神の国の訪れ

10月の説教

説教箇所 ルカによる福音書19章11-27節

説教者 成宗教会副牧師 藤野美樹

 本日与えられました御言葉は、「ムナのたとえ」という、主イエスが語られたたとえ話のひとつです。

このたとえ話は、マタイによる福音書25章14節から記されている、タラントンのたとえと良く似ていると言われます。そしてまた、解釈が難しいと言われるたとえ話でもあります。この話には、二つの要素が含まれています。一つが「ムナのたとえ」、もうひとつは、「敵対者たちに対する、王の復讐の物語」です。

まず、この難解なたとえ話しを理解するために、主イエスが、どのような脈絡で、このたとえをお語りになったかということを理解するのは重要なことだと思います。

ルカによる福音書をさかのぼりますと、9:51にはこのように記されています。

「イエスは、天に上げられる時期が近付くと、エルサレムに向かう決意を固められた。」。9:51から、主イエスが、十字架にお架かりになるために、エルサレムへ向けた旅路が始まっていることがわかります。そして、ムナのたとえが語られた直後、19:28で、主は子ろばに乗って、エルサレムへ入城されると記されています。

「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムへ上って行かれた。」

つまり、ムナのたとえ話は、主が十字架に架かるため、エルサレムにとうとう入城される、その直前に語られたたとえ話だということがわかります。

そして、19:1から11節のつながりを読むと分かるように、主は「ムナのたとえ」を、徴税人ザアカイの家で、語られたということも分かります。人々がザアカイの家で、主イエスの話に聞き入っていた時に、「ムナのたとえ」は語られました。

徴税人ザアカイの物語は、今は詳しく説明する時間がありませんが、ザアカイの家で何が起こったかというと、ザアカイは主イエスと出会ったことにより、ザアカイは本当の救いを見ました。それまで一番価値あるものだと思っていた、財産を手放そうと思えるほどの幸いを知ったのです。それは、主イエスというお方と共にいること。主イエスという、真の救い主であり、真の王であるお方との出会いが、ザアカイの人生を変えたのです。主イエスは、その時こうおっしゃいました。

「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 この出来事を目の当たりにして、ある人々は、徴税人の家にお泊りになる主イエスを批判し、またある人々は、主イエスの言葉に聞き入って、主イエスこそ、私達が待ち望んできたメシア、救い主なのではないか、と期待を膨らませていたのです。当時の人々は、ダビデ王のような、イスラエルの国を立て直してくれる、政治的にも卓越した王様を待ち望んでいました。人々は、主イエスを地上的な王様として期待し、政治的な意味で、自分たちが待ち望んでいる王国が到来すると思っていました。

そのような人々の思いに対して、主は、本当に待ち望むべき真の王とはどのような方か、真の神の国とは何なのか、そして、神の国を待ち望む私たちの姿勢はどのようであるべきか、ということを、本日のたとえ話によって示されたのだと思います。

実際に、このたとえを読んでみたいと思います。

12節「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。」 

この出だしを聞いた時、当時の人々はすぐにピンときただろうと言われます。なぜなら、このたとえの背景に、本当にあった歴史的な出来事があると言われているからです。

それは、紀元前4世紀、ヘロデ王の息子、アルケラオという人の話です。マタイ2:22のクリスマスの物語に、このアルケラオの名前が出てきます。ヨセフとマリアが、ヘロデ王から逃げるため、赤ん坊の主イエスを連れてエジプトへ避難した場面があります。ヘロデが死ぬと、ヨセフの夢に天使が現れて、再びイスラエルに戻るようにお告げがあったのでヨセフたちは戻りましたが、「アルケラオが、父ヘロデの跡をついで、ユダヤを支配していると聞いて、恐れた」とあります。

アルケラオは、ローマの皇帝から、ユダヤを統治するための王権を得る為に、ローマへ旅立ちます。ところが、アルケラオという人は、残虐行為を次々に行う評判の悪い人物でした。なので、ユダヤ人の代表者は、ローマ皇帝に頼んで、アルケラオの任命を妨げようとしました。それでも、結局は、アルケラオは王位を受けることになり、彼に敵対した50人のユダヤ人が殺されてしまったという歴史的な事件があるそうです。

たとえの中の「王」は、恐ろしい王様、アルケラオを彷彿とさせますが、その王は、主イエス御自身にたとえられたのだと、考えることができます。12節で「遠い国へ旅立った王」とあるように、主イエスもまた、これからエルサレムで十字架にお架かりになり、死なれようとしているのです。

そして、14節で「国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、我々はこの人を王にいただきたくない」と言ったように、主イエスは十字架にお架かりになる時、人々から憎まれ、さげすまれるのです。23:26からの、主が十字架につけられる場面には、主イエスを憎む人々が主を十字架に架けたあと、こう言ったとあります。

「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救って見るが良い。」

さらに、主は侮辱されて「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。その時、主が架けられている十字架には、「これはユダヤ人の王」という札が掲げてあったと言います。

ルカによる福音書は、主イエスのお誕生の場面でも、この世界には、主のお誕生の時から、人々には主イエスというお方を受け入れる余地がなかったことが記されています。つまり、主イエスのお誕生から、十字架の死、さらに、主の復活、昇天の出来事にいたるまで、主イエスというお方は、いつも人々にとって、期待通りのお方ではなかったという事が出来ます。主イエスは、人々が期待していたこの世の王様のように、政治的に優れ、富と権力に溢れた、王様ではなく、人間の罪の救いのために十字架にお架かりになり、死なれた王であったのです。でも、主イエスの御生涯は、ただ十字架上の死で終わったのではありませんでした。神様は、主イエスを復活させられ、昇天されて、高く天に引き上げられ、主は神様の右に座れられて、「真の王」となられたのです。

主イエスは、人々が期待するようなお方ではなく、もっとも低いところに降られた方でした。主イエスは、この世の王様のように、「金や銀ではなく、十字架上で、御自分の尊い血によって」私たちを罪から救ってくださいました。わたしたちのすべてを御自分のものとして、愛してくださった、ただ一人の「真の王」であられます。

そのような真の王である主に対して、わたしたちがどのように生きるべきか、ということが、13節からの「ムナのたとえ」では語られて行きます。

そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『私が帰ってくるまで、これで商売をしなさい』と言った。」

 「わたしが帰ってくるまで」と言われていますが、それは、主イエスの再臨の時、終末の時、ということができます。神の右に座しておられる主イエスが、再び来られる時まで、私達がどのようにして待っているべきか、ということがこの「ムナのたとえ」で語られています。

 王位を受けた王が、旅から帰ってきたとき、1ムナずつ預けられていた僕たちが、王の前に呼ばれました。そして、王が留守にしている間に、それぞれの僕が託されていた1ムナで、どれだけ利益を得たのか、問われます。

最初の僕は、こう言いました。「あなたの1ムナで10ムナ儲けました。」すると王は、「良い僕だ、良くやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう。」

次に、二番目の僕がやって来ました。「御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました。」。すると、王は、「お前は5つの町を治めよ。」と言いました。

そして、3番目の僕は「これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」。それに対して、王は、「悪い僕だ、その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だということを知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰ってきた時、利息付きでそれを受取れたのに。」

そして、この三番目の僕、1ムナを布に包んでしまっておいた僕は、罰をうけます。王は言いました。「その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ。」

 このたとえは、初めに申しましたように、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」とよく似ていますが、違いもあります。違うところはまず、「1タラントン」という単位は、賃金20年分という莫大な額であるのに対して、「1ムナ」というのは、タラントンの60分の一という、小額な金額であるというところです。1ムナという金額は、王にとっては本当に小さな額です。でも、その1ムナであっても、5倍、10倍に増やすことに熱心な王の「貪欲さ」が表れています。

そして、もうひとつは、タラントンのたとえとムナのたとえで違うところは、僕たちが主人から預けられた金額が、ムナのたとえでは、みな1ムナという等しい額だったという点です。つまり、私達には、神様から、同等の責任が与えられている、と理解することができます。でも、たとえの中で、5ムナの利益を得た僕も、10ムナの利益を得た僕も等しく主人から喜ばれたように、私たちは、みな同じ収益を得ることが求められているのではないのです。ただ、私たちに求められているのは、主人である神様、から与えられている財産に対して、たとえそれが私たちには僅かなものに思えたとしても、それぞれがどれだけ、忠実に、献身をしたか、ということが求められているのです。たとえの中の、第三の僕は、僅か一ムナであっても、その一ムナを用いて、主人のために尽力しなかったので、その一ムナさえ取り上げられてしまうのです。

私たちひとりひとりには、このたとえの僕のように、等しく、神の国の財産が託されています。その財産というのは、「みことば」や「信仰」と言うことができると思います。それは、わたしたち自身のものではなく、神様から託されている、主人の財産です。それは、主イエスの十字架と復活という出来事によって、神様が私達に与えてくださった、賜物です。

ともすると、私たちは、自分の信仰が弱いから、とか、賜物はもっていないから、わたしには何もできないのです、と嘆くことがあります。でも、ムナのたとえを聞くとわかるように、私達に預けられた賜物はみな同じです。10人にひとりひとりに、1ムナずつなのです。その1ムナを、主が再び来られる、再臨、終末の時までに、どう生かすか、が求められています。それは、主から託された、信仰生活の一生涯の課題と言えます。

主イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた。」とおっしゃったように、すでに、主はこの世にきてくださり、神の国の支配は始まっています。でも、それと同時に、わたしたちは、その神の国が完成する日に向けて、希望をもって歩む者でもあります。

その信仰生活のなかで、主は、貪欲に、厳しく、私達に求められます。私たちが、神様から託されている賜物を、どれほど熱心に用いているかということ。第三の僕のように布に包んでしまっておくならば、「持っているものまでも取り上げられる」と主はおっしゃいます。でも、わたしたちが、たとえ僅かしか持っていないと思っている賜物でも、それがどうなるか、神様に委ねて、その賜物を精一杯用いて、神様と堅く結びついて、忠実に生きるのなら、私達の1ムナは、計り知れないような豊かなものになることが約束されています。