聖霊の賜物

主日ペンテコステ礼拝説教

《賛美歌》

讃美歌177番
讃美歌291番
讃美歌352番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 55章6節 (旧約聖書1,152ページ)

55:6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。

新約聖書  ルカによる福音書 11章1~13節 (新約聖書127ページ)

◆祈るときには

11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

《説教原稿》

本日は「聖霊降臨日」ペンテコステと呼ばれ、教会の生まれたことを記念する日です。

この「ペンテコステ」という言葉は、旧約時代のイスラエルの三大祭りである、出エジプトを記念する「過越祭」、その「過越祭」で大麦の初穂の束をささげる日から数えて7週間目の「七週の祭り」が起源です。出エジプト記に既に見られるこの祭り(出34:22)は、過越祭から7週即ち49日空けて50日目に行なわれる祭りです。これは10日間が5回来るというギリシャ語のペンテーコンタ・ヘーメラスと呼ばれ、日本語で「五旬節」と呼ばれるのです。イスラエルの三大祭りはこの「過越祭」と「五旬節」の2つに「仮庵祭」が加わったものです。旧約時代は、大麦の収穫の終りを意味し、次の小麦の収穫が始まるお祝いでした。そのため出エジプト記では別名の「刈り入れの祭り」(出23:16)とも、民数記では「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれていました。これらの祭は、既にソロモン王の時代にはイスラエルの「三大祭」として守られていました(Ⅱ歴8:13)。何故、教会の生まれた日であるかは、使徒言行録2章1節以下にあるように、主イエス・キリストの十字架の死から復活と昇天の後、この「五旬節」の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっていた時に、天から聖霊が送られたことによるのです。聖霊が天から弟子たちに下り、新しい命、力、そして恵みがもたらされ、弟子たちを中心にして教会が形作られました。このことから「五旬節」が「聖霊降臨日」、教会誕生の日となったのです。

本日のルカによる福音書第11章は私たちが礼拝でささげる「主の祈り」についてかかれているところです。冒頭に、「イエスはある所で祈っておられた」とあります。ルカはこれまでにもたびたび、主イエスが祈っておられる姿を語ってきました。

他の福音書よりルカ福音書は主イエスが祈りの人であられたことを強調しているのです。祈りは、基本的に神様との一対一の対話です。祈る自分と相手である神様とが、どちらも生きており、意志を持っており、言葉を持っている者であり、人格的な交わりであるのが祈りです。

主イエスは、祈りの中で、神様に「父よ」と呼びかけておられます。神様のことを「父」と呼ぶことは、旧約聖書にもないわけではありません。しかしそれはあくまでも、神様の威厳や力、慈愛、守り、導きといったことを表現するための譬えでした。ここで、主イエスが「父よ」と祈られた時にはそれは、ご自分と神様との間に、父と子の深い信頼関係があることの表明だったのです。主イエスと父なる神様との間には、父と子としての一体性、信頼と愛に満ちた人格的な交わりがあるのです。そのことを表しているのが、「アッバ」という言葉です。主イエスが神様に「アッバ」と呼びかけて祈っておられたことを他の福音書が伝えています。これは、小さな子供が父親を呼ぶ言葉、日本語で言えば「父ちゃん」とか「パパ」とでも呼ぶような言葉です。主イエスはそのような親しみを込めた言葉で神様に呼びかけ、祈っておられた、それはユダヤ人たちの常識からすると驚くべきことでした。主イエスの祈りがユダヤ人たちや弟子たちを驚かせたのは、主イエスの神様との交わり方が変わっていたからです。弟子たちは主イエスが神様との間に持っておられる、父と子のような信頼と愛の交わりに驚き、自分たちが知らない、体験したことのない祈りの世界にあこがれを持って、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのです。この願いに答えて主イエスが、「祈るときには、こう言いなさい」と教えて下さったのが、この礼拝においても共に祈る、「主の祈り」です。この祈りを教えることによって主イエスは弟子たちを、そして私たちを、主イエスの祈りの世界へと招いて下さっているのです。主の祈りとはこのように、私たちを、主イエスを通して与えられる神様との新しい交わりへと招き入れるものです。主の祈りを祈ることによって、私たちは、神様との新しい関係に入ることが出来るのです。神様との間に、新しく父と子としての信頼と愛の関係を持つことです。しかもその関係は私たちの努力や精進によって獲得できるのではなく、主イエス・キリストの一方的な恵みによって与えられるものなのです。

2節の「主の祈り」の冒頭、「御名が崇められますように」とあります。これが第一の祈りです。「崇める」とは「聖なるものとする」という意味です。私たちも、かつては神様を父として認めず、自分が主人になって生きようとする罪によって神様の聖なる御名を汚していました。その結果、神様との良い関係を失い、まことの父を見失っていたのです。しかし神様は、独り子イエス・キリストを遣わし、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さいました。私たちが、まことの父である神様の子として、神様とのよい関係に生きることができるようにして下さったのです。

私たちは主イエス・キリストの十字架の御業によって今や、神様を父と呼び、信頼し、愛して生きることができます。しかしその御業はまだ完成してはいません。それが完成するのは、世の終わりに私たちが永遠の命を与えられる救いの完成の時です。それは同時に、神の御名が完全に聖なるものとされる時でもあります。その終わりの時まで、私たちは、「御名が崇められますように」と祈りつつ生きるのです。

「主の祈り」の第二の祈り願いは「御国が来ますように」です。御国とは神様の国ですが、その「国」とは支配という意味です。神のご支配が実現しますように、というのがこの祈りの意味です。「御名が崇められますように」の場合と同じように、これも神ご自身がして下さることです。神の御国とは、私たちが地上に建設するものではなくて、神様が招き入れてくださるところなのです。そのことは、主イエス・キリストによって決定的に実現しました。神の御国、私たちへの神のご支配は、主イエスの十字架の死と復活によって、罪を赦し、私たちを神様の子供として新しく生かし、復活と永遠の命を約束して下さるということで実現したのです。しかしこれも、まだ完成はしていません。それが完成するのは、復活して天に昇られた主イエスが栄光をもってもう一度来られ、今は隠されているそのご支配があらわになる時です。その時、今のこの世は終わり、神の御国が完成するのです。私たちはその時まで、「御国が来ますように」と祈りつつ生きるのです。

祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主イエスが、それを補足するように5節以下に一つのたとえ話を語られました。

真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、という譬えです。なぜかというと、別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったが、その人に食べさせるものが家になかったからです。連絡もなしに突然、しかも夜中になって訪ねて来るなんてなんて非常識な奴だ、というのは私たちの常識です。しかし、当時のユダヤ社会においては、旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて援助を求めることができました。またそれを求められた人はできる限りのことをして旅人をもてなさなければならないのが常識でした。なぜなら、当時の旅行は文字通り命がけのことであり、空腹や渇きによって行き倒れてしまう人が多かったからです。ですから客人をもてなすというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っており、逆に旅人をもてなさず、受け入れないというのは、その人を見殺しにするということでした。ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然のこと、なすべきことでした。ところが家にはあいにくパンが全くない。そこで、近くにいる友人の家に助けを求めていった、というのがこのたとえの設定です。しかしもう真夜中です。友人の家の戸口をドンドンとたたき、「パンを三つ貸してください。旅行中の友達に出すものがないのです」と大声で叫んだらどうなるか。7節「すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。真夜中にこんなふうに訪ねて来られることは当時だってやはり迷惑です。しかし主イエスがこの譬えによって語ろうとしておられることは次の8節にあります。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。確かにこんなことは迷惑なことだから、たとえ友達でも断られるだろう、しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるのだ、と主イエスは言っておられるのです。

このような譬えを語られた上で主イエスは9節で、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とおっしゃいました。

これは、祈りについての教えです。主イエスは、祈ることを教え、祈りの言葉を教えると共に、祈りにおける心構えを、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると信じて祈るように、と教えられたのです。

しかし、ここで私たちが神様にしつこく祈り続けることによって、神様もついに根負けして、これ以上面倒をかけられたくないから仕方なく聞いて下さるということなのか、私たちと神様との関係はこのようなものなのか、という疑問が湧いて来ます。またもう一つ、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。祈って求めればそれは必ず与えられるのだろうか、祈り求めても叶えられない、与えられないものがある、ということを私たちは体験しているのではないか。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできない、と感じることも多いのではないでしょうか。

これらの疑問への答えは、11節と12節に「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」とあります。親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを与える親はいない。それを受けて13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」ともあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」というのは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、ということです。私たちは、神様をないがしろにし、隣人を本当に愛することできずにいる罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供を愛しており、良い物を与えようとします。

私たちは罪人であっても子供には良い物を与えようとする。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。これこそが主イエスが言おうとしておられることです。主イエスは、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を通して、それよりもはるかに大きく深く広い、天の父である神様の愛を見させようとしておられるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、天の父である神様が喜んで、進んで、あなたがたに良い物を与えようとしておられる、ということを語っているのです。この言葉は、しつこく求めれば得られる、ということを語っているのではなくて、天の父である神様がどれほど私たちを愛して下さっているのか、ということを語っているのです。

そしてこの13節において注目すべき大事なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。その聖霊が与えられると私たちはどうなるのでしょうか。それは、ローマの信徒への手紙の8章14節と15節に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。ここに、神の霊即ち聖霊が私たちの内でどのような働きをするのか、聖霊が与えられるとどうなるのか、が示されています。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけられる「神の子」とされるのです。天の父が、求める者に聖霊を与えられ、私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。

求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというこの御言葉は、神様が私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛し、父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んで下さるという約束を語っているのです。私たちも、親は子に、その求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりになる、ということではありません。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今はあたえるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもありますが、そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことであるならば、天の父、まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。「求めなさい。」で始まる御言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。

主なる神との出会いと交わりが与えられることこそ、祈りが聞かれることなのです。私たちの祈りに応えて神様が聖霊を与えて下さり、聖霊が私たちを御子イエス・キリストと結び合わせて下さり、神様との間に、父と子という関係を、交わりを与えて下さるのです。それが、祈りにおいて与えられる恵みです。この恵みを信じて祈りなさい、と主イエスは教えておられるのです。

本日の11章1節から13節はひとつながりの箇所です。主イエスは祈りを教え、具体的な祈りの言葉「主の祈り」を与えて下さいました。その祈りにおいて私たちは、神様に向かって「父よ」と呼びかけ、つまり神の子とされて生きる恵みを味わいます。その恵みの中で私たちは、神の御名こそが崇められることを求める者となります。神のご支配の完成、御国の到来を求めつつこの世を生きる者となります。私たちが生きるために必要な糧を全て神様が与えて下さることを信じ、神様の養いを日々求めて生きる者となります。また自分が神様に対して罪を犯しており、自分の力でそれを償うことはできないことを知り、神様による罪の赦しを祈り求める者となります。そしてそのことは、自分に対して罪を犯す者を自分も赦すということなしにはあり得ないことを思い、赦しに生きることを真剣に求めていく者となります。常に誘惑にさらされ、神様の恵みから引き離されそうになる自分を守ってくださいと祈り願いつつ歩むものとなります。神様はこの私たちの祈りを天の父として聞き、私たちに本当に必要なものを与えて下さいます。私たちに本当に必要なものは、神様との父と子としての関係、交わりです。その関係を築いて下さる聖霊、神様の子とする霊を、神様は与えて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスと共に神様を父と呼ぶ者とされ、主の祈りを心から祈る者とされるのです。「主の祈り」とは、祈りの言葉の一つではなくて、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。「主の祈り」を祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。

<<< 祈  祷 >>>

 

主の祈り

聖書:詩編1211-8節, ルカによる福音書11110

 私たちは昨年12月30日の礼拝から、主の祈りについて学び始めました。主の祈りは、使徒信条と十戒と共に、三要文と呼ばれます。それは、三つの重要な文言、言葉という意味であります。私たちは今、成宗教会に集まり、全国、全世界の教会にも人々が集まり礼拝を守っております。ただ教会に集まっているというだけで、全世界の教会が同じキリストを信じていることにはなりません。そうではなくて、教会は代々同じ信仰の言葉を受け継いで来たからこそ、同じ信仰に立っていると言えるのです。

その信仰の言葉が三要文の中に示されています。そして私たちはキリスト教の教えを知らせる求道者会や洗礼志願者の会では、使徒信条、十戒、主の祈りを教え、そして学んでおります。私自身は2006年に東部連合長老会に個人加盟しましたが、それはちょうど全国連合長老会日曜学校委員会がカテキズム教案を出版し、カテキズム信仰問答によって教会学校の教育を行うという取り組みが始まった時でした。

それから12年が経ち、今年も日曜学校研修会が開かれました。講師に立たれた富田林教会の兼子洋介先生は、私が加盟したとき、一緒に初任者研修を受けた若者であったことを思い出しました。東神大出立てのまだ学生の雰囲気がいっぱいに見えた先生が、立派な指導者となって教案の出版について苦労や、問題点、また将来の希望に向かって東日本の教会に呼びかけている様子を拝見し、私はうれしく感慨深い気持ちでいっぱいでした。若い教師がやがて中堅となって教会を支えて行く。しかも自分の教会について語るときも、他の教会について語るときも、同じ熱意と感謝を込めて呼びかけるのを見ることは、どんなに喜ばしいことでしょうか。カテキズムの学びは子供だけの学びではない。教える教師も教わる子供も、大人も共に学び、同じ神さまに対する同じ信仰を伝えて広めていくのだという実感がわきました。

私たちの教会の2018年度の標語が週報に掲げられています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節です。)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」この聖句の意味するところが、カテキズムの学びの中に正に現れているのではないでしょうか。

そういうわけで、私たちは教会の信仰を学び、いつでもどこでも確信をもって教会の信仰を生き、伝道する者と成長するために、大人の礼拝でもこのように、三要文の学びを続けています。さて、12月30日に学んだカテキズム問52は次のようです。カテキズム問52、 「なぜわたしたちは祈るのですか。」そしてその答は、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」でした。人間は神さまの似姿に造られた者ですから、神さまの呼びかけに応えるのが本来の喜びに満ちた姿なのです。次に問53を学びました。それは、カテキズム問53、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」という問いでした。その答は、わたしたちが神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられるのです。神さまが近くにおられることは大きな喜びです。キリスト・イエスさまが私たちの住むこの世界に近くいらしたのは、私たちの罪を赦し、神さまの子とさせるためでしたから。この恵みの中で、わたしたちは既に罪赦されていることを思うとき感謝と喜びを忘れません。

そして、先週のカテキズム問54は、「祈るときに大切なことは何ですか」でした。私たちに大切なことは神さまに対する信頼です。「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めること」が大切なのです。このように、私たちには神さまに向かって祈りが必要なこと、また祈りの恵みや祈るときの心構えについて、これまで学んできました。では具体的に、私たちはどのように神さまに祈ったらよいのでしょうか。それが本日の学びです。

主イエスさまが弟子たちに祈りを教えられたことはマタイとルカの二つの福音書に伝えられています。本日はルカ11章を読んでいます。1節です。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。」イスラエルの人々の社会は神さまを知らない社会ではありません。皆が聖書に啓示された神さまを信じて従う神の民だったはずです。それなのに、弟子たちがイエスさまに祈りについて改めて教えてくださいとお願いしている。私たちは何となく意外な感じがするのではないでしょうか。

その当時エルサレムには壮大な神殿があり、人々は祭のたびにエルサレムに大勢、国外からも集まっていました。祭司が香を焚き、犠牲の献げ物が屠られ、献金や十分の一の献げ物が捧げられて、立派な儀式が行われたことでしょう。しかし、そのような整った儀式の礼拝と、個々人の祈りとはかけ離れてしまっていたのかもしれません。形は整い、人々の目や耳を奪うほど美しいとしても、人々は心に何と祈って良いのか分からなかった。だからこそ、主イエスさまの前に現れた預言者ヨハネは、堕落してしまっていた礼拝儀式ではなく、「悔い改めて洗礼を受けなさい」と宣べ伝えました。そのヨハネが弟子たちに祈りのために指導していたのは当然のことであったかもしれません。

それではイエスさまの弟子たちはどうだったでしょうか。「洗礼者ヨハネが弟子たちにお祈りを教えているらしい。」「じゃあ、私たちもイエスさまに教えてもらおうではないか」というようなことだったのでしょうか。マルコ福音書には主の祈りについての記述はありませんが、1章を見ますと、イエスさまに呼ばれた弟子たちが、イエスさまに付き従って伝道の生活を共にした様子が見えてきます。21節から見ますと、イエスさまは安息日に会堂に入られ、み言葉を教え始められました。すると汚れた霊に着かれた人が、説教を遮る。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と。イエスさまの前に立ちはだかる悪霊に、イエスさまは「黙れ。この人から出て行け」と一喝され。追い出されました。

また弟子のシモンとアンデレの家に行くと、イエスさまは熱を出して寝ていたシモンの姑の手を取り、姑はすぐに癒されました。日が沈み夜になって安息日が終わりました。その時を待っていたかのように、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスさまのところに連れて来たというのです。弟子たちはイエスさまがいろいろな病気にかかっている大勢の人々を癒すのを見ていました。また、多くの人々から悪霊を追い出されるのも見ました。それはどんなに悲喜こもごもの大騒ぎであったことか、決して十分に想像することができません。言ってみれば野戦病院さながらの光景だったのではないでしょうか。

イエスさまは地上に在って私たちと同じ人間であられ、肉体の限界の中を生きておられましたから、このような大騒ぎの伝道の活動に、イエスさま御自身お疲れにならないはずはありません。まして弟子たちはイエスさまの周りに押し寄せて来る人々の応対に疲れ果てて、仕事が終わると泥のように眠ったに違いありません。しかし、朝早く暗いうちにイエスさまは起きて、人のいないところに行ってお祈りをしておられました。弟子たちは起きて、イエスさまがいないのに気付き、さあ、どちらへ行かれたかと捜し回る、という生活の様子が分かります。

イエスさまの弟子たちは、このようなイエスさまのお姿を見て、何を求めたでしょうか。それは祈りでした。彼らは病人を癒す技術を尋ねたのではありません。悪霊の追い出し方を教わろうとしたのではありません。確かに弟子たちはイエスさまのご復活後、そのような力をも与えられました。しかし、彼らはイエスさまの弟子としてなくてはならないものは何かを理解したに違いありません。イエスさまに従う者はイエスさまの祈りを知らなければならないと思ったのです。イエスさまの祈りを知りたいと思ったのです。あのように心を込めて人々に向き合い、人々の苦しみ、悩みの根本を見極め、人々を縛り付け、がんじがらめにしている悪の力、悪霊の支配、神さまに敵対する勢力に立ち向かうイエスさま。その力の源は祈りにあると思わずにはいられませんでした。だからこそ、疲れ果てて倒れ込むような夜も、神さまを仰ぐために祈りへと立ち上がるお姿があることを、弟子たちは知っていました。

こうしてイエスさまが教えてくださった祈りについて、私たちは順番に学んで参ります。主イエスさまは弟子たちに祈りに用いる言葉を細かく規定したのではありません。そうではなくて祈るべき内容について教えてくださいました。すなわち、わたしたちの願いや祈りの目的が何か、何でなければならないかということのみを指摘しておられるのです。主の祈りは、六つの部分から成り立っています。それは六つの願いです。この願いによって神さまに求めることが許されている、その内容が私たちに示されました。まず、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」が最初の三つです。これらは神の栄光に関するものです。後の三つは「私たちに必要な糧を毎日与えてください。私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に合わせないでください」で、これらの祈りはわたしたちの救いのために必要なものです。

私たちはちょうど去年十戒を学びました。それで神の戒め、律法が二枚の板に分けられてあることを思い出す方もいらっしゃると思います。第一は神の栄光を讃えるための戒めでありました。そして第二は隣人に対する愛の戒めであります。祝福されて生きるために、神を愛し、人を愛しなさいと命じられているのであります。この祝福は永遠の命に至る祝福であります。この戒めを守ることのできない罪人を救うために、イエスさまが地上に人となり、人の罪を贖って、罪人に救いの道を開いてくださいました。

そのイエスさまが教えられた祈りも、十戒のように、まず第一に神の栄光を讃えるための願いで始まりました。まずこの願いを祈り求めてこそ、私たちは正しい方法で祈る準備が出来たことになるのです。私たちは、すぐに自分の願いにとびつく者ではないでしょうか。すぐに自分の損得を計算するのではないでしょうか。私たちは「隣人を自分のように愛しなさい」との目標から程遠い人間なので、祈りの目標も、目的も真に貧しいと、さもしいものになりかねません。しかし、こういう私たちが自分に関わることだけを考え、はるかに重要である神の国のことを考えないならば、私たちの祈りは主イエスさまのお心とは程遠いものになるでしょう。

イエスさまが朝暗いうちに人里離れたところで祈られた祈りを思います。詩編121篇の祈りは、神さまを礼拝するために神さまの家に向かう人の歌です。都に上る歌。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」

この歌には、神さまをほめたたえる讃美が溢れています。詩人は自分を救ってくださる神さまをどんなに信頼していることでしょう。神さまは、信頼して従う者を必ず助けてくださる。必ず救ってくださる。イエスさまも真の人としてこの信頼を神さまに捧げてくださったのです。そしてよろめく足で世の旅を続ける私たちを守るために、すべての災いを遠ざけて救うために、御自ら私たちの贖いとなってくださいました。主をほめたたえましょう。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美致します。あなたの憐れみが全世界の主に従う教会の群れに注がれますように。そしてどんな苦難、困難の中にあっても、私たちの救いのためにすべてを忍んで十字架の贖いを成し遂げてくださった主イエス・キリストを思い、感謝を捧げます。わたしたち心新たに主の教えに従う者となりますように。

本日はどのように祈れば良いか、について教会の信仰を学びました。主が教会に教えてくださった祈りをよく理解し、生涯の宝として真心を込めて祈るようにお導きください。先週は藤野先生ご夫妻より、1月8日に成宗教会長老会からお送りした招聘状の受諾状をいただきました。すべてが御旨に従って導かれたことを信じ、心から感謝を捧げます。全国にある多くの教会が少子高齢化の中で、困難を抱えています今、成宗教会は主の憐れみと励ましをいただいて後任の先生方をお招きし、広く長く地域連合長老会と共に交わりと学びをすることで、主の体の教会を形成するあなたの御業に仕えることができますように。

これから4月の新年度着任に向けて、新しい体制を整えることができますように、どうか長老会とそれを支える信徒の方々を励ましてください。藤野雄大先生、美樹先生に伝道者としての大きな志を与えられた神さま、どうか成宗教会が先生方をお迎えし、心を合わせて共に主の教会に仕え、共にあなたから豊かな祝福を受けることができますように、どうかお導きください。

先週の主の日に地上の生涯を閉じられた野方町教会員、桑原信子姉妹のことを覚え、あなたに感謝を捧げます。桑原姉はお病気の辛さを乗り越えて、全身全霊を以てこの教会の礼拝に奉仕してくださり、あなたに喜ばれました。そして私たち成宗教会には励ましと感謝を残してくださいました。桑原姉を励ましてくださった主よ、どうか私たちをも励まし、弱い時にも、あなたに愛されているこの愛に応えて喜んで奉仕する群れとならせてください。尽きない感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。