W.ジャンセン先生
《賛美歌》
讃美歌19番
讃美歌499番
讃美歌90番
《聖書箇所》
旧約聖書:創世記1章20-31節
1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
新約聖書:ヨハネ黙示録21章1-7節
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
21:6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
《説教題》
「神の美しい世界」
神様はご自分の栄光を表し、又、私達が祝福を受けられる為に素晴らしい天地を創造されました。創世記第1章31には、その様子が「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と記されています。創世記第1章は、神様を全能の芸術者として表しています。初めに地は混沌としており、深淵の面は闇で覆われていました。これはとても希望のない様子です。古代中近東の様々な神話の中に、深淵というものが登場します。深淵とは暗い、命のない、絶望的な海のようなものです。又、深淵には邪悪があり、その深淵が怖い海であると信じていた人々もいました。又、レビヤタンのような怪物が深淵に存在すると信じられていたので、深淵は人間が殺されるような、地獄のような所としてとらえられてきました。
古代の人達にとっては、天地が創造される以前に深い、暗い混沌たる深淵がありました。一方で、海の事を考えてみますと、様々なイメージが眼に浮かぶでしょう。海に囲まれている日本には、素晴らしい景色や場面を描く芸術家が沢山います。海上の日の出や夕焼けの様子を見ると、心を打たれ、感動させられる事もあるでしょう。又、ある人にとっては、海の音、つまり、波が海岸の岩に打ち付けられる音に癒される事もあるでしょう。私達は生まれる前に、母親の胎内で水に囲まれ、その水の音が私達に安心を与えてくれていたのと同様に、海の穏やかな音が私達に平安を与える働きを持つ事もあると考えられます。しかし、海には、別の顔もあります。
イエス様が嵐を静められるという新約聖書の記事はよく言及される記事ですが、この出来事は共観福音書、つまりマタイ、マルコ、ルカの3福音書に記録されているので、キリスト者にはとても馴染みのあるものであり、又、深い意味を持つ話でもあると思われます。イエス様と弟子達は船に乗り、湖に出ました。そして、突然、「湖に激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになった」とマタイによる福音書に記されています。これは、穏やかな海の様子とは全く異なる様子であると言えるでしょう。それは、とても怖い状況であり、弟子達は湖で死んでしまう事を非常に恐れたのでした。しかし、そのような状況の中で「イエスは眠っておられた」と書かれています。この様子を見て、これはあり得ない様子であると、弟子達は思った事でしょう。そして、弟子達はイエス様に「主よ、助けてください。溺れそうです」と言った、とマタイの福音書に書かれています。マルコの福音書には、弟子達は「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」とあります。何故イエス様は眠られたのかという事に対して、弟子達は不思議に思っていたようです。イエス様は本当に弟子達の困難な状況を知っておられたのでしょうか?それとも、イエス様は全体的な状況を把握しておられた為に嵐の中でも眠る事ができたのでしょうか?
先ほど悪を象徴するレビヤタンという怪物について触れましたが、レビヤタンについて、イザヤ書第27章1節から、ある種のイメージが得られると思われます。「その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される」とあります。この短い一節に、古代中近東のおける人々が天地に対してどのような理解を抱いていたのかが分かります。レビヤタンとは海にいる「逃げる蛇」「曲がりくねる蛇」であり、レビヤタンが邪悪の象徴である事が仄めかされています。平和の状況から逃げるものはありません。レビヤタンが逃げようとしている事が示しているのは、レビヤタン自らに敵があるという事です。又、「曲がりくねる」ものの意味は、真っ直ぐではなく、他の生き物をずるく騙そうとするものを意味していると考えられます。誰かがある状況から逃げようとする時、又、真っ直ぐに話をしようとしない時、私達はその人を信用できないものとして捉えるでしょう。そのような人の話には様々な矛盾が生じる事もあり、そのような状況の中で私たちはその人と一緒に仕事をしたり、会話をしたりする事を難しいと感じる事もあるでしょう。
又、天地創造の時にあった混沌の深淵には、様々な怪物的生き物があったと信じられていました。ベヘモットという物もあり、先ほどのイザヤ書の箇所に出てきた竜もいました。海にはこのような力強い、恐ろしい怪物のような生き物が存在していると思われていたので、海は十分注意をすべきものと考えられていました。
海や大きな湖はこのようなところであると信じられていたので、嵐が現れた時、弟子達は非常に恐れていたのでしょう。というのは、もし自分たちが乗っている船の下に、そのような怪物が存在し、船が転覆し溺れてしまったならば、そのようなものに滅ぼされてしまうと考えたかも知れません。しかし、まるで何も起こっていないかのように、イエス様は眠っていたのでした。イエス様は何故眠る事ができたのでしょうか?イザヤ書第27章1節に、その理由があります。「主は/厳しく、大きく、強い剣をもって」海を支配している全ての怪物を滅ぼす事ができるからなのです。ですから、船に乗っていたイエス様の弟子達は、邪悪な怪物に勝つ事が出来ないと思い込み、恐れていたのですが、それとは対照的に神の子主イエスには、その怪物より力と権威が備わっていた故に、怪物はイエス様の支配下にあった訳でした。神様は天地創造をされた時、深淵の上にご自分の霊が動き、その時から神様はレビヤタンや海にいる他の怪物を追い払おうとなさったのでした。人間には邪悪を追い払う事ができませんが、邪悪なものは神様のみ前においては、無力となるのです。
ヨブ記第40章25節から29節までの箇所において、ヨブに対して神様はレビヤタンの力強い存在に関して問いかけられます。「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ/その舌を縄で捕えて/屈服させることができるか。お前はその鼻に綱をつけ/顎を貫いてくつわをかけることができるか。彼がお前に繰り返し憐れみを乞い/丁重に話したりするだろうか。彼がお前と契約を結び/永久にお前の僕となったりするだろうか。お前は彼を小鳥のようにもてあそび/娘たちのためにつないでおくことができるか。」と。現代の私達には、このような問いかけにあるイメージは馴染みの薄いものですが、古代のイスラエルの民族にとっては、具体的なイメージを与えてくれる問いでありました。要するに、人間にとって怖いもの、人間を簡単に滅ぼせるものは恐ろしいものでありましたが、神様には、そのような怪物は小さいものに過ぎず、弱いものでありました。レビヤタンが登場する聖書の別の箇所に、詩篇第104編があります。104編の26節において、次のような韻文があります。「舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる」と。一般的には「戯れる」という言葉を怪物に言及がある同じ文章内で使う事はないでしょう。しかし、神様の立場から見ると、レビヤタンは一種の「かわいい」ものでもあると考える事ができるのでしょうか。「恐ろしいもの」が同時に「かわいいもの」として捉えられるという事はあり得ないと思われるかも知れませんが、猫を飼っている方であれば、想像できるかも知れません。例えば、小鳥にとっては猫はとても恐ろしい存在ですが、飼い主には、猫はかわいい物であると言えるでしょう。そして、飼い猫が何かに激しく噛み付いている様子ですら、「猫が遊んでいる」と言う感覚で捉えられるのではないでしょうか。勿論、飼い主は愛猫に小鳥を殺して欲しいとは思っていないでしょうが、このような時、飼い主の立場からは、猫は恐ろしい存在であるとは言えないでしょう。
又、神様がレビヤタンをお造りになったという事も、詩編第104編26節に書かれています。神様が創造してくださった天地には、レビヤタンのようなものも存在しています。そして、アダムを創造された時には、神様はアダムを愛されていたので、彼を最初にエデンの園という安全な恵まれた所に置かれたのでした。エデンの園には、レビヤタンのような恐ろしい怪物は存在しなかったのでした。しかし、アダムとエバが罪を犯し、エデンから追放された時から、邪悪なものが近くにやって来たのです。神様にはこのような邪悪なものに打ち勝つ力はありますが、人間には悪に勝つ力はないのです。
さて、私たちの世界は今ある意味で混乱状態にあります。COVID-19というコロナウィルスが私たちの世界を支配しようとしています。レビヤタンと同様に、人間にはCOVID-19を倒す事ができません。私達は、今、如何にして、このコロナウィルスに打ち勝つ事が出来るのかという事で頭を悩まされています。ウィルスは目には見えない怖いものでありながらも、同様に自然界には必要なものでもあります。それは、ウィルスが自然界に存在している事によって、生物学的に地球上のバランスが取れているからです。聖書の観点からは、このような事をどのように捉えているのでしょうか。
言うまでもなく、聖書の文化は現代の私達の文化と違うところが多々あります。先ず、私達の世界に対する理解が違います。聖書の時代に、世界には天井のような物が空であり、又、地面の下にあるのは見えない物で、生きものが存在する事を想像できたのでした。彼らは球体である地球を知らず、地面の下には何かの土台があると考えていたのでした。現代の私達には、地球は宇宙に浮いていて、自然界はその地球の表層、地殻にあり、地殻の下に存在するものは生物学的には生命体ではないというように考えるのが普通でしょう。又、宇宙に対しても、どこかに生命が存在するという事は想像できたとしても、その明確な証拠が表されるまで、付き詰めて考える事はしないでしょう。しかし、ウィルスが存在するという事には、証拠があるからこそ、私達はウィルスの存在を否定しないのでしょう。又、私達はウィルスの力をも警戒しつつ、自らの生活パターンを変えるしかないのかも知れません。
聖書の時代の人達にとっては、化学的証拠よりも、「信じる事」が世界を説明する方法でした。それが、彼らの文化でした。それに対し、私達の現代の文化は、科学的な証拠によって結論を導き出す文化であると言えるでしょう。ウィルスに感染した事によって、ある症状が現れ、具体的な症状が現れる事によって人がウィルスに感染していると結論付けます。人に病気の症状が出れば、何らかの原因があると当然推測されます。そして、ウィルスや何らかの菌によって体が不調になったと考えるのです。菌やウィルスを目で確認できなくとも、科学的にそれらが存在している事が明確になっている故に、その事実を受け入れるのです。このような事実は、私達の霊的な世界に対する考え方にどのような影響を与えているのでしょうか。
科学的にこの世界を見る事によって、霊的に世界を考える事が難しくなってしまいます。昨年、私は家族と一緒に、北米で最も好奇心と議論の的になっている場所の一つに行きました。その場所を訪れる予定だと誰かに話すと、「私も行きたかった!」と言う人達がいる一方で、「あんなところに一体何の用があるの?」と言う人達もおり、私達の訪問に対する判断によって、その場所を知っている人達の考え方が分かりました。その目的地とは、ケンタッキー州ピーターズバーグにある創造博物館でした。何故、この博物館は人によって極端に異なる感情を引き起こすのでしょうか?
この質問に答える為に、先ず、創造博物館の掲げているミッション・ステートメントを考えます。
「家族連れに適した安全で健全な、学びと発見のための施設となり、創り主・贖い主・支える方であるイエス・キリストをあがめる。」_とあります。
この博物館について何も聞いた事のないクリスチャンが聞けば、このステートメントはそれなりに良く聞こえます。私はクリスチャンとしてイエス・キリストを自分の創り主・贖い主・支える方として崇めたいと願いますし、イエスは絶えず私も他の全ての人をも創り、贖い、支えておられると信じています。では、何が問題なのでしょうか?それは、この声明が文字通りに受け取られれば良いのですが、その裏に隠されている創造博物館の真の意図にあります。その意図とは、進化論は聖書に示されている真実を害する危険で誤った教えだと糾弾し、進化論を信じる事は文化を崩壊させ、子供達を破滅に導くキリスト教信仰にとって究極的な脅威であると宣言する点にあるのです。 ですから、この博物館を訪れるつもりだと誰かに言うと、大抵二つの両極端の反応が起こるのです。 その人が聖書の逐語主義者であるならば、そこに行く事によって私達が救われるかも知れないという期待を持って私達を鼓舞するでしょうし、一方で、その人が聖書を文学として読む人々、つまり聖書を正確な歴史年表としてとらえない人々であるならば、私達は頭がおかしくなってしまって、自分をダメにしてしまう原理主義的な渦の中に巻き込まれてしまったのだと心配するかも知れません。
個人的に、私たち、皆、自らの信仰のあり方を完全に表そうとしても難しいところがあるのではないかと思われます。根本的に私達の共同体の信仰においては、互いの信仰のあり方に関して一致している点が多いですが、自分自身の信仰に関しては、特別な個人的な部分もあるでしょう。私達は海を眺めている時に、その海の中に大きな怪獣のようなレビヤタンが存在しているとは考えないでしょう。しかし、古代の人達にとっては、それは一般的な常識でした。船が海に出て、戻らなかった時、レビヤタンに飲み込まれてしまったと古代の人達は考えたかも知れません。又、津波が現れた時に、古代人はそれはレビヤタンが大きな尻尾を激しく振った為に巨大な波が出現したと思った事でしょう。又、大きな火災のような場合には、その原因はレビヤタンの息から出た火であるかも知れないと、彼らは捉えたようでした。
私達の暮らしている世界には恐ろしいものが沢山あります。たとえレビヤタンのようなものを想像しなくても、私達は現代の知識に基づいた、私達を滅ぼし得るものによる脅威を経験しています。しかし、創世記第1章31節に記されているように、神様はお造りになったすべてのものをご覧になり、それは極めて良しと思われました。現代の私達はレビヤタンと言うものを恐れなくとも、身近にある病原体に脅威を感じています。私達にはこのような恐ろしいものを消滅させる事は出来ませんが、神様がお造りになった私達の美しい世界を感謝し、生きる事ができます。ヨハネの黙示録第21章4節に記されているように、神様は私達の為に新しい天と新しい地とをお造りになりました。ですから私達が神様に絶対的な信頼を置くならば、神様は「[私達]の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と約束されています。
私達の主イエスは明確におっしゃっておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(John 16:33)このみ言葉を信じ、神の想像された美しい世界に感謝しながら、希望を持って歩もうではありませんか。
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