主日ペンテコステ礼拝説教
《賛美歌》
讃美歌177番
讃美歌291番
讃美歌352番
《聖書箇所》
旧約聖書 イザヤ書 55章6節 (旧約聖書1,152ページ)
55:6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
新約聖書 ルカによる福音書 11章1~13節 (新約聖書127ページ)
◆祈るときには
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
《説教原稿》
本日は「聖霊降臨日」ペンテコステと呼ばれ、教会の生まれたことを記念する日です。
この「ペンテコステ」という言葉は、旧約時代のイスラエルの三大祭りである、出エジプトを記念する「過越祭」、その「過越祭」で大麦の初穂の束をささげる日から数えて7週間目の「七週の祭り」が起源です。出エジプト記に既に見られるこの祭り(出34:22)は、過越祭から7週即ち49日空けて50日目に行なわれる祭りです。これは10日間が5回来るというギリシャ語のペンテーコンタ・ヘーメラスと呼ばれ、日本語で「五旬節」と呼ばれるのです。イスラエルの三大祭りはこの「過越祭」と「五旬節」の2つに「仮庵祭」が加わったものです。旧約時代は、大麦の収穫の終りを意味し、次の小麦の収穫が始まるお祝いでした。そのため出エジプト記では別名の「刈り入れの祭り」(出23:16)とも、民数記では「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれていました。これらの祭は、既にソロモン王の時代にはイスラエルの「三大祭」として守られていました(Ⅱ歴8:13)。何故、教会の生まれた日であるかは、使徒言行録2章1節以下にあるように、主イエス・キリストの十字架の死から復活と昇天の後、この「五旬節」の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっていた時に、天から聖霊が送られたことによるのです。聖霊が天から弟子たちに下り、新しい命、力、そして恵みがもたらされ、弟子たちを中心にして教会が形作られました。このことから「五旬節」が「聖霊降臨日」、教会誕生の日となったのです。
本日のルカによる福音書第11章は私たちが礼拝でささげる「主の祈り」についてかかれているところです。冒頭に、「イエスはある所で祈っておられた」とあります。ルカはこれまでにもたびたび、主イエスが祈っておられる姿を語ってきました。
他の福音書よりルカ福音書は主イエスが祈りの人であられたことを強調しているのです。祈りは、基本的に神様との一対一の対話です。祈る自分と相手である神様とが、どちらも生きており、意志を持っており、言葉を持っている者であり、人格的な交わりであるのが祈りです。
主イエスは、祈りの中で、神様に「父よ」と呼びかけておられます。神様のことを「父」と呼ぶことは、旧約聖書にもないわけではありません。しかしそれはあくまでも、神様の威厳や力、慈愛、守り、導きといったことを表現するための譬えでした。ここで、主イエスが「父よ」と祈られた時にはそれは、ご自分と神様との間に、父と子の深い信頼関係があることの表明だったのです。主イエスと父なる神様との間には、父と子としての一体性、信頼と愛に満ちた人格的な交わりがあるのです。そのことを表しているのが、「アッバ」という言葉です。主イエスが神様に「アッバ」と呼びかけて祈っておられたことを他の福音書が伝えています。これは、小さな子供が父親を呼ぶ言葉、日本語で言えば「父ちゃん」とか「パパ」とでも呼ぶような言葉です。主イエスはそのような親しみを込めた言葉で神様に呼びかけ、祈っておられた、それはユダヤ人たちの常識からすると驚くべきことでした。主イエスの祈りがユダヤ人たちや弟子たちを驚かせたのは、主イエスの神様との交わり方が変わっていたからです。弟子たちは主イエスが神様との間に持っておられる、父と子のような信頼と愛の交わりに驚き、自分たちが知らない、体験したことのない祈りの世界にあこがれを持って、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのです。この願いに答えて主イエスが、「祈るときには、こう言いなさい」と教えて下さったのが、この礼拝においても共に祈る、「主の祈り」です。この祈りを教えることによって主イエスは弟子たちを、そして私たちを、主イエスの祈りの世界へと招いて下さっているのです。主の祈りとはこのように、私たちを、主イエスを通して与えられる神様との新しい交わりへと招き入れるものです。主の祈りを祈ることによって、私たちは、神様との新しい関係に入ることが出来るのです。神様との間に、新しく父と子としての信頼と愛の関係を持つことです。しかもその関係は私たちの努力や精進によって獲得できるのではなく、主イエス・キリストの一方的な恵みによって与えられるものなのです。
2節の「主の祈り」の冒頭、「御名が崇められますように」とあります。これが第一の祈りです。「崇める」とは「聖なるものとする」という意味です。私たちも、かつては神様を父として認めず、自分が主人になって生きようとする罪によって神様の聖なる御名を汚していました。その結果、神様との良い関係を失い、まことの父を見失っていたのです。しかし神様は、独り子イエス・キリストを遣わし、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さいました。私たちが、まことの父である神様の子として、神様とのよい関係に生きることができるようにして下さったのです。
私たちは主イエス・キリストの十字架の御業によって今や、神様を父と呼び、信頼し、愛して生きることができます。しかしその御業はまだ完成してはいません。それが完成するのは、世の終わりに私たちが永遠の命を与えられる救いの完成の時です。それは同時に、神の御名が完全に聖なるものとされる時でもあります。その終わりの時まで、私たちは、「御名が崇められますように」と祈りつつ生きるのです。
「主の祈り」の第二の祈り願いは「御国が来ますように」です。御国とは神様の国ですが、その「国」とは支配という意味です。神のご支配が実現しますように、というのがこの祈りの意味です。「御名が崇められますように」の場合と同じように、これも神ご自身がして下さることです。神の御国とは、私たちが地上に建設するものではなくて、神様が招き入れてくださるところなのです。そのことは、主イエス・キリストによって決定的に実現しました。神の御国、私たちへの神のご支配は、主イエスの十字架の死と復活によって、罪を赦し、私たちを神様の子供として新しく生かし、復活と永遠の命を約束して下さるということで実現したのです。しかしこれも、まだ完成はしていません。それが完成するのは、復活して天に昇られた主イエスが栄光をもってもう一度来られ、今は隠されているそのご支配があらわになる時です。その時、今のこの世は終わり、神の御国が完成するのです。私たちはその時まで、「御国が来ますように」と祈りつつ生きるのです。
祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主イエスが、それを補足するように5節以下に一つのたとえ話を語られました。
真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、という譬えです。なぜかというと、別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったが、その人に食べさせるものが家になかったからです。連絡もなしに突然、しかも夜中になって訪ねて来るなんてなんて非常識な奴だ、というのは私たちの常識です。しかし、当時のユダヤ社会においては、旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて援助を求めることができました。またそれを求められた人はできる限りのことをして旅人をもてなさなければならないのが常識でした。なぜなら、当時の旅行は文字通り命がけのことであり、空腹や渇きによって行き倒れてしまう人が多かったからです。ですから客人をもてなすというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っており、逆に旅人をもてなさず、受け入れないというのは、その人を見殺しにするということでした。ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然のこと、なすべきことでした。ところが家にはあいにくパンが全くない。そこで、近くにいる友人の家に助けを求めていった、というのがこのたとえの設定です。しかしもう真夜中です。友人の家の戸口をドンドンとたたき、「パンを三つ貸してください。旅行中の友達に出すものがないのです」と大声で叫んだらどうなるか。7節「すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。真夜中にこんなふうに訪ねて来られることは当時だってやはり迷惑です。しかし主イエスがこの譬えによって語ろうとしておられることは次の8節にあります。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。確かにこんなことは迷惑なことだから、たとえ友達でも断られるだろう、しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるのだ、と主イエスは言っておられるのです。
このような譬えを語られた上で主イエスは9節で、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とおっしゃいました。
これは、祈りについての教えです。主イエスは、祈ることを教え、祈りの言葉を教えると共に、祈りにおける心構えを、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると信じて祈るように、と教えられたのです。
しかし、ここで私たちが神様にしつこく祈り続けることによって、神様もついに根負けして、これ以上面倒をかけられたくないから仕方なく聞いて下さるということなのか、私たちと神様との関係はこのようなものなのか、という疑問が湧いて来ます。またもう一つ、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。祈って求めればそれは必ず与えられるのだろうか、祈り求めても叶えられない、与えられないものがある、ということを私たちは体験しているのではないか。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできない、と感じることも多いのではないでしょうか。
これらの疑問への答えは、11節と12節に「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」とあります。親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを与える親はいない。それを受けて13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」ともあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」というのは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、ということです。私たちは、神様をないがしろにし、隣人を本当に愛することできずにいる罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供を愛しており、良い物を与えようとします。
私たちは罪人であっても子供には良い物を与えようとする。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。これこそが主イエスが言おうとしておられることです。主イエスは、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を通して、それよりもはるかに大きく深く広い、天の父である神様の愛を見させようとしておられるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、天の父である神様が喜んで、進んで、あなたがたに良い物を与えようとしておられる、ということを語っているのです。この言葉は、しつこく求めれば得られる、ということを語っているのではなくて、天の父である神様がどれほど私たちを愛して下さっているのか、ということを語っているのです。
そしてこの13節において注目すべき大事なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。その聖霊が与えられると私たちはどうなるのでしょうか。それは、ローマの信徒への手紙の8章14節と15節に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。ここに、神の霊即ち聖霊が私たちの内でどのような働きをするのか、聖霊が与えられるとどうなるのか、が示されています。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけられる「神の子」とされるのです。天の父が、求める者に聖霊を与えられ、私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。
求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというこの御言葉は、神様が私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛し、父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んで下さるという約束を語っているのです。私たちも、親は子に、その求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりになる、ということではありません。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今はあたえるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもありますが、そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことであるならば、天の父、まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。「求めなさい。」で始まる御言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。
主なる神との出会いと交わりが与えられることこそ、祈りが聞かれることなのです。私たちの祈りに応えて神様が聖霊を与えて下さり、聖霊が私たちを御子イエス・キリストと結び合わせて下さり、神様との間に、父と子という関係を、交わりを与えて下さるのです。それが、祈りにおいて与えられる恵みです。この恵みを信じて祈りなさい、と主イエスは教えておられるのです。
本日の11章1節から13節はひとつながりの箇所です。主イエスは祈りを教え、具体的な祈りの言葉「主の祈り」を与えて下さいました。その祈りにおいて私たちは、神様に向かって「父よ」と呼びかけ、つまり神の子とされて生きる恵みを味わいます。その恵みの中で私たちは、神の御名こそが崇められることを求める者となります。神のご支配の完成、御国の到来を求めつつこの世を生きる者となります。私たちが生きるために必要な糧を全て神様が与えて下さることを信じ、神様の養いを日々求めて生きる者となります。また自分が神様に対して罪を犯しており、自分の力でそれを償うことはできないことを知り、神様による罪の赦しを祈り求める者となります。そしてそのことは、自分に対して罪を犯す者を自分も赦すということなしにはあり得ないことを思い、赦しに生きることを真剣に求めていく者となります。常に誘惑にさらされ、神様の恵みから引き離されそうになる自分を守ってくださいと祈り願いつつ歩むものとなります。神様はこの私たちの祈りを天の父として聞き、私たちに本当に必要なものを与えて下さいます。私たちに本当に必要なものは、神様との父と子としての関係、交わりです。その関係を築いて下さる聖霊、神様の子とする霊を、神様は与えて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスと共に神様を父と呼ぶ者とされ、主の祈りを心から祈る者とされるのです。「主の祈り」とは、祈りの言葉の一つではなくて、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。「主の祈り」を祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。
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