あの方は栄える

《賛美歌》

讃美歌54番
讃美歌151番
讃美歌238番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 6篇7-11節 (旧約聖書838ページ)

6:7 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
6:8 苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。
6:9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き
6:10 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 3章22-30節 (新約聖書168ページ)

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

《説  教》

今日のヨハネによる福音書と、他の三つの福音書、いわゆる共観福音書との間にはいろいろな点で違いがあります。本日の箇所の冒頭、22節に、主イエスが洗礼を授けておられたと記されています。しかし共観福音書には、主イエスが洗礼を授けたことは何処にも書かれていません。主イエスご自身が洗礼を授けたと語っているのは共観福音書ではないヨハネ福音書だけなのです。また、主イエスと洗礼者ヨハネが同じ時期に洗礼を授ける活動をしていたとも書かれています。この洗礼者ヨハネのことは既に1章に語られていました。彼は主イエスのことを証しするために神から遣わされた人であり、主イエスがこの世に現れることの備えとして洗礼を授けていました。そして主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と記されていました。洗礼者ヨハネと主イエスが同じ時期に活動していたと語られていることも他の三つの福音書、共観福音書とは違っています。例えばマルコ福音書の1章14節では、「ヨハネが捕えられた後(のち)、主イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて…」とあります。共観福音書ではこのように、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって捕えられた後で、主イエスの活動が始まったと語られているので、洗礼者ヨハネと主イエスの活動は重なっていません。しかしヨハネ福音書がこのように洗礼者ヨハネの活動と主イエスの活動が重なっていたことを語り、しかも主イエスも洗礼者ヨハネと同じように洗礼を授けていたと語っていることには、一つの意図があります。本日の箇所は、その意図に基づいて書かれているのです。その意図とは、主イエスと洗礼者ヨハネとを比較して、両者の関係を明確にする、ということです。しかもその関係を、ヨハネ福音書の言葉によって示そうとしているのが本日の箇所なのです。

ここまで聞いて頂いて、お気付きの方もいらっしゃると思いますが、同じヨハネを名乗っても洗礼者ヨハネとヨハネ福音書を書いた福音書記者のヨハネは全くの別の人物ですので、以降は洗礼者ヨハネと洗礼者を付けると長くなるので、単にヨハネと呼ぶ時は洗礼者ヨハネで、ヨハネ福音書記者のヨハネは福音書記者ヨハネと呼びますので、お間違いない様お聞きください。

ヨハネ福音書が書かれたのは、主イエスの十字架と復活、そして教会の誕生から既に五十年以上が経っていた紀元1世紀の終り頃でした。当時のユダヤには、ヨハネの教えを受け継ぐ弟子たちがまだ多く残っていたのです。その人たちはユダヤ人の共同体の中に残ったまま、ヨハネが授けていた悔改めバプテスマ(洗礼)を受けて、神に従う生活を築こうとしていました。その人々の中から、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と信じて主イエスの弟子となる、つまりキリスト教会に加わる人々が現れて来たのでした。しかしユダヤ人たちの間には、イエスを救い主メシアと信じる者をユダヤ教会堂から追放する、という迫害が始まっていたのです。ヨハネの弟子たちはそういう状況の中で、ユダヤ人の共同体つまりユダヤ教に留まり続けるのか、主イエスを信じるキリスト教会に連なっていくのか、という決断を突きつけられていたのです。それが、紀元1世紀の終り頃のユダヤ人たちの置かれていた状況なのです。

ヨハネは27節で、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と言っています。ヨハネのもとに人々が洗礼を受けにやって来たのも、今主イエスのもとにみんなが行っているのも、どちらも天から与えられたこと、神の御心なのだ、とヨハネは言っているのです。神の御心によって人々はヨハネのもとに来て洗礼を受けた、そして今、神の御心によってその人々は主イエスの方へと行っているのです。どうしてそういうことが起るのかが、ヨハネによって28節に語られています。「わたしは『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが…」とあります。1章の19節以下に語られていたように、ヨハネは「わたしはメシアではない」つまり救い主ではない、とはっきり語りました。「ではあなたは何なのか」という問いに対して彼は1章23節で、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えました。メシア、救い主である主が自分の後に来られる。私はその主の道をまっすぐに整えるために先に遣わされた者だ、ということです。ヨハネの役割は、後から来られるメシアである主イエスのための道を備えることなのです。だからヨハネの働きによって、人々はメシアである主イエスを知り、主イエスのもとに行ってその救いにあずかっていくのです。神の御心によってヨハネのもとに来た人々が、主イエスこそ救い主であられるというヨハネの証しを聞いて主イエスのもとに行き、主イエスを信じて救いにあずかっていく、それが神の御心なのです。

28節の後半には「そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」とあります。ヨハネの弟子たちが、師であるヨハネの証しを聞いて主イエスのもとへ行き、その救いにあずかることこそが、ヨハネが自分に与えられた使命をしっかりと果たしていることの証しとなるのです。だから、みんなが自分のところにではなく主イエスの方へ行っているという報告は、ヨハネにとってはむしろ当然のこと、喜ぶべきことなのです。

しかし、ここで主イエスが洗礼を授けていたと語られているのは、歴史的には事実ではありません。主イエスは地上のご生涯においては、神の国の福音を宣べ伝え、神のご支配の印としての奇跡を行い、そして十字架の死による救いを成し遂げられたのです。主イエスを信じて受けるキリスト教の洗礼は、復活なさった主イエスのご命令によって、教会の誕生と共に始まったことです。主イエスによる救いにあずかる群れが洗礼によって結集されていったのはヨハネ福音書が書かれた後代です。ですから、地上を歩まれた主イエスがヨハネと同じように洗礼を授けていたわけではないのです。

29節においてヨハネは、主イエスと自分との関係を花婿と花婿の介添え人という譬えで語っています。「花嫁を迎えるのは花婿だ」というのは、婚礼の主役は花婿だということです。その花婿とは主イエスです。自分は花婿の介添え人だとヨハネは言っています。介添え人は「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」のです。当時の婚礼において、花婿には男性の、花嫁には女性の介添え人がついたようです。今の教会の結婚式でも、花嫁には介添え人がついて、いろいろとお世話をします。しかし花婿には介添え人はいません。特に必要がないからです。当時のユダヤの結婚式だって、おそらく花婿の介添え人には大してすることはなかったのでしょう。「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」ぐらいしかすることはないのです。介添え人はあくまでも脇役です。花婿、主役である主イエスに対して、自分は介添え人、脇役なのだ、とヨハネは言っているのです。

30節の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉もそういうことを意味しています。栄えるべきなのは主役、花婿である主イエスなのであって、介添え人である自分が栄えてはならない、介添え人が花婿より目立ってどうする、介添え人である自分は、むしろ衰えていく、見えなくなっていく、消え去っていくことで、花婿である主イエスの栄光がよりはっきりと表されていくのだ、「みんながあの人の方へ行っています」ということによってまさにそうなるべきである、とヨハネは言っているのです。

さて、ヨハネがこのように自分を花婿の介添え人つまり脇役と位置づけており、「その方は栄え、自分は衰えねばならない」と言っているのを読むと、何だか自分の人生には大した意味がないと言っているようでヨハネが可哀想だと感じてしまうかもしれません。しかしそうではないのです。「介添え人」と訳されている言葉は、直訳すると「友」です。ヨハネは花婿主イエスの友である、と福音書は語っているのです。このことには深い意味があります。15章14-15節には、主イエスのこういうお言葉があるのです。「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。主イエスが弟子たちを友と呼んで下さる、そこに大きな恵みがあることがここに示されています。主イエスの「友」となるとは、独り子なる神、主イエスが父なる神から聞いたことをすべて知らせて下さり、主イエスの命じること、父なる神の御心を行なうことができるようになる、ということです。僕と友の違いもここに示されています。僕はただ命じられたことをその通りにするのであって、主人が何を思い、何のためにこれを命じているのかなどは知る由もありません。しかし友は、主イエスのみ言葉を聞くことによって、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心を知らされるのです。そしてその御心を自発的に行なっていくのです。主イエスの友とはそのように、主イエスの言葉を聞いて父なる神の御心を知り、主イエスと共にそれを行なっていく者です。ヨハネもそういう意味で主イエスの友なのだ、ということを、「花婿の介添え人、友」という言葉に込めているのです。花婿の介添え人が「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」と語られていることが大切な意味を持ってきます。この喜びは、主イエスの友とされた者の喜びです。ヨハネは、主イエスの語る言葉に耳を傾け、主イエスが父なる神から聞いたこと、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心をしっかり聞いたのです。それによって、主イエスこそ来るべき救い主であられることを確信し、喜びに満たされて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのです。このヨハネの姿に、主イエスの友とされた者はどのように生きるのかが示されています。主イエスの友とは主イエスを証しする人です。弟子たちも主イエスの友とされ、証しする者として立てられていきました。1章の6-8節にこのように語られていました。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」。このように、ヨハネを、主イエスの友とされて、主イエスの証しをするというとても大切な働きをした人として、信仰者たちの先駆けとして描いているのです。ですからここに語られているのは、ヨハネは介添え人、脇役に過ぎない、大して意味のない人だ、ということではありません。むしろヨハネは、主イエスの最初の友とされ、主イエスの言葉を聞いて父なる神の救いの御心を最初に知らされた人であり、その喜びを最初に味わった人であり、その喜びに押し出されて主イエスこそ救い主であることを最初に証しした人だったのです。

ですからこのヨハネこそ、主イエスを信じて生きる私たち信仰者の先頭に立っている人です。私たちも、主イエス・キリストのもとに来るならば、このヨハネのようになることができるのです。主イエス・キリストのもとに来ることによって私たちは、自分が神に背いている罪人であり、本来は裁かれ滅ぼされるしかない者であることを示されます。しかしそのような罪人である私たちを、神が愛して下さって、独り子主イエス・キリストを与えて下さり、その十字架と復活によって罪を赦し、私たちが滅びることなく永遠の命を得るようにして下さったことをも示されます。その神の独り子であり救い主であられる主イエスが、私たちを友として下さり、父なる神の愛の御心を御言葉によって知らせて下さるのです。私たちも主イエスと共にその神の愛の御心に従っていくことができるようにして下さるのです。私たちはヨハネと共に、「あの方は栄える」と喜びをもって語ることができるのです。

お祈りを致します。

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