聖書:イザヤ書52章7-10節, ルカ福音書2章8-20節
私たちは、クリスマスを祝うために、この年も、成宗教会の礼拝に集まることができました。私たちはしみじみ思うのです。礼拝に出席できる、ということは決して小さなことではない。むしろ大きな恵みなのだ、と。まず第一に元気がなければ来られない。そして元気があっても日曜日の朝にも、時間がない、休めない人々がいます。その上、出かけて来るにも電車賃も惜しまなければならない人々も増えているという社会であります。
しかし、健康がない、時間がない、お金がない、という人々が教会に多くなるにつれて、教会は活発になります。活発にならないではいられないはずです。なぜなら、私たちは主イエスがどのようなところにお生まれになったかを知らされているからです。主は馬小屋で生まれられました。世の人々でにぎわう街の宿屋に、母マリアとヨセフの滞在する場所がなかったからです。人々の日常茶飯事のてんやわんやの中には、主イエスの宿るゆとりはありませんでした。そこで、神はその御子を貧しい馬小屋、家畜の小屋に生まれさせました。ひっそりと、だれも顧みることもない者としてお生まれになったことは、私たちへの神様からのメッセージであります。主は貧しい者、小さな者の所に、まず来て下さったのだと。
私たちの社会が貧しくなり、健康に乏しい人々、時間に乏しい人々、経済的に乏しい人々が増えれば増えるほど、私たちは改めて思うのであります。救い主は王侯貴族の間にお生まれにはならなかった。貧しい人々、小さな者たちの所に来て、そこに宿ってくださったことを。教会はこのことを知らされています。だからこそ、教会は活発にならないではいられないのです。救い主がお生まれになったクリスマス。この良い知らせを、多くの人々に知っていただくために。
クリスマスの夜、救い主誕生の知らせを誰よりも早く聞いたのは、羊飼いたちでありました。彼らは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。そこに主の天使が現れたのでした。主の天使は、神の御心を忠実に伝えます。その言葉が神の言葉として伝えられ、人々に聞かれるために、天使は神の威厳、神の栄光と共に現れたのでした。恐らくは圧倒的な輝き、この世の知恵では計り知ることのできない栄光の姿によって、天使は現れたので、羊飼いたちは非常に怖じ畏れました。
しかし、天使は彼らを労いました。「恐れるな」と。なぜなら、羊飼いたちに現れた天使の目的は、何も彼らを脅すためではなかったからです。それどころか、天使はクリスマスの知らせを、真っ先に彼らに伝えるために現れたのです。天使は彼らを励まして告げ知らせます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
当時、羊飼いという職業は大変でした。羊は他の家畜もそうですが、人々の貴重な財産、多くの富を生み出す生き物でありますから、その世話をする羊飼いは、欠くことのできない仕事でした。しかし、それは当然非常な労苦を伴っていました。上野動物園のパンダなど、貴重な動物の飼育をする人々のことを考えれば、少しは分かるのですが、動物の健康を昼夜を問わず気遣うのは大変です。その上、この当時の牧畜の方法は、安全な囲いの中に常時いる訳ではなく、むしろ広い牧場というよりも山野を放牧して移動するわけです。昼も夜もですから、ある時は野獣の危険、ある時は羊泥棒の危険に立ち向かわなければなりません。
この仕事の苛酷さを考えれば、当然、これを担う人々は、金持ちではなく貧しい人であり、また身分の高い人ではなく、雇われて主人に仕える僕の仕事であったでしょう。しかし、不思議なことですが、神は御自身を私たちに理解させるために、何と言われたかと申しますと、御自身を羊飼いであると表現されたのです。この人間にとって苛酷な職業は、「わたしの務めである」と。イザヤ書40章11節にこう書かれています。1124頁。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
主は、羊の群れを養うように、小さな者、弱い者、無力な者を養ってくださる羊飼いとして世に来られました。旧約の預言のように、主イエス・キリスト御自身、こう言われたのです。ヨハネ福音書10章11節。186頁末。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」主イエスが命を捨てるのは何のためでしょうか。それは「羊が命を受けるため」に他なりません。これが、救い主が来てくださった真の目的であります。
もちろん、このクリスマスの夜、天使の言葉を聞いた羊飼いたちは、このようなことは何一つ知らなかったでしょう。ただ、彼らに理解出来たことがあったと思います。彼らに告げられた言葉は、彼らにだけ秘密に知らされたのではないこと。天使が告げる言葉は、民全体に、つまり皆に与えられた喜びとして、告げられたのだと。昔の王ダビデの出身の町ベツレヘムに救い主がお生まれになった。この方は皆の救い主なのだと。
では、救い主のしるしは何でしょうか。天使は言いました。「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」何と、救い主は飼い葉桶の中に寝ておられると。限りない天から降って、人々の中に。王宮の中にではない。整えられた文化的な施設の中にではない。貧しい人々の塵芥(ちりあくた)の中に。これこそ、神の御心。人は見かけで人を見ることしかできなくても、神はそうであられるはずがない。こう天使が宣言したとき、思いがけない賛美が起こります。天の大群、きらめく満天の星座が天使と共に高らかに賛美したのです。
神はどんなに人を愛しておられることか。悲しむ人、傷む人、苦しむ人、悩む人を。罪の奴隷となり、人の支配に踏みにじられた魂をどんなに救おうとしておられることか。それは、何と愛する神の御子を世に降らせるほどに。しかも最も低くされた人々、低くされても黙々と耐え忍んでいる人々のところに。自ら幼子となって。飼い葉桶の馬草の中に、家畜の匂いと共に。ああ、神はどんなに人を愛しておられることか。神はどんなに褒め称えられるべきか、と、天の万軍は歌ったのではないでしょうか。
今日読まれたイザヤ書52章7節も高らかに歌います。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。」良い知らせを伝える者の足は美しいと謳われる。褒められているのは足ではありません。良い知らせが美しいから、伝える者も美しくされる。その足、その労苦全体が美しくされるのです。良い知らせは何の知らせか、もう私たちは知っています。それは救いを求めている者への知らせです。
この知らせを待ち望む者すべてに平和が告げ知らせられます。なぜなら、救い主がその人々の王となってくださるからです。その声を、その知らせを今か今かと待っていた見張りがいます。教会は見張りの務めが与えられています。救い主の来られるのを待ち望み、いち早く告げ知らせ、皆共に喜び歌うために、教会は世の終わりまで建てられます。
ところで、ルカ2章14節に歌われています。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」私たちの地上の生活は、常に競争があり、人々は上を上をと目指して頑張っております。祝福がそこに与えられていると、工夫も進歩も生まれていることは、だれもが認めるところであります。しかし、もし他に与えられるべき栄誉を奪って自分のものとするなら、その悪行は良い結果を生まないようにでしょう。さらに、すべては神から与えられていることを否定し、自分に栄光を与え、自分をほめたたえようとするなら、そこから、あらゆる争いが起こるのではないでしょうか。
日本の社会は二十世紀後半、平和が与えられ、人々は繁栄を楽しみましたが、その間にも多くの国々が、人々が戦争と貧困に苦しんできました。戦争は政治の世界のことであり、力を持たない私たちには、一度始まった流れを止めることなど到底不可能に思われます。しかし、身近なところで起こる小さな争いに対しては平和のために何かができるのではないでしょうか。テレビで近隣住民との騒音トラブルの報道を見て、考えさせられました。騒音を出して近所を悩ませている人は、実は周囲の住民に悪意を持たれているという被害者意識を持っているというのです。「恐怖のあまり、対抗措置として騒音を出している」という言葉を聞いて、国と国との間でも同じではないか。自分がやられるのではないかという恐怖心が募る時、戦争は起こるのではないかと思いました。
どの人も救いを求めています。ただ傲慢な人々だけが平和に関心がないのです。恐るべき傲慢は、戦争で金儲けしようということかもしれません。しかし神は御子を遣わして、この方によって御心にかなう人々を救いに招いておられます。平和の王、イエス・キリストに招いておられるのです。御心に適う人々とはだれでしょうか。貧しい姿で世に来てくださったイエス様の低さに躓くことなく、「この方こそ、私の救い主です。私は長い間神さまに背いて生きていましたが、この方、イエス・キリストによって神さまが私を愛し、私の罪を赦してくださったことを私は信じます」と告白する人ではないでしょうか。
平和の主イエス・キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。私たちは自分の貧しい心を知っています。私たちの力では到底敵を愛することができない。迫害する者のために祈ることもできません。しかし、私たちが神に背いて敵となっていた時、キリストは私たちの罪のために死んで執り成してくださいました。キリストはこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」私たちは自分の力では到底こう祈ることはできない者だと認めます。
しかし、だからこそ、私たちはキリストに結ばれて生きなければなりません。赦せない者を赦し、神の国に招き入れてくださった方を信じ、救いの約束に結ばれて行きましょう。2017年クリスマス。今は家族の平和のために祈るべき時です。また友人、社会の平和のため、日本の平和のため、そして全世界の平和のために祈るべき時です。わたしたちが熱心に祈り、多くの人々の救いが全世界で実現するように。御心に適う人々に平和があるように、と天使は歌いました。地にある私たちは、この願いを多くの人々の願いとするために、祈ろうではありませんか。祈ります。
恵みの主、天の父なる神さま
2017年のクリスマス聖餐礼拝を感謝し、尊き御名をほめたたえます。私たちは会堂に集められ、主の喜ばしい訪れをほめ歌いました。どうか私たちの背きの罪を赦し、御子の救いの恵みに固く結んでください。御子が尊い救いの務めをもって世に来てくださったことを私たちは知りました。御子によって救われた私たちを、与えられた命を主の喜び、主の栄光を映し出すために貴くお用いください。そしてこの小さな者らのまことに小さな働きを喜び用いてくださり、目の前の人々との交わりの中に平和を築くために、そして世界の平和のために、聖霊の神様によってを私たちをお遣わしください。
今日の恵みの聖餐を感謝します。ここに集う方々、まだあなたを告白する決意に至っておられない方を深く顧みてください。教会の群れ、主の体に結ばれる日を待ち望みます。主と共に歩み、主と共に喜ぶ者とならせてください。
本日、礼拝に参加できない方々をあなたが特別に顧みてくださることを信じ、祈ります。特にご高齢の方々、ご病気の方々を慈しみ、クリスマスの祝福をお与えください。本日の礼拝後の祝会、そしてクリスマス・イヴ礼拝が真に主に喜ばれるものとなりますように。参加する方々、そしてこのために奉仕するすべての方々をお支えください。
心から感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。