霊によって生かしてくださる

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌90番
讃美歌332番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 12章2節 (旧約聖書1,079ページ)

12:2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。

新約聖書:ルカによる福音書 2章1-7節 (新約聖書102ページ)

8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

《説教》『霊によって生かしてくださる』

今日は本来ならば教会学校CSとの合同礼拝です。合同礼拝では教会学校テキストの聖書箇所からお話するので「イエス様の復活」のお話です。

イエス様は、十字架で死なれ墓に葬られましたが、葬られて三日目の朝、ずっとイエス様に従ってきた婦人たちが葬りを完成させるためにご遺体に塗る香料をもって墓に行ってみると亡骸はありませんでした。空になった墓を見た婦人たちも、弟子たちも、最初はイエス様が復活なさったと信じることができませんでした。しかしイエス様は、その信じることのできなかった弟子たちの間に現れ、祝福の言葉を語ってくださったのです。イエス様が十字架で死なれると沢山居た弟子たちはイエス様の弟子であったことを隠して、散り散りになって去って行ってしまい、漁師に戻ったりしました。しかし、復活のイエス様の祝福の言葉を受けた弟子たちは、復活を信じるようになり、力強く宣教伝道に立ち上がりました。自分たちが見捨てたイエス様が、自分たちを祝福するために復活してくださったのです。この喜びこそ、イエス様の復活を信じるということなのです。

イエス様の復活の出来事は、これだけでは終わりませんでした。復活されたイエス様は、弟子たちと四十日のあいだ過ごされたあと、天に上げられました。そして聖霊によって、今も絶えず私たちの間に宿っていてくださるのです。この礼拝での説教を私たちと共に、ここに居てくださって語ってくださっているのです。

復活とはイエス様が史上初めてされたことです、死から甦られて最初に復活されたのはイエス様です。「復活」とは、死から甦ることですが、それは死んでいたのが生き返るといったことではありません。まったく別の新しい霊的な身体に変えられるのです。復活についてお話すると、それだけで説教何回分も掛かってしまいます。復活とは、どんなことなのか、復活そのものについては、ここでは詳しく述べません。

 

本日のローマの信徒への手紙は使徒パウロが書いたものです。パウロがローマの信徒たちに伝えたい福音が凝縮して語られています。「もし……あなたがたの内に宿っているなら」とありますが、パウロはローマの信徒たちの内にキリストの霊が宿っておられることを疑いの余地なく信じているとして、その上で「死ぬはずの体をも生かしてくださるでしよう」というキリスト信仰の根本を語っているのです。

使徒パウロは復活のイエス様に出会う前、ユダヤ教の教えである律法を熱心に厳格に守るファリサイ派としての歩みを続けていました。ファリサイ派の人々は、復活があるということを信じていました。使徒言行録23章にパウロの語った言葉が記されていますが、「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」とあります。ダマスコ途上で復活のイエス様に出会う前も、パウロは復活ということがあるとは教えられていました。しかしそれはどこか他人ごと、自分とは関係のないことだと思っていたのです。むしろ、復活のイエス様を信じる初代教会の人々を迫害していたのです。

そのパウロに復活のイエス様が声をかけられました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか(使9:4)」との言葉を受けたのです。

このパウロの回心の出来事を知るとき、何よりも大切なのは、パウロは、イエス様の言葉を聞いたときにはじめて自分の罪を認識したということです。それまでパウロは、キリスト教会を迫害することは正しいことだと思っていました。しかしイエス様の言葉を聞いたとき、教会を迫害することは隣人を愛するという律法の教えに反していることに気づいたのです。そして神様を愛するという律法の基本的な教えにも、違反していることに気づいたのです。それは何故かと言えば、パウロが神様の助けを求めずに自分の力で律法を守ろうとしていたからです。律法を守ろうとしても、自分の力で行うなら、神様を必要としてない上に、神様よりも自分の力を信じていることになるからです。

パウロはその時目が見えなくなりましたが、その後ダマスコに導かれ、イエス様の弟子アナニアの主の御名による祈りによって再び見えるようになりました。それは単なる視力の回復というだけでなく、復活のイエス様を信仰の目で見ることができるようになったことを意味しています。

人間はもちろん時が来れば必ず死にます。キリスト教では、人は死んだら、キリストの再臨のときを待って、キリストと共に新しい命に与る、復活すると信じています。パウロがここで語っているのは、この遠い将来に約束されている復活のことなのでしょうか。もちろん、永遠の命のことも含まれてはいると思います。でも、まずパウロがここで語ろうとしているのは、今ここで生きている私たちが、復活のイエス様によって生かされているのだと言う事実です。

この復活のイエス様と共に生きているという喜びは、何よりも礼拝をささげているときに与えられるものなのです。しかし、私たちのささげている礼拝では、イエス様の姿をこの目で見ることはできません。イエス様の話される言葉をこの耳で聞くことができるわけではありません。でも、この説教を通して復活のイエス様を、神様に与えられた「信仰の目」によって見ることができるのです。

少し後の15節には次のように記されています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます」とあります。

「私たちは神の子としていただける霊を受けた」と記されています。そしてこの霊を受けた私たちは「アッバ、父よ」と神様を呼ぶことができると約束されています。神様を「アッバ、父よ」と呼ばれたのは、イエス様でした。神様のひとり子であるイエス様が、神様を父と呼ぶことが出来たのです。この「アッバ」という言葉は小さな子どもが父親を呼ぶ言葉で、日本語で言えば「父ちゃん」とか「おとう」といった言葉です。小さな子供が父親を信頼し全てを委ねて抱きついて行くようなときの言葉です。

復活されたイエス様が私たちと共にここに一緒におられるからこそ、私たちは礼拝の中で神様を「アッバ」「お父様」と、喜んで呼びかけることができるのです。礼拝において、喜んで父なる神の御名を呼び求め、熱心に祈るときこそ、私たちは聖霊に満たされ、復活のイエス様と共に生きているのです。復活を信じるとはイエス様を賛美することなのです。

生まれながらのままに生きて来た私たちは、神様を知ることも、自分の罪を認めることもできない人間でした。ですから悔い改めることも、神様の救いの御業を受けていることも、まったく知ることのできませんでした。

今日聖書箇所に、「あなたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」と記されています。私たちは、誰でも、自分の力で生きていると思っています。でも聖書を読んでいて分かってくるのは、私たちが自分で生きているのではなくて、神様に生かされている、ということなのです。

もし神様に生かされているということが分からなければ、私たちは神様の前に死んだことになってしまいます。これは将来のことではありません。今、この時、神様の前に死んでいるか、それとも生かされているか。もし生かされているのであれば、私たちの命は神様の御手の中にあるのです。命が神様の御手にあれば、たとえ死を迎えたとしても神様の前では生き続けるのです。

このように考えてみると、私たちが礼拝をささげているということ自体が、本来なら信じることのできないほどの奇跡なのです。日曜日ごとに礼拝に出席していると、当たり前のようになって礼拝が奇跡であることを忘れているかもしれません。教会はキリストの体です。礼拝こそキリストの体が地上に現わされているときなのです。

礼拝賛美しているとき、私たちは神様に生かされているのです。父なる神様を信じることができるようにしてくださったのは、イエス様です。そしてイエス様が私たちと共にいてくださるとき、私たちは神様を賛美できるのです。

今、こうして礼拝しているとき、復活なさったイエス様は私たちと一緒にいてくださっているのです。

お祈りを致します。

イエス様の誕生

主日CS合同クリスマス礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌94番
讃美歌108番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ルカによる福音書 2章1-7節 (新約聖書102ページ)

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

《説教》『イエス様の誕生』

主イエスの誕生を語るこの箇所は、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という書き出しで始まっています。皇帝アウグストゥスとは、ローマ帝国の最初の皇帝です。彼の時代から、ローマは共和国から皇帝の治める帝国になったのです。彼はオクタヴィアヌスという名前でしたが、紀元前44年に暗殺されたユリウス・カエサルの養子、後継者となり、カエサル亡き後の長い内戦に終止符を打ち、勝利者となりました。ローマの元老院は紀元前27年に彼に「アウグストゥス」という尊称を贈りました。権限を得た彼は次第に帝政を敷き、ローマは共和国から皇帝の治める帝国となったのです。このおよそ百年後にルカはこの福音書を書いたのです。

さてこの皇帝アウグストゥスが、「全領土の住民に、登録をせよとの勅令」を出したとあります。これは、人口調査のための住民登録です。人口調査はそれぞれの地域に住む人々の数や経済状態、生活の様子を調べることによって政策決定の基礎データを収集するために行われました。アウグストゥスはその治世の間に三度この調査を行いました。ルカが福音書を書いたこの時、ユダヤはヘロデが王である王国でした。形は独立国家の王国でしたが、ユダヤは既に事実上ローマの支配下にあり、ローマ帝国の住民登録の対象になっていたのです。1節には、この住民登録が「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の」ものだったとあります。このキリニウスとは、長くローマ帝国シリア州の総督を務めた人です。ただし、主イエスがお生まれになった時の住民登録が、キリニウスがシリア州の総督であったということについては、歴史的に疑問がある様です。さらに、3節の「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」ということも疑問です。果して当時の住民登録がここに語られているように、おのおのが先祖の町、いわば本籍地に行って登録するという仕方で行われたのかどうかはかなり疑問です。父のヨセフもそうであったように、本籍地を離れて暮らしていた人も多かった筈です。それらの人々がいっせいに本籍地に戻って登録をするなどというのは現実離れしているように思われます。むしろ、私たちの現在の国勢調査がそうであるように、今住んでいる所で登録をした方が現状が把握できてよい筈です。ですから、このような方法での住民登録が本当に行われたのかどうかは、かなり疑問があるのです。

ローマ皇帝アウグストゥスについて、そして主イエスがお生まれになった時のユダヤの状況について見てきましたが、それでは、本日のこの主イエス誕生の物語でルカは何を語ろうとしているのでしょうか。

当時の人々にとって、ローマ帝国こそが様々な民族を包み込むすべての世界でした。ローマ帝国が全世界であり、その外のことは人々に知られていなかったのです。ですから、ローマ皇帝は全世界の支配者だったのです。そのローマ皇帝の支配下でヨセフとマリアが旅をして、その旅先で主イエスがお生まれになったと語ることによって、主イエスの誕生が、この世界全体の政治的、経済的、軍事的な動き、支配と深く結びついた出来事であることを語ろうとしているのです。

しかしそれは主イエスもこれらの政治的支配に従属している、ということではありません。ルカは第1章で、生まれてくる主イエスが、いと高き方である神の子であり、神の民の王ダビデの王座を受け継ぎ、神様の救いにあずかる民を永遠に支配する方であることを語ってきました。神の子主イエスこそまことの王、支配者であられるのです。ですからルカはここで世界の支配者皇帝アウグストゥスの名を挙げることによって、主イエスとアウグストゥスとを並べて、いったいどちらが本当の王、支配者なのか、という問いを読む者に提起しているとも言えます。実際当時のローマ帝国では、アウグストゥスのことを「救い主」と呼び、その誕生日を「福音」救いをもたらす良い知らせとして祝うということがなされていたようです。ルカはそのような中で、本当の救い主は誰なのか、本当の良い知らせとは何なのか、誰の誕生をこそ本当に福音として喜ぶべきなのか、ということを問いかけているのです。

加えてルカが、歴史的事実とは必ずしも一致しなくても、この住民登録の物語によって主イエスの誕生を語っているのは、主イエスがベツレヘムでお生まれになることが実現したことを語るためです。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリアがベツレヘムで出産をする必然性など少しもないのです。しかし皇帝アウグストゥスのあの勅令のために、彼らは身重の体でベツレヘムまで旅をすることになり、そしてベツレヘムで主イエスが生まれたのです。では、ベツレヘムで生まれるということにどういう意味があるのでしょうか。そのことが4節に語られています。ヨセフはダビデの家に属し、その血筋だった。ユダヤの繁栄の頂点だったダビデ王の子孫だったのです。ベツレヘムはダビデ王の出身地です。そこにヨセフの本籍もあり、彼は身ごもっていたいいなずけのマリアを連れて、そこへ登録に行ったのです。それによって、旧約聖書ミカ書5章1節の預言が成就したのです。そこにこうあります。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。神様の民イスラエルを治める者、本当の支配者であり救い主である方が、ベツレヘムで、ダビデの子孫から生まれるという預言です。また本日読まれましたイザヤ書9章5節には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる」とあります。主イエスがベツレヘムでお生まれになったことによって、ダビデ王に優る統治者、いや、ローマ皇帝をも凌ぐ「救い主」が生まれるという、これらの預言が実現したのです。主イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、主なる神様が前もって計画し、旧約聖書で告げておられたご計画の成就、み心の実現だったのです。皇帝アウグストゥスの勅令は、主なる神様の救いのご計画、み業の中にあり、ベツレへムでの救い主の誕生という預言の成就のために用いられたのです。主なる神様こそ、皇帝をも用いて私たちの救いのためのみ心を実現して下さる本当の支配者なのです。ルカが主イエスの誕生をこのように描いたのは、そのことを語るためであり、私たちがこの箇所から聞き取るべき最も大事なこともこのことなのです。

世界の歴史を本当に支配し、導き、用いておられたのは主なる神様です。神様はこの不安や悲しみに満ちた現実のこの世界の中に御子を誕生させ、飼い葉桶の中に寝かせて下さいました。この飼い葉桶は、御子イエスが歩まれるご生涯を、とりわけ私たちを救うための十字架の贖いの死を暗示しています。神様は主イエスの苦しみと十字架の死とによって私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さり、復活によって私たちにも、死に勝利する新しい命の約束を与えて下さったのです。

今日のクリスマスに生まれて来られた御子、主イエス・キリストこそが私たちの「救い主」「メシア」「キリスト」です。お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>