7月の説教
聖書箇所 ルカによる福音書7章36-50節
説教者 成宗教会牧師 藤野雄大
「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(ルカによる福音書7章50節)
主に在る兄弟姉妹の皆様、本日も、主の御言葉を共に聴きましょう。
本日示されました新約聖書の箇所は、ルカによる福音書7章36-50節です。今日の箇所では、ファリサイ派のシモンという人の家にイエス様が招かれた時のことが記されております。イエス様たちが、シモンの家にいると、そこに一人の「罪深い女」といわれる人がやってきて、主イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、さらに接吻して香油を塗ったのでした。
この罪深い女というのが、誰であったのか、その名前をなんといったのか、それは、記されていません。例えば、伝統的な教会の理解では、この罪深い女を、他の福音書に描かれる、主イエスの頭に香油を注いだとされる女、あるいはベタニアのマリアと同じ人物であるとされてきました。確かにマルコによる福音書14章では、重い皮膚病を患うシモンという人の家に主イエスが招かれた時に、主イエスの頭に香油を注いだ女の人がいたという類似した記事が記されています。
もしかしたら似たような出来事が、何度かあったのかもしれません。あるいは同一の出来事が、それぞれの福音書に異なる形で載せられたと考えることもできるかもしれません。しかし、この女性が誰であったのか、それをはっきりと断定することは、今日の私たちにはできません。ただその女性が罪深い女であったとだけ、私たちは知ることができます。そして、その罪とは、売春、あるいは性的不品行を指すものであったと言われています。確かなことは、その女性が、罪深い存在であること、当時のユダヤ教の道徳や宗教的慣習に反する行いをしていることが、町の人々には広く知られていたということです。
そのことは、ファリサイ派のシモンの言葉にも表れています。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。」(39節)。
このシモンの言葉には、彼の二つの思いが表れていると言えます。一つは、この罪深い女に対する批判あるいは怒りです。シモンは、この女性がユダヤ教の基準からすれば、罪を犯していることを知っています。ファリサイ派であったシモンは、ユダヤ教の教えを守ることに熱心であり、自分を正しい人間であると考えています。ですから、そのような罪深い人々と関わりを持つことなどありえないことでした。それが、突然、自分の許しも得ずに、この罪深い女が勝手に自分の家に入り込んできたのです。そして、主イエスの足に香油を塗ったのです。それは、客である主イエスに対しても、また家の主人であるシモンに対しても、無礼なことでありました。シモンの面目をつぶすことになるからです。
しかし、一方で、シモンは、この女性を無理に追い出したりはしません。むしろ彼は、一歩引いて、主イエスであればこの事態をどのように対処するのか、事態を伺っています。「預言者ならば、この女がどのような人であるか分かるはずだ」。そのシモンの言葉には、主イエスの期待あるいは主イエスを試すような彼の気持ちが込められています。
この言葉が示すように、シモンは、ファリサイ派でしたが、同時に、主イエスのことを真っ向から敵対視していたわけではなかったでしょう。むしろ、自分の家に招いて、食事を共にしようとしています。ユダヤ社会において、食事を一緒にするということは、その人を自分の仲間であるとみなすことです。ですから、シモンは、むしろ主イエスに対して、一定の興味や関心をもっていたといえます。もしかしたら主イエスは、真の預言者であるかもしれない。そのように思っているわけです。そこで、彼は、この罪深い女にイエス様が気づくかどうかを試そうとします。
そのシモンの思惑に対して、主イエスは、シモンの想像をはるかに超えた言葉を語られます。41節から42節に記されている主イエスのシモンに対する問いかけに注目しましょう。「イエスはお話しになった。『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は5百デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうちどちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』」
この主イエスの問いかけには、主が、その女性がどのような人であったかをご存知であることが暗示されています。ご自分の足を拭った女性が、神に対して大きな負債を負っていること、つまり、これまで深い罪を犯してきたこと、また罪の赦しを心から願っていることをご存知でした。そのことを言い当てることによって、ここで主イエスは、真の預言者であることを示されたのです。
さらに、主イエスは、その後で、愛と赦しの関係を語られます。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47節)
赦されることの少ない者は、愛することも少ない。どれだけ自分が罪深いものであるか、自分の罪の深さを知る者は、罪からの赦しを心から願います。そして、罪から赦された喜びを、主イエスへの愛によって表現しようとします。
おそらく、この罪深い女は、この出来事以前に、どこかで主イエスの教えに触れたことがあったのでしょう。直接、主イエスの教えを聞いたのかもしれませんし、あるいは人づてに主イエスのことを知ったのかもしれません。そして、主イエスが、自分の罪を赦してくださる方であることに望みをかけていたからこそ、今日のような大胆な行動にでたのでしょう。
他人の家に勝手に入り込んで、そこにいる客の足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、接吻して、香油を塗るというのは、よくよく考えてみれば、非常識とも言える光景です。しかし、その非常識さの中に、この女性がどれほど自分の罪深さを痛感し、またそこからの赦しを、解放を願っているかが示されています。
一方、ファリサイ派のシモンは、たしかに主イエスにある種の好意を持っていましたが、自分の罪の赦しをねがっての行動ではありませんでした。世間で話題になっている人だから、有名な先生だから、主イエスを招いたのであって、自分のすべてを主の前にさらけ出す気持ちはありませんでした。それが、シモンと罪深い女の決定的な違いでした。
この二人の違いを示された後、主イエスは「あなたの罪は赦された」と女性に宣言されます。預言者として、その女性の正体を見抜かれただけでなく、罪の赦しを宣言されたのです。罪の赦し、それはただ神様以外にはできないことです。それを主はここではっきりと宣言されます。この言葉には、主イエスに自らを委ね、心から悔い改めるものは、主イエスによって救われるということが示されています。
古代教会では、今日の箇所は、しばしばユダヤ教とキリスト教の違いを示すものとして理解されてきました。すなわちファリサイ派のシモンは、ユダヤ教を象徴し、罪深い女性はキリスト教会を象徴するものと考えたのです。主イエスは、最初、シモンの家、つまりユダヤ人の間に来られますが、彼らは主イエスを受け入れません。主イエスを心から受け入れ、愛したのは、罪深い女であったのです。
この古代教会の解釈は、今日の聖書学では受け入れられないものかもしれません。しかし、一方で、感心させられるのは、それでもなお古代教会の聖書の読み方には、一定の真理が込められているということです。それは、教会というものが、この罪深い女と同じように、罪に呻き、また主イエスに罪を赦された者の集いであるということです。今日の聖書箇所は、読む者全てに、自分がシモンなのか、罪深い女性なのかを突きつけます。
自らをシモンであると考える人、つまり自分の罪を認めない人に、主イエスを本当に受け入れることはできません。そして、主イエスを受け入れ入れないがゆえに、赦されることもなく、また真の愛を知ることもできません。しかし、自らの罪を認め、心から悔い改めるならば、その時、主イエスを救い主と受け入れることになります。
宗教改革者のマルティン・ルターは言いました。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。しかし、大胆に祈り、大胆に悔い改めよ」と。ルターが言う「大胆に罪を犯せ」というのは、わざと罪を犯せ、わざと悪いことをしろというものではありません。罪とは、そのような単純なものではないからです。ルター自身も、長い間、自分自身の罪に悩み苦しんだといいます。罪とは、自分自身の生き方を変えられないという嘆きです。罪とは、生き方そのものに関わるものです。
今日の聖書箇所に登場した罪深い女が、一体どのような罪を犯したのか、具体的には知ることはできません。しかし、いずれにしても、それは彼女が、望んで、故意に犯した罪ではなかったはずです。むしろ、彼女は、そのように生きていく他なかったのです。自分では望まないけれども、他にどうすることもできない。それまでの生き方を変えたくても変えることができない。それこそが、人間の本当の罪であり、また悲惨です。本当の罪とは、私たちをこのように責めさいなむものです。しかし、その苦しみと嘆きの後に、罪深い女は、やがて主イエスを見出したのでした。それは、自らの罪を、自らの人生を変えてくださる方でした。
主イエスは、この罪深い女に、最後にこう言われました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(50節)あなたの信仰こそがあなたを救う。主イエスへの信仰によってだけ救われる。主イエスを信じることによって、全く新しい生き方をするようになるということです。
主イエスによって罪が赦され、この女性は全く新しい人生を歩むようになりました。しかし、それはこの女性だけではありません。ルターもそうですし、また私たち教会に集う者全てがそうです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」この主イエスの言葉は、今も、自らの罪に呻き、主イエスに依り頼む全ての者に向けられているのです。この御言葉に支えられて、平安の内を生きたいと思います。
祈りましょう。