主日礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌67番
讃美歌239番
讃美歌365番
《聖書箇所》
旧約聖書:レビ記 2章13節 (旧約聖書857ページ)
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2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。
新約聖書:マルコによる福音書 9章38-50節 (新約聖書80ページ)
9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
《説教》『潔められた者』
本日朗読されたマルコによる福音書9章38節から50節は、主によって語られた短い御言葉を集めたものと思われます。マタイ福音書における山上の説教と同じように、マルコ福音書では代表的な箇所ですが、このような教えを読む時も、これまで述べて来た「聖書を読む基本」から外れてはなりません。「一日一言」というような処世訓や格言集などと混同してはならないということです。ここで語られていることは、「神の御業であり福音である」ということを信仰の目を通して認識しなければなりません。
今日の38節で、弟子のヨハネが主イエスに、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と言ったとあります。
ペトロを初めとする十二人の弟子たちが主イエスと行動を共にしていましたが、主イエスがまだ生きて宣教をされていたこの時代、既に、主イエスや弟子たちと別行動を取る者も居たようです。バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネの死後、主イエスの弟子たちとは別に、独自に神の国を宣べ伝えていたということはよく知られていますし、さらにまた、数々の人々が福音に関わるような行動をしていたようです。
主イエスは、ガリラヤのいたるところで福音を伝え、神の御心を語りました。多くの人々が主イエスの後を追いかけ、何度も何度も説教を聞いたことでしょう。当然、その中には、ペトロを初めとする十二弟子以上に理解力に優れた者もいた筈です。主イエスから聞いたことを、他の人々に語った人もいたでしょう。そして、驚くべきことには、主イエスの御言葉を伝える時、主イエスと同じような「力ある業が為されることもあった」というのです。
ここで、ヨハネが指摘し、非難している者たちが、主イエスの真似をしていた偽メシアであったと考える必要はありません。後に使徒言行録に現れる魔術師シモンは、奇跡を行う力を金で買おうとして失敗しましたが(使徒言行録8章9節以下)、ここに現れた人はそのような者ではなく、もっと素直に福音を宣べ伝えていたと思われます。
ヨハネの言った「お名前を使って」とは「名前を騙る」という悪い意味で読まれるかもしれませんが、そうではありません。古代の魔術師たちは秘密の神の名を呼ぶことによって、その神の力を利用すると考えられていました。魔術師の呪文とは「秘密の神名」のことです。ですから、「名前を使った」とは「権威によって」という意味であり、現実に行われた「悪霊の追放」が、主イエスの権威を背後に持っていることを証明しているとも言えます。
このヨハネの言葉、ギリシャ語の「エン トー オノマティ ソー」を訳すと、正しくは「あなたの名によって」であり、「利用して」ではなく、「あなたの権威によって」の意味であり、「イエス・キリストへの信仰によって」と言い換えることも出来ます。「やめさせてはならない」という主イエスの容認の言葉は、この権威を意識されているとも言えましょう。
ここで私たちは、「キリストを信じる者は、語る言葉そのものが権威を持つ」ということを教えられるのです。それこそが「信仰の力」なのです。ヨハネはその信仰の奥義を理解していなかったのです。
主イエスは、その「信仰の力」を教えられているのです。むしろ、主イエスの御心は、福音が弟子たちだけのものではなく、この後、福音が世界の至るところに広がって行くことを望んでおられるのです。マタイ福音書最後の28章の大宣教命令が、このことを明白に裏付けています。
そしてさらにそれだけではなく、主イエスの「やめさせてはならない」と言われた積極的な承認の背景には、人々に対する信頼がありました。まず知らされることは、キリスト者は「主の信頼を受けて生きている」ということです。
それが39節の主イエスが言われた「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」との、ヨハネに対する言葉ではないでしょうか。
ナザレのイエスを救い主キリストと告白する者、その告白の言葉によって神の栄光を明らかに示した者は、決して裏切ることはないということを、主イエスご自身が語られているのです。何と素晴しい宣言でしょう。
多くの聖書注解者たちは、ここで「主イエスは寛容を教えられた」と言いますが、これは「寛容」などという生易しいものではありません。十字架を意識した主イエスが、御自分の死後を託す人々への信頼を語っているのです。私たちは、このキリストの信頼に包まれていることを強く意識すべきです。
続いて主イエスはヨハネに「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と、ここで「ひとりの人」を大切にすることを教えておられます。それは、単なるヒューマニズムにとどまるものではありません。重要な言葉がここにあります。それは41節の「キリストの弟子」という言葉と42節の「わたしを信じる者」という言葉です。弟子たちに、キリスト者として行うこと、キリスト者として受けること、すべてがキリストの愛の中を生きることだと教えておられるのです。ひとりの信仰者を愛することは、主イエス・キリストを愛することです。ひとりの信仰者を傷つけることは、主イエス・キリストを傷つけることです。人類という同じ種類の生物として、人間愛、ヒューマニズムをもって受け容れることではなく、「キリストを愛すること」が行いの基本なのです。御子キリストがその人のために生命を捨てられたことを知るならば、その人の生命が、キリストにとって「かけがえのないものである」ことを知るのです。
私たちの社会でも、恩義を知る者は、受けた恩に報いるために「恩人の愚かな息子をも見捨てない」ということがあります。私たちは、私たちのために十字架につかれたキリストの愛を知らされているのです。その愛の大きさを知るが故に、キリストが愛された人々を、キリストへの信仰の表れとして愛するのです。言わば、主イエス・キリストが「全ての人々の後見人である」とも言えるでしょう。そして私たちは、このように、隣人を愛するだけではなく、この大きな愛に「自分も守られている」ということを教えられるのです。
42節以下には、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるならば、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるならば、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」と極めて長く厳しい言葉が連ねられています。
「片手」「片足」「片目」、全ては自分の大切なものの象徴であり、捨てるに捨てられないものです。ここに記されていることは、古代オリエントで広く知られていた「目には目を歯には歯を」という『同害報復法』で知られていますが、「片手」「片足」「片目」を失うことは、大切なものを代償とするという原理であり、現代のイスラム社会でも身近なたとえです。
しかし、主イエスは、「自分にとって大切なものであっても切り捨てよ」と言われていますが、この御言葉の中心は、勿論、「切り捨てること」にあるのではなく、「生命に入れ」「神の国に入れ」と言うことです。むしろ、「失うべからざる大切なもの」という意味でとらえておくべきでしょう。私たちにとって、片手、片足、片眼を失うことには耐え難いことであり、如何に罪を犯したといっても、それを切り取ることはしません。
しかし、御子キリストは、私たちのために生命を捨てられたのです。十字架の上で殺されました。私たちの魂を救うために、「何を犠牲にしても悔いはない」というキリストの御心を、この厳しい言葉から読み取ることが出来るでしょうか。私たちは、この御心に包まれているのです。
本日の結論とも言える言葉が49節から「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」とあります。
さっと読むと、何となく良く分かったと思える言葉ですが、「火で塩味を付けられる」とは何でしょうか。
かつて、旧約の時代、神殿で献げられる生贄の動物は、塩をかけて潔めてから献げられました。それを「契約の塩」と言います。本日の旧約聖書レビ記2章13節がそれにあたります。祭壇に供えられる動物は、塩の潔めによって、「聖なるもの」として神に献げるに相応しいものになると考えられていました。塩は、「潔めの塩」の意味を持ちます。また、「火」も、穢れを消滅させる「潔めの火」として尊ばれていました。
ですから、「人は皆、火で塩味を付けられる」とは、「神の潔めを受けている」ということなのです。私たちは皆、「イエス・キリストの贖いによって潔められた者」として、自分を神の御前に差し出しているということです。
本来、私たちの誰が、自分を「神の御前に差し出すのに相応しい」と思っていたでしょう。むしろ、恥ずかしくて、アダムやエバのように、木の陰に隠れたいところです。しかし主イエスは、もはやそんな心配が不要なことを宣言しておられるのです。
何故なら、私たちは、「契約の塩、潔めの火としてのキリストの血」によって潔められたからであり、キリストの贖いの御業によって、私たちの弱さ・愚かさに拘わらず、「聖なるもの」に造り変えられたからなのです。
私たち相互の交わりにおける平安は、この神に受け容れられたことから生じます。私たちは、もはや「神の国から弾き出される」ような者ではありません。人生の一番大切なときに、「お前には用がない」と言って締め出される者でもありません。父なる神が受け容れてくださる保証を、御子キリストが与えてくださったのです。この「神の受け容れ」を主は「平和」と表現しています。聖書は、ここをヘブル語で「シャーローム」と記しています。
「シャーローム」とは、政治的概念としての「戦いのない状態・平和」ではなく、「和合」「充満」を意味し、「欠けるところのない満たされた平安」を表す言葉です。このような状態は、神によって与えられるものでしかなく、神と共に生きる世界にのみ存在するものと言えるでしょう。神によって受け容れられた姿、それを真実の平安と言うのです。
キリストを信じる小さな者をつまづかせる者になるのではなく、自分自身の内に潔めの塩をもって、自分の家族を始め、一人でも多くの方々と共にキリストの十字架に救われ、互いに平和に過ごしたいものです。
お祈りを致します。