【聖書箇所】
詩篇 30篇2~13節 (旧約聖書860ページ)
30:2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。
30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。
30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。
30:5 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
30:7 平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
30:8 主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。
30:9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
30:10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
30:11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
30:13 わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。
ヨハネによる福音書 20章1~18節 (新約聖書209ページ)
◆復活する
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。◆イエス、マグダラのマリアに現れる
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
《説 教》
今日はイースターです。主イエスが私たちの罪のために十字架に架かって死なれて3日目によみがえった、復活されたことをお祝いする『復活祭』です。それを英語でイースターと言います。
イースター(復活祭)は、キリスト教の三大祭りのイースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)、そしてクリスマス(降誕祭)の中でも最も大切なお祭りです。一番大切なイースターお祝いの日が、新型コロナウィルス感染症の世界的流行から、このように人が集まってはいけない状態で礼拝をお捧げすることとなったのは、ここに人間の思いを越える神の御意志を思わざるをえません。皆様と共におめでとうとお祝いの言葉を交わせないのは残念ですが、共に感謝と願いの祈りを致しましょう。
さて、今日は先ほどお読みした少々長い聖書箇所から主イエスの「復活」について考えてみたいと思います。
そのためにヨハネ福音書を少し前まで遡って、主イエスのご受難、十字架の経過を少し振り返って見たいと思います。
ヨハネ福音書17章で主イエスが弟子たちを連れられてゲッセマネで父なる神様に血の滲む祈りを捧げられました。すると、ユダに先導されたユダヤ教の宗教指導者の差し向けた兵士たちや大勢の群衆に主イエスは捕まえられました。そして、ユダヤ教の大祭司カイアファのもとで尋問を受け、続いて、ローマ帝国の総督ピラトから裁判を受けられたことが書かれています。そして、総督ピラトによる裁判によって、主イエスに何の罪をも見いだせなかったものの、ユダヤ群衆から異常な圧力を受けた総督ピラトは自分の意志に反して、主イエスに死刑の判決を下します。
そして主イエスは十字架につけられ、直前の鞭打ちの苦しみや痛みも相まって6時間ほどの短い時間で息を引き取られました。その主イエスの亡骸をアリマタヤのヨセフが引き取り、自分のために準備した新しい墓に主イエスのご遺体を葬り大きな石で墓の入口を塞ぎました。そして、過越祭の終わった三日目の朝に、マグダラのマリアが、その主イエスの墓に行ったところからが、本日の主イエスの復活の聖書箇所です。
因みに、新約聖書の中には主イエスが様々な奇蹟を行われる記事があります。中でも主イエスが死んだ人を生き返らせる奇蹟物語は有名で、皆さんもよくご存知ではないでしょうか。なかでも、ルカ福音書7章の「ナインのやもめの息子のよみがえり」、マルコ福音書5章の「会堂長ヤイロの娘のよみがえり」、そして、このヨハネ福音書11章の「ラザロのよみがえり」の3つの死からのよみがえり、奇蹟物語がよく知られています。これらは、主イエスが死人を生き返らせた奇蹟物語ですが、これらは今日の主イエスご自身の「復活」とは、まったく違うのです。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書には、それぞれ特徴があります。
例えば、マルコ福音書では、主イエスがお生まれになった降誕物語、クリスマスの記事を省略しています。ヨハネ福音書では、その主イエスのご降誕を抽象的な表し方をしています。しかし、この主イエスの「復活物語」を省略する福音書はありません。四福音書すべてが必ず主イエスの復活記事を書いていることからも、聖書にとって主イエスの「復活」が極めて重要な物語であると理解できます。主イエスの復活こそが、キリスト教の中心テーマであり、最も大切な主イエスによる救いへと繋がっているのです。
四福音書すべてに記されている主イエスの復活物語ですが、それらの記事は通常二つの形に分けられます。一つ目は、主イエスのご遺体が墓の中にはないことを記し、間接的に主イエスの復活を物語る「空の墓物語」です。そして、二つ目は、復活の主イエスが弟子たちに御姿を現されたことを記す「顕現物語」です。
今日のヨハネ福音書は、「空の墓物語」の延長線上にマグダラのマリアへの復活の主イエスの「顕現物語」を加えた丁寧で詳細なものとなっています。
本日のヨハネ福音書20章をご覧になると、1節に「週の初めの日」とあります。これは、金曜日に十字架に死なれ、葬られた主イエスの復活の日の朝のことで、日曜日です。この日曜日の朝に主イエスの墓を訪れた者として、マタイ・マルコ・ルカ3つの共観福音書が複数の女性たちの名前を挙げているのに対し、このヨハネ福音書はただひとりマグダラのマリアにだけ焦点を当てています。ただ、2節のマリアの言葉が「わたしたち」と複数形となっていることを文字通りに受け取れば、墓を訪れたのは複数の者たちであったと暗示されているとも思われます。
このヨハネ福音書ではマリアが墓へ行った理由は記されていませんが、共観福音書によると、それは過越祭の前の十字架刑のために急いで葬られた主イエスの未完成に終った葬りを完成させるためであったと思われます(マコ16:1)。空の墓を発見したマリアは、2節にあるように、ペトロと主イエスが愛されたもう一人の弟子のところへ、急いで墓が空であることを告げ知らせに行きました。
まだこの段階ではマリアの中で空の墓の事実と復活信仰とは結び付いていないことが文面から分かります。マリアは主イエスが復活されたとはまったく考えてもいませんでした。3節以下に続くペトロともう一人の弟子に関する記事では、主イエスの愛しておられた弟子が大変目立ちます。墓へ先に着いたのもこの主イエスが愛しておられたもう一人の弟子であり、「見て、信じた」と明言されているのも、この主イエスの愛された弟子でした。
7節の「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」と書かれている部分は大変分かり難いと言えましょう。他の聖書箇所にも出て来ますが、復活の栄光の主イエスの体が壁や扉をすり抜けられたりしていることから、復活の主イエスの体は人間としての姿とは大きく異なることが分かります。また、誰かが遺体を包んだ布をわざわざはがして遺体を持ち去ると言うには大変不自然な状況と思われます。先程も触れましたが、8節の「見て、信じた」とは、不思議なことに何を信じたのかよく分かりません。次の9節の「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」という文脈から読み取ると、主イエスの復活を信じたのではなく、マリアの言ったこと、墓が空であることを信じたということになってしまいます。
しかしヨハネ福音書では、この「見て、信じる」という言葉を繰り返し信仰的に使っています(2:23、4:48、6:30、36、40、20:8、25、27、29)。そのことから、その主イエスの愛された弟子をペトロや他の者たちよりも先駆的な者とし、空虚な墓を見るや否や恐らく復活の主イエスを信じたと解釈する方が自然と思われます。この「見て、信じた」とは、主イエスの復活を信じる信仰告白を意味していると思われます。
このように主イエスの復活の様子は、四福音書それぞれの記事によれば、先ず空の墓が発見され、主イエスの亡骸がなくなっていたこと、その次には天使による御告げがあります。これは主イエスの復活は天の上から行われたことを意味します。そして、最後に復活の主イエスの顕現、人々の目に見えるお姿でマグダラのマリアだけでなく弟子たちを始め多くの人々に姿を現されたということが記されています。
マグダラのマリアが再び墓に来て見たものは、「二人の天使」でした。このヨハネ福音書の天使は、マリアに対して主イエスが復活されたとの事実を話してはいません。そして、マリアはこの時点では主イエスの復活を信じられず、誰かが主イエスのご遺体を持ち去ったと考えていました。11節にあるようにマリアは墓の中に主イエスが未だおられるのではないかとのぞき込みました。その時復活の主イエスはマリアの後ろに立っておられました。何と驚いたことにマリアはそのお姿を見たけれど、それが主イエスであるとは気付かなかったとあります。
この不思議な話はルカ福音書24章のエマオ途上の二人の弟子にも起きたと記されています(参照ルカ24:16、31)。マリアが主イエスに気付かなかった理由は記されていません。泣いていたので涙に曇ってよく見えなかったのかもしれません。あるいはまた主イエスが死なれたという事実が余りにも強烈で、主イエスがよみがえって自分の前に姿を現すなどとはまったく思いが及ばなかったのかもしれません。あるいは復活の主イエスの体は栄光の体だったので、まったく別人と思い認識することが出来なかったのかもしれませんが、それにしては園丁だと思ったとあるので、光り輝く栄光の体とも思えません。いずれにせよ、羊がまことの羊飼いの声を知っているように(ヨハ10:3‐4)、主イエスの「マリア」と言われたの呼び掛けにマリアは目を開かれます。これは、主イエスの呼び掛けによって、ただそこに誰か人がいるという認識から、復活の主を信じる信仰へと目覚めていったことを表しています。
マリアは主イエスを見ていたのですが、主イエスがご自身がマリアに呼び掛けられるまでは主イエスを「見て信じて」いなかったのです。信仰の眼をもって主イエスを見てはいなかったのです。
17節に「わたしにすがりつくのはよしなさい」との不思議な言葉があります。なぜ、マリアは主イエスにすがりついてはいけないのでしょうか。
ルカ福音書には、「マグダラのマリア」はよく登場します。7章では主イエスに高価な香油を注いでその御足を涙をもって髪の毛で拭った「罪深い女」として、また8章では、主イエスによって7つの悪霊を追い出していただいた女性だと記されています。多くの苦しみや悩み悲しみ、病を、主イエスによって慰められ、解決され、癒されたのでした。
それ以来、マリアは、主イエスに付き従って旅をするようになりました。主イエスのことを最も慕う女性の一人でした。主イエスが十字架で処刑され、弟子たちも逃げ去っていった中で、主イエスが息を引き取られる最後まで見届けました。そして、日曜日の朝早く、押え切れない気持で、墓へ行ったのです。ペトロともう一人の弟子が、空っぽの墓を見届けて、帰って行った後も、マリアは、その場に留まっていたのです。泣きながら主イエスを探し回ったのです。そして、ついに、自分の後ろに立っておられる主イエスに気づいたのです。マリアが主イエスにすがりつくのは無理もないでしょう。そのマリアに、復活した主イエスは、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われるのです。どうしてでしょうか。もちろん、主イエスが意地悪を言われる訳ではありません。何か訳がある筈です。
それは、すがりつくほどの思いは分かる。けれども、そのすがりつくような信仰から離れなさいといった主イエスの親心ではないでしょうか。2年前まで学んでいた東京神学大学の講義でも聞いたことがありましたが、神様を信じる信仰には、“サル型”と“ネコ型”があると言われています。サルは自分の子供を運ぶ時、子ザルを母ザルのお腹にしっかりとしがみつかせます。母ザルが自分の手で子ザルを抱えることはありません。子ザルは掴んでいる手を離したら終わりです。従って、サルの子供は必死で母ザルにすがりつくことになります。
一方、ネコの子供は移動する時、母ネコが子ネコをくわえて運びます。子ネコはすがりつこうにも四本足共にブランブランです。力を抜いて、お母さんにお任せなのです。神様を信じる信仰も、サルの子のように自分の力でしがみつく信仰と、ネコの子のように神様にお任せしてしまうお委(ゆだ)ねする信仰とがあると言えます。私たちの信仰は、自分の力で必死にすがりつくような信仰ではなく、神様を信頼し切って、安心して自分のすべてを神様にお委(ゆだ)ねできるような信仰へ変えられなければならないのです。
自分からすがりつく信仰は頑張らなければならない信仰です。一生懸命努力しなければならない信仰です。それでは、疲れます。いつも自分の方からすがりついていなければならない。自分が手を離したら終わりです。信仰のために自分が、頑張らなければならない。善い行いや努力をしていないと、神様に愛してもらえない、見捨てられてしまうのではないだろうか。そんな不安が心の中に大きな場所を占めます。その結果、自分は神様に愛されていないのではないだろうか、見捨てられてしまうのではないだろうか、と不安になっていないでしょうか。教会での奉仕や良い行いが充分にできれば安心できます。しかし、教会での奉仕や自助努力が足りないと思うと落ち込んだり、不安になってしまうのではないでしょうか。頑張らないと神様に愛されないと思う人生になっていないでしょうか。もちろん、何事に対しても努力するのは極めて大切です。しかし、努力の結果で、神様が私たちを愛されるのか、愛されないのかが決まるのではありません。神様の愛とは、そんなものではないのです。
あなたは愛されている存在だ。聖書は、私たちに、そのように語りかけます。たとえ善い行いができなくても、何もできなくても、結果が出せなくても、神様はあなたを一方的に愛してくださっている。その手で、しっかりと掴んでいてくださる。だから、私たちは、“良い子でいなければ”と、りきむ力を抜いて、“神様、感謝します。こんな私ですが、よろしくお願いします。”と、神様を信頼し、お任せする。お委ねする。そこに安心が生まれます。喜びが生まれます。
そんな人生の安心と喜びに気づかせるために、復活した主イエスは、マリアの背後から声をかけられたに違いありません。「イエス様はどこ?」「幸せはどこ?」「救いはどこ?」と、必死に追い求めているマリアに、見えない後ろから声をかけられました。私たちの人生には、見えるところだけでなく、見えないところも大切であることを主イエスは語りかけているのです。
ヨハネ福音書での主イエスの本当の栄光とは十字架で私たちの罪のために死なれたことだけではなく、十字架で死なれても復活されて、天に上げられ、天に存在されていることです。14章3節から4節で、主イエスが弟子たちとの夕食、最後の晩餐の時、弟子たちのところへ再び帰って来ると約束されました。これは、十字架から復活された主イエスが父なる神様の御許ヘ上ってゆかれ、そして再びこの地上に来られることなのです。「復活」とは一度死んだ者が再び息を吹き返すという現象、いわゆる「生き返り」や「蘇生」とは全く違います。「復活」とは主イエスが初めてなさった特別な御業です。
主イエスの復活とは、四福音書と第一コリント15章に記されている合計10回に上る顕現物語です。それら一つ一つの記事は、それぞれが独立して多様性を持っています。後代に調和させたとは考えられません。主イエスが復活されたという主要な点においてはすべての記事が一致しています。また、それらの記事の中で多くの人々に現れた状況や、主イエスの十字架を見て逃げ去ってしまった弟子たちが復活の主イエスに出会って大きな変化が起きたことは否定できません。一番弟子のペトロでさえ、主イエスから「鶏がなくまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われ、その場から逃げ去り、十字架の場面にも登場せず、何と本日のヨハネ福音書21章にあるように、ガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしている時に、復活の主イエスの出会い偉大な伝道者に変えられました。何が弟子たちを逃げ隠れする者から殉教を恐れず大胆に福音を語る者に変えたのか、弟子たちに勇気と確信を与え、力強い伝道者に変えたのは復活の主イエスご自身が伝道の力を弟子たちに与えられたからに他ならないのです。
また、それまでは、ユダヤ人として土曜日の安息日を守っていた弟子たちが、なぜ日曜日の主の日を守り、また聖餐を祝うようになったのか、1節にあるように、この日が「週の初めの日」になったのか。
これらはみな、主イエス・キリストの復活によってなされたものと考えるべきです。バプテスマ(洗礼)は、キリストと共に葬られ、よみがえったことのしるしです。この主イエスの復活は神様の御業なのです。
そして、主イエスがなされたこの復活は私たちにも将来起きる、終末の時にすべての人々に起きる。その終末の時には、生きている人々だけでなく、死んだ人々も復活すると新約聖書は語っているのです。
復活した身体がどんなものなのかについては、聖書では詳しくは語られていません。しかし、主イエスの復活が私たちの救いと密接に結びついていることは、ローマの信徒への手紙4章25節にある様に「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」ということばからも明確に分かります。
私たちの罪を贖うために十字架で死なれた主イエスは復活されて、今も私たちが義とされるため、私たちを罪から救うために生きて働いておられるのです。
復活を信じることは、主イエスを信じる信仰、キリスト教信仰の中心なのです(使2:24‐36、3:13‐15、4:2、10、11、33、5:30、10:39、40、13:27‐38、17:3、18、31、26:23)。神様の恵みである主イエス・キリストの復活なくしてキリスト教信仰はないのです。
この復活信仰は、私たちが努力して身に着け、己の知識とするものではありません。マグダラのマリアに主イエスが呼び掛けられたように、主イエスから一方的に与えられるのです。私たちが主イエスの呼び掛けに応える時に与えられる一方的な信仰の恵みなのです。
新約聖書210ページ、ヨハネによる福音書20章27節に復活を疑う弟子のトマスに主イエスは語られました。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
復活の主イエスは疑い深い弟子のトマスだけでなく、私たち皆に『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛けられているのです。
疑うトマスに優しく呼び掛けられる復活の主イエスは、今も生きて私たちを愛して『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛け続けられているのです。
お祈りを致しましょう。
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・・・ 以 上 ・・・