思い出す

2月の説教

聖書:ヨハネによる福音書2章13-25節

説教者 藤野雄大

「イエスが死者の中から復活された時、弟子たちはイエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」(ヨハネによる福音書2章22節)

 

本日与えられました新約聖書の箇所は、ヨハネによる福音書の2章13~25節までの箇所です。この内、22節までの部分は、新共同訳聖書では「神殿から商人を追い出す」という表題が与えられています。主イエスが、エルサレムの神殿から商人たちを追い出すという、いわゆる「宮清め」と言われる出来事が記された箇所です。この出来事は、全ての福音書に記されているものですが、特に、ヨハネによる福音書では、神殿で売られていた牛や羊、鳩などの家畜と、両替商の描写、またイエス様が縄で鞭を造られたことなど大変細かい所まで書き記されているのが印象的です。

神殿で商売をしていた人々を突然に追い出す。主イエスは、なぜ、このようなふるまいをなさったのでしょうか。この宮清めの箇所を始めて読むとき、主イエスの激しい怒りに戸惑いを覚える方もおられるかもしれません。主イエスが、お怒りになったのは、神聖な神殿の中までも、入り込んできて金儲けをしている商人たちの強欲さに対してである。そのように理解されることもあります。しかし、ユダヤ教の律法からすると、このような神殿における商売は、全く合法のものでした。なぜなら、これらは神殿における祭儀に必要なものだったからです。たとえば家畜の取引についてですが、律法の教えに従って、参拝者は、神殿に参拝する際に、家畜をいけにえとしてささげられることが定められていました。

本来であれば、自分の所有する家畜を捧げることになっていましたが、多くの人がエルサレムの町だけではなく、イスラエル全土から、長い旅をして神殿にやってきます。そのため、長い旅の中で、家畜を連れてくるというのは、不便極まりないことでした。そこで、神殿において、いけにえとしてささげるための家畜を売る者たちが求められたのです。

一方、両替商というのも、また律法の規定に従って存在していました。現在の日本の紙幣などにも、福沢諭吉などの偉大な歴史上の人物が記されておりますが、当時、イスラエルを支配していたローマ帝国では、最高権力者である皇帝の顔がコインに記されていました。そして、皇帝は、ローマ帝国内では、しばしば神に等しい存在として理解されていました。そのようなコインを神殿にささげることは、神は唯一であると信じるユダヤ人とっては、偶像崇拝であり、律法にも背くことと理解されました。そのため、ローマ帝国で一般に通用していた硬貨を、ユダヤ教の律法に適った特別な硬貨に両替する商人が、神殿に必要とされたと言われています。

要するに、当時、神殿に家畜を売る人や、両替商がいることは合法的であり、当たり前の光景であったということです。宮清めの出来事を読むときに、私たちは、イエス様が、強欲な商人たちが、神殿に入り込み、勝手に商売をしていることをお怒りになったと考えがちです。ところが実際には、彼らの商売は、むしろ神殿での祭儀に欠かせないものであり、強欲とは言えないものだったのです。

しかし、そうだとすれば、なぜ主イエスは、これほど激しい怒りを向けられたのでしょうか。ヨハネによる福音書は、主イエスが、家畜を鞭で追い払い、両替人の金をまきちらし、台を倒したとありますが、それは非常に乱暴なことのように思えます。そして、それは私たちと同様に、いや私たちが感じる以上に、当時、神殿にいたユダヤ人やイエス様の弟子たちを驚かせ、戸惑わせたことでしょう。なぜなら、彼らは、当時のユダヤ人として、神殿における両替や家畜の売買を日常的な光景として認識していたからです。そのため、18節に記されているように、ユダヤ人たちはイエス様の行動に対して憤慨します。そして、より重要なのは、一般のユダヤ人だけでなく、弟子たちにとっても、主イエスの行動の意味は理解を超えたものだったということです。

ヨハネによる福音書は、この宮清めの出来事を、弟子たちの証言、弟子たちの回想とたくみに結び合わせています。それは、17節で、主イエスの言葉を受け、弟子たちは「あなた家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と聖書に書いてあるのを思い出し、さらに、22節では、「イエスが死者の中から復活された時、弟子たちはイエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」と記されております。

この内、17節の言葉は、少し分かりづらいですが、この言葉は、主イエスが商人たちを追い出された時に、弟子たちが「ただちに」聖書の言葉を思い出したというのではなく、主イエスの復活の後に、弟子たちが改めて思い出したということだそうです。そして、22節の箇所では、はっきりと、この時ではなく、主イエスが復活された時、はじめて、この出来事を思い出したと記されています。

つまり、弟子たちは、主イエスの復活の出来事を経験することで、はじめて、この時、主イエスが語られた「三日で神殿を立て直して見せる」という言葉の本当の意味を理解したということになります。神殿とは、人間が作った建物ではなく、真の神である御自身の体そのものを指していたのだということを、弟子たちは、復活の出来事を通してはじめて悟ったというのです。

宗教改革者のカルヴァンは、この17節、あるいは22節の解説の中で、次のように語っています。「神のわざの理由は、必ずしもすぐに明らかになるものではなく、そののち時が経つにつれて、神はわたしたちに、その意味を明らかにするものである。」さらに、このようにも語ります。「弟子たちは、キリストがそれを言った時には、何も理解しなかった。しかし、そののち宙に消え忘れ去られたと見えたこの教えが、時が来てその実りを結んだのである。だから、キリストのおこないや言葉の内に、差し当たって理解できないことが多くあるとしても、そのために絶望して、すべてをあきらめ、即座に理解できないものをなおざりにしてはならない。」

 

ここでカルヴァンが語っているのは、一言で言えば、信仰の成長ということができるでしょう。聖書の言葉は、私たちが読んですぐに理解できることばかりではありません。いや、むしろすぐに理解できることの方が少ないものです。しかし主イエスの教えは、その時、理解できなくても、私たちの心に種となって残ります。そして、時が来た時、はじめてその言葉は、花開くことになります。その時、私たちは、聖書の言葉の意味をより深く悟り、それによって、信仰が一層成長するということが起きるのです。

弟子たちは、主イエスが神殿から商人たちを追い出された時、その意味を悟ることはできませんでした。また、その時に主イエスが語られた、神殿を「三日で建て直してみせる」という言葉の意味も理解することはできませんでした。しかし、主イエスの復活の出来事を通して、弟子たちは、かつて主イエスが語られた言葉の本当の意味を正しく理解するに至ったのでした。

このことは、私たちの信仰生活にも当てはまるのではないでしょうか。私たちの信仰の歩みの中でも、様々な予測もできない出来事、理解を超えた出来事に直面します。そのような出来事に直面する時、私たちは戸惑い、信仰が動揺させられることも起こり得ます。なぜ神はこのようなことを私になさるのだろうか。そのように問わざるを得ない時もあるでしょう。

しかし、今は理解できなくても、やがて、そのことの意味が明らかになる時がやってきます。その時、私たちは、弟子たちと同じように、聖書に記された主イエスの教えを思い出し、一層信仰が増し加えられ、神を賛美することになります。どのようなことが起きようとも、聖書の言葉を信頼し、神の御心を信じて、信仰生活を送りたいと願います。

祈りましょう。