説教:大塚啓子牧師(目黒原町教会)
聖書:ローマの信徒への手紙5章1節-11節, エレミヤ書9章22節-23節
今日の御言葉は、私たちが何を誇りとして生きているかを問いかけています。ローマの信徒への手紙を書いたパウロはこう語ります。5:2-3「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」ここでパウロは、「神の栄光にあずかる希望」と「苦難」を誇りとしていると語ります。神の栄光にあずかる希望、それは終わりの日に、キリストが復活されたように復活し、永遠の命を与えられるとの希望です。そして苦難とは、キリストに従って生きる自分に襲いかかるさまざまな苦難です。例えば、パウロが今牢獄に捕らわれているということ。また体に与えられたトゲ。精神的には、使命をまだ果たし終えていないのにどうすることもできないことへの焦りや苛立ち。しかしその苦難をも誇りとすると語ります。そして、今日の御言葉の最後でも、「それだけではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています」と告げます。徹底して神を誇りとする。神のために受ける苦難も、神の栄光にあずかる希望があるから、誇りとする。何よりも、神を大事にして生きると告げています。
この言葉の背後には、かつてのパウロの姿があります。パウロはもともと、律法を厳格に守るファリサイ派に属していました。ですから、律法を厳格に守って生きる、その生き方が正しい生き方であり、律法を守る自分を誇りとしていました。しかし、イエス・キリストと出会うことで、パウロは変わりました。律法を本当には守ることのできない自分の姿を知らされ、罪の深さを知らされ、しかしその罪を命をもって赦してくださったイエス・キリストを知らされました。パウロ自身は、選ばれたイスラエル人、ベニヤミン族の出身、非の打ち所がないほど完璧に律法の遵守をしていた人です。それらはパウロにとって社会的に有利に働く要素でしたが、それをパウロは損失と見なすようになった。主イエス・キリストを知るあまりのすばらしさに、それ以外のことはすべて塵あくたと見なし、今は何とかして死者からの復活に達したいとフィリピの信徒への手紙で語っています。またコリントの信徒への手紙一では、月足らずで生まれたようなわたしにも復活した主は現れてくださり、救いに招き入れてくださった。教会の迫害者であり、何の値打ちのないわたしをも神は恵み、救ってくださったと感謝をもって語っています。この原体験があるから、「わたしは神を誇りとする」とパウロは繰り返し述べます。
そして、キリストによって救われたパウロは、徹底して「神の栄光にあずかる希望」によって生きます。苦難の中に置かれたパウロ。肉体的な苦しみだけでなく、精神的な苦しみも大きいものでした。異邦人に福音を宣べ伝える使命を与えられているのに、獄に捕らわれている現実。今までエルサレム教会と異邦人教会の和解のために苦労してきたけれども、一向に改善しない現実。しかしその「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ということを知っているから、パウロは歩みを止めませんでした。キリストのための苦しみは無駄になることはなく、それは栄光に与る希望につながっている。キリストの苦しみにあずかることで、キリストの復活の姿にもあやかることができる。そのような確信を与えられていたので、パウロは諦めずに自分の使命を果たそうとします。
私たちも、パウロと同じように、復活の主によって救われました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」神は罪深い私たちを愛し、独り子イエス・キリストを十字架につけ、私たちの罪を贖われました。御自分の御子を犠牲にしてでも、私たちを救おうとされる神の愛が、十字架で、また今日の聖餐ではっきりと示されています。そしてこの深い愛は、絶えず聖霊によって、私たちの心に注がれています。礼拝を通して、御言葉と聖礼典を通して、神の愛がいつも心に注がれます。また日々の生活の中でも、聖霊と共に祈るとき、神との交わりが与えられ、神の愛が注がれます。イエス・キリストの救いは完全な救いです。もともと罪を犯し、神の敵であった時でさえ、神は御子の血によって私たちと和解されました。まして、和解された今は、キリストの血によって救われるのは尚更のことです。神は私たちに神の栄光にあずかる希望を与えられましたが、この希望は欺くことのない確かな希望です。どんなに拙い歩みであったとしても、神は私たちを神の栄光にあずからせくださいます。この希望が、私たちの生きる力となります。パウロが苦難の中でも自分の使命に生きたように、私たちも、教会も、苦難の中でも使命に生きることができます。キリストのための苦しみは、キリストの栄光につながります。教会がいろいろな課題や困難の中でも、伝道の業を果たしていく。毎週心からの礼拝をささげ、そして救われたことを喜び、感謝して生きる時、この地に神の栄光が表されます。また、神の愛の深さ、キリストによる救いのすばらしさ、キリストを誇りとして生きる私たちの姿が、キリストを指し示すものとなります。今、改めて自分が何を誇りとして生きているかを問いかけてみたいと思います。
預言者エレミヤもこう呼びかけます。9:22以下「主は言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」人間は、自分の知恵や力を誇ります。たいしたことのない知恵や力であっても、気づかない内に頼りにしている。そういう自分の姿があります。しかし、一番大切なのは、目覚めて主を知ることです。主なる神は、この天地を造られ、また私たち人間を造られました。この世界は神の御手の内にあり、歴史も神の支配の中を動いています。圧倒的な神という方がおられることを知ることが、生きる上で私たちに正しい姿勢を与えます。神を知ることで、人間の無力さやはかなさを知ることができます。それは、どんな人も欠けのある弱い器であり、完全な人なんていないということです。人の間に優劣の差はなく、すべての人が神の前には不完全で、でも神に深く愛されています。教会も同じで、大きい教会、小さい教会があり、力の差があるように思えますが、神の前には同じ罪人の集まりです。しかしキリストによって罪を赦され、聖なる者とされた聖なる公同の教会です。神はこの地に立てられた一つ一つの教会を愛し、いつも聖霊を送り、神を、イエス・キリストを知ることができるようにしてくださっています。ですから、私たちは諦めることなく、キリストの救いを宣べ伝え続けることができます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」生みます。神のための苦しみは、決して無駄になることはなく、むしろ私たちにさらなる希望を与えてくださいます。神の栄光にあずかる希望は、確かなものです。神は私たちを用いて神の栄光をこの地域に現わされます。どんなに拙い歩みでも、キリストを信じて歩き続けるとき、それがキリストを証しする生き方となります。イエス・キリストを信じて生きる生き方は、本当に確かな生き方です。異常な気象が続き、世界が歪んでいる。情勢も不安定な現実の中でも、キリストにより頼み、キリストを誇りとして生きる生き方は、確かで安定した生き方となります。天地を、また私たちを造られ、支配されている主と共に生きる時、私たちはこの世界で一番確かなものと一緒に生きているからです。そして主は、いつも私たちに神の愛を示し、私たちを守り、天の神のもとへと導いてくださいます。この主が私たちと共におられますので、私たちは安心して生きることができます。私たちは何よりも、神を知ることを求めていきたいと思います。必要なものが満たされるようにと祈ることも必要ですが、「まず、神の国と義を求めなさい」と言われるように、神を知ることをまず求めたいと思います。そして神の恵みにより、キリストの救いにあずかったことを喜び、感謝しながら、これからもキリスト者として歩んでいきたいと思います。