイジェリア、どの学生も口を揃えて、日本のクリスチャンは少ないと聞いているけれど、伝道が進むように祈っているよ、と言ってくれました。

でも、考えてみると、伝道が困難なこの日本のなかで、私たちはクリスチャンとして生きております。その少ない1パーセントのなかに入れられているのです。神様が私たちを選んでくださったのです。この成宗教会が成田の地で開拓伝道を始めて、約80年間の伝道の業によって、いまここに私たちは呼び集められました。これは、「実り」であると言えるのではないでしょうか。主はおっしゃいます。

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。

ここでは、主イエス・キリストにつながって、祈り求めるのなら、父なる神様は必ず実りを与えてくださると言われています。15章のはじめには、ぶどうの木のたとえが語られています。ぶどうの木は、枝が幹にしっかりとつながって養分がたっぷり行き渡り、しっかりと剪定されれば、おいしい実が実ります。

教会は、このぶどうの木のようなものです。父なる神様によって剪定された、つまり選ばれた枝である私たちは、主イエス・キリストという養分たっぷりの幹につながっていれば、必ず豊かな実を結ぶことができるのです。

私たちは、教会に集い、礼拝で福音のめぐみに生かされています。それは、教会が今までなしてきた、大きな実りということができるのではないでしょうか。そして、そのぶどうの実は、だれかに食べられて無くなってしまうものではなくて、これからも残るものです。私たち、ひとりひとりのうちに永遠の命の御言葉として残ると同時に、教会がこれからも実りを生み出していくという意味においても、永遠に残っていくものです。

そのとき、教会に、神様の無償の愛により任命され、選ばれた私たちには、求められていることがあります。しかも、主はそのことを繰り返し、何度も何度もおっしゃっておられます。それは、この神様の愛にとどまりつつ、「互いに愛し合う」ということです。神様から受けている大きな愛を、互いに持ちながら、互いに愛し合いつつ、全員で協力して、教会を立てていく必要があるのです。