主はあなたと共におられる

クリスマス聖餐礼拝

聖書:イザヤ111-10節, ルカによる福音書12638a

 今日、クリスマスをお祝いする主の日の礼拝に、今年も皆様と共に集められましたことを感謝します。クリスマスに教会に私たちが集ったのは、主がお招きくださったのではないでしょうか。私たちに良い知らせを聞くために、私たちはここにいます。その良い知らせはおよそ二千年前、天使がマリアに遣わされたことに始まりました。神さまは人間を救いたいと思われました。人間を本当の幸せに招きたい、これが神さまの願いでありました。

しかし、思い上がった人々は神さまを離れているので、本当の幸せを理解しません。だから良い知らせを無視したり、軽蔑したりするでしょう。自分こそが値打ちがあると思っている人々は、他の人が語ることに耳を傾けないのです。「何だ、そんなことか」と右から左に捨ててしまうのです。預言者たちはどんなに呼びかけたでしょうか。悔い改めて、神さまに立ち帰りなさいと勧めても、聞く耳を持たなかったのです。

そこで神さまは救い主を世に遣わすために、愚かな方法を選ばれました。「愚かな」というのは、神さまから離れて生きる人々には「そんなバカなことがあるだろうか」と思える方法なのです。神さまは、そのように他の人を愚かだと思い、軽蔑して人々をご覧になって、そうではない人々を救いに招こうとされたのです。ナザレの町にマリアという人がいました。ダビデの子孫の家系に所属するヨセフと婚約をしていました。まだ二人は一緒になっていませんでしたが、当時のしきたりでは婚約しているということは、既に妻であるも同然でした。神さまはこの名もないおとめマリアに天使を遣わして良い知らせをもたらしたのです。それは神さまが、小さき者、へりくだった者、心優しい者たちに、ご自分を顕わすためでありました。

その一方で、神さまは御自分の秘密の隠し事を、高慢な者、軽蔑する者には知ることができなくなるようになさる方であることに、私たちは注意しなければなりません。わたしたちが名もない小さな者、へりくだった者、心優しい者であるならば、天使の伝えた良い知らせ、福音を聞こうではありませんか。

天使は言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」おめでとう、と天使は言いました。これは「喜びなさい」という意味でもあります。喜びなさい。これは神さまの私たちへの命令ではないでしょうか。しかし、なぜ喜ぶのでしょうか。私たちはしばしば分からないのです。喜んで良いのかどうかさえも、分からない者なのです。天使は呼びかけます。なぜなら、あなたは恵まれているから。またはあなたは幸せな人だから、と。私たちは今目に見えることしか分かりません。あるいはせいぜい過去に起こったことから物事を判断する位しかできません。前代未聞の事件や災害が起こると、全く戸惑うばかりです。このように私たちの能力は限られているので、実際、自分個人についても、また家族、社会についても分からないことばかりです。

しかし、天使は言うのです、「あなたは神さまに恵まれているのだから、喜びなさい」と。ここで私たちは自分の理解をはるかに超えたところに神さまを見上げることができるでしょうか。喜びなさい。あなたは恵まれているから、という福音は、ここで早くも二つの道を示しているのです。その一つは、「わたしは恵まれている」と信じて喜ぶ道です。そしてもう一つは、「わたしは恵まれているかどうか分からないから、喜べない」という道です。そして、たとえ積極的に「信じない」という決断をしなくても「信じられない」ということでは喜べない。それは不信仰への道なのです。

さらに天使は言いました。「主はあなたと共におられる」と。この言葉こそ、喜べと勧める根拠です。あなたは幸せだ、と断言する根拠なのです。神さまが人々と共におられるということは、人々にとってどういうことなのでしょうか。考えてみましょう。創世記の3章に人間の堕落の物語が記されています。禁断の木の実を食べたアダムとエヴァの物語です。私たち自身も十分に理解していない訳ですが、神さまはなぜか食べてはならない木の実を置かれました。神さまはたくさんの食べて良いものをお与えになったのに、人は神さまの約束を破って食べてはならないものを食べたのです。その結果、二人に何が起こったかと申しますと、人は神さまを避けて隠れました。すなわち、主が共におられることを喜ばない者となったのです。神さまに隠れて、神さまから離れて生きる者になったということです。

それがどのような不幸をもたらしたかということです。人が神さまから離れているということは神さまの助けを求めることができないという不幸です。しかも思い上がっている時には、自分の力を信じて助けなどいらないと公言してはばからないのです。一人の人間の一生を考えれば、生まれてから死ぬまで思い上がっていられる人はいないと思いますから、必ず、悔い改めて神さまに助けを求めるチャンスはあるのですが、不幸なことに世界中どこでも思い上がった人々が次々と現れるので、まるで人類はいつでも思い上がって神から離れていても大丈夫だという錯覚が人々を支配している有様ではないでしょうか。

しかし、幸いなことに、誰も彼もが鬼の首を獲ったかのように得意満面に高ぶっている時代は、日本の社会では過ぎ去って、多くの高齢者が(高齢者はいつの時代でもいましたが、今平和が続いたために、長生きが出来た結果であります)労苦して生きているのが誰の目にも分かるようになりました。また子供の虐待、家庭内暴力も(昔からあったものが少子化のためにより顕在化しているのではないかと思います)社会で取り上げられるようになりました。幸いなことです。なぜなら、だれもが、少なくともその一生のどこかで、救いの手を求めて激しく叫びたいようなところを生きていることが分かるからです。その時、叫び求める魂の祈りを聞いてくださる真の神さまへの信仰が、その人にあるのか、ないのか、そのことは真に大きな分かれ道、正に生死を分ける違いなのです。

エフェソの手紙1章1~2節に、使徒パウロはエフェソ教会の信者たちに次のように挨拶しました。352頁「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」パウロの挨拶も天使のマリアへの挨拶と良く似ていることが分かります。神が共におられるということは、神の恵みと平和がここにある。なぜなら、神の助けが私たちにあるから、ということなのです。本当に神を信頼するところにこそ、本当の喜びがあります。

さて、マリアと天使の話に戻りましょう。マリアは天使の挨拶の意味を思いめぐらしていました。それは人間の知恵では知ることのできない、神さまの秘密のご配慮、ご計画であったからです。神さまは御自分の愛する御子を世に遣わして下さり、御子によってわたしたちを心にかなうものとしてくださるご計画を実現してくださいました。つまり、神さまは御自分に背いて離れ去っていた私たちをただ恵みによって受け入れてくださるのです。そして、かつては神さまの敵対していたわたしたちに、救いの恵みを差し出してくださるのです。

天使は言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」それはマリアばかりでなく、すべての人の理解をはるかに超えることでありました。しかし、これをなしてくださるのは神さまの聖霊なのだと天使は答えます。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六カ月になっている。神にできないことは何一つない。」

主の聖霊がマリアに来てくださり彼女を覆ってくださるとき、マリアは自分の理解を超えた天使の言葉を福音として受け入れました。真に神にできないことは何一つないことをマリアは信じました。そして、すべてをご存じであり、ご支配なさる神さまだけが本当に良いことを成し遂げてくださることを信じて従う者として、自分を言い表したのでした。

マリアに与えられた恵みを、私たちも思いめぐらしましょう。私たちも主イエス・キリストを救い主と告白する教会の群れに連なって参りました。このことが聖霊の働きであることを信じるならば真に私たちは幸いな者です。マリアはイエスさまが救い主として受ける苦難を知りませんでしたが、聖霊の助けによって受け入れました。そして私たちも、イエスさまが罪の贖いのために執り成しをして下さったことを信じることができたのは、主の聖霊の助けがあったからです。主を信頼し、主に結ばれて共にいると信じることの幸いがここにあります。私たちが幸いであるのは、自分が救われて安泰な人生が保証されているからではないでしょう。主に結ばれている者の幸いは、むしろ、主に結ばれて多くの人々の救いのために働く聖霊の働きに参加させていただけることの幸いなのです。

成宗教会の墓所にはマタイ福音書1章23節のみ言葉が書かれています。「神は我々と共におられる」と。成宗教会の誇り。それはただただ神さまがここに、信者と共にいらしてくださったということに尽きると思います。どんな良い業も、どんな名声も、どんな働きも過去に去って行きます。自分を誇っている人々は、主が共におられることを誇ることは難しいでしょう。ただ、主を誇り、主を喜びとする人だけが、主に喜ばれて主の体に連なる者であり続けるでしょう。

そしてその人は弱いときにも、強い時にも主に用いられるでしょう。丈夫な時と同様に、また病む時にも不思議に用いられるでしょう。若い時に私は学校の教員でした。中年以後に献身して教会に仕えしました。生きている限り、主の恵みを宣べ伝えることは伝道者の喜びです。しかし、だれも年老いて行くこと、例外なくやがて世を去ることは主の御旨です。牧師を辞めても、主に仕える者として死に至るまで忠実であることは、私の目標であり、またどなたにも強くお勧めする目標であります。そうすれば、主はいつの日にも皆さんと共にいらして祈りを聞いてくださり、助けてくださると思います。そのために、私はまだ信仰を言い表していない方々にも強くお勧めします。謙って小さくなられ、世に降られた神の御子イエス・キリストによって明らかにされた神の恵み、罪の赦しを信じて自らを低くし、悔い改めて、キリストに結ばれる者となりますように。そして次世代の伝道牧会者を迎え、この群れに連なり、共に喜んで主に仕える者となってください。祈ります。

 

御在天の父なる神さま

クリスマスを祝う主の日の礼拝を感謝し、御名を褒め称えます。どうか集められた私たちの讃美を受け入れ、祝福をお与えください。この教会にいつの日も希望を与え、恵みの導きをお与えくださいました。私たちは多くの働きをして、良い時も苦しい時もあなたの教会を建てるために労苦された教師や信徒の方々を既に天に送りました。そして共に労苦した思い出と感謝が残されています。あなたの御子の執り成しによって罪赦され、天から聖霊の助けをいただいて来ましたことの結果であります。

私たちは東日本連合長老会に加盟して共に学び、共に歩んで参りましたことを感謝します。皆、日本の教会、日本の社会の困難を反映して、様々な苦労をしております。しかし、共に悩み、共に労苦して共に教会を建てて行くところに、主が共におられ、どうか喜びが与えられますように。来年度いらしていただく先生方のために、あなたの特別な顧みがございますように。そのお働き、ご健康が祝されますように祈ります。また成宗教会にあなたの御心を示し、私共が善き準備をなすことができますようにお助け下さい。特に長老会の働き、ご健康をお支えください。信徒のお一人お一人があなたの助けによって祈りを篤くし、あなたの広く深い御心と愛とを知って絶えず励まされますように。

本日は聖餐に与ります。どうぞ主イエス・キリストの恵みに恐れと感謝を以て与るものとならせてください。

そして、礼拝後の愛餐の時を感謝します。奉仕するすべての者を祝してください。また明日予定されていますイヴ礼拝の行事を祝福し、助け導いてください。このクリスマスも病気その他の事情で礼拝に参加できないすべての方々の上にあなたの慰めと慈しみがありますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

この喜ばしい知らせを

聖書:ゼファニヤ書314-18節, ルカによる福音書1525

 待降節も本日は第三の主の日となりました。今年もいつもと変らない恵みに満ちたクリスマスが迎えられるように、私たちは身も心も魂も整え、備えたいと思います。今日読みました新約聖書はキリストの誕生に先立つ物語です。それは一人の預言者の誕生です。後に洗礼者ヨハネと呼ばれたヨハネは、イエスさまが世に表れ、福音を宣べ伝える前に表れて、救い主に先立って道を備える務めを果たした人であります。

ヨハネの父となったザカリアは祭司でありました。また母エリザベトも祭司の一族であり、6節にありますように、二人とも神の御前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかったと言われます。わたしたちの神さまは外観の整った行いを喜ばれるのではなく、特に心を見られる方ですから、この二人も心から神さまに従うことを喜び、律法の教えに従って隣人を愛することに努めていたので、「非のうちどころがなかった」と言われたのでしょう。そのように忠実な二人はそれだけで幸せでありましたが、一つだけ叶わない願いがありました。それは子供が与えられることでした。長い間待っているうちに、二人とも年を取って既に子を持つ望みもなくなっていました。

ある時、ザカリアは主の聖所に入って香をたくことになりました。祭司が神殿の聖所に入る時はいつでも、神と人々の仲保者として神の前に立つために入るのです。律法によれば、人々の祈りは祭司が神さまに執り成しをして初めて天に昇るのでした。そこで人々が祈っている時、祭司は聖所で香をたきました。この日、ザカリアが聖所に入ったとき、彼は主の天使が香壇の右に立つのを見ました。彼は非常に恐れました。神さまは私たちに御自分の言葉を聞かせたいと願っておられます。しかし、私たちはなかなか神さまの言葉が分からない。御心が分からないのではないでしょうか。私たちはどうしたら神さまの言葉を聞くことができるでしょうか。聞いて理解することができるでしょうか。そのために、神さまはまず、わたしたちの傲慢を打ち砕いてくださいます。それは、祭司であっても例外ではありません。たとえ、民の中でも優れた者、主の掟と定めをすべて守り、人々から尊敬され、非のうちどころのない祭司さえも、本当に謙って心低くされなければ、神さまの恵みの言葉を聞くことはできないのです。

ザカリアは天使を見て、恐怖の念に襲われました。一瞬のうちに思うのは、自分の罪、咎、過ちを裁かれる方の前に、自分が塵に等しいことでありました。しかし、天使はすぐに彼を立ち上がらせました。「恐れることはない。ザカリア」と。そして神の言葉を告げます。「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」ザカリアが既に望むことさえできなくなっていた優れた息子が生まれるというのです。そして、その子供の誕生は単に両親とか、家庭内だけの喜びではないのです。

「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊にみたされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」と、天使は預言し、ザカリアとエリサベトに生まれる子、やがて洗礼者と呼ばれるヨハネがすべての信仰者にもたらす絶大な喜びを語ろうとしました。

今、神さまはご自分の民に、大きな救いの御業を携えて現れようとしておられます。この約束に向かって民を用意させ、人々を神さまのもとに導くこと。そして神さまが恵み深く人々のところに来てくださることができるようにすること。これこそが、生まれて来る幼子に与えられた使命なのです。神さまが人々の中に恵みを現わしてくださるために、必要なことは何でしょうか。それは人々が共に生きる共同体で、分裂を引き起こしている争いが止むことではないでしょうか。ところが現実は、遠い国との平和どころか、同じ社会に生きる人々、もっと身近な家族でさえ分裂している有様です。

傲慢な者は、すべての人すべての物を永久に支配しようと、神さまのご意志に逆らって立ち、地上に平和を求める願いと志を圧殺しようとしている。このことは、昔も今も変りありません。天使が語る言葉によっても当時の礼拝共同体は、今の世界に建つ教会以上に、社会の堕落と混乱の中にあったことを想像することができるでしょう。ヨハネの使命、それは神さまから離れ去った罪人たちを主のもとに立ち帰らせることでした。預言者ヨハネはすべての人を悔い改めに導いて、それによって共同体を一致させ、子供たちを親たちと共に神様に立ち帰らせるのです。これまで神さまに不従順であった者たちが、従順であった人たちと共に、神さまのご意志に服従するのです。そして皆共に、新しい神さまの恵みが現れるのを、ひたすら待ち望む者になる。ヨハネはそのために働くでありましょう。

そうです。ヨハネは神の教会を建設するために、その地馴らし、道備えをするでしょう。17節で天使は神の言葉をこう締めくくりました。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、(複数)の心を子(複数)に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別をもたせて、準備のできた民を主のために用意する。」ヨハネの偉大な使命のために彼は生れる前から「偉大な人」と呼ばれました。ヨハネが偉大なのは、母の胎にいるときから聖霊に満たされていたからです。彼がこの世に生まれ出る前から、見ることも聞くこともできないうちに、聖霊が彼を満たしていたと天使は語りました。ヨハネにこの使命を果たさせるのはヨハネ自身ではなくエリヤの霊、すなわち神さまの聖霊が共にいたからであります。

私たちは聖霊の助けがなければ、神の言葉を聞くことができませんし、聞いてもそれが神さまの言葉であると理解できないのです。だから、この知らせを聞いたザカリアは信じられませんでした。長年の願いは既に不可能になっていたのに、神さまが可能にして下さったということも。また、生まれて来るわが子が偉大な使命をいただいて、神さまに仕えるということも。それは気の遠くなるような良い知らせであったのに。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』

人間のこの肉体の耳は、この良い知らせに対して閉じられていることが分かります。自分の目に見えるものに圧倒され、自然の現実が彼を支配しているからです。だから、まさか、そんなことはあり得ないと思うばかりです。しかし、神さまの思いは、私たちの判断、知恵、思いとは別のところにあるのではないでしょうか。神さまは隠れておられ、私たちに思い図るところを超えておられます。すると、私たちには神さまが遠く離れておられ、無力な方であるように見えるのです。これもまた人間の浅はかさと思い上がりの為す結果ではないでしょうか。

これに対して、天使は答えました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」この天使ガブリエルというの名は、ミカエルの名と並んで、神の王座のまじかにいる最高の天使を指し示す呼び名でありました。つまり単に天使の一人が語っているのではない。聖なる大天使が、神さまから遣わされた者として神さまの言葉を伝えることによって、委ねられた職務を忠実に果たしているのでありました。

それに対して、ザカリアは疑いの心を抱いて、自分が受け取った良い知らせを他の人々に知らせるためには、真にふさわしくない言葉を口にしたわけです。そこで、ガブリエルは彼の不信仰を明らかに咎めるために、一つのしるしを行いました。それは口がきけなくなるという罰でした。天使の言葉がやがて事実となって初めて、ザカリアの不信仰の罪は赦されることになったのです。それまでは彼にとってどんな日々であったことでしょうか。それは苦しい日々であったとしても、決して悲しい日々ではなかったと思います。エリサベトが子を宿したことが分かった日から、ザカリアは悔い改めの祈りを続けて行ったことでしょう。約束通りヨハネが誕生し、神の言葉の真実が明らかになる日の実現をどんなにか待ち望み、喜んで耐え忍んだことでしょうか。

全世界が御子の誕生を祝うクリスマスに向かっているこの時、わたしたちは、成宗教会臨時総会を開いて新しい教師を招聘しようとしています。全く計画的ではないのですが、この日の説教はバプテスマのヨハネについてみ言葉に聴くことになりました。ヨハネは自分がメシアではないかと思う人々に対してきっぱりと否定し、後からお出でになる方こそ救い主であると証ししたのであります。2千年後の私たちから見れば、これは当然のことですが、当時の人々には全く分からなかったでしょう。ヨハネのメシアを待ち望む姿勢こそ、私たちの手本であり、教会に仕え、教会を建てるものであります。

洗礼者ヨハネの次の言葉をお聞きください。ヨハネ福音書3章27節-30節。168頁です。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

ヨハネが指し示した救い主によって教会は建てられました。イエスさまの教会に仕える者はすべて、救い主の到来を待ち望む者たちであります。この喜ばしい知らせを信じることができるのは、ヨハネに働いてくださった聖霊によるのですから、私たちはいつの時代も忍耐強く教会を建てて、主を待ち望む者となりましょう。「生きているのは、もはやわたしではない」とパウロは言いました。私たちは地上にある限り、主の聖霊によって活かされ、教会の主に結ばれて、生きて働くのです。

成宗教会もこの喜ばしい知らせを伝えるために、全国全世界の諸教会と共に、この地に建てられて来ました。自己中心的で不信仰な世の力が教会の中にも入り込み、兄弟姉妹に大きな躓きを与え、諸教会は苦難の中にありますが、私たちはただ神の御言葉によって活かされていることを、証しして参りました。これからもそうでありますように。そのために成宗教会に新しい時代に向かって教師を招く希望が与えられました。これからも、成宗教会から力強く主の御言葉が語り続けられますように。そして主の聖霊のお働きによってみ言葉が聞き続けられ、み言葉に生かされ、成長する群れとなりますように。祈ります。

教会の頭なる主イエス・キリストの父よ

尊き御名を褒め称えます。あなたは私たちの罪を贖うために御子を世に遣わして、壮大な救いのご計画を実現してくださいました。今日の礼拝を感謝いたします。あなたの御前に非のうちどころのないと言われた祭司ザカリアでさえも、あなたの喜ばしい知らせを信じることができませんでした。私たちは増して罪深く、あなたの善良さ、慈愛に満ちた御心を信じることができず、不信仰のあまり、多くの悩みに陥る者であります。どうぞ、私たちを憐れみ、この罪にも拘わらず、耐え忍んで恵みを現わしてくださるあなたの忍耐と愛を褒め称える者と造り変えてください。

成宗教会を今日まで守り導いて下さったことを思い、真に感謝申し上げます。沢山の苦難、困難がありましたが、私たちの不信仰を打ち砕いて、困難な中に力強くお支えくださっているあなたの聖霊のお働きを見上げることが許されました。大きな恵みでございました。私たちは大きく力に溢れている時以上に、弱り果て困難を抱えている信徒の方々の背後に働くあなたの愛を強く感じ、励まされて参りました。

本日私たちの教会では、長老会が新しいお二人の教師をお招きして共に教会を建てる働きをお願いするために、臨時総会を開きます。先生方には成宗教会の牧師となっていただくばかりでなく、主の体の教会形成のために、東日本連合長老会を通して、また改革長老教会協議会、また、日本基督教団の神学校である東京神学大学を通して、広く、深く教会と手を携えて働いていただく教師としてあなたが任務をお与えになることを願います。成宗教会にとってこれ以上の大きな望みはございません。どうか、あなたの御心ならば、小さな群れに、この大きな志をお与えくださり、この群れをあなたの御用のためにお用いくださいますようお願いいたします。

来週のクリスマス主日聖餐礼拝の上に、教会学校の礼拝の上に、またイヴ礼拝の上に、あなたの恵みをお与え下さい。多くの人々が集められ、み言葉なるキリストの祝福に与ることができますように。主よ、どうか奉仕する者の健康を支えてください。今、心身に不安のある多くの方々を覚えます。どうぞあなたの豊かな顧みが、皆様の上にございますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。