神の指の働き

聖書:出エジプト記8章12-15節, ルカ福音書11章14-23節

 2017年は1月1日の礼拝から始まり、12月31日の礼拝で終わるという、礼拝に始まり、礼拝に終わる年でした。そしてクリスマスの礼拝と行事が24日の主の日に集中する、という年でもありました。カレンダーが今年と全く同じになった年は、2006年ですから、今から11年前ということになります。その時の教会役員の方々で現在の長老職を担っている方々は今はおられません。ご高齢やお仕事で退かれた方もおられます。また、この10年ほどの間に受洗され、転入された方々が新しく長老に選ばれるようになりました。

成宗教会は2013年に東日本連合長老会に加盟して、長老教会の一員として歩み始めましたが、このことも非常に大きな決断でありました。教会はこうして大きく変化したことを、改めて振り返っております。ただ、この教会に私が赴任して以来、変わらないものもございます。その一つは週報の裏側にある諸報告です。よく申せばアットホーム的な、問題にするならば個人情報に関わるものも報告しています。これは成宗教会が月報とか、季刊誌とか、より教会活動の報告文集的なものを編集発行していないので、その補いとして、あらゆる活動、教会員の最小限の消息など、記録に残すためでありました。

そういうわけで、本日の週報にも24日のクリスマスの報告を感想文的に載せております。もっと客観的に、事実を淡々と報告するのが良いのかもしれません。しかし、今回はあえてお名前を上げさせていただいた方々もいます。これは、一番目立った人の順ではなく、神さまのご配慮のうちに、目に見えて活躍した方も、お顔を見せることさえ出来なかった方も、共に一つになってこのクリスマスを迎えたことを感謝したいと思ったからです。

今の時代に生きるわたしたちには、本当はいつの時代でもそうなのでしょうが、多くの悩みがあります。本人自身のことはもちろん、親の悩み、子孫の悩み、配偶者の悩み、兄弟や、家族の悩み、仕事の悩み等々です。しかし、だからこそ、イエス・キリストは来てくださいました。悩み多い世に。私たちは今年も御子のご降誕をお祝いすることができました。前年よりは少なかったですが、それでも多くの人々がこの教会のクリスマスに来て下さいました。小さな御子の誕生は、その人々の中に来てくださったでしょうか。あなたの心に、イエスさまは生まれたでしょうか。私はそう訊ねています。

主イエス・キリストが来てくださったなら、私たちの内に住んでくださったなら、それは大変大きな出来事です。なぜなら、神の御子は無力なお姿でいらして、私たち、無力な者の心に受け入れられるならば、決して無力なままではおられないからです。神の国は近づいたと、洗礼者ヨハネは告げました。主イエスも言われました。神の国は神の御支配です。世の光として来られる方は、世の闇を追い出す方なのです。それこそが神の御支配の表れです。ではどのようにして闇を追い払ったのでしょうか。今日の聖書、ルカ福音書11章14節がその一つの証しです。

「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」主イエスは人々の病気を癒されました。また悪霊を追い出されました。主イエスが人々の病気を癒され、悪霊を追い出されたのは何の目的のためなのでしょうか。主イエスが口の利けなかった人から悪霊を追い出すと、何とその人は話すことができるようになりました。そんなことはあり得ない。今まで見たことも聞いたこともない。その奇跡に、人々は驚嘆しました。では、主イエスの目的は人々を驚嘆させるためだったのでしょうか。

モーセの物語である出エジプト記には魔術師が登場します。モーセと兄弟アロンがエジプトの王、ファラオに交渉に行って、イスラエルの民をエジプトから去らせるように頼みました。ところがファラオは全く耳を貸しません。そこでモーセとアロンは神が命じられる通りに、禍の奇跡を行いました。神はこんな恐ろしい禍をファラオの国に下すことができると。ところが、そこにファラオに仕えている魔術師がいました。彼らはモーセに対抗してファラオに言ったことでしょう。「王様、あんな魔法私たちだってできますよ。」こうして魔術合戦が始まります。ナイル川を血に染める魔術。蛙大発生の魔術。

しかし、モーセが魔術を使ったのは魔術合戦をするためではありません。ファラオを驚かせて、神の力の前に屈服させ、神の命令に従わせるためでした。神はファラオに命じられます。「あなたの奴隷となっているわたしの民を解放せよ!」と。さて、主イエスのなさった奇跡にも、目的がありました。それは人々をびっくりさせるためではありません。もちろん、主イエスの奇跡の業を見た人々は、「この方はすごい!」とか、「この方は一体どなただろう」と驚嘆したことでしょう。しかし、そういうことが目的ではないのです。主イエスは罪人の救いのために来てくださいました。それは、罪人、すなわち罪の奴隷となっているすべての人間に対して神の憐れみ、神の愛の表れであります。

私たちは皆罪人なのですが、神さまがそんなにも私たちを憐れんでおられるとは、大部分の人々が知らないのであります。むしろ、「私は同情されるような惨めな者ではない」と、内心高ぶっているのではないでしょうか。本当は、神に背いているところは、皆同じ人間です。ですから、主イエスも誰に対しても愛情と同情をもっておられます。神は皆同じ人間と思っておられる。しかし、そう思っていないのは人間の方なのです。ですから、主イエスは金持ちの青年が近寄って来て、「先生、救われるためには何をしたらよいですか」と尋ねた時にも、この人を慈しんで声を掛けておられます。

そこで主イエスは、だれもが大変な悩みだと思うような病人、悪霊にとりつかれた人々に対して奇跡を行ってくださいました。こういう人々は、すべての罪人の苦しみを目に見える形で苦しんでいるのですから。ですから、この人々に対する主イエスの深い憐れみ、慈しみは、神の愛を目に見える形で証ししていることなのです。ですから、あんなに人を苦しめ、支配していた悪霊は、主イエスの命令で人から追い出されたとき、何の力も発揮できず、何の抵抗できず、出て行くより他はありませんでした。このように、神の愛の力がどんなに強いものであるか、私たちは知っているでしょうか。信じているでしょうか。

主イエスの奇跡にこそ、神の国の到来を見るべきではないでしょうか。人々は奇跡を見て驚いたけれども、中には疑い深い人々がいました。彼らは救いを待ち望んでいる人々の中にいながら、実は神の愛も、神の御支配も信じたくない。信じないためなら、どんな努力でもする。どんな屁理屈でも考えるのです。そこで「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、更に天からのしるしを求める者もいました。

主イエスは、人に同情し、悪霊を追い出して、その人を口の利けない苦しみから解放してくださいました。しかしその結果、言われたことは『悪霊の頭ベルゼブル』です。これがどんなに侮辱的な言葉であったか、想像できないと思います。ベルゼブルとは、本来はバアル・ゼブブという言葉で、ペリシテ人の偽の神々の頭に与えられた名でした。(列王下1:2)  この偶像に備えられた多くの供え物のために神殿にたくさんの蠅がいたので、蠅の守護神を意味しているとも言われています。あるいは食べ物に群がる蠅の害から救われるために、この偶像に助けを求めたのではないか(カルヴァン)という説もあり、とにかくイスラエルの人々は、偶像に対する憎悪と嫌悪を表すために、悪魔をバアル・ゼブブと呼んだのであります。

こういうわけですから、悪意ある人々は、キリストが一般の人々から嫌われるように、「悪魔」、つまり、最大の敵と呼ぶことによって、考えられる限り最大級の非難を与えようとしたのでした。私たちも善意をもって、同情をもって何かをしたのに、思いがけず、非難され、軽蔑されるという経験をすることがありますが、聖書は主イエスがどんなに私たちに同情して下さったか、ということと、その結果はほめたたえられるどころか、悪魔、サタン呼ばわりされるというこれ以上ない侮蔑を受けたことを語り伝えているのであります。

しかし、私たちががっかりして、力を失う時も、心を閉じてしまう時も、主イエスは人々にがっかりして心を閉ざされることはなさいませんでした。主は悪意ある人々に順序よく教え諭されます。それは、私たちが時を経ても、所を隔てても御言葉に教え諭されることができるためなのです。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか。」

主イエスが悪霊を追い出したのは、悪霊の内輪もめの結果ではない。もしそうなら悪魔の支配は自己崩壊することでしょうが、実際には、悪魔は堅い一致団結によって、神の支配を来させないように、人々を自分の奴隷にしておくためにあらゆる手段を尽くして戦っているのです。主イエスが奇跡を行われたのは魔術合戦に勝つためではありません。モーセとアロンが魔術合戦を挑んで来るエジプトの魔術師たちと戦った時、ついに魔術師の力が及ばないところに達しました。魔術師たちは降参して、ファラオに言いました。『これは神の指の働きでございます』と。

その聖書にちなんで、主イエスは言われました。20節。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ。」神の指は神の愛の力です。私たちは無力だと感じることが多い時代です。私たちの内に多くの悩みや課題を抱えています。しかし、私たちの内にキリストが来てくださっているなら、嘆くのは見当違いではないでしょうか。確かに私たちは弱い。しかし、キリストの愛は奇跡を行われる神の指の働きに他ならないのですから。

21節、22節の例えは興味深いものです。強い人が武装しているというのは、神さまのことではありません。悪魔のことなのです。武装して悪魔の支配領域を守っている。しかし悪魔よりもっと強い者が襲って来る。悪魔より強いのは人間ではありません。絶えず、悪魔に唆され、おだてられ、騙されて、疑いを持たされ、脅され、たやすく支配されてしまう私たちだからです。しかしついに強い者が襲ってきて悪魔に勝つ。その人はだれでしょう。私たちの主イエス・キリストに他なりません。

勝利者キリストは悪魔から分捕り品を奪い返します。悪魔の支配下に苦しんでいた人々を奪い返し、神の国の御支配の中に配置してくださるのです。この目に見えない、ひそやかな戦いが進行中です。私たちの多くが家族で、職場で、また施設でただひとりのクリスチャンかもしれません。しかし、考えてごらんください。神はイエス・キリストによって私たちの内に戦いの拠点をあちこちに作っておられるのではないでしょうか。皆が密かに私たちを見ています。私たちが幸せに生きているかどうかと。お金のことではない、能力のことではない、健康のことですらないのです。たとえ、「ない、ない、ない」の、私たちであっても神の愛が私たちに注がれていることを、周囲は見ているのです。ここに神の国が来ているかどうかと。ここに救いがあるかどうかと。

ですから、この戦いは私たちの戦いです。私たちは、どちらの側について戦っているのかが問われています。主イエスは言われます。「わたしに味方しない者はわたしに敵対している」と。私は感じています。既に成宗教会の多くの方々が周囲から見られているだけでなく、当てにされていると。頼りにされていると。その家にとって、その職場にとって、その施設の中で、教会の皆さんが希望のもとになっていると。だから、私たちは、私たちの希望がどこにあるかをはっきりと自覚して生きる者となりましょう。主イエスによって神の愛が、神の指の働きが私たちと共にありますように。祈ります。

 

恵みと憐れみに富み給う教会の主、イエス・キリストの御父

2017年最後の主の日、私たちを御堂に集めて下さり、主の御名をほめたたえる礼拝を捧げさせていただいたことを感謝します。先週私たちは、クリスマスを無事にお祝いすることができ、恵み深い神の御名を世の人々にお知らせすることができました。

この年をも、私たちの不信仰と至らなさにも拘わらず、あなたは私たちを恵みで取り囲んでくださいました。私たちの言動によって教会の兄弟姉妹、家族、友人、また多くの人々を悲しませ、失望させることがございましたら、どうかその罪をお赦しください。あなたの御霊のお働きは罪人の救いのために人々を招くことでございますことを思う時、どうか私たちがあなたの喜ばしいお働きに賛同し、参加することができるために、私たちを新たに造りかえてください。どうか、私たちが家族、友人、社会に対して、あなたの愛と慈しみを、身をもって表す教会共同体となりますように。

成宗教会を地域連合長老会である東日本の諸教会と共に歩ませてくださったことを感謝します。また全国連合長老会を通して、日本基督教団を通して、全世界の主の教会を通して、主イエス・キリストの体の教会を建てるための戦いに参加させてくださったことを感謝します。目に見えて礼拝を守ることができるのは、真に小さな群れですが、あなたの目に大切に守られ、私たちの目の届かない所まで慈しみによって守られ導かれていることを感謝します。

どうか来る年も、主イエス・キリストを告白し、救われて主の体の肢に結ばれる人々を増し加えてください。また、私たちの貧しさを顧みてくださるあなたが、この教会の福音伝道のために、必要なすべてを備えてくださることを信じ、お願い致します。教会の礼拝と諸活動のすべてが福音のために清く用いられますように祈ります。そして今、お病気の方々、ご家族の労苦を負う方々の上に慰めと励ましと癒しをお与え下さい。

すべてを感謝し、御手に委ねて、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

天には栄光、地には平和

聖書:イザヤ書52章7-10節, ルカ福音書2章8-20節

 私たちは、クリスマスを祝うために、この年も、成宗教会の礼拝に集まることができました。私たちはしみじみ思うのです。礼拝に出席できる、ということは決して小さなことではない。むしろ大きな恵みなのだ、と。まず第一に元気がなければ来られない。そして元気があっても日曜日の朝にも、時間がない、休めない人々がいます。その上、出かけて来るにも電車賃も惜しまなければならない人々も増えているという社会であります。

しかし、健康がない、時間がない、お金がない、という人々が教会に多くなるにつれて、教会は活発になります。活発にならないではいられないはずです。なぜなら、私たちは主イエスがどのようなところにお生まれになったかを知らされているからです。主は馬小屋で生まれられました。世の人々でにぎわう街の宿屋に、母マリアとヨセフの滞在する場所がなかったからです。人々の日常茶飯事のてんやわんやの中には、主イエスの宿るゆとりはありませんでした。そこで、神はその御子を貧しい馬小屋、家畜の小屋に生まれさせました。ひっそりと、だれも顧みることもない者としてお生まれになったことは、私たちへの神様からのメッセージであります。主は貧しい者、小さな者の所に、まず来て下さったのだと。

私たちの社会が貧しくなり、健康に乏しい人々、時間に乏しい人々、経済的に乏しい人々が増えれば増えるほど、私たちは改めて思うのであります。救い主は王侯貴族の間にお生まれにはならなかった。貧しい人々、小さな者たちの所に来て、そこに宿ってくださったことを。教会はこのことを知らされています。だからこそ、教会は活発にならないではいられないのです。救い主がお生まれになったクリスマス。この良い知らせを、多くの人々に知っていただくために。

クリスマスの夜、救い主誕生の知らせを誰よりも早く聞いたのは、羊飼いたちでありました。彼らは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。そこに主の天使が現れたのでした。主の天使は、神の御心を忠実に伝えます。その言葉が神の言葉として伝えられ、人々に聞かれるために、天使は神の威厳、神の栄光と共に現れたのでした。恐らくは圧倒的な輝き、この世の知恵では計り知ることのできない栄光の姿によって、天使は現れたので、羊飼いたちは非常に怖じ畏れました。

しかし、天使は彼らを労いました。「恐れるな」と。なぜなら、羊飼いたちに現れた天使の目的は、何も彼らを脅すためではなかったからです。それどころか、天使はクリスマスの知らせを、真っ先に彼らに伝えるために現れたのです。天使は彼らを励まして告げ知らせます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

当時、羊飼いという職業は大変でした。羊は他の家畜もそうですが、人々の貴重な財産、多くの富を生み出す生き物でありますから、その世話をする羊飼いは、欠くことのできない仕事でした。しかし、それは当然非常な労苦を伴っていました。上野動物園のパンダなど、貴重な動物の飼育をする人々のことを考えれば、少しは分かるのですが、動物の健康を昼夜を問わず気遣うのは大変です。その上、この当時の牧畜の方法は、安全な囲いの中に常時いる訳ではなく、むしろ広い牧場というよりも山野を放牧して移動するわけです。昼も夜もですから、ある時は野獣の危険、ある時は羊泥棒の危険に立ち向かわなければなりません。

この仕事の苛酷さを考えれば、当然、これを担う人々は、金持ちではなく貧しい人であり、また身分の高い人ではなく、雇われて主人に仕える僕の仕事であったでしょう。しかし、不思議なことですが、神は御自身を私たちに理解させるために、何と言われたかと申しますと、御自身を羊飼いであると表現されたのです。この人間にとって苛酷な職業は、「わたしの務めである」と。イザヤ書40章11節にこう書かれています。1124頁。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

主は、羊の群れを養うように、小さな者、弱い者、無力な者を養ってくださる羊飼いとして世に来られました。旧約の預言のように、主イエス・キリスト御自身、こう言われたのです。ヨハネ福音書10章11節。186頁末。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」主イエスが命を捨てるのは何のためでしょうか。それは「羊が命を受けるため」に他なりません。これが、救い主が来てくださった真の目的であります。

もちろん、このクリスマスの夜、天使の言葉を聞いた羊飼いたちは、このようなことは何一つ知らなかったでしょう。ただ、彼らに理解出来たことがあったと思います。彼らに告げられた言葉は、彼らにだけ秘密に知らされたのではないこと。天使が告げる言葉は、民全体に、つまり皆に与えられた喜びとして、告げられたのだと。昔の王ダビデの出身の町ベツレヘムに救い主がお生まれになった。この方は皆の救い主なのだと。

では、救い主のしるしは何でしょうか。天使は言いました。「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」何と、救い主は飼い葉桶の中に寝ておられると。限りない天から降って、人々の中に。王宮の中にではない。整えられた文化的な施設の中にではない。貧しい人々の塵芥(ちりあくた)の中に。これこそ、神の御心。人は見かけで人を見ることしかできなくても、神はそうであられるはずがない。こう天使が宣言したとき、思いがけない賛美が起こります。天の大群、きらめく満天の星座が天使と共に高らかに賛美したのです。

神はどんなに人を愛しておられることか。悲しむ人、傷む人、苦しむ人、悩む人を。罪の奴隷となり、人の支配に踏みにじられた魂をどんなに救おうとしておられることか。それは、何と愛する神の御子を世に降らせるほどに。しかも最も低くされた人々、低くされても黙々と耐え忍んでいる人々のところに。自ら幼子となって。飼い葉桶の馬草の中に、家畜の匂いと共に。ああ、神はどんなに人を愛しておられることか。神はどんなに褒め称えられるべきか、と、天の万軍は歌ったのではないでしょうか。

今日読まれたイザヤ書52章7節も高らかに歌います。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。」良い知らせを伝える者の足は美しいと謳われる。褒められているのは足ではありません。良い知らせが美しいから、伝える者も美しくされる。その足、その労苦全体が美しくされるのです。良い知らせは何の知らせか、もう私たちは知っています。それは救いを求めている者への知らせです。

この知らせを待ち望む者すべてに平和が告げ知らせられます。なぜなら、救い主がその人々の王となってくださるからです。その声を、その知らせを今か今かと待っていた見張りがいます。教会は見張りの務めが与えられています。救い主の来られるのを待ち望み、いち早く告げ知らせ、皆共に喜び歌うために、教会は世の終わりまで建てられます。

ところで、ルカ2章14節に歌われています。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」私たちの地上の生活は、常に競争があり、人々は上を上をと目指して頑張っております。祝福がそこに与えられていると、工夫も進歩も生まれていることは、だれもが認めるところであります。しかし、もし他に与えられるべき栄誉を奪って自分のものとするなら、その悪行は良い結果を生まないようにでしょう。さらに、すべては神から与えられていることを否定し、自分に栄光を与え、自分をほめたたえようとするなら、そこから、あらゆる争いが起こるのではないでしょうか。

日本の社会は二十世紀後半、平和が与えられ、人々は繁栄を楽しみましたが、その間にも多くの国々が、人々が戦争と貧困に苦しんできました。戦争は政治の世界のことであり、力を持たない私たちには、一度始まった流れを止めることなど到底不可能に思われます。しかし、身近なところで起こる小さな争いに対しては平和のために何かができるのではないでしょうか。テレビで近隣住民との騒音トラブルの報道を見て、考えさせられました。騒音を出して近所を悩ませている人は、実は周囲の住民に悪意を持たれているという被害者意識を持っているというのです。「恐怖のあまり、対抗措置として騒音を出している」という言葉を聞いて、国と国との間でも同じではないか。自分がやられるのではないかという恐怖心が募る時、戦争は起こるのではないかと思いました。

どの人も救いを求めています。ただ傲慢な人々だけが平和に関心がないのです。恐るべき傲慢は、戦争で金儲けしようということかもしれません。しかし神は御子を遣わして、この方によって御心にかなう人々を救いに招いておられます。平和の王、イエス・キリストに招いておられるのです。御心に適う人々とはだれでしょうか。貧しい姿で世に来てくださったイエス様の低さに躓くことなく、「この方こそ、私の救い主です。私は長い間神さまに背いて生きていましたが、この方、イエス・キリストによって神さまが私を愛し、私の罪を赦してくださったことを私は信じます」と告白する人ではないでしょうか。

平和の主イエス・キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。私たちは自分の貧しい心を知っています。私たちの力では到底敵を愛することができない。迫害する者のために祈ることもできません。しかし、私たちが神に背いて敵となっていた時、キリストは私たちの罪のために死んで執り成してくださいました。キリストはこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」私たちは自分の力では到底こう祈ることはできない者だと認めます。

しかし、だからこそ、私たちはキリストに結ばれて生きなければなりません。赦せない者を赦し、神の国に招き入れてくださった方を信じ、救いの約束に結ばれて行きましょう。2017年クリスマス。今は家族の平和のために祈るべき時です。また友人、社会の平和のため、日本の平和のため、そして全世界の平和のために祈るべき時です。わたしたちが熱心に祈り、多くの人々の救いが全世界で実現するように。御心に適う人々に平和があるように、と天使は歌いました。地にある私たちは、この願いを多くの人々の願いとするために、祈ろうではありませんか。祈ります。

 

恵みの主、天の父なる神さま

2017年のクリスマス聖餐礼拝を感謝し、尊き御名をほめたたえます。私たちは会堂に集められ、主の喜ばしい訪れをほめ歌いました。どうか私たちの背きの罪を赦し、御子の救いの恵みに固く結んでください。御子が尊い救いの務めをもって世に来てくださったことを私たちは知りました。御子によって救われた私たちを、与えられた命を主の喜び、主の栄光を映し出すために貴くお用いください。そしてこの小さな者らのまことに小さな働きを喜び用いてくださり、目の前の人々との交わりの中に平和を築くために、そして世界の平和のために、聖霊の神様によってを私たちをお遣わしください。

今日の恵みの聖餐を感謝します。ここに集う方々、まだあなたを告白する決意に至っておられない方を深く顧みてください。教会の群れ、主の体に結ばれる日を待ち望みます。主と共に歩み、主と共に喜ぶ者とならせてください。

本日、礼拝に参加できない方々をあなたが特別に顧みてくださることを信じ、祈ります。特にご高齢の方々、ご病気の方々を慈しみ、クリスマスの祝福をお与えください。本日の礼拝後の祝会、そしてクリスマス・イヴ礼拝が真に主に喜ばれるものとなりますように。参加する方々、そしてこのために奉仕するすべての方々をお支えください。

心から感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。